遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】真理を司る神と、真実をもてあそぶ悪魔

 

「Lies or Truth?」のカードを差し出す男性

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

かなり前の話ですが、家のカギをなくして焦った経験があります。ポケットにもリュックにもなくて、真夜中に家から締め出されるところでした。運よく家族が起きていたので、事なきを得ましたけど^^;

ただどこかで落としていたら、空き巣に入られる心配もあります。だから寝る前にもう一度、根気よく探したんです。・・・すぐに出てきました、リュックの中へ丸め込んだカーディガンを広げたら。

生地に挟まって隠れていただけでした。ないと思っていたものを見つけたときの衝撃って、かなりのものですよね。いやぁ、ほんとにホッとしました!

 

さて、今回はたいへん遅ればせながら、先々週9月13日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日礼拝

2020年9月13日
聖霊降臨節第16主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第65編6~14節。要約すると、

「救いの神よ、あなたの恐るべき御業がわたしたちの救いとなりますように。その奇跡は地の果てにまで届き、世界中の人々があなたに信頼し、朝な夕な喜びの歌をうたいます。
神の川に水は尽きず、地は潤って穀物を芽生えさせます。それはあなたの祝福ゆえ。あなたの行く先々で緑は茂り、羊は牧場を覆い尽くします。人々は皆歌い、喜びの叫びをあげています」

という内容です。

 

牧師説教は「真理の言葉を聞く」と題し、「ヨハネによる福音書」第8章37~47節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

「あなたたちがアブラハムの子孫であることは知っている。だが、あなたたちはわたしの言葉を受け入れず、わたしを殺そうとしている。わたしは父のもとで見たことを話しているが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」イエスがこう言われると、ユダヤ人たちは「わたしたちの父はアブラハムです」と言った。

そこでイエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、あなたたちは神の真理を語るわたしを殺そうとしている。あなたたちはアブラハムとでなく、自分の父と同じ業をしている。」

彼らが「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちには、ただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父ならば、神がお遣わしになったこのわたしを、あなたたちは愛するはずである。

なぜ、わたしの言うことが分からないのか。あなたたちは悪魔である父から出た者で、わたしの言葉を聞くことができず、悪魔の欲望を満たしたいと思っているからである。悪魔は最初から人殺しで、真理を持っていない。悪魔は偽り者であり、またその父であるから偽りを言う。

しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちは信じない。あなたたちのだれが、わたしを罪に定められるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたたちは信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは、神に属していないからである。」

 

―「ヨハネによる福音書」第8章37~47節(独自に要約)

 

ユダヤ人を「悪魔の子」呼ばわりした神の子・イエスの悲願

自分本位な選民意識

ユダヤ人は自分たちが「アブラハムの子」であることを誇りとし、神に選ばれたという選民意識を抱いていました。「アブラハムの子=神の子」ということなのです。

ところが、神の子であるはずのユダヤ人は、神のもとからやって来られたイエスを拒み、さらには殺害しようとしました。今回の箇所では、そんな人々の「ほんとうの父」はだれなのかを問うています。

遜註

アブラハムとは、ユダヤ民族の先祖です。すべての人々を救いに導く者として神に選ばれ、神と特別な契約を結びました。聖書はその契約に基づいて展開されています。

 

さて、イエスはご自分を「父のもとで見たことを話す者」とする一方、ユダヤ人を「父から聞いたことを行う者」と言っておられます。

一読すると、どちらも「父=父なる神」を意味しているように思えます。また、「父=アブラハム」と読み取ることもできるでしょう。

ただ口語訳聖書では、ユダヤ人を父から聞いたことを行う者」としています。つまり、イエスの父とユダヤ人の父はまったく違うということが、はっきりと示されているのです。

さらに踏み込んで言うと、イエスは「あなたたちはただ生物学上の父親から生まれただけで、もはやアブラハムの子でさえないのだ!」と、ユダヤ人の選民性を否定しておられるようにも取れます。

 

イエスの言葉に対して人々は、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」と、ちょっと不思議な反論をしています。

それは、「あなたは姦淫によって生まれた人じゃないか!」という痛烈な皮肉です。イエスの母・マリアが未婚のまま身ごもったことは、周知の事実だったとわかります。できちゃった婚щ(゜゜щ)

このようにユダヤ人は、自分たちこそが「神の子」なのだと主張し、イエスはつみびとから生まれた者だと決めつけて、その言葉を受け入れようとしませんでした。

 

ただイエスは、ユダヤ人の選民性を否定しておられたわけではありません。イエスの本心はこうです、

「あなたたちがアブラハムの子であることを、わたしは知っている。
あなたたちは神の子なのだから、神の御心と救いを信じて、このわたしを救い主として受け入れなさい」

イエスは辛抱強く人々を招かれましたが、ユダヤ人が神の愛と御心、また救いの真理を理解することは、ついにありませんでした・・・。

 

イエスが「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」とおっしゃったように、人々は耳で聞いていても、心では聞いていませんでした。

それは、イエスの語られる真理と自分たちの考えが、あまりにもかけ離れていたからです。

 

“真実”を操る天才詐欺師にだまされるな!

