ハレルヤ~! 安田遜です。
小さなころ、憧れていた職業はありますか? ぼくは小学生から高校生の十数年間、役者や声優に憧れていました。なにかを表現することが好きだったからです。
でも、もっと直接的な理由としては、単純に有名になりたかったから。“陰キャ”のくせに目立ちたがり屋のぼくは、圧倒的な称賛と名声を夢見ていたんですよね。
児童劇団に入らせてもらったり、声優養成所に通ったりした時期もありましたけど、まぁ続きませんでした・・・。少し未練はありますが、名声は潔く諦めることにします!笑
夢破れた過去を打ち明けたところで、今回は先々週4月3日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属しており、新興宗教の諸団体とは一切関係ありません。
2022年4月3日 受難節第5主日礼拝
2022年4月3日
受難節第5主日礼拝
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。
読上げ箇所は、「詩編」第22編25~32(改24~31)節。要約すると、
「主は貧しい人にも御顔を向け、苦しみの中から叫ぶ声を聞いてくださいます。願いをかなえてくださるあなたに、わたしは賛美と
世界の果てまですべての人が主に立ち帰り、御前にひれ伏しますように。主は王として国々を治められ、その民はことごとく御前にひざまずきます。
わたしの魂は必ず命を得、わたしの子孫も神に仕えるでしょう。そして、主のことを語り伝え、末の世代の者にまで、主の恵みの御業が告げ知らされるでしょう」
という内容です。
牧師説教は「仕える者となる」と題し、「マルコによる福音書」第10章32~45節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは12人の弟子たちを呼び寄せて、御自分の身に起きようとしていることを話された。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長や律法学者、更には異邦人に引き渡される。異邦人は人の子を侮辱し、鞭打ったうえで殺すが、人の子は3日の後に復活する。」
ゼベダイの子のヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、かなえていただきたいことがあるのですが。」イエスが「何をしてほしいのか」と言われると、彼らは言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもをそれぞれ、あなたの右と左に座らせてください。」
すると、イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける
ほかの10人の者がヤコブとヨハネに腹を立て始めたので、イエスは一同に言われた。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうではない。偉くなりたい者は皆に仕え、いちばん上になりたい者は、すべての人の
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として、自分の命を
―「マルコによる福音書」第10章32~45節(独自に要約)
ヤコブとヨハネの思い上がった羨望とイエスのへりくだった献身
人知の及ばない神の栄光
エルサレムへの道中、12人の弟子たちは、イエスから「わたしは人々に捕らわれて殺され、3日目に復活する」と告げられました。弟子たちが死と復活の予告を聞くのは、今回で3回目です。
ところがその直後、ヤコブとヨハネの兄弟は、告げられた内容の意味を伺おうとするのではなく、イエスにある願いを叶えていただきたいと申し入れました、
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」
つまり、イエスが神の栄光を受けられたら、自分たちを高い地位に就けていただきたい、ということです。実は以前にも、だれが一番偉いかという議論を、弟子たちはしたことがありました。
そのとき、イエスにいちばん先になりたい者は、・・・すべての人に仕える者になりなさい
(マルコ9:35b)と言われていたにもかかわらず、ヤコブとヨハネは今回の発言をしたのです。
ところで、「栄光」とはなにを意味しているのでしょうか?
――それはヤコブたちの考えによると、「王座」を意味します※。死と復活の予告を聞いてはいましたから、すんなりとイエスの即位が実現するとは、彼らも考えていなかったでしょう。
でも、たとえ苦難に見舞われようと、イエスは必ずやイスラエル国王になると、ヤコブとヨハネは信じていました。そしてその暁には、ぜひとも高い地位に昇りたいと思ったのでした。
遜註
イエスを信じた人々の多くは、ローマ帝国からの独立をなし遂げる「ユダヤ人の王」として、イエスに政治的な期待を寄せていました。その誤った見方でイエスをあがめていたのは、弟子たちも同じでした。
――が、ヤコブたちの言う「栄光をお受けになるとき」は、彼らの考えるものとはまったく違うかたちで到来しました。
イエスのついた王座とは「十字架」であり、いただいた王冠は「イバラの冠」だったのです!
