遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】イエス・キリストを知っていますか?

 

石をもてあそぶ手

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは「ポイ活」の一環で、ほぼ毎日ウェブアンケートに答えています。質問数などに応じて、「1ポイント=1円」のポイントを頂けるのです。たかが1ポイントですが、いやぁ、バカになりません!

アンケートでは、「○○を知っていますか?」という質問がよくあります。ぼくは結構まじめなので、どこまでを「知っている」と言えるのか、名前を知っているだけで「はい」を選んでいいものか、悩むことがあるのですw

さて、イエス・キリストは、「名前だけは知ってるけど、どんな人かはわからない」と言われる人物のひとりだと思います。実は、キリストと同じ時代に生きた人々も、その正体をよくわかっていませんでした。

 

今回は、先週10月4日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年10月4日聖霊降臨節第19主日礼拝

10月の第1日曜日であるこの日は、〈世界せいさん〉でもありました。この記念日について、牧師先生の解説を抜粋して引用します。

 

世界聖餐日は1930年代、アメリカの長老教会において始められたものです。戦争へと傾斜し対立する世界の中で、キリスト教会は一つであることを、世界中のキリスト者が主の食卓につき、共に聖餐にあずかることによって確認しました。

第二次大戦後、日本キリスト教団でも守られるようになり、『世界宣教の日』として定められました。世界宣教を共に担う、祈りと実践の日とすることが目的です。

この日の讃美歌として示されている曲は、讃美歌21の375番「賜物と歌を」と、同じく376番「人の知恵と言葉を超えて」です。2曲とも、復活された主イエスによって招かれた一つの群れが、パンと杯に与る恵みが歌われています。

興味深いのは、共に最後の節。聖餐の恵みに与ったものが伝道に派遣される、と歌われているのです。世界聖餐日は、まだ聖餐に与ることができない、まだ主イエスによる救いを知らない人たちを、教会という一つの群れに招き入れることを祈る日でもあると思うのです。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハ17:21)

 

聖餐とは、いわゆる〈最後のばんさん〉の席で、キリストが弟子たちにお命じになった儀式のこと。パンをキリストの体に、ワイン(ブドウジュース)をキリストの血になぞらえ、それを口にすることで十字架の死を記念します。

 

 

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第139編1~10節

牧師説教は「何を知り、何を悟るのか」と題し、「ヨハネによる福音書」第10章31~42節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

31ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。32すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」33ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神をぼうとくしたからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」

34そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。35神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。36それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。

37もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」39そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

40イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。41多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」42そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

―「ヨハネによる福音書」第10章31~42節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

イエスに石を投げつけるパリサイ人の“正義”の魔手

「自分の正しさ」を振りかざす間違い

の人々(パリサイびと)が、イエスを石打ちの刑にかけて殺害しようとするところから、今回のお話は始まります。パリサイ人がなぜそんなことをしたかというと、イエスがわたしと父(父なる神)とは一つである(ヨハ10:30)とおっしゃったからでした。

ユダヤ教では、生身の人間を神格化してあがめることは、絶対にありえません。まして田舎の大工の息子・イエスが“神宣言”をするなど、厳格なユダヤ教徒であるパリサイ人からすれば、とんでもない冒とくなのです。だから、イエスを死刑にしようとしたことは、ユダヤ人として当然だったと言えます。

 

でも、イエスはほんとうに「ただの人間」だったのでしょうか? イエスが「神の子」である証拠を、イエスご自身の実際の行動に見ることができます。

  • 死んだ人を生き返らせられた
  • 5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人々を満腹させられた
  • 目の不自由な人の目を見えるようにされた

イエスはほかにも多くの奇跡をパリサイ人の目の前で行ってみせ、また、余人には語ることのできない権威ある言葉で、人々の心を自然と引きつけられました。それでもパリサイ人は、イエスの神性を頑として認めようとしませんでした。

 

「イエス≠キリスト」とすることが、パリサイ人にとっての“正しい信仰”だったからです。

 

パリサイ人はその“正しさ”を大義名分として、イエスの処刑をたくらみました。そこでイエスは、彼らにこんな言葉をおかけになります、

あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない(34-35節)

 

これは「詩編」第82編からの引用です。そこで歌われているのは、神の委任を受けた裁判官たちの不正。裁判官たちは「神々」と呼ばれていますが、神へのたび重なる背信によって、裁きを受けることになります。

つまりイエスは、ご自分が神のもとから来られたことを論証しつつ、神々と呼ばれた裁判官たちをパリサイ人に当てはめて、「あなたたちはいま、神の裁きのもとに置かれているんだ!」と、暗に警告を含ませておられたわけです。

