ハレルヤ~! 安田遜です。
思うんですけど、“SNS人格”ってありますよね? 車のハンドルを握ると豹変する人がいるように、SNSだと普段言わないようなひどい言葉を平気で、むしろ積極的に使う人がいます。
特に非難の的になっている人に対しては、非難することが正義だと言わんばかりに、容赦なく攻撃的な言葉を浴びせる。しかも、その人の「過失」じゃなくて「人格」を責める人たちが多くて、いったい何様なんだろうって思います。
いま「何様」っていう言葉で、ぼくも他人を責めちゃいましたけど、「そういう自分は何様なんだろう?」と考えることは少ないような気がします。反省しなきゃいけませんね・・・(._.)
さて今回は、先週8月30日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日礼拝
2020年8月30日
聖霊降臨節第14主日礼拝
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。
読上げ箇所は、「詩編」第87編1~7節。要約すると、
「聖なる山に据えられ、神に深く愛されるエルサレムよ。神の都の栄光はこう語られている、『エジプトもバビロンもエチオピアまでも、この都で生まれたものと書こう。人々は語るだろう、だれも彼もこの都で生まれた、と』。
神々の中の神御自身が、世界中の人々をエルサレム出身者として登録される。ある人は歌って、ある人は踊ってこう言う、『わが源はすべてあなたの中に』と」
という内容です。
牧師説教は「
聖書の御言葉
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
―「ヨハネによる福音書」第8章3~11節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
姦通を犯した女に石を投げられなかった人々の“正しさ”
他人を非難する前に自分自身を見つめてみろ
エルサレムでの祭りの最終日、イエスの前に姦通の罪を犯した女性が引き出されました。モーセの〈十戒〉の第7戒で、姦通は禁じられています。
ところで姦通とは、他人の妻や夫と関係を持つことです。婚姻関係はもっとも基本的な人間関係であり、聖書にも男は父母を離れて女と結ばれ、2人は一体となる
(創世記2:24)と書かれています。
姦通は神の定めたその関係を否定し、さらには神と人間の関係を破壊する行為なのです。聖書を読むと、その罪がどれほど重大なものであるかがわかります。
男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。
―「申命記」第22章22節(新共同訳)
さて、イエスのもとに連れて来られた女性は、現行犯で逮捕されました。女性が姦通の罪を犯したのは、紛れもない事実です。つまり、女性が「死刑」になるべきことは、律法に照らして明白だということです。
ところが、律法を熟知しているはずのの人々(パリサイ
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」
ファリサイ派ユダヤ教二大派閥の一つ。律法を厳しく守ることで人々の上に立っていた。名称はヘブライ語の「区別する」が由来とされ、律法を守れない人々を差別的に扱った。
当時のユダヤでは、違反者を「石打ちの刑」に処するのが習わしでした。複数の人々が違反者に石を投げつけ、全身打撲と出血多量によって衰弱死させるという、非常に残酷な刑です。
そういう重い結果をもたらす判決を慎重に行うために、パリサイ人はイエスを頼ったわけではありません。イエスを告発する口実を得るために、あえて意見を求めたのです。
パリサイ人のイエスへの質問は、実に難しいものでした。
もしイエスが「彼女を死刑にしなさい」とお答えになれば、それまでのご自分の言動と矛盾することになります。
また逆に「彼女を放免しなさい」とお答えになれば、明らかに律法を否定することになります。律法によって保たれているユダヤ社会の秩序を崩す発言であり、神を冒瀆する者だとの非難は避けられないでしょう。
つまりパリサイ人の質問は、イエスがどのように答えようと、イエスにとって不利にしかならない、底意地の悪い質問だったわけです!
それに対するイエスの反応を、聖書は「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」と語っています。わかりやすい“回答拒否”です。
でも、どうにかイエスを窮地に追いやりたいパリサイ人は、しつこく問いつづけてイエスの回答を得ることに成功しました、
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
イエスは、女性は死刑に処せられるべきだとしながらも、「あなたたちはその裁きを下せるだけ潔白なのか?」と、人々に質問をお返しになりました。
その言葉を聞いた人々は、一人また一人と女性の前から立ち去っていきます。「自分の罪」を自覚させられたのです(パリサイ人に関しては、人前で手を汚すのをためらっただけだと思われます)。
やさしいイエスのもう一つの顔
「あなたたちはほんとうに他人を裁けるのか?」というイエスの問いは、わたしたちにも向けられています。
だれかの犯した間違いについて、わたしたちは「自分は正しいことを主張してるんだ!」と思い込み、その人を裁いてしまうものです。でも、ほんとうに正しいと言いきれるでしょうか?
