ハレルヤ~! 安田遜です。
将来のさらなる経済不安に備えて投資を始めよう、と思い立って、早数年がたちます。資産運用しないのは下策だろうとわかりながらも、「失敗したらどうしよう…」とか「大地震がきたら株価暴落するだろうし…」とか、いろいろと理由をつけて先延ばししています。
先延ばしするべきではないことに、死後の備えがあります。言い換えれば「霊的備え」、ほんとうの意味での“終活”です。信じる・信じないにかかわらず、ぼくたちは霊と肉体が分離したあと、必ず神の御前で裁きを受けなければなりません。
そのときに不利な判決を下されないようにと、神はイエス・キリストを通して、備えになるものを与えてくださいます。その備えについてのキリストのたとえ話に、今日は耳を傾けてみましょう!
今回は、本日10月22日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
交読詩編は、第78編1~8節。牧師説教は「主から預けられたもの」と題し、「ルカによる福音書」第19章11~27節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
11人々が神の国はすぐにも現れると思っていたので、イエスは更に一つのたとえを話された。12「ある名家の人が王の位を受けるために、遠い国へ旅立つことになった。13そこで彼は、10人の
15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、僕を呼んで、どれだけ利益を上げたか知ろうとした。16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました』と言った。17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう。』182番目の者も5ムナ稼いだので、19主人は彼に5つの町を治めさせた。
20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。21あなたは預けないものも取り立て、
24そして、ほかの人々に言った。『その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ。』…26『言っておくが、だれでも持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。27ところで、わたしの王位を望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して打ち殺せ。』」
「神の国」を勘違いしていた人々に語られた〈ムナのたとえ〉
イエスの再臨を待つ信徒たち
今回のお話は〈ムナのたとえ〉と呼ばれ、イエスがエリコという町で語られたものです。エリコはエルサレムへの最後の経由地であり、つまりイエスは、十字架につけられる直前の日々を過ごしておられました。ところが、イエスに従っていた人々は、イエスが十字架の上で死なれることなど、まさか思いもよりません。
彼らは「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」のです(11節)。ちなみに「神の国」とは、ある特定の「場所」を表す以前に、神の支配があまねく行き渡る「状態」をいいます。ローマ帝国による長年の支配を打ち破り、ユダヤの独立国家を打ち建てる王として、人々はイエスをあがめていたわけです。
でもイエスの目的は、彼らの思うような“地上の王”となることではありません。そのことを教えるために、イエスは今回のたとえを話しはじめられました、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12節)。
「立派な家柄の人」というのが、イエスご自身のこと。イエスはやがて必ず王となりますが、そのために「遠い国へ旅立つ」のだ、とおっしゃいます。エルサレムで即位するのではなく、一度地上からいなくなるのだ、と。その心を深読みすると、こういうことです、
おれはエルサレムで、十字架につけられて死ぬ。だが3日目に復活し、天のお父様のもとへ旅立つ。そのあとで、おれはおまえたちの王となる!
イエスが「遠い国=天」へ行くことは、イエスの死・復活・昇天を意味しています。そして、それが「王の位を受けて帰るため」であることは、イエスのを暗示しているのです。再臨までの間、地上の人々に預けられるものがあります、
「彼は、10人の
「僕」とは信仰者、つまりクリスチャンのことです。当時の信仰者はイエスの顔を見、御言葉を直接聴き、イエスと間近で接することができました。でも、現代の信仰者にはそれが叶いません。
現代のクリスチャンは、聖書を通して語られたイエスの約束をただ信じ、御言葉のために働いているのです。その働きのために、イエスはひとりにつき1ムナを預けてくださいました。
再臨キリストがふたたび地上に来降されること。世の終わりに実現し、神を信じない人々が裁きを受け、キリストを全世界の王とする〈千年王国〉が築かれる。
さて、お金を預かった「僕」たちは、主人からの預かり物をどう扱ったでしょうか? イエスの再臨を待つぼくたちは、それぞれの1ムナをどう使うべきでしょうか?
“ビミョーな額の財産”をどう扱うか?
ところで、実はこのたとえ話によく似たお話が、「マタイによる福音書」第25章でも語られています。〈タラントンのたとえ〉です。ただ、似ているからと言って、まったく同じ内容だと思ってはなりません。ふたつのたとえ話の違いを、表にしてまとめてみましょう。
〈ムナ〉 | 〈タラントン〉 | |
---|---|---|
金額の価値 | 1ムナ=給料100日分 | 1タラントン=給料6000日(約20年)分 |
預けた金額 | 全員に1ムナずつ | それぞれに1~5タラントン |
結果の利益 | 預けた金額の5~10倍 | 預けた金額と同じ |
〈ムナのたとえ〉と〈タラントンのたとえ〉では、そもそもお金がなにを表しているかが違う、と言われています。
〈タラントンのたとえ〉では、主人の預けた金額がまちまちであることから、タラントンは「個人の能力」の比喩だと言えるでしょう。その証拠(?)に、タラントンは英語で「才能」を意味する「タレント(talent)」の語源になっています。
5タラントンを預かった召使いは、それを元手にもう5タラントンをもうけましたが、主人はその結果をというよりも、預けたお金をきちんと利用したことを評価しているようです。
主人は言った。『忠実な良い
僕 だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
―「マタイによる福音書」第25章21節(新共同訳)
一方〈ムナのたとえ〉では、10人が1ムナずつ、同じ金額を預かっています。そして、10ムナもうけた召使いと5ムナもうけた召使いでは、統治を任される町の数に差があります。つまり、それぞれの結果によって報酬も違うのです。そのことは、
神から与えられている「ムナ」をどう使うかによって結果が変わる
ということを示しています。では、イエスがこのたとえ話で語られた「ムナ」とは、いったいなんのことなのでしょうか?
