ハレルヤ~! 安田遜です。
キリスト教と言えば、豪華な教会堂と修道院を思い浮かべたものです。どちらもカトリック特有のものですが、特に修道院のイメージが強く、キリスト教徒は厳しいおきてや戒律を守らねばならないのだと思っていました。
それはある意味では間違っていませんが、問題は、信仰をまっとうする力をどう得るかです。歴史上の殉教者や踏み絵を踏まなかったキリシタンは、ただ自分の意志の力だけで信仰を貫いたのでしょうか?
キリストの弟子・パウロもまた、堅固な信仰の持ち主で、イエス・キリストの名を世界にのべ伝えた第一人者です。今日は彼の遺した手紙から、“信仰力”の源を探っていきましょう!
今回は、先週8月27日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第92編2~16節(改1~15節)。
牧師説教は「信仰によって生きる」と題し、「ローマの信徒への手紙」第1章16~17節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
16わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
―「ローマの信徒への手紙」第1章16~17節(新共同訳)
福音を恥じなかったパウロに学ぶ信仰の真髄
肩身の狭いクリスチャン
今回取り上げる「ローマの信徒への手紙」は、キリストの弟子・パウロによって書かれました。パウロはこの手紙で、「信仰による生き方とはどういうことなのか?」を教えています。
「節約生活」とか「ダイエット生活」などと同様に、クリスチャンは「信仰生活」という言葉をよく使います。ただ、なにをもって信仰生活というのか、よくわかっていない方もおられるのではないでしょうか?
さて、パウロが手紙を宛てたローマのクリスチャンたちは、とても厳しい信仰生活を送っていたはずです。第一に、ローマはキリスト教徒にとって、異教の中心地だったからです。第二に、彼らは迫害に耐えなければなりませんでした。
ローマ帝国は、キリスト教の言わば前身であるユダヤ教を認めていました。でも、そのユダヤ教の指導者たちがイエスの教えを「異端」と断じたため、クリスチャンはローマ人からもユダヤ人からも追われる身となっていました。
まさに“敵中”と言える環境下で、ローマの信徒たちはイエスを信じつづけていたのです。パウロが手紙を書いたのは、彼らを励まして信仰生活を守らせるため、また、ローマ訪問への熱い思いを伝えるためでした。
それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
―「ローマの信徒への手紙」第1章15節(新共同訳)
パウロは上記の言葉に続けて、「わたしは福音を恥としない」(16節a)と綴りました。邦訳ではなぜか省略されていますが、ギリシャ語の原典では「なぜならば」にあたる接続詞(ガル|γάρ)がついて、15節と直接的につながっています。
つまり、福音を恥に思わないから、ローマへ宣教に行きたいのだ、と言うのです。
パウロがわざわざそう語るのは、福音を恥ずかしく思うクリスチャンがいたからでしょう。そもそも福音とは、「イエス・キリストを信じる人が永遠の命を得る」という教えのことです。その中身を詳しく見てみると、「恥」の原因がわかるかもしれません。
まず、イエスは
次に、イエスは死んだのち復活なさった、というのはどうでしょうか? もはや聞く価値もない、おかしな話だと思われることでしょう。事実、知識欲旺盛でパウロの話に興味津々だった人々でさえ、復活のくだりになると、時間の無駄だと言わんばかりに去っていきました()。
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
(新共同訳)
このように、クリスチャンの信じている福音は、常識的にまず考えられない内容で満ちています。
ローマの一部の信徒たちは、現代のクリスチャンにもあるように、自分たちを見る世間の目を気にしていたのでしょう。イエスの十字架による罪のゆるしを信じながらも、それを堂々と語れずにいたのです。
福音はただの言葉じゃない!
日本のクリスチャンは、人気YouTuberのフォロワーよりもずっと少なく、総人口の1%に満たないと言われています※。また、オウム真理教の事件や旧統一教会の問題などもあり、特に一神教への抵抗意識が、いまだに根強く残っているようにも思います。
そういう意味では日本のクリスチャンも、約2000年前のローマの信徒たちと似た境遇にあるのかもしれません。福音を「恥」とすることはないまでも、イエスへの信仰を口に出しづらい環境にいることは確かでしょう。
遜註
文化庁の統計によると、2021年現在、キリスト教系の信徒数は196万7584人で、同年の推計総人口(1億2550万2000人)の約1.56%に相当します。ただ、統計には異端とされている諸団体の信徒も含まれること、教会籍を持つ信徒のみが計上されていることから、必ずしも実数を反映してはいないと考えます。
だから、クリスチャンであることを隠しておられる方も珍しくないだろうし、イエスを信じて洗礼を受けることに踏み切れない方もおられると思います。そこで訴えたいのは、
信仰は、自分の覚悟・決意・意志によるのではない!
