遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】キリストは悲劇のヒーロー? いや、悲劇を終わらせた救い主だ!

 

砂漠に芽吹く植物

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくがクリスチャンになってから、丸3年が経ちました。先日4月1日はぼくの〈新生日〉、つまり、ぼくがイエス・キリストを信じた記念の日です(*^o^*)

「神の栄光を現す」というクリスチャンの生き方には、まだまだ到達できていませんが、キリストのもとに憩えるという喜びは、日を経るごとに深まっていくのを感じています。

「その喜びをもっとたくさんの人に知ってほしい! もっと深く神さまを知りたい!」その思いを大切にして、クリスチャン4年目の年を過ごしていきます。

 

さて今回は、先週3月27日の礼拝説教の内容を分かち合います。この日の説教は、ウチの教会で奉仕をしておられる神学生の方が担当してくださいました!

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 神学生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属しており、新興宗教の諸団体とは一切関係ありません。

 

2022年3月27日 受難節第4主日礼拝

2022年3月27日
受難節第4主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、司式者の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第22編28~32(新改訳27~31)節。要約すると、

「世界中のすべての人が主のみもとに立ち帰り、主を礼拝しますように。主は王として国々を治め、生ける者も死んだ者も、その王権の前にひれ伏します。
わたしの魂は生き永らえ、子孫は神に仕えるでしょう。主のことをに語り伝え、主の恵みの御業を末の代まで告げ知らせるからです」

という内容です。

 

神学生説教は「神の救いのご計画」と題し、「イザヤ書」第53章1~12節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

わたしたちの聞いたことを、だれが信じられるだろうか。乾いた地に生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。風采はあがらず、人々に軽蔑され、見捨てられていた。

彼はわたしたちの病と痛みを負った。それなのに、わたしたちは思っていた、彼が苦しんでいるのは、罪を犯して神に打たれたからなのだ、と。彼の刺し傷はわたしたちの背きのゆえ、彼の打ち傷はわたしたちの罪のゆえだった。彼の受けた罰がわたしたちに平和をもたらし、彼の受けた傷がわたしたちをいやした。

わたしたちは、道を誤って散って行く羊の群れ。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。彼はほふり場に引かれる小羊のように、苦しめられても口を開かなかった。彼は捕らえられ、裁かれ、命を取られた。彼の時代のだれが思い巡らすだろうか、わたしたちの背きゆえに、彼が神の手にかかったことを。彼は何の罪も犯さなかったのに、神に逆らう者と共に葬られた。

主はこの人を責めさいなもうと望まれ、彼は自らを償いのささげ物とした。彼は子孫の繁栄を見る。主の御旨は、彼によって成し遂げられる。

 

彼は自らの苦しんだ結果を見て満足する。

わたしのしもべは、多くの人が救われるために彼らの罪を負った。それゆえ、彼はおびただしい人を取り分として受ける。彼が自らをいけにえとし、つみびとの一人に数えられたからだ。

多くの人の過ちを担い、神に背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。

 

―「イザヤ書」第53章1~12(独自に要約)

 

イザヤの預言が物語る、救い主らしくない救い主・イエスの姿

十字架は哀れな悲劇なのか?

キリスト教会はいま、受難節を過ごしています。イエス・キリストの十字架上の姿を顧み、わたしたち自身の罪を深く悔い改める期間です。

イエスは、わたしたちの罪を償うために死なれました。その姿を思い浮かべて、「イエスさまがかわいそう」とか「十字架って悲しい出来事だなぁ」と思う人もいるかもしれません。

でも今回の箇所をよく学んでみると、そう思うのはとても的はずれなことなのだ、と思い知らされるでしょう。

 

さて、死の前日、イエスは自ら弟子たちの足を洗われました。実は、〈洗足の木曜日〉として記念されているその出来事こそ、十字架上の死の意味を象徴的に表しているのです。

 

それどころか、十字架の出来事とまったく同じ意味を持つ、と言っても過言ではありません!

 

イエスが弟子・ペトロ(ペテロ)の足を洗おうとされたとき、ペトロはそれを拒もうとしました。他人の足を洗うのは、奴隷が主人に対して行う仕事だったからです。

するとイエスは、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる(ヨハネ13:8b)とおっしゃいました。

ペトロはそう言われると一転、主よ、足だけでなく、手も頭も(同9節)と、まるで見当違いな言葉で返しました。でも、そのときのペトロを笑うべきではありません。

イエスの十字架をかわいそうだと捉える認識と、イエスの奉仕を拒もうとしたペトロの態度は、どちらも「イエスを理解できていない」という点で同じことだからです。

 

今日、『讃美歌21』の306番を歌いました。「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき」という歌詞は、わたしたちに問いかけているのです。

自分とイエスはなんの関わりもないと考える人は、きっと「わたしはそこにいなかった」と答えるでしょう。その人の目には、イエスの死はむなしい悲劇として映ると思います。でも実際は、そうではありません。

イエスの死は、イエス登場の約500年前に書かれたとされる「イザヤ書」の成就です。新約聖書では、イエスが待望のメシア(救い主/キリスト)であることを証明するために、しばしばその預言書が引用されています。

 

今回の第53章が書かれたのは、紀元前6世紀ごろ。当時、ユダヤ人は〈バビロン捕囚〉の渦中、屈辱と喪失にまみれた史上最大の悲劇に見舞われていました。

度重なる神への不従順の報いとして、ユダヤ人は王国と領土を取り上げられ、強大なバビロニア帝国のもとで抑圧された生活を送ることになったのです。

ユダヤ人はそれを神の正当な罰だと受けとめ、以後、神に立ち帰ることを模索していきます。そんな状況の中で、預言者・イザヤが神の救いによる希望を告げたのです!

