ハレルヤ~! 安田遜です。
イエス・キリストがはりつけにされている十字架を、ドラマや映画、また歴史や美術の教科書なんかでも見たことがあると思います。実は、プロテスタント教会の十字架にはキリストの姿がないのですが、そのお話はまた別の機会に。
キリストが十字架の上で死なれたことは、恐らく世界じゅうの人が知っているでしょう。でも、キリストがなぜ死ななければならなかったのか、あなたはご存じですか? また、キリストとあなたの間に深い関係があることは?
イエスが「キリスト=救い主」と呼ばれる理由は、なんと旧約聖書にあります。今日はその旧約聖書の預言の中から、ぼくたちの救い主の姿を学んでいきましょう!
今回は、先週3月27日の礼拝説教の内容を分かち合います。なお、この日の説教は、わが教会で奉仕をしておられる神学生の方が担当してくださいました。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、司式者の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第22編28~32節(改27~31節)。
神学生説教は「神の救いのご計画」と題し、「イザヤ書」第53章1~12節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
1わたしたちの聞いたことを、だれが信じえようか。主の御力が示されたことがあっただろうか。2乾いた地に生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。風采はあがらず、3軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
4彼はわたしたちの病と痛みを負った。それなのに、わたしたちは思っていた、罪を犯して神に打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。5彼の刺し傷はわたしたちの背きのゆえ、彼の打ち傷はわたしたちの
6わたしたちは、道を誤って散って行く羊の群れ。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。7彼は
9彼は何の罪も犯さなかったのに、神に逆らう者と共に葬られた。10主はこの人を責めさいなもうと望まれ、彼は自らを償いの
11彼は自らの苦しんだ結果を見て満足する。わたしの
イザヤの預言が物語る救い主・イエスの姿
悲劇の中で告げられた希望
キリスト教会はいま、受難節を過ごしています。イエス・キリストの十字架上の姿を顧みて、ぼくたち自身の罪を深く悔い改める期間です。
ノンクリスチャンの方は、十字架を「イエス様がかわいそう」とか「悲惨な出来事だなぁ」と、哀れな歴史的事件として捉えておられるかもしれません。ただ、それは十字架の意味を十分に知らないからだと思うのです。
イエスは、ぼくたちの罪を償うために死なれました。今回の聖書箇所は、イエスの「しょく罪の死」をとても明快に伝えてくれています。
ところで、毎週の礼拝では、いくつかの讃美歌を歌います。この日の礼拝では、『讃美歌21』の306番〈あなたもそこにいたのか〉を歌いました、
「♪あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき」
そう問いかける歌詞に、イエスと自分は無関係だと考えておられる方は、「いいえ」と答えられるでしょう。また、イエスの死も悲劇として映ると思います。でも、実際はそうではありません!
さて、今回取り上げる「イザヤ書」は、イエス誕生の約700年前に成立したと言われています。新約聖書では、イエスが待望のメシア(救い主/キリスト)であることを証明するために、しばしばその預言書が引用されています。
今回の第53章が書かれたのは、紀元前7世紀ごろ。当時、ユダヤ人は〈バビロン捕囚〉という史上最大の悲劇に見舞われていました。たび重なる“反神的行為”の報いとして、強大なバビロニア帝国による征服、異民族の中での抑圧された生活を経験することになったのです。
ユダヤ人はそれを神の正当な罰だと受けとめ、以後、神に立ち帰る道を模索していきます。そんな先の見えない状況の中で、預言者・イザヤが、「メシア」という救いの希望を告げたのです٩( 'ω' )و
イエスの苦難=人間の病苦
今回の箇所は第52章の続きで、新共同訳では「主の
また、自分たちの背きに気づかず、“反神的行為”を続けるユダヤ人の様子も示されています。イザヤは彼らのことを、「乾いた地」(2節)と呼びました。種をまいても育たない荒れ地にたとえたのです。
メシア・イエスが降って来られたのは、霊的に飢え渇き、心のすさみきった人々の住む、まさに「乾いた地」でした。
イエスのご降誕によって、その700年前にイザヤが預言した、神の救いの計画がついに動きだします。イエスが洗礼を受けられたとき、天から呼ばわった神の声を、聖書は次のように記録しています。
