ハレルヤ~! 安田遜です。
人間に必要なものはそんなに多くない、というのがぼくの持論で、勝手に「商売上手は洗脳上手」なんて言葉をつくりましたw とは言え、特に資本主義社会でミニマリストが増えては困ります。経済が成長せず、国力も衰退してしまいますから。
そこで商売人は、自分の商品を売れやすくするために、「わたしにはこれが必要だ!」と消費者に思い込ませねばなりません。人気の有名人やキャッチーなフレーズを使って、世間の感情を揺さぶるのです。
日常にあふれるたくさんの声は、ぼくたちが意識して遮断しないかぎり、真夏の紫外線のように注がれつづけます。実は、それらの声に交じってイエス・キリストも語っておられる、というのが今日のテーマです!
今回は、先々週9月20日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第23編1~6節。
牧師説教は「主の声を聞き分ける」と題し、「ヨハネによる福音書」第10章1~6節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2門から入る者が羊飼いである。
3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
―「ヨハネによる福音書」第10章1~6節(新共同訳)
パリサイ人の“迷える信仰”から小羊を連れ出すよき羊飼い・イエス
新しい信仰へと導く声
今回のお話は第9章の続きで、〈羊の囲いのたとえ〉と呼ばれています。第9章で描かれているのは、ある奇跡を起こしたイエスと、その事実をもみ消したいの人々(パリサイ
イエスは、生まれつき目の見えない人(この記事では便宜上、シモンと呼びます)の目を見えるようにされたのでした。シモンは、イエスを神のもとから来られた
(ヨハ9:33)と明言したことでパリサイ人の不興を買い、ユダヤの会堂を追放されてしまったのです。
こうして、ユダヤ社会の構図が浮彫りになりました。社会の「中にいる者」と「外にいる者」という構図です。それを「羊の囲い」にたとえて、イエスは話しはじめられます。
ファリサイ派ユダヤ教二大派閥のひとつ。律法を厳しく守ることで人々の上に立っていた。名称はヘブライ語「ペルシーム(分離する者)」が由来とされ、律法を守れない人々を差別的に扱った。
まず注目したいのは、以下の御言葉です。
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」(3節b~4節a)
ここでは「連れ出す」が2回使われています。実は、ギリシャ語の原典では、それぞれ異なる意味の言葉で書かれているのです。ちょっとアカデミックな話になりますが、ひとつずつ見ていきましょう(σ〇-〇)
3節の「連れ出す」の原語(エクサゴー|ἐξάγω)は、「中から外へ導き出す」という意味。第9章の内容に当てはめると、シモンがイエスに癒されて信仰を持ち、ユダヤ社会の外へと導き出されたことを指しています。
次に、4節の「連れ出す」。この原語(エクバロー|ἐκβάλλω)は、「外へ追い出す」という意味です。つまり一連の流れを直訳すると、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで導き出す。自分の羊をすべて追い出すと…」となります。
さて、先述のとおり、シモンはすでにユダヤの会堂から追い出されて(=導き出されて)いるはずです。その彼をさらに外へ追い出す、とはどういうことでしょうか?
――それは、「的はずれな信仰共同体」から徹底的に追い出す、ということです。
ユダヤ社会で権威を振るうパリサイ人には、「律法をきちんと守っているわたしたちこそ、間違いなく救われるのだ!」という自負がありました。でも神の御心は、人間が努力によって救われることではありません。
イエスの目的は、神を無視した自己満足の信仰から人を導き出すこと、そして、神の恵みによる救いに感謝を捧げる「まことの信仰共同体」へと人を追い立てることでした。その共同体こそ、のちに教会として成長する「新しい神の家」です!
ハブられるんじゃない! 救われるんだ!
今回の〈羊の囲いのたとえ〉で、特に強調したいのが次の御言葉、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける」(3節a)。
シモンがイエスを信じて救われたのは、目を見えるようにしていただいたのち、イエスと会ってあなたは人の子(イエス)を信じるか
(ヨハ9:35)と呼びかけられてからでした。
つまり、イエスはご自分の「羊」としてシモンをお呼びになり、シモンは自分の「羊飼い=主人」としてイエスに応答した、ということです。
イエス・キリストを信じる人は「世の囲い」を離れ、教会という「羊の囲い」へと入って行きます。それは、イエスご自身がその人たちひとりひとりの名前を呼び、ご自分の羊として招いてくださるからこそです。
教会に集まる人々は、世間から見れば「外にいる者」かもしれません。イエスを信じると、一般的な常識や感覚とは合わない価値観で生きるようになるので、そういう意味では、確かに「外にいる者」と言えるでしょう。でも、単純に外にいるのではありません。
イエス・キリストを信じる人々は、「救い」の中に入っているのです٩( 'ω' )وヤッター!
世間では、大多数の人々が自分の欲望や他人の誘惑の声を聞き、それに従って生きていると思います。一方、「羊の囲い」で生きる人々について、イエスは次のように語っておられます。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
―「ヨハネによる福音書」第5章25節(新共同訳)
・イエスの声を聞き、それに従う人は、たちまち「永遠の命」を与えられます。まことの救いは、地上を生きている、いまこのときに実現するのです!
神の子三位一体の神の第2位格で、子なる神イエス・キリストのこと。父なる神と同一の神性を持ちながら人となり、人間の罪をあがなうために十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった。
「世の囲い」にもイエスの声は呼びかけている
イエスの声と御言葉には、「永遠の命」と「復活」の希望が満ちみちています。だからこそ、ぼくたちにはイエスの御言葉が欠かせないのです。
いま、イエスは
その声と御言葉に耳を傾けるとき、感じたことのない生きいきとした感覚が芽生えてくるはずです。また、自分の進むべき道が、パァッと開かれる体験をするかもしれません。
ぼくたちは、等しく「世の囲い」の中に生まれました。誘惑が多く、さまざまな声が語りかけてくるのが、世間というものです。そんな中でも、あなたの羊飼い・イエスの声は必ず聞こえてきます。その声を聞き分けたとき、ぜひイエス・キリストのあとに従ってください!
遜の黙想
「世の中にはほんとうに誘惑が多いなぁ…」と思うようになったのは、イエス・キリストを信じたあとでした。それまで当たり前のように聞いていた声が、ぼくをつまずかせる誘惑の声に聞こえるようになったのです。
とは言え、その声に従って大量のドーパミンを分泌したことを、ぼくの体はしっかりと覚えています。だから、誘惑と知りながらそれに乗ってしまう経験を、もう何度したかわかりません。そのたびに、言いようのない痛みを味わうのです…。
それは、自ら「羊の囲い」を抜け出したぼくの名前を、キリストが呼んでおられるのを知っているから。どんな雑音の中でさえ、キリストの声は途絶えることがないのです。
*
イエス様、いまこそ来て、ぼくを罪の世から救ってください。この体をもあがなってください。そのとき、あなたの呼ぶ声を聞き逃すことのないように、いつも祈る心を豊かに与えてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)