遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】天国を望むだれもが背負わなければならない十字架

 

十字架を背負う兵士

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

「三顧の礼」「苦肉の策」「泣いてしょくを斬る」。これらは、ぼくの大好きな三国志に由来を持つ言葉です。それぞれの意味は割愛しますが、聖書にも、ぼくたちが普段使う言葉の起源がいくつかあります。

「洗礼を受ける」「ブタに真珠」「目からうろこ」はその代表例で、今回のテーマである「十字架を背負う」もよく使いますね。ただ、やはり本来の意味からはずいぶん離れているものもあるようです。

「十字架を背負う」は、イエス・キリストがおっしゃった御言葉がもとになっています。教養の授業と言うとおこがましいですが、ぜひ最後まで読んで、聖書的な意味を知っていただきたいと思います!

 

今日は前回に引き続き、先週9月10日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2023年9月10日聖霊降臨節第16主日礼拝

交読詩編は、第142編2~8節1~7節)。牧師説教は「主の弟子であるために」と題し、「ルカによる福音書」第14章25~35節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、2万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の1万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 

34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

―「ルカによる福音書」第14章25~35節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

「自分の十字架を背負わねば弟子にはなれない」の御言葉から考える救いと恵み

無駄に生きるな!

今回も、イエスの説かれた「弟子の条件」から学んでいきます。まず前回の復習ですが、イエスは十字架による救いを実現させるべく、エルサレムへ向かっておられました。そして、ご自分について来た「大勢の群衆(25節)に、無理難題とも思える説教をなさいます、

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない(26節)

さらに塔の建築と戦争を例に挙げながら、ご自分に従って弟子となるには、相応の覚悟と準備が不可欠であることをお教えになったのでした。イエスに苦難と死が待ち受けていることを、人々が悟っていなかったからです。

イエスの“無理難題”はコチラ

【礼拝】神にすがるのも楽じゃない

 

さて今回は、前編でも触れた次の御言葉から読み解いていきましょう、「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない(33節)

エルサレムへの旅に同行した人々は、イエスを“便利な人”だと考えていました。救い主としてではなく、健康や食料など、物質的・精神的な満足を与えてくださる人として、イエスをあがめていたのです。

イエス「その方」をではなく、イエスの下さる「利益」を愛した人々は、果たしてイエスの弟子とはなれませんでした。彼らはイエスが逮捕されると、ひとり残らず、イエスから離れ去ってしまいます(`皿´)ドイヒー!

ぼくたちも「自分の持ち物」に満足を見いだそうとしてしまいますが、それらに人をう能力はありません。イエスはお得意の“逆説法”を用いて、「自分の持ち物」の上手な使い方を示しておられるのです!

 

ヒントになるのは、福音書著者・ルカが第19章に書いている〈ムナのたとえ〉――

ある人が10人の召使いに1ムナずつお金を渡し、自分が旅から帰って来るまでの間、それを元手に商売をさせることにしました。旅を終えて召使いたちに利益を尋ねると、ある人は10ムナを、ある人は5ムナをもうけました。

彼らは忠実な召使いとして報酬を受けますが、悪い召使いとして叱責を受ける者もいました。彼は預かったお金をしまい込み、わずかの利益ももたらさなかったのです。

 

〈ムナのたとえ〉は、それぞれが与えられた境遇・才能・人脈など、あらゆるものを賢く使うことを教えています。それらはすべて神に授けられた「賜物」であって、もともと「自分の持ち物」と言えるものではありません。

預かった1ムナを無駄にした召使いのように、与えられた賜物を使わないのは、神の望まれる生き方ではないのです。また、賜物をひたすら自分のためだけに使うのも、本来の人間の生き方からはずれています。

 

あなたには、どんな賜物がありますか?

