ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは何事にも先入観を持ってしまうタイプです。例えば、初対面の人がコワモテだったりすると、「性格も粗暴に違いない!」って思っちゃう。逆に柔らかい顔つきだと、親切な人だって決めつけちゃう。
でも実際に接してみた結果、コワモテの人はめちゃくちゃ腰が低くて丁寧だったけど、仏顔の人はどこか素っ気なくて冷たかった、っていうことがあります。後者の場合、なにか裏切られた感が湧くんですが、それってかなり迷惑な話ですよねw
その人を“いい人”だと思い込んだのはぼくの勝手であって、その人自身はいつもと変わらずに「その人」でいただけなわけですから・・・。
勝手な思い込み癖を反省しつつ、先週3月20日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属しており、新興宗教の諸団体とは一切関係ありません。
2022年3月20日 受難節第3主日礼拝
2022年3月20日
受難節第3主日礼拝
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。
読上げ箇所は、「詩編」第31編8~14(新改訳7~13)節。要約すると、
「主の慈しみにわたしの心は躍ります。あなたはわたしの魂の苦悩を知り、わたしが敵に捕らえられないように、地の利のある広い所に導いてくださいました。
主よ、苦しむわたしを憐れんでください。苦悩のゆえに心と体は衰え、嘆きのうちに命は尽きていきます。犯した罪のゆえに力はうせ、骨までも衰えていきます。
わたしをあざけるのは、敵だけではありません。隣人や友人もわたしを避け、まるで死者のように扱います。人々は中傷と陰謀でわたしを取り囲み、わたしの命をねらっています」
という内容です。
牧師説教は「あなたは私を何者だというのか」と題し、「マルコによる福音書」第8章27~33節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
―「マルコによる福音書」第8章27~33節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
「サタン」と呼ばれたペトロが見ていた“偶像のイエス”
イエスはすごすぎて正体不明!?
今回の箇所は、全部で16章ある「マルコによる福音書」の、ちょうどまん中にあたります。今回のペトロ(ペテロ)の信仰告白が、この福音書の転換点になっているのです。
さて、福音書の前半では、イエスはしばしば湖を渡って活動しておられました。それが中盤からは、陸上を移動して活動されるようになります。つまり、道を歩いて進まれるのです。
イエスの進路はここから「エルサレムへの道」に移りましたが、そのことにはとても重要な意味が秘められています。それは、
イエスが「十字架への道」を歩きはじめられた
ということ。その道の上で、イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問なさいました。イエスの正体については、その奇跡や教えを見聞きした人々が、常に論じ合っていたことです。
それは弟子たちの間でも同じでしたが、彼らは人々の噂を引用してイエスの質問に答えました、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。
このようにイエスが何者かについては、「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者」の3つの説が有力だったことがわかります。それぞれの説を簡単に見てみましょう。
まず、洗礼者ヨハネ説――
ヨハネは従来の律法主義によらない、新しい権威による悔い改めを
次に、エリヤ説――
エリヤは旧約時代、火の馬車とともに生きたまま天に上げられた預言者です。終末のとき、メシア(救い主/キリスト)に先んじて遣わされる人物だと預言されていることから()、イエスにその期待が集まりました。
そして、預言者説――
預言者とは神に遣わされた人物で、さまざまな奇跡を起こせることでも知られていました。イエスの奇跡的な御業の根拠を、一部の人々は「預言者だから」という理由に求めたのでした。
マラキ3:23
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
(新共同訳)
弟子たちの回答に対して、イエスはまた、こう問いかけられました、
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
ちまたに流れるウワサは別として、自分はどう思っているのかと、イエスは弟子たち自身の本音を聞き出そうとされたのです。
虚像のイエスと真実のイエス
イエスの真剣な質問に対して、一番弟子・ペトロははっきりと答えました、
「あなたは、メシアです」
メシアとは、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味。神に奉仕する聖なる者として、神によって特別に選び出された人物のことで、特に「救い主」を指しています。
弟子たちのうち、ペトロだけが、イエスをメシアだと信じていたわけではありません。すべての弟子が、イエスを信じていました。ペトロはその代表として信仰告白をしたのです。
ところが、「イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」と、聖書は語っています。このような〈沈黙命令〉は、「マルコによる福音書」ではよく目にするものです。
ただ「戒め」を伴ったものは、実はこのほかにもう1か所しか出てきません。それが、コチラ。
汚 れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
―「マルコによる福音書」第3章11~12章(新共同訳)
はイエスの敵でありながら、ペトロと同様、イエスが何者かを正しく認識していました。でもイエスはなぜ、悪霊だけでなく弟子たちをも戒められたのでしょうか? ――それは、
悪霊悪魔の手下として暗躍する霊的存在の総称。けがれた霊ともいい、人間に取りついて生体的異常を引き起こさせるほか、人間を神から遠ざけたり罪に誘惑したりする。元は天使であった。
ほんとうの信仰告白に必要な、イエスへの従順が欠けていたから!
