遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】耳をすませば、進むべき道の先から声が聞こえる

 

牧場の囲いの中にいる羊

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは映画〈ホーム・アローン〉が大好きなんですが、冷静に考えると、「なんで子ども忘れるかなぁ、親?」っていう話ですよね、いくら大家族といえどもw

2作目では、主人公・ケビンが空港で家族とはぐれてしまいます。ケビンはお父さんの後ろを歩いていたつもりだったけど、その人はお父さんと同じ服を着た別人だった、っていう導入。

お父さんが飛行機に乗り遅れることばっかり気にして、子どもを顧みていなかったことが迷子の原因です。お父さんが息子の名前を呼びつづけていれば、ケビンは迷子にならなくて済んだかもしれません。

 

今回はまた遅ればせながら(この先もしばらく遅れます・・・)、先々週9月20日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝

2020年9月20日
聖霊降臨節第17主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第23編1~6節。要約すると、

「主は羊飼い。主はわたしにすべてを与え、緑豊かな野原に憩わせて水辺に伴い、魂を生き返らせてくださる。主は正しい道に導いてくださる。
死の陰の谷を行くときも、わたしは恐れない。あなたが共にいてわたしを励まし、強く支えてくださるから。敵を前にしても、あなたが食卓でわたしを待っていてくださる。主の家にわたしは帰り、いつまでもそこで暮らすだろう」

という内容です。

 

牧師説教は「主の声を聞き分ける」と題し、「ヨハネによる福音書」第10章1~6節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。

門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 

―「ヨハネによる福音書」第10章1~6節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

パリサイ人を論難する善き羊飼い・イエス

迷える小羊を導く声

今回のお話は、第9章の続きです。第9章では、奇跡を起こしたイエスと、その事実を揉み消したいの人々(パリサイびと)の“対決”が描き出されています。

イエスの起こした奇跡とは、生まれつき目の不自由な人の目を見えるようにした、というもの。癒された盲人は、イエスを「神のもとから来られた方」と評したことでパリサイ人の不興を買い、ユダヤの会堂を追放されてしまったのでした。

こうしてユダヤ社会の「中にいる者」と「外にいる者」という構図ができ上がり、イエスはそれをもとに、今回の〈羊の囲いのたとえ〉を語られたわけです。

 

そのたとえ話の中には、「連れ出す」という言葉が2回使われています。ただ実は、原典のギリシャ語ではそれぞれ異なる意味を持っているのです。

まず、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」

この「連れ出す」は、「中から外へ導き出す」という意味です。盲人がイエスに癒されて信仰を持ち、ユダヤ社会の内側から外側へ追放されたことを指しています。

次に、直後の「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」を見てみましょう。

この「連れ出す」は、「外へ追い出す」という意味。盲人はすでにユダヤ社会を追われているはずですが、その彼をさらに外へ追い出す・・・。いったいどういうことでしょうか?

 

ユダヤ社会を牛耳るパリサイ人には、律法を厳守している自分たちこそ救われる、という自負がありました。でも、それは神の御心を無視した、とても自己満足的な態度でした。

イエスはその的はずれな信仰共同体から盲人を導き出し、さらに外側にある正しい信仰共同体へとお導きになりました。その共同体とは、のちの教会に通じる「新しい神の家」です。

 

そして、今回の箇所で特に強調されているのは、

「盲人=羊」が「イエス=羊飼い」の声をきちんと聞き分けた

ということです!

 

ハブられるんじゃない! 救われるんだ!

当時のユダヤでは、病気にかかるのはその人が罪を犯したからだ、と考えられていました。生まれつき目の不自由だった盲人は、そもそも救いにあずかりえない存在と見なされていたのです。

ところが、自他ともに“神に見捨てられた者”と認める盲人が、イエス・キリストによって救われました、あなたは人の子(イエスのこと)を信じるか(ヨハネ9:35b)という呼びかけによって。

前のセクションの繰返しになりますが、イエスがご自分の飼う羊として盲人をお呼びになり、盲人は自分のあるじである羊飼いとしてイエスに応答したのでした。

 

イエス・キリストを信じる人々は“世の囲い”を離れ、教会という“羊の囲い”へと入って行きます。それは、イエスご自身が彼ら一人ひとりの名前を呼び、ご自分の羊として招いてくださるからです。

教会に集まる人々を、世間の人々は「外にいる者」だと思うでしょう。イエスを信じると、一般的な常識や感覚に合わない価値観で生きるようになります。そういう意味では、クリスチャンというのは、たしかに「外にいる者」なのです。

 

でも、ただ外にいるだけではありません。

イエス・キリストを信じる人々は、「救い」に入っているのです!!

 

“世の囲い”では、大多数の人々が自分の欲望や他人の誘惑の声を聞き、それに従って生きています。一方、“羊の囲い”で生きる人々について、イエスはこう語っておられます。

はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

 

―「ヨハネによる福音書」第5章25節(新共同訳)

神の子、つまりイエスの声を聞くかどうかで、わたしたちの生死は分かれます。イエスの声を聞くならば罪から救われ、「永遠の命」という新しい始まりを、いま生きている命の先に約束されるのです!

 

イエスの声と御言葉に導かれて

わたしたちをほんとうの意味で養ってくれるのは、イエスの御言葉です。イエスの声と御言葉には、「復活への希望」が満ちみちているからです。

イエスは声で呼びかけ、御言葉を語ってくださいます。

そのことを信じて疑わず、イエスの御言葉に耳を傾けるとき、わたしたちに生きる力が与えられます。そしてさらに、自分の進むべき道が見えてくるでしょう。

 

“世の囲い”には誘惑が多く、語りかけてくる声もさまざまです。そんな雑音に満ちた中でも、あなたの名前を呼んでくださる羊飼いの声は聞こえるはずです。

どうかそれを聞き分けてください。その声の語る御言葉に従い、あなたに定められた道を安心して歩んでいきましょう!

 

遜の黙想

キリストがいま、ぼくの中に住んでくれている。そしてぼくの名前を呼び、「遜、おまえの行く道はこっちだ!」と声をかけつづけてくれる。

その声を聞かせまいとするように、誘惑の声があらゆる方向から響いてくる。羊飼いの呼ぶ声がまだ聞こえているうちに、ぼくは“羊の囲い”の柵を自ら飛び越える・・・。

罪の発する、毒々しくも甘い濃厚な香りを楽しみながら、羊飼いの声が近づいてくるのに気づく。キリストが、ぼくを捜している。まだ、ぼくの名前を呼んでいる。

主よ、あなたの呼ぶ声を聞くとき、ぼくはうれしさと幸せでいっぱいになります、ハチミツをなめる子どものように。あなたの甘美な御言葉を、たくさんの人に届けられるように導いてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)