遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】刑死という悲報。中身を知れば吉報に変わる!

 

石をもてあそぶ手

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

秦王朝の始皇帝・えいせい、漢王朝の武帝・りゅうてつは、中国4000年と言われる歴史の中でも、「不老不死=永遠の命」を求めた英傑として有名ですよね。

死が怖かったというより、永遠に自分が支配者として君臨したい、という思いのほうが強かったと思いますけど、その欲望のせいで多くの人々が命を奪われました。

始皇帝も武帝もまことの神に救われていたらなぁ・・・、と切なく思います。でも、彼らが聖書の神を受け入れることはなかったでしょうね、自分が頂点でいたい人たちでしたから^^;

 

ようやく“遅ればせシリーズ”を脱却した今回は(笑)、先週10月4日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日礼拝

2020年10月4日
聖霊降臨節第19主日礼拝

10月の第1日曜日であるこの日は、世界聖餐日(せかいせいさんび)でもあります。この記念日について、例のごとく、牧師先生の解説を抜粋して引用します。

 

世界聖餐日は1930年代、アメリカの長老教会において始められたものです。戦争へと傾斜し対立する世界の中で、キリスト教会は一つであることを、世界中のキリスト者が主の食卓につき、共に聖餐にあずかることによって確認しました。

第二次大戦後、日本キリスト教団でも守られるようになり、『世界宣教の日』として定められました。世界宣教を共に担う、祈りと実践の日とすることが目的です。

この日の讃美歌として示されている曲は、讃美歌21の375番「賜物と歌を」と、同じく376番「人の知恵と言葉を超えて」です。2曲とも、復活された主イエスによって招かれた一つの群れが、パンと杯に与る恵みが歌われています。

興味深いのは、共に最後の節。聖餐の恵みに与ったものが伝道に派遣される、と歌われているのです。世界聖餐日は、まだ聖餐に与ることができない、まだ主イエスによる救いを知らない人たちを、教会という一つの群れに招き入れることを祈る日でもあると思うのです。

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります(ヨハネ17:21)

 

聖餐とは、俗に言う〈最後の晩餐〉で、イエスが弟子たちに命じた儀式のこと。パンをキリストの体に、ワインをキリストの血に比して、それを口にすることで十字架の死を記念します。

ところで、ぼくは聖餐未経験です。コロナ騒動の収束を待つ間、「初めての聖餐までに心を整える時間を、神さまが与えてくれてるんだ!」と思い定めて、じっと我慢しているところです・・・。

 

さて今回も、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、「詩編」第139編1~10節。要約すると、

「主よ、わたしのことごとくを知っておられる方。あなたはわたしの秘めた計画を悟り、語らぬさきからわたしの心の思いを知っておられる。その知識ははるか高く、とても到達できない。
どこに行けば、あなたから離れられるのだろう。天に登ればあなたがおり、に伏してもあなたはおられる。海のかなたに行こうとも、あなたはわたしをとらえていてくださる」

という内容です。ぼくたちが神さまを完全に理解することはありえませんが、神さまはぼくたちのわずかな心の変化さえも見逃しません。それは「監視」ではなく、「平安」なのです(*´ω`*)

 

牧師説教は「何を知り、何を悟るのか」と題し、「ヨハネによる福音書」第10章31~42節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」

ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神をぼうとくしたからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。

神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。

もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。

多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

―「ヨハネによる福音書」第10章31~42節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

イエスの命を狙うパリサイ人の“正義”の魔手

「自分こそ正しい」の間違い

ファリサイ派の人々(パリサイびと)がイエスを石打ちの刑で殺そうとしたのは、イエスが「わたしと父なる神は一つなのだ」と言われたからでした(ヨハネ10:30)

ユダヤ人にとって、生身の人間を神格化してあがめることは、絶対にありえません。田舎の大工であるイエスが“神宣言”をするなど、それはぼうとく以外の何物でもないのです。

ファリサイ派 ユダヤ教二大派閥の一つ。律法を厳しく守ることで人々の上に立っていた。名称はヘブライ語の「区別する」が由来とされ、律法を守りえない人々を差別的に扱った。

 

パリサイ人がイエスを冒瀆罪で死刑にしようとしたのは、ユダヤ人としては当然の態度だったと言えます。でも一方で、イエスがただの人間だとすると、どうしても説明のつかないこともありました。例えば、