他人とは違う感性や趣味など、賜物のない人はひとりもいません。神は、あなたを通して周囲の人々に恩恵を施すため、その賜物をお与えになったのです。

 

与え主とつながって力をもらおう

自分の持ち物」をほんとうに有意義に使おうと思うなら、ぜひイエスを見上げてください。なぜなら、神であるイエスこそが、ぼくたちに賜物を与えてくださったからです。

先ほども書いたとおり、ぼくたちの賜物は自分以外のだれかを支え、そうすることで神の愛が示されるために与えられています。だから、ぼくたちはイエスを第一に愛してこそ、自分の真価を発揮することができるのです٩( 'ω' )و

神が意図された人間のあるべき姿について、イエスは「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか(34節)と言っておられます。

 

塩も塩気がなくなれば」とは、ちょっと不思議な表現ですよね。実は、当時のユダヤでは、一般に岩塩が使われていました。岩塩はしばらく放置しておくと、塩気が抜けて苦くなってしまうそうです。

そうなってしまった塩は、「畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ(35節)と、イエスは厳しく警告なさいます。では、「塩気」を保つにはどうすればいいのでしょうか?

 

――それは、イエスを愛しつづけることです。

 

イエスは弟子たちに、あなたがたは地の塩である(マタ5:13)とおっしゃいました。常にイエスとつながって霊性を保ち、「塩気」を失ってはならないのだ、と。

でも、それは決して簡単なことではありません。イエスを愛し、神に従う生活をまっとうするには、この世はあまりにも誘惑が多いからです(ˇωˇ)

遜註

この御言葉は、クリスチャンは世の腐敗を防ぐ者だ、という意味です。塩が防腐剤としても使われることから、クリスチャンは「地の塩」としての賜物をなにかしら与えられています。

 

ぼくたちが十字架を背負える理由

例えば、クリスチャン生活の悩みどころのひとつに、「信仰と仕事のどちらを取るか?」があります。

大きな商談や昇進のチャンスなど、自分の利益が懸かっている場合には特に、信仰を優先するのは難しいかもしれません。ここで、イエスの御言葉に耳を傾けてみましょう、

 

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない(27節)

 

「十字架を背負う」は、信仰の有無にかかわらず、ごく一般的に使われる言葉です。その場合、「自分の罪やあやまちの責任を負うこと」を意味しますが、イエスのおっしゃることはまったく違います。

というのも、ぼくたちの罪やあやまちの責任は、すべてイエスご自身が背負ってくださったからです。

イエス・キリストの十字架によってゆるされた罪を、もはやイエスの弟子が負う必要はありません。では、イエスはどのような意味でおっしゃったのでしょうか?

 

――「十字架を背負う」とは、神の御心に従い、イエスの犠牲による命を生きることです。

 

世に言う十字架に、救いはありません。一方、イエスの十字架には、ゆるし・救い・希望があります。だからこそ、ぼくたちも「自分の十字架」を背負えるのです。

先述のとおり、イエスに従いとおすのは、確かに簡単なことではありません。でも、「自分の十字架」を背負ってイエスの後ろを歩くなら、イエスの次の御言葉が希望になります。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 

―「マタイによる福音書」第11章28節(新共同訳)

 

もしあなたに忘れがたい罪の記憶、消しがたいあやまちの傷があっても、神はイエスの十字架ゆえにそれをゆるしてくださいます。罪の重荷を下ろし、代わりに「自分の十字架」を背負って、イエスの愛に生きてください。

 

遜の黙想

イエス・キリストは、ローマ帝国の刑法に服して十字架につけられました。キリストの弟子は、キリストの律法に服して「十字架」を背負わなければならないのだと思います。「十字架」は、キリストへの従順の証です。

そして、キリストの律法は〈愛の律法〉とも呼ばれ、愛に始まり愛に終わります。だから、キリストを第一に愛していなければ、「自分の十字架」を背負うことなどできないのでしょう。

キリストはぼくを愛し、まずご自分が「十字架」を背負ってみせてくださいました。ぼくがキリストにならうとしたら、恐らく自分自身の救いのためではありません。キリストの人知を超えた愛に応答する、抑えがたい衝動ゆえです。

天のお父様、御子・イエスの十字架に感謝します。自分の十字架を背負う道は、とても厳しいものです。どうかあなたへの信頼を増し加えてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)