ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくはなに事にも先入観を持ってしまうタイプです。例えば、初対面の人がコワモテだと、性格も粗暴に違いないと思い込む。逆に柔らかい顔つきの人だと、きっと親切だと決めつける。
でも実際、コワモテの人は腰が低く丁寧で、やさしそうな人はどこか素っけなく冷淡だった、ということはよくあります。後者の場合、なにか裏切られた感が湧きますが、その人にまったく落ち度はありませんよね^^;
人の見方は思い込みによって変わりますが、イエス・キリストも、それによって実像をゆがめられました。人々が自分勝手な「救い主」のイメージを思い描いたことで、それとかけ離れた、実際の救い主・イエスは否定されてしまったのです…。
今回は、先週3月20日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第31編8~14節(改7~13節)。
牧師説教は「あなたは私を何者だというのか」と題し、「マルコによる福音書」第8章27~33節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
―「マルコによる福音書」第8章27~33節(新共同訳)
イエスに「サタン」と叱られたペトロが見ていた“偶像のメシア”
イエスってなに者!?
今回は、イエスの弟子・ペトロ(ペテロ)が信仰告白をするお話です。全部で16章ある「マルコによる福音書」のちょうどまん中にあたり、この福音書の転換点をなしています。
福音書前半では、イエスはしばしば「湖」を渡って活動されました。それが中盤以降、「陸」での活動がメインになっていきます。イエスの歩みは「道」へと移ったわけですが、それはつまり、
イエスが「エルサレムへの道=十字架への道」を歩きはじめられた
ということです。その道の上で、イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(27節)とお尋ねになりました。
イエスの正体については、その教えや奇跡を見聞きした人々が、常に論じ合っていたことです。それは弟子たちの間でも同じでしたが、彼らは人々のウワサを引用して答えました、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(28節)。
このように、イエスがなに者かについては、3つの説が有力だったようです。その中身を簡単に見てみましょう。
- 洗礼者ヨハネ説 従来の律法主義によらない、新しい権威による悔改めをのべ伝えたヨハネに、イエスの姿が重ねられた。ヨハネは奇跡を起こさなかったが、ヘロデ王に処刑されたのち、復活して神の力を得たと考えられた。
- エリヤ説 エリヤは火の馬車で生きたまま天に上げられた、旧約時代の預言者。終末のとき、メシア(救い主/キリスト)の先駆者となることを預言されていることから()、イエスにその期待が集まった。
- 預言者説 預言者は神に遣わされた特別な人物で、さまざまな奇跡を起こせることでも知られていた。そこで、イエスが奇跡を起こせるのは、預言者だからだと考えられた。
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
(新共同訳)
弟子たちの返答に対して、イエスは重ねて問いかけられました、
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節a)
ちまたに流れるウワサは別として、自分自身はどう考えているのかと、イエスは弟子たちの「本音」を聞き出そうとされたのです。
ついやってしまうメシアの偶像化
イエスの直球な質問に、一番弟子・ペトロははっきりと答えました、
「あなたは、メシアです」(29節b)
メシア(מָשִׁיחַ)とは、ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。神に仕える聖なる者として、神に直接選び出された人物のことで、「救い主」の代名詞になりました。
さて、信仰告白をしたのはペトロですが、彼だけがイエスをメシアだと信じていたわけではありません。弟子全員がイエスを信じており、ペトロはその代表として宣言したのです。
ところが、「イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30節)と、聖書は語っています。この種の命令を〈沈黙命令〉といい、「マルコによる福音書」では頻繁に目にします。ただ、今回のように「戒め」を伴うものは、ほかに1か所しかありません。
11
汚 れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。12イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
―「マルコによる福音書」第3章11~12章(新共同訳)
はイエスの敵でありながらも、イエスがメシアであることをよくわかっていました。でも、イエスはなぜ、悪霊だけでなく弟子たちをも戒められたのでしょうか? ――それは、
悪霊悪魔の手下として暗躍する霊的存在の総称。「汚れた霊」とも呼ばれ、人間に取りついて生体的異常を引き起こさせるほか、人間を神から遠ざけたり罪に誘惑したりする。元は天使であった。
真実な信仰告白に欠かせない、イエスへの認識と従順が足りなかったから!
