ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは『ホーム・アローン』という映画が大好きで、特にクリスマスシーズンには必ず観たくなります。5人きょうだいの末っ子・ケビンが、ひょんなことから家族に置いてけぼりを食らい、留守居の家で空き巣犯を撃退するというコメディー。
2作目では、ケビンは置去りをまぬかれたと思いきや、空港で家族とはぐれ、結局ひとりぼっちになってしまいます…。直前まで一緒にいたお父さんは、飛行機に乗り遅れるのを心配して、ケビンを気にかけていなかったのです。
イエス・キリストは、ケビンの父親のようにぼくたちを迷子にさせることはありません。ぼくたちひとりひとりの名前を呼び、はぐれることのないように導いてくださるからです!
今回は、先週9月27日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第103編14~22節。
牧師説教は「わたしはあなたを知っている」と題し、「ヨハネによる福音書」第10章22~30節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」
―「ヨハネによる福音書」第10章22~30節(新共同訳)
イエスの声に聞き従う羊について力説する神の独り子
将来のことよりも「いまここ」が大切?
今回のお話は、神殿奉献記念祭(宮きよめの祭り)での出来事です。神殿奉献記念祭とは、神を自称する異国の王からエルサレム神殿を奪還した偉業を記念するもので、ユダヤ人の民族意識が最高潮に達する祭りのひとつでした。
その大切な祭りの最中、ユダヤ人はイエスに詰め寄りました、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)。
そんなことを言われるまでもなく、イエスはご自分がメシア(救い主/キリスト)だと明言しておられたし、数々の奇跡によってそのことを示してもこられました。ユダヤ人が、ただ信じようとしなかっただけなのです。それはなぜか?
――イエスの言動が、彼らの思うメシアの概念や理想とかけ離れていたからです。
ユダヤ人の思い描くメシアとは、異民族から神殿を奪い返した英雄ユダ・マカバイのような「政治的メシア」でした。ローマ帝国からの独立、つまり「ユダヤ国家建国」という望みを、ユダヤ人はメシアに託していたのです。
ところが、実際のメシアは独立など視野にありません。イエスは「しょく罪のメシア」として、いつかは滅ぶ地上の国をではなく、いつまでもなくならない「永遠の命」を求めるように説かれました。そのようなメシアは、お呼びでなかったわけです。
とは言え、ユダヤ人も永遠の命を望んでいたのは確かなことでしょう。でも、ローマ人に抑圧されながらの信仰生活から抜け出すことのほうが、より緊急性の高い問題だったのです。
目先の問題に囚われて、ほんとうに追い求めるべき大切なことを見失ってしまう。
それは、現代日本を生きるぼくたちも同じではないでしょうか?
ぼくたちは必ず死に、その先には死後の世界があります。多くの人はたとえ漠然とでもそのことに興味があり、でも、たったいま目の前で起こっていることにばかり関心を向けてしまいます。「いつ起こるかもわからない未来のことより、いまこの瞬間のほうが大事なんだ!」と考えてしまうのです。
その考え方には確かに説得力がありそうですが、ほんとうに正しいのかどうか、いま一度吟味が必要だと思います。
ぼくたちは自分自身に正義を見いだしたがる
ユダヤ人がかたくなにイエスを拒否したのは、自分たちの抱くメシア像こそが正しい、と信じて疑わなかったからです。その態度は、「救い」に関しても同じでした。
ユダヤ人、特にの人々(パリサイ
でも、イエスの語られた真理は、“他力本願型の救い”。人は神の一方的な恵みと、イエス・キリストへの信仰によって救われるのであって、自分の努力はなんの役にも立ちません。そのことを理解しないパリサイ人を、イエスはしばしば叱責されましたが、彼らは逆上するばかりでした、
ファリサイ派ユダヤ教二大派閥のひとつ。律法を厳しく守ることで人々の上に立っていた。名称はヘブライ語「ペルシーム(分離する者)」が由来とされ、律法を守れない人々を差別的に扱った。
律法からはずれないわたしたちこそ、まっ先に救われるべき人間だ。そのわたしたちを否定するとは、あのイエスとかいう大工が、メシアであるはずがない!