  • 死んだ人を生き返らせた
  • 5つのパンで5000人以上の人々を満腹させた
  • 目の不自由な人の目を見えるようにした

などです。またイエスの言葉は、ほかの人にはない権威を帯び、多くの人々の心を自然と惹きつけました。それでも頑強に「人間≠神」をイエスに適用するのは、パリサイ人にとって“正しい信仰”だったのです。

 

パリサイ人は“正しい信仰”を振りかざしてイエスの処刑を企みましたが、イエスからこんな言葉を投げかけられています、

「あなたたちの律法に、永久不変の聖書に、『あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。御言葉をゆだねられた人々が、『神々』と呼ばれているのだ」

 

実は、これは「詩編」第82編の引用です。

そこでは、「神々=神の委任を受けた裁判官たち」の不正に満ちた姿が歌われています。そしてまた、神がその裁判官たちを裁かれることが歌われているのです。

つまりイエスは、「詩編」で歌われている裁判官をパリサイ人に見立て、彼らが神の裁きの対象となっていることを、暗にお示しになったわけです。

 

イエスを知り、キリストを信じる

イエスは「人間として地上に降りて来られた神」であって、「神格化された人間」ではありません。また、「人々にあがめられるため」にでなく、「神の愛を示すため」に来られたのです。

 

イエスが「わたしを神としてあがめ奉りなさい!」などと人々に強要したことは、ただの一度もありませんでした。

 

でも、ごく少数の人々は、イエスが神のもとからやって来られた方だと悟りました。その信仰を持つようにと、イエスはパリサイ人にも勧めておられます、

「わたしが神の業を行っていると認めるなら、わたし自身を信じなくても、わたしの業を信じなさい。そうすれば、神がわたしの中におられ、わたしが神の中にいることを知り、また悟るだろう」

さて、ここで「知る・悟る」という言葉が使われています。異なる動詞で訳されてはいますが、原語ではどちらも同じ動詞で書かれているのです。

 

そのことから、

信仰とは、イエスを知ったあとも知りつづけることである

ということがわかります。

 

「ヨハネによる福音書」では、「知る」は「信じる」と同じ意味で使われています。当時の人々は、果たしてイエスを知ったのでしょうか? その答えは、福音書の冒頭に書かれています。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

―「ヨハネによる福音書」第1章5節(新共同訳)

残念ながら、「この世=暗闇」が「イエス=光」を理解することはありませんでした。

 

ご自分の命を狙う人々から逃れて、イエスは洗礼を受けた地である、ヨルダン川の向う側へ渡って行かれます・・・。

 

永久不変の約束を待ち望んで

洗礼者・ヨハネは、イエスを「神の子」、また「世の罪を取り除く神の小羊」とほめ称え、イエスへの信仰を証ししました(ヨハネ1:29・34)

ご自分を「よき羊飼い」にたとえられたイエスは、血を流してほふられるべき「小羊」でもあるのです。罪の奴隷であるわたしたちは、十字架の上で流されたイエスの血によって救われました。

 

ヨルダン川の向う側では多くの人々がイエスを信じましたが、現代のわたしたちにとって大切なことはただ一つ、奇跡を告げる聖書を信じるかどうかです。

イエスは死の中の命だと知ってください。そう信じつづけて、命を与えられた喜びの中を生きてください。イエスを信じる人々への神の約束を、聖書はこう語っています、

 

あなたの中に神がおられる。

神が、あなたとともにいてくださる。

 

世の中の事柄はすぐに変わり、わたしたちの思いも簡単にブレてしまいます。でも、聖書の告げる真実は、決して変わることがありません!

イエスを知ったあと、たとえその信仰がブレたとしても、わたしたちのために独り子・イエスを犠牲にしてくださった神の愛は、永遠に変わることがないのです。

 

遜の黙想

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)

日常をなんとなく生きていると、あらゆる雑事に心を奪われて、神の約束を忘れてしまうことがよくある。もっと言うと、神その方さえ忘れてしまうのである。

熱くもなく冷たくもない、生ぬるい信仰を持つぼくだけれど、それでも神は、永遠の始まりから変わらない愛で、ぼくを抱き寄せてくださる。その御胸に耳を当てて、ぼくは神を知りたい。

慈愛の神さま、決して変わることのない愛を、ぼくに向けてくださり感謝します。あなたの約束を忘れ、あなたをも後ろに置いてしまうぼくに、あなたを知りつづける心を与えてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)