――それは、信仰です。
いま、この地上にイエスはおられません。でも、イエスを信じる人が「神の国」へ入るという約束は、なにがあっても必ず果たされます。その約束を信じる信仰こそが、ぼくたちに与えられる「1ムナ」なのです。
その1ムナを真剣に受けとめれば、豊かに実を結び、「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう」(17節)と褒めていただけます。実りが少なく、「お前は5つの町を治めよ」(19節)と言われるのは、日々の生活に追われて信仰が薄れてしまう人々なのでしょう。
さて、上記の表で「1ムナ=給料100日分」と示しました。結構な大金ではありますが、給料20年分の1タラントンに比べると、いかにも少ないようです。ほかの全部を捨ておいてまで、大事にするほどの価値はないかもしれません。正直、かなり
でも、イエスは、あえてその微妙なラインの「1ムナ」をたとえ話に使われました。そのことには、きっと意味があるはずです。
おれが預けた「1ムナの信仰」に、おまえはどれだけ人生を懸けてくれるか?
信仰よりもずっと価値のあるように思われる物事が、この世にはあふれ返っています。そんな中でも、「1ムナ」をいちばん大切なものとして守りぬくことを、イエスは望んでおられるのです。
「1ムナの信仰」で投資をしよう!
与えられたものをすっかり無駄にしてしまう人はいつもいて、イエスのたとえ話にもちゃっかり登場しています、「御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、
1ムナをないがしろにしたこの召使いは、イエス・キリストへの信仰に価値を見いださない人々の象徴です。彼はまた、たとえ話の前半で「我々はこの人を王にいただきたくない」(14節)と言った人々と重なります。
彼らが「立派な家柄の人」を憎んだように、イエスを拒む人々は再臨を信じず、またイエスの支配を望まないのです。彼らの目にはイエスが、神が「厳しい方」としてしか映らないから…。彼らの恐怖心を裏づけるかのように、かなり酷薄とも思える叱責で、このたとえ話は締めくくられています、
「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」(26~27節)
ぼくたちのだれかがそのように滅びに至ることを、イエスは決して望んでおられません。ただ、神の支配を受け入れようとしない人々を、神は裁かずにはおれないのです。イエスのこの厳しい警告を、どうか真剣に考えていただきたいと切に思います。
さて、イエス・キリストの再臨の時が、刻一刻と近づいています。
その時がいつやってくるのか、明日なのか100年後なのか、だれにも知りえません。イエスが「遠い国=天」へ旅立たれてから、すでに2000年以上がたち、クリスチャンの期待は長らく“お預け”にされています。
また、「神の国」は再臨の時まで完成しませんが、その広まりは着実に続いています。戦争が勃発・激化したり、自然災害が猛威を振るったり、悪人たちが利益をかすめ取ったりと、神の支配が広まっているとは思えない現状でしょう。
それでも、イエスの死と復活によって与えられた、罪のゆるしと新しい命は、いまもぼくたちを「神の国」へと招きつづけているのです。
脅すわけではなく、世の終わりが戸口にまで迫っています!
イエスが与えてくださる1ムナを、ぜひあなたの手で握ってください。イエスがふたたび天から降って来られるとき、その1ムナが豊かな信仰の実を結んでいますように(*´ω`*)アーメン!
遜の黙想
お金は投資に回さなくても口座の中で腐りはしませんが、信仰は実を結ばせようと
――それは、第一には「伝道(宣教)」だろうと思います。おもしろいことに、だれかにを伝えるたび、ぼくの内に信仰が育っていくのを感じます。1ムナを分かち合うほどに、ムナが増えていくのです!
でも、神の裁きを恐ろしく思うときがあります。1ムナを「布に包んでしまっておき」、罪の中へ舞い戻ってしまうときが。そういうとき、確かにぼくは、「イエス様、いまはまだ来ないでくださいね」とつぶやいているのです…。
福音「よい知らせ」を意味する、ギリシャ語「エウアンゲリオン」の訳。イエスをキリスト(救い主)だと信じる者が罪をゆるされ、永遠の命にあずかることを指す。
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天のお父様、あなたの財産を預けてくださったことを感謝します。あなたの1ムナに生涯を懸けたいと本気で願う、よいしもべとならせてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)