遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】いちばん偉い人の働き方

 

5脚のイスのイラスト

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくの好きな讃美歌に〈キリストにはかえられません〉があります。お金持ちになることも、有名人になることも、楽しみを追い求めることも、イエス・キリストの恵みに比べれば小さなものだ、という内容です。

心から「アーメン!(そのとおりです)」なのですが、ぼくは相変わらず富や名声に引きつけられてしまいます。もちろんそれら自体が悪いのではなく、それらを第一に求めることが「罪=的はずれ」なのです。

キリストの教えを浴びるように聴いていたはずの、12人の弟子たちの中にも、見当違いのものを求めた人々がいました。ぼくたちは自分の栄光ばかりを追ってしまいがちですが、どうすればその名誉欲を満足させられるのでしょうか?

 

今回は、先々週4月3日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2022年4月3日受難節第5主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第22編25~32節24~31節)。

牧師説教は「仕える者となる」と題し、「マルコによる福音書」第10章32~45節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長や律法学者、更には異邦人に引き渡される。34異邦人は人の子を侮辱し、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は3日の後に復活する。」

 

35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、かなえていただきたいことがあるのですが。」36イエスが「何をしてほしいのか」と言われると、372人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもをそれぞれ、あなたの右と左に座らせてください。」

38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼〔バプテスマ〕を受けることができるか。」39彼らが「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの飲む杯を飲み、わたしの受ける洗礼〔バプテスマ〕を受けることになる。40しかし、わたしの左右に座るのは定められた人々であり、それを決めるのはわたしではない。」

41ほかの10人がヤコブとヨハネに腹を立て始めたので、42イエスは一同に言われた。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43しかし、あなたがたの間ではそうではない。偉くなりたい者は皆に仕え、44いちばん上になりたい者は、すべての人のしもべになりなさい。

45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである。」

 

―「マルコによる福音書」第10章32~45節(独自に要約)

 

この箇所を Bible.com で読む

 

ヤコブとヨハネの思い上がった憧れとイエスのへりくだった献身

神の栄光は見苦しい!?

今回の主人公は、ゼベダイの子のヤコブとヨハネの兄弟です。彼らはほかの弟子たちとともに、エルサレムへの道中で、イエスから「死と復活の予告」を聞かされます。それを耳にするのは3回目でしたが、彼らにはイエスのおっしゃることをわかりませんでした。

そこでヤコブとヨハネが、イエスのもとへ進み出ます。ところが、彼らは意味不明な予告の意味を伺ったのではありません。イエスにある大胆な願いを叶えていただきたいと申し入れたのです、

栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください(37節)

イエスが栄光を受けられたら、自分たちを高い地位に就けていただきたい、と。弟子たちは以前にも、似たような議論をしたことがありました。そのときイエスは、いちばん先になりたい者はすべての人に仕える者になりなさい(マコ9:35)と教えておられたのですが、ヤコブとヨハネには響かなかったようですね(¬_¬)

 

ところで、「栄光」とは、なにを意味しているのでしょうか?

――それはヤコブたちの考えによると、「王座」を意味します。真意をつかめなかったものの、死と復活の予告を聞いてはいたので、エルサレムですんなりとイエスの即位が実現するとは、彼らも考えていなかったと思います。

でも、たとえ困難が待ち受けようと、イエスは必ずやイスラエル国王になる、とヤコブとヨハネは信じていました。それは、ほかの弟子たちも同じだったでしょう。そして、そのイスラエル国家で高級大臣になることを、ヤコブたちは望んだのでした。

遜註

イエスを信じた人々の多くは、ローマ帝国からの独立をなし遂げる「ユダヤ人の王」として、イエスに政治的な期待を寄せていました。その誤った見方でイエスをあがめていたのは、弟子たちも同じでした。

 

栄光をお受けになるとき」は、確かにエルサレムで実現しました。ただ、それはヤコブたちの想定していた「栄光」とは、驚くほど違うものでした。

 

イエスの王座とは「十字架」であり、王冠は「イバラの冠」だったのです!

 

しかも、イエスの“左右の座”についたのは弟子のだれでもなく、2人の強盗でした。イエスの目指しておられたゴールが十字架だったなどと、ヤコブをはじめとする弟子たちにどうして思い至ったでしょうか。

 

栄光は努力でつかみ取るものではない

イスラエルの“左大臣と右大臣”を夢見るヤコブとヨハネに対して、イエスはこう返されました、

あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼〔バプテスマ〕を受けることができるか(38節)

 

さて、この「」と「洗礼〔バプテスマ〕」がなにを指しているのかを探っていきましょう。

イエスは逮捕される直前、ゲツセマネの園でこの杯をわたしから取りのけてください(マコ14:36)と、父なる神に必死の祈りを捧げられました。つまり「」は、イエスの「受難と死」を意味します。

そして「洗礼〔バプテスマ〕」は、ぼくたちに罪のゆるしを得させるための印です。その語源であるギリシャ語(バプティゾー)には、「溺死させる」という意味合いがあります。いままでの生き方を悔い改めて(=方向転換して)新しい命を生きる、ということです。ここでイエスの御言葉を一部意訳してみましょう、

 

 

おまえたちは、おれと同じ苦しみを受け入れられるのか? いままでの人生を全部捨てて、最後までおれに従ってこれるのか?

