遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】悪魔のアジトを踏み荒らす義侠・キリスト

 

ハエの王・ベルゼブル

Beelzebub(Image by Jiy~commonswiki

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

気味の悪い画像を載せてすみません。「ベルゼブル」とか「ベルゼバブ」とか「ベルゼブブ」とか、いろんな呼び方をされるこのハエが、今回の記事のキーワードなもので(>人<)

ベルゼブルは悪魔の代名詞になっていますが、実際の悪魔の姿は、ハエでもヤギでもコウモリでもありません。天使同様にぼくたちとそう変わらない姿で、しかも相当なイケメンらしいです。

目に見える姿でぼくたちの前に現れたら、きっとたくさんの人がその美貌と話術に引き込まれ、気づいたら心を奪われていることでしょう・・・。

 

久々の〈礼拝〉の記事となる今回は、先週3月13日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属しており、新興宗教の諸団体とは一切関係ありません。

 

2022年3月13日 受難節第2主日礼拝

2022年3月13日
受難節第2主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第18編2~7(新改訳1~6)節。要約すると、

「力の源である主を、わたしは慕う。わたしの神、主はとりでとなり盾となり、わたしを守られる。大岩となってわたしを隠し、角をもって敵を散らされる。
死の縄がわたしを捕らえ、死の網が張り巡らされ、滅びが勢いよく押し寄せる。苦難の中から主を呼び求めると、その叫び声は神殿に響いて御前に至り、ついにおんみみに届く」

という内容です。

 

牧師説教は「力くの救い」と題し、「マルコによる福音書」第3章20~27節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「あくれいの頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」

 

―「マルコによる福音書」第3章20~27節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

〈ベルゼブル論争〉で明らかになったイエスの救いの本気度

理解不能は絶対悪!?

今回のお話は、イエスがペトロ(ペテロ)をはじめとした十二弟子を選んだのち、拠点であったペトロの家へ帰って来られたところから始まります。

イエスはさまざまな場所で、救いの御言葉をべ伝えてこられました。人々はそのウワサを聞きつけ、病気の癒し・あくれいからの解放・御言葉などを求めて、イエスのもとへ殺到したのでした。

「一同は食事をする暇もないほどであった」という言葉から、イエスを頼って来た人がいかに大勢だったかがわかります。

 

その人々の中には、イエスの家族の姿もありました。イエスの母・マリアたちは、故郷・ナザレからイエスのおられるカペナウムまで、丸1日ほどかかる距離を歩いて来たのです。

ところがマリアたちの動機は、ほかの人々とはまったく違うものでした。身内であるイエスが元気に過ごしているか、様子を見るために遠路はるばるやって来たわけでもありません。

マリアたちの来意を、聖書は「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」と語っています。どういうことでしょうか?

 

イエスを慕う人々がいた一方、一部の人々は、イエスのことを「気が変になっている」と評しました。その言葉にあたるギリシャ語は、もともと「自分の存在の外に出る・われを失う」という意味です。

マリアたちはイエスの評判に、「あの子はもはや別人になってしまったのね。兄さんのことはもう理解できないよ。兄さんはぼくたちから離れてしまったんだ」と思ったのかもしれません。

しかも、その悪評を支持して「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い放ったのは、ユダヤ教の権威である律法学者たちでした。その言葉をマリアたちが真に受けても、なんら不思議ではありません。

身内の悪評というのは耐えがたいものですから、マリアたちはイエスを実家に連れ帰り、自分たちの知っているイエスを取り戻そうとしたのでしょう。

 

たしかに、イエスの行動は人々の理解の及ばない、常識とはかけ離れたものでした。

イエスは大工・ヨセフの養子としてお生まれになりましたが、一般的には、ヨセフは早世したとされています。今回の箇所に家長であるヨセフが登場しないことも、その裏づけになるでしょう。

ヨセフ亡きあと、一家の大黒柱はイエスでした。イエスには、長男として家族を養う義務があったはずなのです。ところが、イエスはその義務を放棄して、宣教の旅に出てしまわれました。

 

そのことは、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という律法学者の言葉に、より説得力を与える材料になりえたのです。

 

人の魂を奪い返すイエスの熱意

律法学者たちがイエスを悪しざまに評したのも、イエスが彼らの“権威ある宗教倫理”を逸脱していたからでした。人の罪を赦すと宣言する・の規定を破る・つみびとと食卓を囲む・・・。それらの行動は、とても模範的には見えなかったでしょう。

自分たちと異なる信仰スタイルを持つイエスを、律法学者たちは、神から離れていると断じました。その中傷に対して、イエスはあるたとえ話を語られます、

「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない」

どんな組織も仲間同士の結束がかたいと、内側に大きな力が生まれます。でも内部争いが起これば、組織として課題に取り組むことは難しいでしょう。それは、悪魔も同じです。

 

悪魔は、神とわたしたちの仲を引き裂く存在です。あくれいたちを手下として、わたしたちに罪を犯させよう・神から遠ざけようと誘惑します。

でも律法学者たちの言い分によれば、悪魔は自分で仕事を言いつけたはずの悪霊を妨害し、人間を神に近づけていることになります。そんなことはありえません!