パリサイ人はなんとかイエスを黙らせようと、言葉尻を捉えるために、意地悪な質問を投げかけることもありました。でも、イエスの回答に、逆に沈黙させられてしまうのでした。
イエスの御言葉が、どこまでも正しかったからです。
ところがパリサイ人は、素直に自分たちのあやまちを認めることはせず、むしろそのあやまちを正当化しようとさえしました。そういうことは、ついぼくたちもしてしまいますね。
そして正当化できないとわかると、今度は“逆ギレ”を始めるのです。イエスを十字架送りにしたことは、ユダヤ人の“究極の逆ギレ”と言えるでしょう。
聴けば御声あり、伸ばせば御手あり!
パリサイ
この「ヨハネによる福音書」第10章は、〈羊の囲い〉というたとえ話から始まり、イエスが「羊飼い」に、イエスを信じる人々が「羊」にたとえられています。
〈羊の囲いのたとえ〉に関する記事はコチラ
イエスはまた、ご自分を信じる人々、つまりクリスチャンについては、こう言っておられます、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(27節a)。
正直、「おっしゃるとおり、聞き分けられます!」と答えるには、なかなか勇気がいると思います。というのも、イエスの御言葉は主旨がわかりにくかったり、あまりに厳しくて耳を塞ぎたくなったりするからです。
でも、だれがどう思おうが、「聞き分ける」とイエスは断言しておられます。そして、その根拠を「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(27節b)と言い、別の箇所でも次のように語られました。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
―「ヨハネによる福音書」第10章14節(新共同訳)
ただ信仰だけが、ぼくたちにイエスの声を聞き分けさせるのではありません。イエスご自身が、ぼくたちひとりひとりを知っていてくださる。そのことこそが、正しい声を認識できる最大の理由なのです!
ぼくたちはイエスの御言葉を完全には理解できないし、そうする必要もないのかもしれません。イエスの御言葉を心で聴き、信じる人の手を、イエスが確実に握ってくださるからです。イエスはおっしゃいます、
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)
そう真剣におっしゃる方が、あなたの救い主です。このイエスがぼくたちひとりひとりの罪を背負い、十字架につけられ、身代わりとして神の裁きを受けてくださいました。イエスの声も手も、あなたの近くにあるのです。
ある神学者はこう言いました、
信仰とは、わたしたちが神の手を握ることではありません。神が、わたしたちの手をつかんでくださることです。
親が子どもの手をつかんでいれば、子どもが迷子になることはありません。ぼくたちのほんとうの平和は、「まことの親」である神が、手をつないでいてくださる人生の中にこそあります。
神は、イエスは、あなたのことを知っておられます。そして、あなたに呼びかけておられます。どうかイエスの語られる御言葉を受け入れて、神とともに生きる人生を歩みはじめてください。
遜の黙想
イエス・キリストが、このぼくのことをご存じである。そんなことをノンクリスチャンのときに言われても、たぶん、キリストになんの関心も持たなかったと思います、たんなる勧誘の決まり文句だと思うだけで。
神はぼくをご存じで、ぼくはキリストの羊だったのだと知ったのは、キリストを信じる決心をしたころでした。それまで信じようとしていた日本のカミとは違い、なんと神であるキリストご自身が、そのことを示してくださったのです!
『ホーム・アローン』のケビンは、たったひとりで悪党に立ち向かう図太さを持っています。ぼくにそんな根性はありません。いつかひとりで生きていかねばならない人生が、キリストによって大転換しました。ぼくが人生に迷って天涯孤独になることは、決してないのです。
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主イエスよ、あなたが知っていてくださることは、なんと心強いことでしょうか。あなたの声を聞き逃さないように、また、握られている手を離さないように助けてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)