ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは北方謙三さんの歴史小説をたまらなく好きで、その登場人物のひとりがこんなことを言っています、いま、おまえをぶつと痛い。それは生きている白勝という人間だからだ。死んでぶっても痛くはない。それは白勝でも人間でもなく、物だからさ
。
『
安道全は「神医」とあだ名されましたが、「物」と化した仲間たちをふたたび人間に戻すことはできませんでした。でも、まことの神イエス・キリストには、それが可能です!
今回は、先週10月11日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第65編2~5節(改1~4節)。
牧師説教は「あなたが信じるために」と題し、「ヨハネによる福音書」第11章1~16節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2彼は、主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐったマリアの兄弟であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやり、「あなたの愛する者が病気です」と言わせた。
4イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、姉妹たちとラザロを愛しておられた。6ラザロの病気を知ってからも、なお2日間同じ所に滞在された。
7それから、もう一度ユダヤに行こうとされたので、8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがあなたを殺そうとしたのに、また行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は12時間あるではないか。世の光を見ているので、昼のうちに歩けばつまずくことはない。10しかし、夜にはつまずく。その人の内に光がないからである。」
11こうお話しになった後、また言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのなら助かるでしょう」と言った。13イエスは死について話されたのだが、弟子たちはただ眠りについて話されたものと思っていた。
14そこでイエスははっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、トマスが仲間の弟子たちに言った。「わたしたちも行き、一緒に死のうではないか。」
親友・ラザロを見殺しにしたイエスの目的
苦難に遭うのは神に愛されているから!?
今回のお話は、ラザロという人物の病気が知らされるところから始まります。それまでも、イエスはたくさんの人の病気を治し、そのウワサを聞きつけた人々の願いを叶えてもこられました。そうすることによって、神の栄光が現されたのでした。
ところが、今回は違います。ラザロの姉妹・マルタとマリアが助けを求めたにもかかわらず、イエスはそれを無視するような態度を取られました。そのときおられた場所から動かず、「なお2日間同じ所に滞在された」のです(6節)。
イエスの不可解な行動の理由を推測するとしたら、ふたつ挙げることができるでしょう。
- 保身説 エルサレムの宗教指導者たちは、イエスの殺害をたくらんでいた※。ラザロの家はエルサレムからほど近いベタニアにあったため、イエスは身の危険を避けたいと思われた。
- 勘違い説 イエスはラザロの病気をそれほど深刻だと思われなかった。その証拠に、「この病気は死で終わるものではない」(4節a)と言っておられる。
遜註
イエスはご自分を「神の子」だと宣言したことから、神を冒とくする者として命を狙われました。また、宗教指導者たちの偽善的な態度を非難したことも、彼らの殺意をあおった一因です。
――が、それらは人間的な考えに過ぎません。イエスが行動されなかったのには、まったく違う理由がありました。
改めて聖書を確認すると、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じ所に滞在された」の直前に、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)と書かれています。
実は、ギリシャ語の原典では、それらの文章の間に、「そして」や「したがって」にあたる接続詞(ウーン|οὖν)が使われているのです。つまり、この箇所は次のように訳すことができます、
「イエスは、マルタとマリアとラザロを愛しておられた。
マルタたちは祈る思いでイエスにすがり、兄弟・ラザロの癒しを期待したことでしょう。同じようにぼくたちも、身体的・経済的・社会的な苦しみから救ってくださるよう、神に必死の祈りを捧げます。
それでも不安に思っていた出来事が起こってしまうのは、イエスがぼくたちを愛しておられるからこそなのだ、と聖書は語るのです。
死んだら終わり・・・じゃない!