 

イエスはまた、こうもたとえておられます、

「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない」

 

ここでは「強い人・強盗・家財道具」について語られていますが、それらの3つは、それぞれあるものを象徴しています。

まず「強い人」は、意外にも悪魔のことを指しています。そして「家財道具」は、悪魔に囚われてその支配を受けざるをえない人々。ということは、「強盗」がイエスご自身です。

強盗のようにわたしたちの心の中に押し入り、そこを占拠している悪魔を縛り上げ、わたしたちを悪魔の支配から解放するのが、イエスのお働きなのです!

 

ところで、このたとえ話はちょっとわかりにくいと思いませんか? なにも強盗という悪人にご自分をたとえなくても、もう少し比喩がありそうに思えますよね。

でももちろん、イエスは奇をてらわれたわけではありません。ご自分がだれなのかを、はっきり示そうとされたのです。それはどういうことか――

 

今回のお話は、イエスが家に帰って来られるところから始まりました。そしてその家で、「ベルゼブルに取りつかれている」との中傷があったのでした。

実は、ベルゼブルの名前には、「家を支配する者・家の主人」という意味があります。「ハエの王」と言われることもありますが、もともとはそういう意味なのです。

つまり、「家の主人」になぞらえた律法学者たちの暴言を逆手に取って、イエスはご自分の正体を宣言されたのでした、

 

「わたしは『ベルゼブル=主人』ではない。ベルゼブルの家に押し入る強盗だ!」

 

イエスは主人か強盗か?

イエスは今回のお話を通して、わたしたちに「あなたの主人はだれなのか?」と問いかけておられます。

もしあなたの主人がベルゼブルなら、イエスはあなたにとって強盗、つまり敵ということになります。でもイエスが主人なら、イエスはあなたを悪魔から助ける救い主となるのです。

 

律法学者たちはイエスをベルゼブル呼ばわりし、イエスを強盗と見なしました。そしてのちに、イエスを処刑するために逮捕するのです。そのときの様子を、聖書は次のように記録しています。

さて、イエスがまだ話しておられると、12人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。

・・・そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。」

 

―「マルコによる福音書」第14章43・48節(新共同訳)

イエスは悪魔を縛るはずが、逆に縛り上げられてしまいました。さらにその後、つみびととして裁判にかけられ、2人の強盗とともに十字架刑に処せられたのです。

 

イエスが有罪判決を受け入れたのは、わたしたちの罪の代償となられるためでした。わたしたちの神に対する罪は、神の子が縛られなければ、決して赦されないものなのです。

十字架上の身代わりの死によって、イエスはわたしたちを罪から解放してくださいました。これこそ、「力ずくの救い」と言えるでしょう。

力ずくとは「力によって無理やり事を運ぶ」という意味ですが、イエスはまさにそのようなやり方で、わたしたちを悪魔の支配から救ってくださったのです(个_个)ハレルヤ

 

やれることは全部やる救い主。それが、イエス・キリストです。

 

わたしたちを救うためにご自分の命を捨ててくださった方を、あなたはなんと呼びますか? 「気が変になった男」ですか? それとも、「あくれいに取りつかれた男」でしょうか?

そのどちらでもなく、「わたしの救い主」と呼びましょう。そして、あなたの主人として迎え入れるのです。イエスは「あなた」という家に帰って来て、必ずあなたを救ってくださいます。

 

遜の黙想

マリアたちは、力ずくでキリストを連れ戻そうとした。ぼくはその逆で、主人であるキリストを力ずくで追い出そうとする、もちろん無意識のうちに・・・。

キリストに従うということは、世間一般の常識からはずれて生きるということ。また、自分の欲望や思惑を捨てて生きるということ。つまり、「自分自身の主人」を辞任して生きるということ。

ぼくは辞めたはずの“主人職”に、いつの間にか復帰している。でも、締め出されたキリストは必ず帰って来て、戸口に立って扉をたたき、「一緒に食事をしよう」とぼくに呼びかける)。

イエスさま、あなたが力ずくで救ってくださった事実に心が震えます。あなたが主人でいてくださる恵みに安堵します。あなたのおられるべき場所が、ぼくたちの内で不動のものとなりますように。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

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