遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】悪魔のアジトを踏み荒らす男伊達・キリスト

 

ハエの王・ベルゼブル

Beelzebub(Image by ルイ・ル・ブルトン

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

気味悪い画像に、読むのをためらわれたかもしれません。ベルゼブル、ベルゼバブ、ベルゼブブなど、いろいろな呼び方をされるこのハエが、今回のキーワードなもので(>人<)

聖書には、天使・悪魔・あくれいといった、霊的存在が登場します。いずれも実在するもので、天使は神のメッセンジャー的役割を果たし、悪魔は多くの悪霊たちを手駒として、ぼくたちを神から引き離そうと暗躍しているのです。

ベルゼブルが悪魔の別名として知られているように、悪魔はハエやヤギなどの異形かつ醜悪な姿で描かれますが、それは象徴的描写に過ぎません。実際はぼくたちとそう変わらない姿で、一説では、かなりのイケメンなのだとか

 

今回は、先週3月13日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2022年3月13日受難節第2主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第18編2~7節1~6節)。

牧師説教は「力ずくの救い」と題し、「マルコによる福音書」第3章20~27節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「あくれいの頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。

27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

 

―「マルコによる福音書」第3章20~27節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

悪魔に取りつかれていると罵られたイエスの本気の救い

ひぼう中傷はイエスの自業自得!?

今回のお話は〈ベルゼブル論争〉と呼ばれ、イエスがを選んだのち、拠点にしていたペトロ(ペテロ)の家へ帰って来られたところから始まります。

イエスはさまざまな場所で、救いの御言葉をのべ伝えてこられました。そのウワサを聞きつけた人々が、病気の癒し、あくれいばらい、御言葉の教授などを求めて、イエスのもとへ殺到したのです。「一同は食事をする暇もないほどであった(20節)という記述から、その人数の多さがわかりますね。

 

そしてその人々の中に、イエスの家族の姿もありました。彼らは故郷・ナザレから、イエスのおられるカファルナウム(カペナウム)まで、なんと丸1日ほどかかる距離を歩いて来たのです!

参考地図

ところが聖書は、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た(21節a)と語っています。息子また兄であるイエスに、「お元気ですか?」と挨拶しに来たわけではないのです。どういうことでしょうか?

 

イエスを慕う人々が大勢いた一方、「あの男は気が変になっている(21節b)などと中傷する人々もいました。その原語(エクシステーミ)には、「われを失う」「自分の存在の外に出る」という意味があります。

そして、「あいつはわれを失って、自分がだれだかわからなくなってるんだ!」という悪評を支持して、「あの男はベルゼブルに取りつかれている(22節a)と言い放ったのは、律法学者たちでした。宗教的権威者のその言葉に、イエスの弟たちや母・マリアは、こう思ったのかもしれません、

 

 

兄さんはもう別人になってしまったんだ。早くウチに連れ帰って、元の兄さんに戻してやらなくちゃ!

 

元のイエス。それは、大工・ヨセフの家に長男として生まれたイエスです。通説では、ヨセフは早くに亡くなったとされています。イエスを迎えに、家長であるヨセフが来なかったことも、そのことの裏づけと言えるでしょう。

ヨセフ亡きあと、長男・イエスには、一家の大黒柱として家族を養う義務がありました。ところが、イエスはその義務を放棄して、宣教の旅に出かけてしまわれます(・_・)アニキ…

その行動は、人々の理解の及ばない、まったく非常識なものでした。だからこそ、律法学者が「あの男はベルゼブルに取りつかれている」ということに、イエスの家族や一部の人々は、より深く納得してしまったのでしょう。

 

悪魔の巣食う人の心

律法学者たちには、「権威ある宗教倫理」と自負するポリシーがありました。その倫理に、イエスのやることなすことは、ほとんど収まりませんでした。人の罪をゆるすと宣言する、の規定を破る、つみびとと一緒に食事をする

お世辞にも模範的とは言えない行為の数々に、律法学者たちはイエスを悪しざまに評価し、「あくれいの頭の力で悪霊を追い出している(22節b)とさえ断じました。そんな彼らに、イエスはあるたとえ話で応戦されます、

どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない(23~25節)

 

どんな組織でも、仲間同士の結束がかたいと、内部に大きな力が生まれます。逆に仲間割れが起これば、組織として課題に取り組むことは難しいでしょう。それは悪魔も同じだ、とイエスはおっしゃるのです。

悪魔は、神とぼくたちの仲を引き裂く存在です。悪霊たちを手下として、人間に罪を犯させよう、神から遠ざけようと働きかけます。それなのに、律法学者は真逆のことを言っています。

彼らの言い分に従うと、悪魔は自分で仕事を言いつけたはずの悪霊を妨害して、人間が神に救われるよう仕向けていることになるのです。そうだったらいいのにねぇσ^^;

 

イエスのたとえ話は続きます、

まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ(27節)

 

さて、ここで3つのキーワードが出てきました。それぞれが象徴するものを説明します。

  1. 強い人 悪魔
  2. 家財道具 悪魔の支配下にある人々
  3. 強盗 イエス

かなり意外な感じもしますが、イエスは強盗のようにぼくたちの心へ押し入り、そこをしている悪魔を縛り上げて、ぼくたちを自由にしてくださるのです!

 

ところで、このたとえ話はちょっとわかりにくいと思いませんか? そこで、このたとえ話をより深く理解するために、お話の冒頭に戻りましょう――

今回のお話は、イエスが「家」に帰って来られるところから始まりました。そしてその「家」で、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」との中傷があったのでした。

実は、ベルゼブルの語源となったヘブライ語(バアル・ゼブブ)は、「ハエの王」と訳されるのが普通ですが、もともとは「家の主人」を意味します。つまりイエスは、「家の主人」になぞらえた律法学者たちの暴言を逆手に取って、ご自分の正体を宣言されたのです、

 

 

先生がた、わたしは「ベルゼブル=主人」ではありませんよ。むしろ、その家に押し入る強盗です!

 

イエスは主人か強盗か?

律法学者たちはイエスのたとえ話を理解しなかったでしょうが、くしくもイエスを強盗と見なしました。彼らがイエスを逮捕したときのことを、聖書は次のように記録しています。

43さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。

48そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。

 

―「マルコによる福音書」第14章43・48節(新共同訳)

悪魔を縛るはずのイエスは、律法学者たちによって逆に縛り上げられてしまうのです。律法学者たちはイエスをつみびととして法廷に立たせ、イエスと一緒に2人の強盗を十字架につけたのでした(マコ15:27)

 

罪なきイエスは、ぼくたちの罪の代償となるためにこそ、有罪判決を受け入れられました。神に対するぼくたちの罪は、が縛られなければ、決してゆるされないものなのです。

ぼくたちの身代わりとして十字架につくことによって、イエスはぼくたちを罪から、悪魔の支配から解放してくださいました。これこそ、「力ずくの救い」と言えるでしょう(个_个)カンシャ!

 

やれることは全部やる救い主!!

 

それが、イエス・キリストです。このイエスを、あなたはなんと呼びますか?

「気が変になった男」でも「あくれいに取りつかれた男」でもなく、「わたしの救い主」と呼んでいただきたいと思います。そのとき、イエスは「あなた」という家に帰って来て、必ずあなたをってくださいます!

 

遜の黙想

自分が「悪魔=強い人」に支配されている「家財道具」だなどと、ぼくは知るよしもありませんでした。だから、「イエス・キリスト=強盗」が心に入って来られた当初、ぼくは強く抵抗しました。

それがいつの間にか、キリストのことばかり考えるようになっていたのです。キリストを知りながら彼と無関係で生きていくことに、“損失”に似た言い知れぬ感情を覚え、すでにキリストに心を盗まれていると気づいたのでした。

キリストはまさに力ずくで、ぼくの心を略奪なさいました。そのことは、決して“損失”ではありません。キリストが主人となってくださる人生は、その先に「神の国」という永遠の宝が保証されているからです。

イエス様、ぼくの主人となってくださり感謝します。この「家」があなたにとって住みよくなるように、過分なものを取り除き、不足なものを増し加え、ますますぼくを整えてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
参考資料
画像の出典(ウィキメディア・コモンズより)