メシアは偉大なるダビデ王の家系に生まれ、異民族と偶像のカミガミにけがされた聖都・エルサレムを清め、イスラエルを栄光の国へとよみがえらせる王である。それが、メシアへの一般的な認識と期待でした。
イエスは、確かにダビデの子孫としてお生まれになりました。でも、ユダヤ人が期待していたような「政治的メシア」ではありません。ユダヤ人以外のすべての民族にも救いを約束する、「しょく罪のメシア」なのです。
ペトロを含む弟子たちもご多分に漏れず、ローマ帝国からの独立を勝ち取る“地上の王”として、イエスをあがめていました。そのような誤った目でイエスを見ていては、イエスに従いとおすことなどできません。そこでイエスは、ご自分のほんとうの姿を教えるために、弟子たちにこう予告なさいました、
「人の子(イエス)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている」(31節)
それを聞いて興奮したのが、またしてもペトロです。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(32節)と、聖書は語っています。
この「いさめ」にあたるギリシャ語(エピティマオー|ἐπιτιμάω)には、「叱りつける」「厳しく命じる」という、かなり強い意味があります。ペトロはまさに怒鳴りつけるようにして、イエスをいさめたのです、
主よ、死ぬなどとおっしゃってはなりません! それも、指導者たちに殺されるだなんて…。そんなこと、あってはならないことです!!
祭司長や律法学者は聖書を熟知し、メシアに関する知識も豊富でした。その宗教指導者たちに殺されてしまっては、イエスはメシアではないことになる、とペトロは考えたのです。
ペトロの態度は、一番弟子としても当然にように思えますが、イエスはとても厳しい言葉を返しておられます、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33節)。
ただ、ペトロがに取りつかれていることを指摘されたのではありません。また、ペトロの弟子的存在を全否定されたのでも、もちろんありません。イエスがお叱りになったのは、
悪魔神と人間の仲を引き裂く霊的存在。元は天使であったが、自ら神の位につこうと反乱を起こし、堕落して「この世の神」となった。サタン、ベリアル、ベルゼブルなど、多くの別名でも知られる。
心の中に「自分にとって都合のいいメシア像」があること
でした。繰り返しますが、イエスはイスラエルの王座につくべき“地上の王”ではありません。イエスがご自分の「死」を予告なさったのは、「十字架上のメシア」こそが正しいメシア像であることを明らかにするためだったのです。
真実のメシア=あなたのメシア
その後、弟子たちは同じ予告をもう2回聞くことになります。ところが、彼らは結局、イエスのほんとうの姿である「しょく罪のメシア」には従えませんでした…。
さて、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という質問に、「あなたは、メシアです」と答えることができますか?
聖書には、従っていくのはなかなか難しそうだ、と思えるような御言葉もあります。イエスの教えに従いきれないことを恥じて、「真実のメシア」を退けてしまうクリスチャンも珍しくありません。厳しい御言葉に耳を塞いで、自分の考えだけで行動してしまうのです。
イエス・キリストが十字架につけられたのは、ぼくたちのその弱さゆえです。
ぼくたちは神に認めていただけるほど強くもないし、正しくもありません。イエスはその弱さと罪を背負って、十字架の上で血を流してくださいました。ぼくたちの代わりに命をもって罪を償い、「3日の後に復活することになっている」の予告どおり、復活して天に昇られました。
このイエスを信じる人には、天に「永遠の住まい」が用意されます。イエスがそれを備え、ご自分があなたのメシアであることを示しながら、あなたの帰りを待っておられるのです。
ぜひイエスの招きに応え、「あなたは、メシアです」と告白してください!
遜の黙想
「あなたは、メシアです」と信仰告白をして、ぼくは洗礼を受けました。イエス・キリストに対するその告白は、もちろん変わることがありません。
でも、ふと気づくのです。ペトロたちが、イエスを独立の自由を勝ち取る「政治的メシア」としてあがめていたように、ぼくも、イエスをこの世での成功や安定を保証してくれる「偶像的メシア」として見上げていることを。
ぼくが欲望・悩み・不安に目を曇らせて、キリストの死の意味を曲解するとき、
*
主イエス・キリストの父である神様、あなたを偶像のカミと同じように見てしまうことをゆるしてください。御業の真実を悟らせ、あなたの書にぼくの名前が登録されていることを喜ばせてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
- Daniel Reche(Pixabay)
- Constantinople(パブリック・ドメイン|ウィキメディア・コモンズ)
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