ハレルヤ~! 安田遜です。
日本にキリスト教が広まらない理由はいろいろあるでしょうが、ひとつには、「日本人は努力家すぎるから」というのが挙げられると思います。人は善行や修行などによらず、ただイエス・キリストへの信仰ゆえに救われる、と聖書は説きます。
多くの日本人は、「ただ信じるだけで天国に行けるなんて、都合がよすぎるでしょ!」と考えるようです。人間側でなにかしらの努力をしないと救われる気がしない、と。でも、それは逆の考え方をすると、神は努力できない人間を容赦なく地獄に落とす恐ろしい方だ、と言えるのではないでしょうか?
聖書に啓示されている神は確かに厳しくもありますが、同時にとてもあわれみ深い方です。今日のお話は、神の愛の大きさに特にスポットが当たっています。キリストがあなたの神だったらと考えながら、ぜひ最後まで読んでくださるとうれしいです!
今回は、先週9月17日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
交読詩編は、第37編7~22節。牧師説教は「祝宴への招き」と題し、「ルカによる福音書」第15章11~32節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
11イエスは言われた。「ある人に息子が2人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしの財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を2人に分けてやった。13弟はすぐにそれを換金して遠い国に旅立ち、
14何もかも使い果たしたとき、ひどい
17そこで彼は、我に返って言った。『父のところでは、大勢の雇い人に有り余るほどパンがあるのに、わたしは飢え死にしそうだ。18ここをたって父のところに行き、19雇い人の一人にしてもらおう。もう息子と呼ばれる資格はないのだから。』20そして、彼は父親のもとに行った。ところが、まだ遠くにいたのに、父親は息子を見つけて
21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は
25-27ところで、兄の方は畑にいたが、帰って来た弟のために子牛が
31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。』」
〈放蕩息子のたとえ〉で示された広すぎる神のふところ
神を離れる人の末路
今回は、聖書の中でも特に有名な〈
イエスは、「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を2人〔の息子〕に分けてやった」(12節)と話しはじめられました。でも、家長の存命中に財産を相続することは、基本的にはありませんでした。
また、「下の息子は全部を金に換えて」(13節a)とありますが、そんなことはあってはならないタブーだったでしょう。先祖代々守ってきた「財産=家畜・土地・畑」を売り払うことは、ユダヤ人の重んじる「一族の歴史」を失うことにほかならなかったからです。
さて、イエスのお話はこう続きます、「下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」(13節)。
このお話では、神から離れて生きる
彼がそこで使い込んだ「財産」は、相続したのですから、確かに彼自身のものです。でも、もともとは守るべき一族のものであり、それ以前に神からの預かり物でした。弟はそのすべてを遊びにつぎ込んだことで、つまり神に対して罪を犯したことで、悲惨な結果を見ることになります、
「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい
日本人のぼくたちは「働き口を見つけられてよかったじゃん!」と思うところでしょうが、ブタ小屋で働くことは、ユダヤ人にとってこの上ない屈辱でした。というのも、ブタは宗教的にけがれた動物として規定されているからです。
神に選ばれたユダヤ人としての尊厳を失い、助けてくれる人もいない弟の危機的状況は、「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった」ほどでした(16節)。
ところで、聖書における「飢饉」には、ある深い意味が隠されています。それは、産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ
(創1:28)という神の祝福がストップした、ということです。
弟が父親の愛から離れて「ひどい飢饉」に見舞われたように、ぼくたちは神から離れると祝福を失い、人格を否定されるような苦難に陥ることがあります。
ただその苦しみは、いわゆる天罰の側面ばかりではありません。ぼくたちが自業自得の辛苦を味わうときでさえ、神はぼくたちを決して見捨てず、ご自分のもとへ招かれるのです、
あなたはいまどこにいるのだ? なぜそんなところで苦しんでいるのだ?
やっぱり“親もと”がいちばん!
