遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】憂き世の森の導く声と羊飼いの手

 

羊飼いの後ろを歩く羊の群れ

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは18歳くらいのころから、生活力のたくましい人に憧れています。道なきところに道をつくるというか、わが道を切り拓くっていうんですかね。そんな人になりたいなぁって、ずっと思ってきました。

でも現実のぼくは正反対で、なんとなく受動的。主体性がないわけじゃないと思うんですが、「自分の人生をこう生きよう!」っていう強い志向がないんですσ(._.)

キリストを信じてから「神さまのために生きよう!」と決意はしたものの、どこか受け身な自分とは決別しきれず・・・。もうビジョンが見えてくるまで、神さまに導かれるまま生きるだけですw

 

さて、“遅ればせシリーズ”第3回の今日は、先週9月27日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日礼拝

2020年9月27日
聖霊降臨節第18主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第103編14~22節。要約すると、

「野の花は風に吹かれればたちまち消えうせ、やがてその存在も忘れ去られる。人の生涯も同じだ。主は、人がそのようなちりにすぎないことを御心に留めておられる。
だから、主はとこしえに慈しまれる、主を畏れる人を、主の契約を守る人を、御心に忠実な人を。主はすべてを統治される王。天使たちよ、すべての被造物よ、主をたたえよ。わたしも心から主をたたえよう」

という内容です。

 

牧師説教は「わたしはあなたを知っている」と題し、「ヨハネによる福音書」第10章22~30節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 

―「ヨハネによる福音書」第10章22~30節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

神の子の声に聞き従う羊についてのイエスの力説

盲目的で近視眼的なわたしたち

ユダヤは、シリアの支配下に置かれた時代がありました。シリアの王は「神」を自称し、独自の信仰を保つユダヤ人を迫害、苛烈な同化政策を推し進めます。

ユダヤ人は指導者・マカバイのもとに抵抗運動を繰り広げ、ついに異教の神・ゼウスに乗っ取られていたエルサレム神殿を奪い返しました。

ゼウス像は破壊され、神殿はふたたび「まことの神」に捧げられたのでした。その出来事を祝うのが、神殿奉献記念祭(宮清めの祭り)です。

 

ユダヤ人の民族意識が最高潮に達するその祭りで、人々はイエスに「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰め寄りました。

イエスは言われるまでもなく、ご自分がメシア(救い主)であると言ってこられたし、また奇跡によってそれを示してもこられました。ただユダヤ人たちが信じなかっただけなのです。

なぜ信じなかったかと言うと、ユダヤ人の理想のメシア像と実際のイエスの振舞いが、あまりにもかけ離れていたからでした。

 

ローマ帝国に支配されていた、当時のユダヤ人の望みはずばり、独立国家の建国です。だから、王国再建を導くマカバイのような「政治的メシア」が待望されていました。

ところがイエスは、独立など視野にありません。イエスは「しょくざいのメシア」として、永遠の命を求めるように説かれました。そのようなメシアはユダヤ人にとって、まったく無価値だったわけです。

もちろん、ユダヤ人も心の底では永遠の命を望んでいました。でも、ローマの被支配層として抑圧された信仰生活を送る日々から抜け出すことのほうが、より緊急の問題だったのです。

 

目先の問題に囚われて、ほんとうに追い求めるべき大切なことが見えなくなってしまう。それは、わたしたちも同じではないでしょうか?

 

真理を覆い隠すキャンセル・カルチャー

現代の日本人、特に若い世代の人々は、宗教に関心を持たなくなってきました。初詣やお墓参りはするでしょうが、それらも単なる“イベント”として捉えていると思います。

死後の魂のことに興味がないわけではないでしょう。いつ起こるかわからない将来のことよりも、眼前で起こっている現在のことのほうが大切だ、と考えているだけなのです。

でもその態度が、聞くべき言葉を聞かず、自分の考え方に反する物事を受け入れない、頑固さを生み出してしまいます。

 