しかも、その左右につけられたのは弟子のだれでもなく、2人の強盗でした()。イエスの行き着かれる先が十字架だとは、ヤコブたちにはとうてい思い至らなかったでしょう。
マルコ15:27
また、イエスと一緒に2人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
(新共同訳)
栄光は努力でつかみ取るものではない
イスラエルの左大臣と右大臣を夢見るヤコブとヨハネに対して、イエスはこう返されました、
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける
さて、この「杯」と「
イエスは逮捕される直前、ゲツセマネの園でこの杯をわたしから取りのけてください
(マルコ14:36c)と祈られました。つまり「杯」とは、イエスの受難と死を指しています。
そして「
イエスがヤコブたちにお尋ねになったのは、実はこういうことでした、
「わたしと同じ苦しみを受け入れ、いままでの人生を捨てて、わたしに従うことができるのか?」
ヤコブたちは「できます」と答えていますが、イエスの質問の意味を理解してはいません。それどころか、「もし『できません』と答えたら、大臣の座からはずされるかもしれない・・・」とさえ考えたでしょう。
イエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける
特にヤコブについては、〔ヘロデ王は〕ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した
(使徒12:2)と、激しい迫害のすえに殉教したことが伝えられています。
ヤコブもヨハネも、最終的にはイエスのために生涯を捧げました。でも「できます」と答えた当時は、イエスに従うことができませんでした。ほかの弟子たち同様、イエスを見捨てて逃げてしまうのです――。
イエスに従ったから、また「杯」と「
「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」
ヤコブたちは仕事も親も置き去りにして従ってきた、そのことへの報いとして高い地位を欲しました。でも、だれにどう報いるかは、神がお決めになることなのです。
仕えてくれたイエスのように
一連の問答を聞いていたほかの弟子たちが「腹を立て始めた」、と聖書は伝えています。残念ながら、ヤコブたちの的はずれな態度に腹を立てたわけではありません。10人の弟子たちの本音はこうです、
「わたしたちだって主の左右の席に座りたいが、それを言うのは気が引けるから黙っていたのだ。なのに・・・、ヤコブとヨハネめ、自分たちだけ抜け駆けするとは(*`ω´)」
イエスの互いに平和に過ごしなさい
(マルコ9:50d)という命令に反し、弟子たちは仲間に腹を立て、内心では自分の特権や地位を求めていたのです。
弟子たちのその姿に、わたしたちは自分自身を見出すのではないでしょうか?
どれだけ高い地位に就くか・どれだけ人に認められるか・どれだけお金を稼ぐか・・・。自分の能力を発揮してそれらのハードルを越え、さらなる高みを目指していくことが、この世では素晴らしいとされています。
だから、地位・名声・金銭などを人生の中心に据え、それらを獲得・保持するために、周りの人々さえも犠牲にしようとしてしまう。そのような生き方へと流されていくのが、わたしたちです。
でも、イエスが弟子たちやわたしたちに望んでおられる生き方は違います、
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の
イエスは、「偉くなりたい! 一番になりたい!」という思いを否定してはおられません。「すべての人の僕」となる生き方こそが、一番偉い人の姿であり、わたしたちの本来あるべき姿であることを教えておられるのです。
「しもべ」と聞くと、他人の言いなりになって働くという印象を受けるでしょうが、それはイエスが求めておられる働き方ではありません。
しもべがだれかのために働く動機は、「愛」です。身分の上下や命令によってではなく、隣人への愛によって率先してその人に仕えるのが、ほんとうのしもべの働き方なのです。
「人の子(イエスのこと)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を
イエスは罪の奴隷であるわたしたちを自由にするために、ご自分の命を神への賠償金として支払われました。わたしたちはいま、イエスの死によって生かされているのです。
イエスはご自分の命を捧げてわたしたちに仕えてくださいましたが、わたしたちがだれかに仕えるときには、体力・時間・金銭・能力などを捧げることになります。
自分の命を自分のものだと思わず、イエスによって与えられたものだと受け入れるとき、わたしたちは神の大きな愛への応答として、喜んで隣人に仕えることができるでしょう。
遜の黙想
客室清掃員として汚れた便器に腕を突っ込んでいると、「ぼくはなんでこんなことしてるんだろう?」と思うことがある。一方、ピカピカになった便器を見ると、自分の仕事の成果にうれしくもなる。
でも、どちらのときにも一番重要なことが抜けている。それは、「お客さんのために」という思いだ。ぼくはその思いを純粋に、建前でなく抱いていたい。そのほうが、絶対にやりがいを感じるだろうから。
・・・このように、ぼくはどこまでも「我」を捨てられない。だからこそ、ご自分の命さえ捨ててぼくに仕えてくれたキリストの愛が、いかに大きいのかを感じることができるのかもしれない。
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神さま、あなたの払われた大きな犠牲に感謝します。あなたの愛が、ぼくの心をほんとうに隣人に向けてくれる日を信じて、今週もあなたが与えてくださった職場で隣人に仕えます。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
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