イエスはまた、人々について次のようにおっしゃいました、

「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」

の支配下に置かれている人々のことを、聖書は「悪魔の子」と呼んでいます。イエスのおっしゃる「悪魔の欲望」とは、すぐあとに示されている「人殺し」のことです。

文字どおりの人殺しはもちろんですが、それよりも特に、人間を神から引き離して本来の人生を生きられなくすることが、悪魔の欲望なのです。

 

イエスは「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ」と言っておられます。その「真理」は、ある有名な聖句に集約されています。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

―「ヨハネによる福音書」第3章16節(新共同訳)

真理とは、神の愛と御心による救いのことです。つまり、イエス・キリストの十字架による救いこそが、真理なのです。その真理と無関係であるかのように生きる人は、みな「悪魔の子」となってしまいます。

 

イエスはまた、悪魔を「偽り者」だと言っておられます。悪魔は「偽り」を巧みに使って、わたしたちから真理を隠してしまいます。でも、いつもウソばかりつくわけではありません。

例えば、イエスが宣教活動を始める前にあらで40日間の断食をされたとき、悪魔はイエスの前に現れて次のように誘惑しました、

神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ(マタイ4:3)

神の子なら、〔この神殿の屋根から〕飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある(同6節)

 

悪魔のそれらの言葉はウソではありません。むしろそれに従えば、イエスの神性はより克明に示されたでしょう。〈荒野の誘惑〉では、悪魔は真実を語ったのです。

ただ、悪魔の語る真実は、神の真理にまっ向から逆らっています。

悪魔の言葉は例外なく、わたしたちを神から離れて生きるように仕向けます。悪魔は人間の欲望に基づいた、「人間にとって都合のいい真実」をエサにするのです。

 

ユダヤ人たちには、理想の救い主のイメージがありました。でもそれは徹底的に、「自分にとって理想的な、自分の思う救い主」のイメージにすぎませんでした。

その自分本位な“真実”に囚われて、真理の言葉を聴こうとしなかったからこそ、ユダヤ人はイエスを信じることができなかったのです。

 

人が行くべき唯一の道

悪魔の言葉を信じてそれに従うのは、「悪魔の子=罪の奴隷」となることにほかなりません。一方、イエスは別の箇所でこう言っておられます。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

 

―「ヨハネによる福音書」第8章32節(新共同訳)

「イエスを信じる者は死んでも復活する」という真理を受け入れることで、わたしたちは初めて悪魔の支配から、罪に囚われている状態から解放されるのです!

 

わたしたちには、「神の子」として生きるか「悪魔の子」として生きるかの、2つの選択肢しか与えられていません。

 

いえ、実際には、神の子として生きる道、ただ一つしかないのです。そして神は、わたしたちがその道を選び取ることを望んでおられます。

 

悪魔の言葉が「偽り」と呼ばれるのは、「真理がある」という前提のゆえです。たとえ真理を否定する言葉に強い説得力があろうと、真理自体が消滅することはありえません。

十字架による救いという真理の道の入口に、悪魔が「この先危険! 左側の道を行け!」という看板を立てるだけで、そのすぐ後ろには、救いが厳然と存在しつづけているのです。

 

その救いによって生きいきとした人生を歩みはじめる決断を、早いうちにすることが大切です。神のお望みどおり、すべての人が神の子として生きられるように、イエスは真理を語りつづけておられます。

わたしたちはその御言葉をしっかりと聴き、心に刻みましょう。そしていま、神の子としての道を生きいきと歩んでいこうではありませんか!

 

遜の黙想

神の真理はどこかぼんやりとしていて、つかみどころのない印象もある。ノンクリスチャンの幼なじみの言葉を借りれば、「なんか抽象的」なのだ。

自分の欲望に適う悪魔の“真実”のほうが、真理よりも実際的に自分を喜ばせてくれるし、なによりしっくりくる。だから、神さまに背を向けて悪魔の道を選んでしまうことは、ほんとうによくある。

どう考えても、ぼくは神の子にふさわしくない。それでも神さまは、「遜よ、わたしの愛する子よ」と言ってくれる。キリストの犠牲によってなる真理をぼくが受け入れたという、ただそれだけの理由で。

神さま、真理によってぼくを自由にしてくださり感謝します。神の子として、ぼくを日々新しくしてください。あなたの真理が偽りでないことを、ぼくの生き方を通して証明できますように。アーメン。

 

 


▲「いいね♪」と思ったら、クリックで応援をお願いします!

 

引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)