ハレルヤ~! 安田遜です。
殴られたら痛い。それはその人が生きているから。死人を殴っても痛がらない。それはその人が“モノ”になったから。死んだ肉体は“モノ”にすぎず、もはやだれでもない。
そんなことを、いま読んでいる小説の登場人物が言っています。北方謙三著『水滸伝』の、
結構好きなキャラなんですが、人間は死んだら“モノ”になるっていうのは、さすがにサバサバしすぎだと思います^^; ところで、肉体の中に住んでいた魂については、安道全はどう思っていたのでしょう・・・?
若干重めの導入で始めた今回は、先週10月11日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
*
この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日礼拝
2020年10月11日
聖霊降臨節第20主日礼拝
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。
読上げ箇所は、「詩編」第65編2~5(新改訳1~4)節。要約すると、
「エルサレムにおられる神よ、沈黙してあなたを賛美し、感謝の
わたしの背きの罪をあなたは
という内容です。
牧師説教は「あなたが信じるために」と題し、「ヨハネによる福音書」第11章1~16節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
ベタニアの村にラザロという病人がいた。彼は、主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐったマリアと、その姉妹マルタの兄弟であった。姉妹たちはイエスに人をやり、「あなたの愛する者が病気です」と伝えさせた。
イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためであり、それによって神の子が栄光を受けるのである。」イエスは姉妹たちとラザロを愛しておられた。
ラザロの病気を知ってからも、イエスはなお2日間同じ所に滞在された。それからもう一度ユダヤに行こうとされたので、弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがあなたを殺そうとしたのに、また行かれるのですか。」
イエスはお答えになった。・・・「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く。」イエスは死について話されたのだが、弟子たちはただ眠りについて話されたものと思っていた。
そこでイエスははっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、トマスが仲間の弟子たちに言った。「わたしたちも行き、一緒に死のうではないか。」
―「ヨハネによる福音書」第11章1~16節(独自に要約)
友人・ラザロを見殺しにしたイエスの目的
神への信頼が裏切られる!?
イエスは多くの人々の病気を癒し、その噂を聞きつけた人々の願いを聞き届けてこられました。そのことによって神の恵みが明らかにされ、人々はイエスを通して神を讃美したのでした。
今回の箇所でも、愛する兄弟・ラザロを癒していただこうと、マリアがイエスに助けを求めています。ところがイエスは、その求めを無視するかのような態度を取られました。その場から動こうとされなかったのです・・・。
聖書は、イエスが「なお2日間同じ所に滞在された」と語っていますが、それはどうしてでしょうか?
まず、保身説が考えられます。ラザロの住むベタニアは、エルサレムから3㎞も離れていません。エルサレムと言えば、イエス殺害を企む人々の行き交う都ですから、イエスは危険を避けたいと思われたのかもしれません。
次に考えられるのは、勘違い説。イエスはラザロの病気を知らされると、「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃいました。イエスはラザロの病気をそれほど深刻に思われなかったのではないか、と読むこともできそうです。
――が、それらの推測とはまったく違う理由で、イエスは行動されなかったのです。
聖書を確認すると、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあり、直後に「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じ所に滞在された」と続きます。
実は、原典ではその2節の間に、「そして」や「したがって」にあたる接続詞が使われているのです。つまり、この箇所は次のように訳すことができます、
「イエスは、マルタとマリアとラザロを愛しておられた。
マリアたちは祈る思いでイエスにすがり、ラザロの癒しを期待したことでしょう。同じようにわたしたちも、病気や困難から救ってくださるように、神に祈り求めます。
それでも心配していた事態が起こってしまうことはありますが、それはイエスがわたしたちを愛してくださっているからこそなのだ、と聖書は語るのです。
「死んだら終わり」じゃない!
ラザロへの愛ゆえにベタニアへ行かれなかったイエスですが、結局、ラザロは病気に打ち勝つことなく死んでしまいました・・・。
そうなって初めて、イエスは「もう一度、ユダヤに行こう」と決意されます。
ここで注意するべきなのは、イエスの命の危険は去っていない、ということです。その危うさは、弟子・トマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とヤケクソになるほどでした。
身の危険を冒してまでラザロのもとへ向かわれたイエスですが、ラザロはもう死んでいます。なぜすぐ助けに行かれなかったのでしょうか? ――その理由を、イエスはこう語っておられます、
「神の栄光のためである」
イエスには、ラザロが死んでしまうことがわかっておられました。イエスは神の栄光を現すために、あえてラザロの死を待って行動を起こされたのです。
それはとてもひどいことに思えるし、わたしたちにはイエスの御心が理解できません。そうだとしても、イエスは肉体的な命を超えて、「永遠の命」を与えられる方です。
「死で終わるものではない」という言葉を思い出してください。それは「死んでも終わらない」という意味であり、「このわたしが死で終わらせはしない!」というイエスの力強い宣言でもあるのです。
その宣言を真剣に聴くとき、初めてイエスに信頼する心が芽生えてきます。また、死は永遠の命の中の一つの通過点にすぎない、ということがわかってくるのです!
十字架に生かされる命
このお話には続きがあり、イエスが命を与えてくださる方であることが、のちに示されます。ラザロは生き返るのです(≧∇≦)ハレルヤ!!
神を信じる人にとって、取返しのつかないことなどありません。
生きていれば大きな失敗をしてしまうことがあるでしょう。神は、それをも祝福に変えてくださいます。死もまた同じです。
死は、神を信じる人にとって終わりを意味しません。むしろ、この命が終わったあとにこそ、ほんとうの平安・喜び・救いが訪れるのです。
「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」イエスは弟子たちにそうおっしゃいました。
イエス・キリストを信じることが、死で終わらない者となる唯一の方法です。
イエスはわたしに代わって十字架の上で裁きを受け、わたしのために命を捨てられた。その十字架によって新しい命が与えられるのだと信じるなら、あなたはその瞬間から、永遠の命を生きはじめます。
ご自分が救い主であることを信じさせるために、死んで終わりではない命を与えるために、イエスはいまも、わたしたちに語りつづけておられるのです。
遜の黙想
死など怖くないと思っている。それは、こちらの都合とは関係なくやって来る死に、まだ出遭った経験がないからかもしれない。一方、日常のほんの小さな困難には、簡単につまずいてしまう。
絶対的勝者であるキリストを信じ、すでに勝利を約束された人生を歩んでいるはずなのに、その事実と必ず果たされる希望を見失ってしまうのだ。
この命が「死で終わるものではない」のなら、困難がぼくの人生にどんな影響を与えるだろうか? 死から救われて、困難から救われないことがあるだろうか?
*
愛する主イエスよ、どんな困難もあなたの愛の中で起こると知りました。感謝します。あなたの犠牲がぼくに命を与えていることを、もっと深く理解させてください。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)
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