 

正しい目で見、そして知る

イエスは「人となられた神」であって、神格化された人間ではありません。そして、人となられた理由も、あがめられるためではありませんでした。「神の愛」を示すためにこそ、イエスはこの世に降って来られたのです。

 

事実、イエスはご自分を信じるように人々をお招きになったことはあっても、「おれを神としてあがめたてまつれ!」などと強要なさったことは、ただの一度もありませんでした。

 

ユダヤ人の中には、イエスの言動を見聞きして、イエスは神のもとから来られた方だと信じる人々もいました。その信仰を持つようにと、イエスはパリサイびとにも勧めておられます、

〔わたしが神の業を〕行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう(38節)

ここで、「知り」と「悟る」のふたつの言葉に注目してください。異なる動詞で翻訳されていますが、ギリシャ語の原典では、どちらも同じ動詞(ギノースコー|γινώσκω)で書かれているのです。そのことから、

 

信仰とは、イエス・キリストを知ったあとも、なお知りつづけることである

 

ということがわかります。また「ヨハネによる福音書」では、「信じる(ピステュオー|πιστεύω)」も「知る」と同じ意味で使われています。それでは、当時の人々は果たしてイエスをのでしょうか? ――その答えは、この福音書の冒頭に書かれています。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

―「ヨハネによる福音書」第1章5節(新共同訳)

残念ながら、「暗闇=この世」が「光=イエス」を知ることは、ついになかったのです

遜註

新改訳はこの部分を光は闇の中で輝いている。闇はこれに打ち勝たなかったと訳し、光であるイエスが闇に勝利なさったことを示しています。

 

さて、イエスはパリサイ人の魔の手から逃れて、ヨルダン川の向こう側へと渡って行かれます――

 

救い主イエス・キリストを知れ!

イエスが行かれたのは、ご自分の洗礼地でした。イエスに洗礼を授けたヨハネは、イエスを「神の子」また「神の小羊」と称え、イエスへの信仰を表明しました

イエスはご自分を「よき羊飼い」にたとえられましたが、ぼくたちの罪を清めるための生けにえとして捧げられた「小羊」でもあるのです。人間はみな罪の奴隷ですが、十字架の上で流された小羊・イエスの血によって、その呪縛から解放されます。

 

ヨルダン川の向こう側では、「多くの人がイエスを信じた(42節)と聖書は語ります。あなたは、イエスを信じるでしょうか?

イエスは、死の中の命です。

イエスは十字架につけられて死なれました。ところが、それから3日目に復活し、いまも天で生きておられるのです。このイエス・キリストを信じる人々に、神はこう約束しておられます、

 

 

あなたの中に、わたしはいる。わたしが、あなたとともにいる。

 

世の中の事柄や人間の思いは、すぐに、簡単に移り変わってしまいますが、神の言葉は不変です。「聖書が廃れることはありえない」とイエスがおっしゃったとおり、神が聖書を通して語られる真実は、決して変わりません!

ぜひイエス・キリストを知ってください。イエスを知り、信じたあと、その信仰が揺らいでしまうこともあるでしょう。でも、覚えておいてください。ぼくたちのためにひとり息子・イエスを捧げてくださった、神の愛は永遠に変わることがないのです

遜註

キリストを信じたあと、実際に信仰を捨ててしまうと、救いにあずかれなくなります。個人的見解ですが、それでも神の愛はその人に注がれ、ふたたび信仰に戻れるように働きつづけるのだと思います。

 

遜の黙想

ぼくがイエス・キリストを初めてのは、中学校の歴史の授業でだったでしょうか。それから約15年後、キリストが神であることを、やがてに至ったのでした。

もし「キリストを知っていますか?」というアンケートがあったら、ぼくは迷わず「はい」と答えますが、果たしてほんとうにそうなのか? 信仰とはキリストを知りつづけることだ、と牧師先生はおっしゃいます。

ぼくたちにご自分を知らせるために、神は聖書を与えてくださいました。でも、ぼくは聖書を読むのを忘れたり、面倒に思ったりすることもあります。それでも一度開くと、夢中で読みつづけてしまうのですから不思議です。それは、ご自分を悟らせ、さらなる信仰に招いてくださる神の愛が、ぼくの内に働くからだろうと思います。

慈愛の神様、あなたを知っていることを幸せに思います。あなたをもっと深く知りたいという思いをぼくに与え、御言葉に親しむ喜びを教えてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
  • 『聖書 新改訳2017』(新日本聖書刊行会)
参考資料
画像の出典(Pixabayより)