遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】闇に輝くその光を見逃すな!

 

暗闇に輝く光

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

夏休みに車で旅行などへ出かけられた方は多いと思いますが、つき物なのが渋滞でしょう。渋滞の原因はいくつかありますが、そのひとつが、上り坂を下り坂と勘違いしてしまうことなのだそうです。

下り坂を走っているつもりでスピードを落としたり、ブレーキを多用したりすることが、ごく緩やかな上り坂で渋滞を発生させるといいます。ドライバーの思い込みが、渋滞という問題を引き起こしてしまうのです。

ところで、この世は暗闇である、と聖書は断言しています。また、自分は闇の中にはいないという思い込みが、滅びを招いてしまうことを警告してもいます。あなたはいま、光と闇のどちらにおられるでしょうか?

 

今回は、先週9月6日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年9月6日聖霊降臨節第15主日礼拝

9月の第1日曜日であるこの日は、〈しん〉でもありました。牧師先生によると、その起源はアメリカの教会学校にあるそうです。詳しくは、以下のとおり。

 

19世紀、アメリカの教会学校において「Rally Day」が定められました。夏休みの間、キャンプなどで各地に散っていた子どもたちが戻ってきて、心新たに教会で歩みはじめることを願った行事だと言われています。「さあ、みんな集まれ!」という感じです。

Rally とは、「再び集まる・再結集・回復」という意味です。そこでこの日を、教会員が全員集まる「総員礼拝」として聖日にしている教会、「ホームカミング・サンデイ(Homecoming Sunday)」と呼んでいる教会もあるそうです。

Rally Day は、「振起日」と邦訳されました。Rally(再結集)して心機一転出発していこう、という意味です。「心機」日や「新規」日ではなく、「振起」日。そうは言っても、信仰を自分で奮い起こすことはなかなかできません。

できないからやめるのではなく、神様からの励ましをもう一度受けたいと願う日として、この日を位置づけるのもいいことです。みんなが集まって伝道の秋、実りの秋へと向かうというのが、振起日なのです。

 

教会学校はCS(Church School の略)ともいい、聖書を通して信仰や人間性を育む、子どもたちへの教育の場です。毎週日曜日、教会ごとにさまざまな取組みがなされています。

 

 

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第98編1~9節

牧師説教は「光の中を歩め」と題し、「ヨハネによる福音書」第8章12~20節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」13それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」

14イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。

15あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。16しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。17あなたたちの律法には、2人が行う証しは真実であると書いてある。18わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」

19彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」

20イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 

―「ヨハネによる福音書」第8章12~20節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

世の光・イエスを断固拒否するパリサイ人

人はみな闇の中で生きている

今回の箇所は、かりいおさいに続くお話です。ユダヤ教三大祭日のひとつである仮庵祭では、さまざまなことが行われました。

まず、仮庵と呼ばれる仮設住居をつくること。ユダヤ人の先祖は、40年間荒野をさまよいながら、遊牧民のように天幕で暮らしました。そのことを記念するため、ユダヤ人は現在でも、自宅の庭などにつくった簡易の家で祭りの期間を過ごします。

次に、祭司がシロアムという池の水を祭壇に注ぐこと。新約時代には期間中毎日行われ、岩から水が湧き出た出来事を記念しました。祭りの最終日にそれが行われたとき、イエスは人々に渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい(ヨハ7:37)とお呼びかけになったのでした。

 

そして、婦人の庭にある4つのローソク台に火をともすこと。婦人の庭とは、女人禁制の神殿の前方に設けられた、女性のための場所です。そこには背の高いローソク台があり、夕方になると火が入れられました。人々はそのともし火を囲んで「詩編」を歌い、踊りながら神を讃美したのです。

ともし火は、かつて火の柱となってユダヤ人を先導された、神の象徴でした。人々は4つのともし火を見て、いまなお続く神の臨在と導きを感じていたのです。そして、彼らの思いに応えるように、イエスはこうおっしゃいました、

 

わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(12節)

 

それはまさに、イエスの“神宣言”と言えるでしょう。ご自分が火の柱のように光となり、人々を導いていこう、とイエスはおっしゃるのです。「ヨハネによる福音書」において、「」はイエスの神性を表す重要な言葉です。

そして、それと対をなしているのが、「」という言葉。それはこの世、特にイエスを信じなかったり否定したりする人々を指しています。また、そうするように人々をだまし惑わす、悪魔やあくれいを暗示する場合もあります。

遜註

悪魔と悪霊は、神と人間の間を引き裂く堕天使です。もと天使長だった悪魔は、一部の天使たちとともに神に反逆しましたが敗れ、手下もろとも地上に落とされました。それ以来、地上は悪魔の支配下にあると言われています。

 

ご自分を「世の光」と称されたイエスは、強大なローマ帝国の支配下にあったユダヤ人にとって、希望の光となるはずでした。ところがユダヤ人は、預言されていたキリスト(救い主)の到来を歓迎せず、逆に拒絶しました。

