ハレルヤ~! 安田遜です。
いやらしい話ですが、ぼくはちやほやされやすいタイプの人間です。学校の先生にはかわいがられ、同級生にはなぜか“貴族”のような扱いを受けました。まぁ、中学時代からは一転、いじめによる孤独を経験したのですが…。
それでも、社会に出てからは“ちやほや体質”が復活しました。ただ、不仲な両親のもとで育ったせいか、ぼくは根本的に自己肯定感が低いのです。そういう人間がちやほやされてしまうと、ぼくのように「鼻持ちならないやつ」に化ける可能性があります。
さて、かつてのユダヤ社会にも、ちやほやされることにすっかり慣れきった、鼻持ちならぬ人々がいました。彼らは宗教指導者だったのですが、イエス・キリストに反面教師として紹介されることになります。
今回は、先週9月3日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
交読詩編は、第31編15~25節(改14~24節)。牧師説教は「上席を選ぶ心」と題し、「ルカによる福音書」第14章7~14節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
―「ルカによる福音書」第14章7~14節(新共同訳)
当然のように上席を選ぶパリサイ人の高慢ちきな心
見せかけの謙虚さではなく
今回は、イエスがある人の食事会に招かれたときのお話です。イエスを招いたのは、の議員でした。ファリサイ派の人々(パリサイ
でもこの議員のように、中にはイエスを尊敬する人もいました。議員はイエスを自宅へ招いてもてなすことで、律法教師としてのイエスに敬意を表明したのでしょう。その行為は、ユダヤ社会における善行のひとつでもありました。
ファリサイ派ユダヤ教二大派閥のひとつ。律法を厳しく守ることで人々の上に立っていた。名称はヘブライ語「ペルシーム(分離する者)」が由来とされ、律法を守れない人々を差別的に扱った。
さて、今回イエスが語られた説教は、とてもわかりやすい内容だと思います。特に、次の御言葉にはうなずけるのではないでしょうか?
「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(10節)
「面目」を大切にし、遠慮がちで譲り合い精神に富んだ日本人には、国民性に適った説教かもしれません。でも、イエスが教えておられるのは、「遠慮を勧める処世術」ではないのです。
実は、この説教にはイエスご自身のご性質が表れていて、それを見習う人こそ神に祝福される、という教えが語られています。イエスはおっしゃいました、
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)
常日ごろ、ぼくたちは高ぶることは少なく、むしろへりくだることが習慣づいているように思います。例えば教会の礼拝では、(座席に上も下もありませんが)前のほうの席を遠慮する方が多くおられます。また、職場の飲み会などでも、自ら進んで入口近くの「末席」を選ばれることでしょう。
ここで、「行為」にではなく、「動機」に注目していただきたいのです。
後ろの席に座るのは、周囲の目が気になるからではありませんか? 食事の場で「上席」に着かないのは、たんにそれが常識だからではありませんか? 口では「わたしは下座で結構ですから」と言いながら、内心、どこかで「上席」を欲しているのがぼくたちです。
イエスはそんなぼくたちの心を見透かしたように、今回のお話を語られました。
イエスは最初から自分を低くして、最後までぼくたちに仕える者となられました。「へりくだる者」とはイエスご自身のことであり、イエスにならって、純粋な動機から人々に仕える人のことなのです。
高慢は他人の尊厳を踏みにじる
イエスが今回のお話をなさったのは、「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づい」たからでした(7節a)。その「客」とは、ずばりパリサイ
ユダヤ教の会堂の「上席」は会衆の向かい側、一般的なプロテスタント教会の会堂でいう講壇側にありました。講壇では牧師が神の御言葉を取り次ぎますが、パリサイ人は自分たちを「神の側」に置き、一般会衆からの敬意と称賛に甘んじていたのです。
ただ前のセクションでも述べたとおり、イエスは彼らに「上席」を遠慮するよう、実際的なアドバイスをお与えになったわけではありません。そのことは、「〔イエスは〕彼らにたとえを話された」(7節b)、という記述からもわかります。
今回のお話は、あくまで「たとえ話」なのです。
イエスは、「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」(8節)と話しはじめられました。「婚宴」は実際のそれではなく、神の国における食卓をたとえています。
パリサイ人の求める「上席」は、なんと神の国にまで及んでいました。というのも、彼らはだれよりもまじめに神の律法を守りとおしていたからです。彼らはこう自負していました、
わたしたちこそまっ先に救われ、神の国でよい席を与えられるべき人間なのだ!