21民衆が皆
洗礼 を受け、イエスも洗礼 を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
―「ルカによる福音書」第3章21~22節(新共同訳)
この声は、イエスが神から遣わされた者であることの証拠です。神はイエスを「わたしの愛する子」と呼ばれましたが、それ以降の出来事は、すべて神の愛によって実現したのでした。
イエスは神に愛された一方、人々からは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」(3節)という預言どおりに扱われました。そして、メシアのその様子を見た人々の心中をも、イザヤは預言しています、
「わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」(4節b)
それが、イエスを十字架送りにした、ユダヤ人たちの動機です。しかもその中には、つい先日までイエスに従って歩き、喜んでその教えに耳を傾けていた人もいました。
ところが、イエスが人々から受けた苦難について、イザヤは 「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(4節a)と言っています。
この「病」と「痛み」は、ぼくたちの抱える根深い問題です。当時のユダヤ人にとっては、〈バビロン捕囚〉で明らかになった、民族的罪の記憶のことでしょう。
現代を生きるぼくたちも、神に対して罪を犯さずに一生を終えることはできません。そして、その償いを果たすことも不可能です。自分自身で罪の縄目を解くことのできないぼくたちに代わって、イエスがしょく罪を引き受けられました。
神への反逆によって霊魂が負った「病」、その症状としてぼくたちの人生に表れる「痛み」。それらを背負ってぼくたちの身代わりとなられた救い主が、十字架につけられたイエス・キリストなのです!
悲劇に終止符を打った十字架
神の人類救済計画の一部をかいま見せられたイザヤは、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」(1節)と嘆息しました。神がぼくたちを罪から救おうとされた方法が、あまりにも奇異に思えたからです。
神が永遠の昔から定めておられた救済法は、十字架。
木にかけられた者は、神に呪われたもの
(申21:23)とまで言われた
独り子三位一体の神の第2位格で、子なる神イエス・キリストのこと。父なる神と同一の神性を持ちながら人となり、人間の罪をあがなうために十字架につき、死んで葬られ、3日目に復活なさった。
神にもっとも愛されたイエスが「罪人のひとりに数えられ」(12節b)、呪われた死を遂げられたのです。それは、呪われた罪人であるぼくたちが、神の御前に罪なき者となるためでした(・∀・)ワォ!
一見悲惨に思える十字架は、あなたを呪いから解放したいと切に願われる神の、大きな愛によって計画されました。そして、それを実現されたイエスも、あなたに純粋な愛を向けておられます。
十字架がたんなる歴史的悲劇ではないことを知るとき、イエスの死が自分自身のためだったとわかるとき、神の愛の中に迎えられ、信仰の火がともされます。
そして、「♪あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき」の歌詞を、「はい、わたしもそこにいました」という応答によって歌うことができるのです。イザヤは預言しました、
「わたし(父なる神)は多くの人を彼(イエス)の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける」(12節a)
イエスの十字架上の死は、ひとりでも多くの人が救われるために実現しました! あなたのために犠牲を払われた神の愛、イエスの恵みを、どうぞご自分のものになさってください。
遜の黙想
〈あなたもそこにいたのか〉を、ぼくは最後まで歌いきることができません。歌い出しから涙があふれてきて、どうしても声が詰まってしまうからです。そのとき、ぼくは十字架につけられたイエス・キリストの姿を、確かに遠くから見ているのです。
ゴルゴタの岩陰に身を隠して、震えながらキリストを見つめるぼくの目と、血で固まったまつ毛の奥に澄むキリストの瞳が合います。ぼくはキリストの敵です、彼を十字架につけたのはぼくなのですから。
でも、敵を見つめるキリストの瞳に、怒りの色は少しもありませんでした。ただ、深いあわれみだけがありました。ぼくの救いのために死なれたキリストは復活し、いまも生きておられます。信じられないほど深いその愛に、ぼくは震えるばかりです。
*
慈しみ深い神様、あなたの御業にイザヤのように驚いています。御子・イエスを捨ててまで、ぼくを救ってくださるとは。その愛の大きさを、もっと真実に喜べますように。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)