試練は神の愛ゆえに与えられる、と学びました。では、ラザロは病気という試練に打ち勝ったのでしょうか? ――いいえ。イエスがのんびりしておられる間に、ラザロは死んでしまったのです…。
そうなってから初めて、イエスは「もう一度、ユダヤに行こう」(7節)と決意されます。
ここで、先述した「保身説」が崩れます。エルサレムのあるユダヤ地方が、イエスの命をつけ狙う人々の“庭”であることは変わりません。その危険は、弟子・トマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)とヤケクソになるほどでした。
また、「勘違い説」も論破してしまいましょう。イエスは神ですから、ラザロが死んでしまうことをご存じでした。ラザロの死を先刻承知のうえで、イエスはこうおっしゃったのです、
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)
つまり、あの2日間、イエスはラザロが死ぬのを待っておられた、ということです。神の栄光を現すために、また、ご自分がであることを証明するために…。そんな殺生なぁ(゜A゜)
神の子三位一体の神の第2位格で、子なる神イエス・キリストのこと。父なる神と同一の神性を持ちながら人となり、人間の罪をあがなうために十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった。
人の死を待って行動するなんて、とてもむごい仕打ちだと思います。ぼくたちには、イエスのその御心をどう理解すればいいかわかりません。ただ、イエスは肉体的な命を超えた「永遠の命」を与えてくださる方だ、ということは断言できます。
「死で終わるものではない」とは、イエス・キリストを信じる人の命は、肉体が死んでからも生きつづける、という意味です。その御言葉はまた、イエスの力強い宣言でもあると思います、
このおれが、おまえたちを「死」で終わらせはしない!
イエスに信頼する人にとって、死はひとつの通過点に過ぎません。ぼくたちは地上生涯の終わった先に、神とともに永遠に生きる、という確かな希望を見いだすことができるのです٩( 'ω' )و
すべての不幸を祝福につなげる十字架の力
今回のお話は、ラザロの死が語られるところで終わっていますが、もちろん続きがあります。イエスが「死で終わるものではない」とおっしゃったとおり、ラザロは生き返るのです!
43〔イエスは〕こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
―「ヨハネによる福音書」第11章43~44節(新共同訳)
イエス・キリストを信じる人には、取返しのつかないことなどありません!
生きていれば、だれでも大きな失敗をしてしまうことはあります。ぼくたちはそれを不幸や凶事だと捉えがちですが、神の御前では、祝福のための材料になるのです。死も、また同じです。
神を信じる人にとって、「死=終わり」ではありません。「クリスチャンに死を恐れる気持ちなど、みじんもない!」と言えばウソになるでしょうが、ほんとうの平安・喜び・救いは、神のみもとに召されてから与えられるのです。
イエスはおっしゃいました、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」(14~15節a)
イエス・キリストを信じる人は、死で終わることがありません。
いま、永遠の命を生きはじめるために、次のことを信じてください。イエスが十字架の上であなたに代わって神罰を受け、あなたの身代わりとして命を捨てられたこと。その十字架によって、あなたに新しい命が与えられること。
イエスは死から3日目に復活し、いまも天で生きておられます。命とは「死で終わるものではない」ことを、ご自身で証明されたのです。その復活の命をあなたにも与えようと、イエスはいまも、あなたに語りつづけておられます。
遜の黙想
もしぼくに「病気を癒す力」と「死者をよみがえらせる力」があって、大切な人が目の前で病苦にもだえていたら、迷わず病気を癒す力を使います。死ぬのを待ってからよみがえりの力を使おう、などとは思いもしません。
だから、〈ラザロの復活〉には、感情的に納得しきれない部分があります。ぼくがラザロの立場で、今回のお話を聞かされたら、「イエス様、神の栄光ということはわかります。でも…なんで一度ぼくを見殺しにしたんですか?」と真顔で詰め寄るに違いありません。
神は、そのように理解に苦しむことをなさいます。でも、決してお見捨てになりません。イエス・キリストは苦難にあるぼくを見、時が来れば、「さあ、彼のところへ行こう」(15節b)とぼくに臨み、最適な救いを与えてくださるのです。
*
イエス様、どんな困難もあなたの愛の中で起こると知りました。でも、あなたを見失ってしまいます。苦難のとき、信仰の薄いぼくをあわれんでください。祝福によって、あなたの臨在を知らせてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
- 北方謙三『水滸伝 一 曙光の章』(集英社文庫)