そのような高慢は、神の律法を自分勝手に解釈し、それによって人々を裁く(偽物の)権限を、パリサイ人自身に与えることになりました。神の国の宴会は、いったいだれが主催するのでしょうか?
――それは、ほかならぬ神です。
ところが、パリサイ人はなにを勘違いしたのか、主催者だけにあるはずの“招待権”を奪い取り、自分たちの尺度で
パリサイ人が、いえ、ぼくたちが「上席」を求めるとき、ぼくたちははっきりと他人を見下しているのです!
ようこそ天の宴会へ。全席VIP席でございます!
あなたは食事会を主催されたことがありますか? そのとき、どのような方々を招かれましたか? イエスはこう言っておられます、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」(13節)。
食事会にだれかを招くのは、いつの時代でも、招いた人々への友好と親愛を示す行為でしょう。ただ、あえてイヤな言い方をすると、そのお客さんは自分にとって「利益になる人」だと思うのです。
一方、イエスが招待客として挙げられたのは、当時神殿に入ることさえ許されないほど()、社会から完全に排斥されている人々でした※。
そのような人々を気にかけることは、現代のぼくたちでも少ないと思います。でも、イエスが特に熱心に招いておられるのは、当時もいまも、人々に見捨てられ、社会から疎外されている人々なのです。
遜註
聖書は、障がいのある方々を「利益にならない人」と見なしているのではありません。イエスは当時の社会的背景を用いて、あらゆる差別や不利益をこうむっている人々にも、神の救いがもれなく提供されることを教えておられます。
このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。
(新共同訳)
ところで、「マルコによる福音書」に、ヤコブとヨハネの兄弟が、ほかの弟子たちを差し置いてイエスに「上席」を乞う場面があります。ぜひ自分たちに「左右の座=高い位」を与えていただきたい、と言うのです。
それを聞いた弟子仲間は当然腹を立てますが、彼らも口に出さなかっただけで、腹の中ではそれぞれに「上席」を望んでいたのでした。そこでイエスは、弟子たちを次のように諭されました。
しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。
―「マルコによる福音書」第10章40節(新共同訳)
ヤコブ兄弟の愚かな“野望”はコチラ
今日、ぼくたちは「へりくだる者は高められる」の御言葉から学びました。イエスにならって人々に仕える人をこそ、神は「上席」にふさわしいと認めてくださるのだ、と。
だからと言って、神の食卓で自分の望むような席を与えられるとは限りません。それは神の御心のままに、「定められた人々に許される」ものだからです。
でも、神の用意してくださる席に「上席」「末席」の区別はありません。神は、ぼくたちそれぞれにもっともふさわしい席を用意して、ぼくたちの帰りを待っていてくださいます(≧∇≦)
ぼくたちは人よりも優位に立つことを望み、どうしても「上席」を欲してしまうものです。
だからこそ、あなたの罪がゆるされるために、十字架につけられるまでして仕えてくださった、イエス・キリストを見上げてください。そして、いつかイエスとともに、神の国の食卓に喜んで座る日を待ち望みましょう!
遜の黙想
へりくだるというのは、ほんとうに難しいことです。心の中でだれかを見下したり、自分の考え方を誇ったり、称賛を浴びる自分を妄想したり…。それらについてざんげの祈りを捧げるものの、「人間なんだから、まぁ仕方ないでしょ」という思いは消えません。
幼いころからちやほやされ慣れているぼくには、どこでも「上席」が定位置なのです。だから正直、イエス・キリストの十字架がどれほど大きな御業なのか、いまだにピンときていない部分があります。日々捧げる感謝も、口だけなのかもしれません。
ぼく自身がそう気づいているのですから、キリストはもっと深い不遜の闇を知っておられるでしょう。そのうえでキリストは、ぼくのために十字架という「末席」を選ばれました。ぼくは謙遜と感謝を祈り求め、キリストに心からの礼拝を捧げたいのです。
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天におられる父なる神様、高ぶりが心を離れません。どうかゆるしてください。ぼくの内にへりくだる心を創造し、あなたの救いの大きさを悟らせてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)