「自分の考えてることが正しい!」と、わたしたちはそう思いたいのです。

 

ユダヤ人に限って言えば、ファリサイ派の人々(パリサイびと)がそうでした。パリサイ人はいわゆる“自力本願型”で、神の律法を厳しく守ることで天国行きの保証を得ようとしました。

一方、イエスの語られた救いは“他力本願型”。天国行きは神の一方的な恵みと、イエスを救い主だと信じる信仰によるのであって、自分の努力でつかみ取るものではありません。

「まっ先に救われるべきわれわれを否定するとは、あのイエスとかいう大工がメシアであるはずがなかろう!」それがパリサイ人の下した、イエスへの評価でした。

 

パリサイ人はイエスの言葉尻を捉えて逮捕する口実にしようと、たびたびイエスに意地悪な質問を投げかけましたが、その回答に対して一切反論できませんでした。

イエスの言葉が、どこまでも正しかったからです。

ところがパリサイ人は、素直に自分たちの間違いを認めることをせず、その間違いさえも正当化しようとしました。そういうことは、わたしたち自身にも経験があるはずです。

そして正当化できないとわかると、今度は逆ギレを始めるのです。イエスを十字架送りにしたことは、パリサイ人の“究極の逆ギレ”と言えるでしょう。

 

迷える小羊たち、神の国に入れ!

「ヨハネによる福音書」第10章では、イエスが「羊飼い」に、イエスを信じるクリスチャンが「羊」にたとえられています。

そして、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と、イエスは語っておられます。イエスを信じる人は、正しい声を聞き分けられるのだと。ほんとうにそうでしょうか・・・?

イエスの言葉は主旨を捉えにくかったり、あまりに厳しすぎて聞いていられなかったりします。だから、自信を持って「おっしゃるとおり、聞き分けられます!」と言うのには、なかなか勇気がいりそうです。

 

わたしたちがどう思おうと、イエスは「聞き分ける」と断言されます。その根拠を、イエスは別の箇所で語っておられます。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

 

―「ヨハネによる福音書」第10章14節(新共同訳)

イエスへの信仰だけが、わたしたちに聞く耳を持たせるのではありません。イエスご自身がわたしたち一人ひとりを知っていてくださるからこそ、わたしたちも正しい声を認識できるのです!

 

イエスはすべての人の罪を背負って十字架にかかり、すべての人の身代わりとして裁きを受けてくださいました。その方が真剣にこうおっしゃいます、

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」

イエスの言葉の意味を理解できなくてもいいのです。その言葉を心で聴いて信じる人の手を、イエスは絶対に離さずに握っていてくださいます。

 

ある神学者が、「信仰とはわたしたちが神の手を握ることでなく、神がわたしたちの手をつかんでくださることだ」と言いました。

親が子どもの手をつかんでいれば、子どもが迷子になることはありません。神は、わたしたちの「まことの親」です。わたしたちのほんとうの平安は、神が手をつないでいてくださる人生の中にこそあります。

神の、イエスの、あなたに呼びかける声を聞いてください。あなたに語られる御言葉を受け入れて、神の手を感じてください。そのときから、喜びに満ちた人生を、神とともに歩むことになるのです。

 

遜の黙想

自分で自分がわからなくなることがある。自分の一貫性のなさに焦るあまり、さまざまな人の意見を参考にし、かえって自分の根っこを失うことがある。

ぼくは人間だから、同じ人間としての生活を営んでいる人々の声が、もっとも重要なもののように思える。でも、人間として生きた経験のある唯一の神、イエス・キリストの声がぼくの心を響かせる。

キリストの声は、さまようぼくの目を覚ましてくれた。ぼくは手にキリストの温もりを感じながら、まっすぐに伸びる一本道を歩いている。やがて、ぼくは永遠の御国へたどり着くだろう。

主よ、あなたがぼく以上にぼくを知っておられることを、ほんとうに心強く思います。あなたを必要としている人の上に、あなたの手はすでに差し出されています。そのことを大胆に証しできるように助けてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)

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