弟は屈辱的災難の原因に気づき、どうすればその苦しみから逃れられるかを悟りました。そのときの弟の心境を、イエスは「彼は我に返って言った」(17節)と表現しておられます。
つまり、弟は「自分のあるべき姿」を思い出したのです。
父親のそばにいてこその自分であると気づき、彼は親もとへ帰ろうと決意します、「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」(18~19節)。
弟が明確な罪の意識を持っていること、裁きを受け入れる覚悟をしたことが、ここで示されています。でもなにより注目するべきなのは、
どんな扱いを受けようと、弟は父親のもとで生きていくことを望んだ
ということです。息子の立場を自ら捨ててまで、「雇い人の一人にしてください」と切望している様子は、「詩編」のある一節を思い出させます。
あなたの庭で過ごす一日は1000日にまさる恵みです。
主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。
―「詩編」第84編11節(新共同訳)
弟は自分の罪を悔い改め、父親のもとでの新しい生活を望みました。悔改めとは、たんなる反省ではありません。いままでの罪深い生活から完全に「方向転換」をして、神に喜ばれる道を積極的に選び取っていくことです。
さて、イエスのたとえ話は意外な(?)展開を迎えます、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、
父親が遠くにいた息子を見つけたのは偶然ではなく、ずっとその帰りを待ちわび、いつも息子の姿を捜しつづけていたからです。彼は息子の罪をとがめないどころか、謝罪のひと言さえ聞かないままに、息子の帰りを熱烈に喜んでいます。
それでも息子は自分の罪を打ち明け、子と呼ばれるには値しないことを白状しました。ところが、肝心の「雇い人の一人にしてください」を言うことができませんでした。なぜなら、父親が
「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」(22節)
ここで気になるのは、「指輪」でしょう。当時のユダヤでは、日本でいう実印のようなものとして「指輪」が使われました。つまり、父親は息子に「家督権」を譲り渡した、ということです。父親はさらに、召使いにこう言っています、
「それから、肥えた子牛を連れて来て
まことの親である神のもとを離れ、神を無視して生きている人を、聖書は「
でも、神の愛がぼくたちを離れることはありません。
神はいまもあなたを捜し、あなたの帰りを待っておられます。そしてあなたが立ち帰ったときには、そのことをただただ喜び、「天国を受け継ぐ者」として祝宴の席に着かせてくださるのです(*´ω`*)
拒みつづける子、招きつづける父
多くのクリスチャンにこよなく愛される今回のお話ですが、終盤にはどこか不吉な気配が漂っています。
「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」(29節)
その言い分に文句のつけようはないでしょう。弟と同様に「財産の分け前」にあずかった兄は、以後もまじめに一家を支えつづけていたのですから。
ただ一点、おかしな言い回しがあります。
それは「仕えています」という言葉で、ギリシャ語の原典を見ると、その奇妙さがよくわかるでしょう。ギリシャ語の「仕える」には、おもに次のふたつがあります。
- ディアコネオー(διακονέω) 奉仕する
- ドゥーレウオー(δουλεύω) 奴隷となる
そして、ここで使われているのは2番目のほうなのです。兄にとって父親は愛すべき肉親ではなく、隷従するべき主人でした。だからこそ兄は、父親の大きな愛に気づくことがなかったのだと思います。
彼は父親の喜びに共感できず、むしろ不公平を感じて、「祝宴にふさわしいのは、忠実に仕えてきたわたしのはずだ!」と思っていたのです。気持ちはわかる…( p_q)
ところで、クライマックスに登場したこの「兄」は、いったいだれを象徴しているのでしょうか? ――それは、今回のお話の少し前、次の箇所を見ればわかります。
1徴税人や
罪 人 が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
―「ルカによる福音書」第15章1~3節(新共同訳)
このあと、イエスは今回のお話を含むいくつかのたとえを話されるわけですが――イエスと罪人の食事会を不服に思ったの人々(パリサイ
ファリサイ派ユダヤ教二大派閥のひとつ。律法を厳しく守ることで人々の上に立っていた。名称はヘブライ語「ペルシーム(分離する者)」が由来とされ、律法を守れない人々を差別的に扱った。
〈放蕩息子のたとえ〉は父親の次のセリフで終わっています、
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(31~32節)
そのあとの展開は想像するしかありませんが、パリサイ人の振舞いがそのヒントになるでしょう。パリサイ人は神の律法を遵守しながらも、律法の内にある神の愛を(無意識的に)拒み、神の・イエスを十字架につけました。ということは、兄は父親の諭しを受け入れず、父親を殺害することになるのかもしれません。
独り子三位一体の神の第2位格で、子なる神イエス・キリストのこと。父なる神と同一の神性を持ちながら人となり、人間の罪をあがなうために十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった。
もしそうだとしても、現実にイエス・キリストは復活し、いまも天で生きておられます。そして、すべての人をご自分の「祝宴」に招いておられます!
ぼくたちは自ら神の祝福を失う「弟」であり、また祝いの席に着くのを拒む「兄」でもありますが、神の招きは決して絶えることがありません。だから、神が恵みによって用意してくださった宴席に、ぼくたちはただ喜んで座ればいいのです٩( 'ω' )و
遜の黙想
初めて〈
イエス・キリストを信じたあと、何度も「遠い国」を目指したし、悔い改めたはずの罪を一再ならず犯すし、神の子にふさわしい(と思われる)品性に1㎜も近づけないし…。正直、「祝宴」に招かれても、心から楽しめる気がしませんσ^^;
そう思うとき、同じざんげをもう何十回も捧げているのだからと、ぼくはキリストの十字架を疑ってしまいます。神の愛を知りながらも、自ら罪に舞い戻っていくようなぼくを、キリストはほんとうにまた抱き締めてくださるのか、どうしても不安に思ってしまうのです。
*
慈愛の神様、ぼくがあなたを疑っても、ぼくの救いを完全に保証していてくださることを感謝します。ぼくの心が放蕩へと向かないように、どうかあなたの霊の力で強めてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)