 

ヤコブたちは「できます(39節a)と答えていますが、イエスの質問を理解してはいなかったでしょう。「もし『できません』と答えたら、大臣の座からはずされるかもしれない」とさえ考えていたかもしれません。

ただ、イエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼〔バプテスマ〕を受けることになる(同節b)とおっしゃったように、ヤコブとヨハネは、のちに教会の中心的人物として激しい迫害を受けることになります。特にヤコブについては、〔ヘロデ王は〕ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した(使12:2)と、殉教を遂げたことが伝えられています。

ヤコブもヨハネも、最終的にはイエスのために生涯を捧げました。でも「できます」と答えた当時は、その言葉どおりには生きられませんでした。ほかの弟子たちとともに、イエスを見捨てて逃げてしまうのです――

 

栄光とは、イエスに従った“ごほうび”として、また「」と「洗礼〔バプテスマ〕」を受け入れた報酬として、ぼくたちに約束されるものではありません。イエスはおっしゃいました、

わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ(40節)

ヤコブたちは家庭も仕事も置いて従ってきた、そのことへの報いとして高い地位を欲しました。でも、栄光はぼくたち自身の行いによって得られるものではありません。だれにどの栄光を与えるかは、神がお決めになることなのです。

 

栄光を求めるならば

ほか10人の弟子たちは、一連の問答を聞いていました。彼らが「腹を立て始めた(41節)と聖書は伝えていますが、ヤコブとヨハネの的はずれに怒ったわけではありません。10人の本音はこうです、

 

わたしたちだって、主の左右の席に座りたい。でも、それを言うのは気が引けるから黙ってたんだ。なのに、ヤコブとヨハネめ自分たちだけ抜駆けするとは!

10人もまた、内心では自分自身の特権や地位を求めていました。それだけではなく、互いに平和に過ごしなさい(マコ9:50)というイエスの命令に反して、仲間に腹を立ててしまったのでした。

 

現代を生きるぼくたちも、弟子たちと同じ境遇にさらされています。

どれだけ出世するか、どれだけ人に認められるか、どれだけお金を稼ぐか。自分の能力を発揮してそれらのハードルを越え、さらなる高みを目指して努力することが、世間では美徳のひとつとされています。もちろん、それは確かに素晴らしいでしょう。

でも、地位・名声・金銭などを人生の中心に据えるのは、必ずしもいい生き方とは言えません。それらを獲得・保持するために、周りの人々さえも犠牲にしてしまうことがあるからです。イエスがぼくたちに望んでおられる生き方は、そのようなものではありません、

 

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人のしもべになりなさい(43~44節)

 

イエスは、「偉くなりたい! 一番になりたい!」という欲求を否定してはおられません。もしそれを望むのなら、「すべての人の僕」として生きることを志せばいい、と教えておられるのです。

とは言え、「」とは少しイヤな言い方です。ひたすら他人の言いなりになって、尊厳を無視されながら黙々と働く、という印象を受けますよね? でも、イエスのおっしゃる「」は、いわゆる奴隷のようなものではないのです。

イエスが「」と呼ぶのは、「愛」を動機にして、他人のために生きる人々です。身分の上下や命令によってではなく、純粋な愛に動かされ、率先して人々に奉仕する人こそがいちばん偉いのだ、とイエスはおっしゃいます。

 

人の子(イエス)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである(45節)

 

先ほど「奴隷」という言葉を使いましたが、ぼくたちはみな、生まれながらに「罪の奴隷」です。イエスはぼくたちを自由にするために、ご自分の命を身代金として、ぼくたちの命を罪の支配下から買い取ってくださいました。

だから、イエスの十字架を信じる人は、だれでも罪のゆるしを受けられます。このイエスによる救いを信じ、神の大きな愛を原動力にして、隣人に仕える人生を送っていただきたいと思います。

 

遜の黙想

Youtube・Instagram・TikTokなどが普及して、いまやだれでも有名人になれる時代です。ぼくはSNSにあまり関心はありませんが、それでも世間のムーブに名誉欲を刺激されることは少なくありません。

キリストにはかえられません、世の宝もまた富も」と口ずさみながら、自分の栄光に心が向いている。だれかのしもべになるなんて、とてもできない相談です!

でも、ヤコブとヨハネが変えられたように、ぼくの心も方向転換させられることを祈り求めます。イエス・キリストが十字架の上で示してくださった神の愛が、ぼくを通して広がっていくことを。

天のお父様、あなたの愛をぼくの内に創造してください。あなたがぼくを愛してくださった、その愛の目で隣人を見られますように。高ぶる心を取り除き、しもべの心を与えてください。アーメン。

 

キリストにはかえられません(『讃美歌21』522番)

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
参考資料
画像の出典(Pixabayより)