メシアは偉大なる王・ダビデの家から生まれ、異邦人とその神にけがされた聖都・エルサレムを清め、イスラエルを栄光の国へと回復させる王である。それが、当時のメシアへの一般的な認識と期待でした。
イエスはたしかにダビデの子孫ですが、人々が期待していた、ユダヤ人のための「政治的メシア」ではありません。異邦人にも救いを約束する、すべての人のための「
ペトロたちもご多分に漏れず、イエスを“地上の王”としてあがめていました。でも、イエスのほんとうの姿を知らなければ、イエスに従うことなどできません。
そこでイエスは、ご自分がほんとうは何者なのかを教えるため、弟子たちに次のような予告をなさいました、
「人の子(イエスのこと)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている」
それを聞いたペトロがイエスを「いさめ始めた」、と聖書は語っています。この「いさめる」にあたるギリシャ語には、「叱りつける・激しく命じる」という、日本語よりも強い意味があります。
ペトロはまさに怒鳴りつけるようにして、イエスをいさめたのです、
「愛する主よ、死ぬなどとおっしゃってはなりません! それも、祭司長や律法学者たちに殺されるだなんて・・・。そんなことは、あってはならないことですщ(゜゜щ)」
祭司長や律法学者は聖書を熟知し、メシアに関する知識も豊富でした。その宗教的権威者たちに殺されてしまったら、イエスはメシアではないことになる、とペトロは考えたのです。
ペトロの態度は当然にように思えますが、イエスは彼に対してとても厳しい言葉を放たれました、
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」
イエスは、ペトロが悪魔に取りつかれているとおっしゃったのではありません。ペトロ自身をまったく否定されたのでもありません。
心の中に「自分にとって都合のいいメシア像」があることを叱られたのです。
イエスが弟子たちにご自分の行く末をお教えになったのは、「真実のメシア像=十字架上のメシアの姿」を明らかにするためでした。
美しくないメシアだからこそ
結局ペトロは、イエスの真実の姿である「
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
その質問に、あなたはどう答えるでしょうか? もしペトロのように「あなたは、メシアです」と答えられても、イエスに従っていくのはなかなか難しいことです。
従いきれない自分を恥じるあまり、「自分にとって都合の悪い真実のメシア」を退けて、自分自身の考えや感情で行動してしまうこともあるでしょう。
でもだからこそ、イエスは十字架にかかってくださったのです。
イエスはわたしたちの従順になりきれない弱さを知っており、その罪を背負って、十字架の上で血を流してくださいました。わたしたちの代わりに死んで罪を償い、3日目に復活して、天に昇って行かれました。
イエスはいま、ご自分を信じる者のために永遠の住まいを用意し、わたしたちを待っておられます。そして、聖書や礼拝を通して、ご自分が「あなたのメシア」であることを示しつづけておられるのです。
わたしたちにほんとうの信仰告白をしてほしい、とイエスは願っておられます。わたしたちはその招きに応え、すべての人のために語られた御言葉に親しみ、ほんとうのイエスの姿を慕い求めましょう。
遜の黙想
キリストをただ憐れみと慈しみに満ちた神さまだと思っている自分に、ふと気がつくことがある。キリストが慈愛の神さまであることは間違いない。でも、それだけではない。
キリストは厳しい裁き主でもある。そのことを忘れさせまいとするように、キリストはかなり辛口な命令や戒めをぼくたちに伝えている。ぼくはそれをほとんど無視してしまう、従いきれないから。
ただ、ぼくたちがまったく従えないことをキリストは言わないはずだ。聖書にもこう書いてある、御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる
(申命記30:14)。
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イエスさま、御言葉の一つ一つに感謝します。あなたの教えはぼくを正しさへ導く道で、従う価値のあるものです。隣人がその道を見出すことができるように、ぼくの心と行いを清めてください。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
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