この問題を聖書的観点から考えるとき、特に注意しなければならないことがあります。それは、「キリスト教=愛の宗教」という固定概念です。
人間はみな
でも、わたしたちの罪はそんな甘いものではありません!!
わたしたちはこう考えるべきなのです、「
さて、姦通を犯した女性の場合を考えてみましょう。
女性は死刑を免れはしましたが、その罪が消えたわけではありません。女性が姦通を犯したという事実は、厳然と残りつづけます。
女性が命を取り留めたのは、彼女を裁ける人も赦せる人もいなかったから、という理由にすぎません。つまり、女性は裁かれもしなかったが救われもしなかった、ということなのです。
ただ一人、ポツンと残された女性に語りかける人がいました、
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
イエスは「あなたを裁かない」とはおっしゃいませんでした。イエスは父なる神から委ねられた権威によって、女性を裁いたのです。そのうえで、女性の罪を赦されたのです。
そのとき、女性は初めて自分の罪から解放され、新しい人生を始めるチャンスを与えられました。「イエス=まことの神」のご性質について、神ご自身がこう語っておられます。
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に3代、4代までも問う者。」
―「出エジプト記」第37章6~7節(新共同訳)
イエスは慈しみ深い方であると同時に、厳しい裁き主でもあります。ほんとうの意味の赦しとは、イエスによるまことの裁きが行われて、初めて与えられるものなのです。
罪の赦しは美談ではない
イエスは裁きのすえ、律法で有罪とされるべき女性を赦されました。ただ、女性の罪をなかったことにされたわけではありません。
イエスは女性の罪を背負って、十字架に上られたのです。
イエスは女性になり代わって、その罪に対する罰を引き受けられたのです。
罪の赦しは決して簡単なことでも、美しいことでもありません。イエスの十字架上の死があってこそ、わたしたちの罪は赦されたからです。
愛の実践とは、だれかの罪を黙認することではありません。赦し合う精神を、「愛の宗教」という短絡的な言葉で表すべきではないのです。
いま一度、「もう罪を犯してはならない」というイエスの言葉を考えてみましょう。その言葉は、実は字面以上に強く厳しい意味を持っています、
「わたしが命を捨ててまで罪を赦すのだから、あなたはもう罪を犯すことはできないはずだ!」
これが真意です。十字架の意味を理解した人は、「イエスに生かされる者」としての新しい人生を始められるでしょう。
わたしたちはみな、神の子が死ななければならないほどの重い罪を背負っています。でも、罪の赦しの権威を持つ唯一の方、イエス・キリストによって、その罪に対する裁きはもう済んでいます。
今回のお話は、「ずっと昔に罪を赦されたある女性の物語」ではありません。これはわたしたち自身の物語、あなた自身の物語なのです。
イエスの十字架によって、わたしの罪は赦された。その事実を受け入れ、またその重みを抱き、感謝の祈りを捧げましょう。そしてイエスの愛を受け取り、新しくされた人生を喜んで生きていきましょう。
遜の黙想
ぼくは他人の欠点に注目しやすいたちで、特にイライラしているときは、人を裁きたくなったり実際に裁いたりしてしまう。自分の“正しさ”を振りかざして、相手を攻撃してしまうのだ。
だれかを裁く心を放棄し、自分の罪や過ちを認める。そして、自分と他人の罪をすべて、まことの裁き主である神さまに委ねる。それが、ほんとうに「赦す」ということなのだ。
キリストに赦せない罪はない。だから、自分ではどうすることもできない罪に打ちひしがれず、まただれかの罪にも煩わされず、キリストの赦しと権威に信頼して生きていきたい。
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イエスさま、あなたは「行きなさい。もう罪を犯してはならない」とおっしゃいます。あなたの十字架を、罪からの解放を求めるすべての人に、あなたの救いの御業がはっきりと示されますように。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)