それは、自分たちが闇の中にいるとは思わず、光を求めなかったからです。

 

たとえ闇でも住めば都・・・

ユダヤ人は何世紀も、何世代にも渡って、キリストを待ち望んでいました。でも、キリストを約束する預言が成就しないでいるうちに、彼らの心は「キリストによる救い」から離れていきました。

そして、ファリサイ派の人々(パリサイびと)を中心に、ユダヤ人は「律法による救い」を信じ行うようになります。キリストがいつ来られるかわからないので、自分たちの努力によって神に認めていただこう、と考えたのです。

 

そんなパリサイ人の考え方を、イエスはしばしば非難されました、

 

あなたたちのやっていることは、なんの意味もない。人は神の一方的な愛と恵みによって救われる、ということがわからないのか!

 

律法の遵守を無意味だと断じられるのは、パリサイ人にとって、自分たちの生き方や人生を否定されるのと同じことでした。

しかも、そうやって神に対する努力を非難する者が、キリストを名乗っているのです。それは、パリサイ人にはとうてい容認できない、“ペテン”にほかなりませんでした。

ただ、パリサイ人が律法を守る姿勢には、決定的な間違いがありました。彼らに律法を遵守させていたのが信仰だけではないことを、その振舞いからうかがい知ることができます。

 

例えば、献金――
当時、神殿で多額の献金が捧げられたらラッパを吹き鳴らす、という習慣がありました。パリサイ人は献金箱にジャラジャラと金貨を流し入れ、ラッパの音を聞いた人々からの称賛に満足していました。

また、祈り――
イエスは奥まった自分の部屋に入って祈りなさい(マタ6:6)と教えておられましたが、パリサイ人の祈りスタイルは正反対。人目のある大通りで、しかも大きな声で祈りを唱え、信心深さをアピールしていました。

このように、多くのパリサイ人の律法主義には、純粋な信仰がありませんでした。罪の悔改めや神への感謝よりも、人々から“いいね”をもらうことが、彼らの動機になっていたのです。

 

パリサイ人をはじめとするユダヤ人は、そのような“闇生活”にすっかり慣れてしまっていました。

光は善で闇は悪だ、というイメージがあるでしょうが、「闇」にとって「光」がよいものとは限りません。まっ暗な部屋の中で突然フラッシュが光ったら、あなたはどんな反応をしますか?

目をつむったりして光から目をそらすように、闇に慣れきっている場合には、光はむしろ邪魔でウザったいものなのです。

 

何世紀にも及ぶ“闇生活”の中、突然、イエスが「光」としてお現れになりました。安住の「闇」を乱す邪魔者として、ユダヤ人がイエスを嫌って抹殺したのも、不思議ではないかもしれません。

 

見上げれば、そこにイエスの光がある!

「ヨハネによる福音書」は、光と闇のせめぎ合いをよく描き出しています。そのせめぎ合いを日々生きているのが、ぼくたちなのだとも言えるでしょう。

いま自分の置かれている境遇が、いままで歩んできた道が、光なのか闇だったのか考えてみると、どっちとも言いきれない、というのが大多数の意見だと思います。

 

ぼくたちの中には、光と闇の両方が存在しているのです。

 

ぼくたちはだれでも、「罪」という大きな闇を背負っています。その罪を自覚するのは、ほんとうに難しいことです。だからこそ、ぼくたちは常に光を求めていなければなりません!

そして、光であるイエス・キリストは、すでに来てくださいました

約2000年前にイエスは生まれ、十字架の上で死に、復活して天に昇られましたが、いまも生きておられます。光の中で生きるようにと、ぼくたちを招くためです。

 

苦しいときや悲しいとき、ぼくたちは苦難にばかり目を留めてしまいます。それは、どこかで「光=希望」から離れているからです。

イエスは、ご自分を信じる人の人生に、光となって輝いてくださいます。たとえ闇の中を歩んでいるように思えても、光の中を生きているという確信を与えて、ぼくたちを支えてくださいます。

 

いま、世の中の闇が、どんどん深くなっているように思えます。その中でも、いつも光を選び取るように努めましょう。イエスは闇と闘う力をぼくたちに与え、光となってぼくたちを照らしつづけてくださいます。

 

遜の黙想

日一日と深まっていくこの世の闇を、いちばん感じているのは、イエス・キリストご自身かもしれません。キリストはこの闇の中へ自ら降り、苦しみの闇にどっぷりと浸かられました。

ぼくは上り坂でアクセルを踏まないドライバーのように、暗闇の中で光を求めようとしませんでした。自分が闇の中にいるなんて、まさか思いもしなかったのです。キリストの光を初めて見たとき、だからぼくははっきりと目をそらしました。

それでも、キリストはぼくを照らしつづけてくださいました。ぼくを闇の中からあがない出し、命の光を持って、ほんとうの人生を生きられるようになるために!

天の父なる神様、この闇からぼくを捜して救ってくださり感謝します。深まる闇に輝く世の光・イエスの御名を、救いを待つ人々に伝えられるように導いてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)