ということです。パウロは言います、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(16節b)。
福音自体がまさに「神の力」だ、と語られています。クリスチャンの信仰生活は、その「神の力」に信頼することで成り立っていくのです。パウロがそう断言できたのは、彼自身が「神の力」を劇的に体験したからでしょう。
パウロはもともと、キリスト教会の最大の迫害者でした。敬けんなユダヤ教徒だった彼は、クリスチャンをひとりでも多く殺害することが神の御心だ、とかたく信じていたのです。
その後、イエスご自身の語りかけによって回心させられたとは言え、それまでとまったく真逆のことをするわけですから、パウロの宣教こそ「恥」との闘いだっただろうと思います。
でもパウロは、「神の力」である福音に完全な信頼を置くことで、その闘いに勝利したのです٩( 'ω' )و
世にも奇妙な神の正しさ
パウロはさらに、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(17節a)と綴りました。「神の義」とは聞き慣れないでしょうが、それこそが、プロテスタント教会のいちばん大切にしているものなのです――
プロテスタント教会は、マルティン・ルターの宗教改革をきっかけに誕生しました。ルターはまじめな修道士でしたが、「よき訪れ」であるはずの福音を喜ぶことができなくなったといいます。
どんなに努力して戒律を守り、自分の「義=正しさ」を追求してみても、とうてい神の「義」には及ばない、これでは救われない、とわかったからです。
そこでルターは「神の義」を知るために、熱心な聖書研究を始めます。そして、のちにプロテスタント教会の金科玉条となる、ある大発見をします、
神の義とは、わたしたちの罪を裁く正しさではない。神様が罪深いわたしたちを「義」としてくださる、その正しさのことだったのだ!
ぼくたちはみな、神の御前に
福音とは、神がご自分の正しさゆえに罪人を救ってくださった、という祝福の知らせです。
正直、ぼくたちは、神に対してどれほど大きな罪を犯しているかをわかりません。同じように、イエスの十字架によってゆるされる罪の大きさも、ほんとうには理解できません。でも、イエスへの信仰によって、どんなに大きな罪もゆるされるのです(・∀・)ワオッ!
「正しい者は信仰によって生きる」(17節b)という聖書の御言葉は、神を信じるクリスチャンこそ正しい者だ、という意味ではないでしょう。イエスを信じて福音に信頼する人が、その信仰ゆえに神の御前で「義=正しい者」とされる、ということです。
独り子三位一体の神の第2位格で、子なる神イエス・キリストのこと。父なる神と同一の神性を持ちながら人となり、人間の罪をあがなうために十字架につき、死んで葬られ、3日目に復活なさった。
「わたしは福音を恥としない」。
イエス・キリストはあなたの罪がゆるされるために十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。ぜひこの福音を信じ、天で生きておられるイエスから「神の力」を
遜の黙想
つい何か月か前まで、ぼくは確かに福音を「恥」としていました。自分の弱さをゆるせず、弱さを肯定する聖書の御言葉()を恥じて、「人間は強くあろうと志し、常に努力せねばならない!」という世間の価値観を尊んだのです。
それ以前にも、そうすることがクリスチャンらしいと勘違いして、努めて聖人君子然と振る舞っていた時期があります。イエス・キリストの名に泥を塗らないようにと、いらぬ骨折りをして、ただ自分の「義」を満たそうとしていたのでした。
「神の義」を熟知したわけではありませんが、もはや福音は「恥」ではありません。弱さの内に「神の力」が働き、肩の荷の下ろされる体験をしたからです。福音はただ聴くばかりではなく、むしろ体験するものなのかもしれません。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
(新共同訳)
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天のお父様、あなたの御言葉を恥じた過去をゆるしてください。日々福音の力を体験させ、ますますあなたに信頼できるように導いてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
- Jeff Jacobs
- ルーカス・クラナッハ(パブリック・ドメイン|ウィキメディア・コモンズ)
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