 

イエスの苦難=人間の病苦

「イザヤ書」第53章は前章から続き、新共同訳聖書では「主のしもべの苦難と死」と題されています。その題名どおり、神のしもべ・イエスによる救いの御業を物語っているのです。

また、自分たちの背きに気づかず、神に逆らいつづけるユダヤ人の様子も示されています。イザヤはその人々のことを、種をまいても育たない土地になぞらえて、「乾いた地」と呼びました。

 

霊的に飢え渇き、心の荒んだ人々のもとへ、神はイエスを遣わされたのです。

 

イエスのご降誕によって、神の救いの御業が動きだしました。イエスがわたしたちの受けるべき洗礼を自らも受けられたとき、天から神の声が呼ばわりました。

民衆が皆洗礼〔バプテスマ〕を受け、イエスも洗礼〔バプテスマ〕を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

―「ルカによる福音書」第3章21~22節(新共同訳)

その声は、イエスが神から遣わされた者であることの暗示です。神がイエスを「愛する子」と呼ばれたことを、わたしたちは忘れてはなりません。それ以降のすべての出来事が、神の愛によって実現したことだからです。

 

イエスは神に愛された一方、人々からは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」という預言どおりに扱われました。その様子を見た人々の心中をも、イザヤは預言しています、

「わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」

だからこそ人々は、イエスを十字架につけたのです。しかもその人々の中には、つい先日までイエスに従って歩き、喜んでその教えを聞いていた人もいました。

 

イエスの受けられた苦難について、イザヤは「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛み」と言っています。どういうことでしょうか?

――それは、わたしたちの抱える根の深い問題です。当時のユダヤ人にとっては、〈バビロン捕囚〉で明らかになった罪の記憶のことでしょう。

 

神に背いたために病んだ魂と、それによって味わうことになった苦しみ。それこそ、イエスが自ら引き受けられた、わたしたちの病であり痛みなのです。

 

わたしたちは、神に対して罪を犯さずに生きることはできません。また、その償いを果たすこともできません。自分自身で罪の縄目を解くことのできないわたしたちは、どうやって神のみもとへ近づけるのでしょうか?

 

十字架は栄光に輝く救いの御業!

神の人類救済計画の一部を垣間見たイザヤは、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」と嘆息しています。神がわたしたちを罪から救おうとされる、そのやり方が、あまりにも奇異に思えたからです。

 

さて、イエスは弟子たちの足を洗ったあと、彼らを連れてゲツセマネの園に行かれました。〈ゲツセマネの祈り〉と呼ばれるイエスの祈祷の様子を、聖書は次のように描写しています。

「父(父なる神)よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」・・・イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。

 

―「ルカによる福音書」第22章42・44節(新共同訳)

祈っておられる間、イエスの中では、「神としての意志」と「人としての弱さ」がせめぎ合っていたことでしょう。イエスが最終的に選ばれたのは、神の御心でした。

こうしてイエスは、永遠の昔から定められ、神ご自身の望まれた道を、十字架の道を歩かれました。十字架は、神に呪われた者がかけられる、と言われていたものです

 

神にもっとも愛された御子・イエスが、呪われた死に方によって、イザヤ曰くつみびとのひとりに数えられた」のです。それは、神に呪われた罪人であるわたしたちが救われるためでした!

 

神はわたしたちを愛し、呪われた状態から解放してくださいました。そしてイエスも、弟子たちへの愛と同じ愛を、わたしたち一人ひとりに向けていてくださいます。

その愛があるので、だれでも神との平和に立ち帰ることができます。罪人さえ憐れんでくださる神の愛と、自ら犠牲となられたイエスの愛こそが、わたしたちを罪から救うのです(*^o^*)

 

さて、イエスは弟子たちの足を洗うことの意味について、ペトロにこうおっしゃいました、

わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる(ヨハネ13:7)

この「後で」はペトロだけにでなく、わたしたちにも訪れます。そのタイミングは人それぞれでしょうが、人生のある時点で、わたしたちは悩みから解放されるのです。

 

そのとき、自分の救いがどこからやって来たのかがわかります。

そのとき、「イエスさまはわたしのために死んでくださった」と宣言できます。

そのとき、「あなたはそこにいたのか?」という問いに、「わたしはそこにいた」と答えることができます。

そのとき、わたしたちの内に信仰の火がともされ、神の大きな愛の中に迎えられます。

 

「わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける」とイザヤが預言したように、イエスの十字架上の死は、一人でも多くの人が救われるために実現したからです!

 

イエスは弟子たちの足を洗い、わたしたちの身代わりとなって死なれました。だれよりも身を低くして、わたしたちに仕えてくださいました。

そのことを思うとき、十字架は誇らしく両手を広げて、あなたを招いているように見えるはずです。ぜひその招きに応えてください。そして、神の愛と恵みに生かされる幸福を味わいましょう。

 

遜の黙想

ぼくは、キリストが十字架につけられるのを見た。ぼくはその様子を離れたところから、枯れかけた茂みの後ろに身を伏して、震えながら見つめていたのだ。

すると、キリストがおもむろに頭を上げて、ぼくの視線を捉えた。血で固まったまつ毛の奥に、ぼくはキリストの澄んだ瞳をたしかに見た! ぼくは視線を逸らすことができないまま、ただ泣いていた。

「あぁ、あの人を十字架につけたのは、ぼくだったんだ・・・」敵を見つめるキリストの目に怒りの色はなく、ただ深い憐れみだけがたたえられていた。ぼくは、キリストのその目を見たのだ!

父なる神よ、あなたの御業は、ぼくたちの目にはあまりに大きくて理解が及びません。でも、御子・イエスの死と復活による救いが、いまもぼくたちの間で働きつづけていることに感謝します。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
  • YOSHIEYouTube

画像の出典(Pixabayより)