ハレルヤ~! 安田遜です。
アメリカでは結構前から「分断」が問題になっていますが、日本でも同じことが起こりつつあるんじゃないかと、少なからず不安に思っています・・・。
与野党・官民・世代間・家族間・・・。分断はまず意見や価値観の違いから起こるんでしょうけど、その亀裂を深めるのって、意見そのものよりも「感情」だったりしませんか?
相手に対して感情的になりすぎると、根拠なしに「自分が正しい」と思い込んで、もう有意義な議論ができなくなっちゃいますよね。まず理性的に、双方向的に話し合うことが大切だと思います。
そんなまじめ腐った導入の今回は、先週8月23日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年8月23日 聖霊降臨節第13主日礼拝
2020年8月23日
聖霊降臨節第13主日礼拝
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。
読上げ箇所は、「詩編」第15編1~5節。要約すると、
「主よ、どのような人があなたの天幕に住まうことができるでしょうか。それは、非の打ちどころのない生活を送り、正しい行いに努める人。心に真実の言葉を秘め、友に悪さをせず、隣人を中傷しない人。
御心にかなわないことを避け、主に従う人を尊ぶ人。高い利息で負債者を苦しめず、賄賂を受けて無実の人を陥れない人。このような人は、いつまでも揺らぐことがないでしょう」
という内容です。
牧師説教は「主の言葉を聞こう」と題し、「ヨハネによる福音書」第7章40~52節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
―「ヨハネによる福音書」第7章40~52節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
イエスの神性を巡って二極化したユダヤ人たち
イエスはユダヤを救う約束のメシアなのか!?
時はの最終日、エルサレムに集まった人々は、イエスの語られる言葉の不思議に驚いていました。特に物議を醸したのはこの言葉、
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる
(ヨハネ7:37b-38)
この言葉によって受けた衝撃は、よかれ悪しかれ、祭りが終わってからも人々の中に残ったでしょう。イエスの御言葉がずっと、祭りの場にいた一人ひとりに語られつづけたのです。
仮庵祭ユダヤ教三大祭日の一つ。ユダヤ人がエジプトを脱したのち、天幕で暮らしながら荒野を旅したことを記念する。期間中は、庭やベランダなどにつくった仮庵(仮設住居)で過ごす。
イエスの言葉に、人々は「いったいあの人はだれなんだ?」と論じ合います。
ある人は「この人は、本当にあの預言者だ」と言いました。またある人は「この人はメシアだ」と言いました。それぞれの言い分を詳しく見てみましょう。
まず、前者の人々の言い分――
かつて預言者・モーセは主はあなた(ユダヤ民族)の中から、・・・わたしのような預言者を立てられる
(申命記18:15)と預言していました。前者の人々は、イエスこそその預言者だと思ったわけです。
次に、後者の人々の言い分――
メシアとはヘブライ語で「油注がれた者」、つまり、神によって特別に選ばれた王を意味します。後者の人々は、ユダヤ国家建国の救い主として、イエスに期待を寄せたのです。
その一方、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアは・・・ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と、異を唱える人々もいました。
イエスはたしかにガリラヤのナザレで育ちましたが、お生まれはベツレヘムです。わたしたちはその事実を聖書によって知れますが、当時はイエスの出生についてあまり知られていませんでした。
また、ガリラヤは異邦人との交際の多い土地柄で、昔から宗教的に“けがれた地”と考えられていました。メシアがそのような場所から現れるはずがない、と思われるのも当然のことです。
こうして、人々の間にイエスを巡る対立が起こりました。この箇所で「対立」と訳されている言葉は、原典のギリシャ語では「分裂」という、より強い意味を持っています。
ユダヤ人にとって「イエスはメシアなのか?」という問題は、単なる意見の食い違いでは収まらないことだったはずです。
なぜならそれは、「自分たちは救われるのか?」という、もっとも切実かつ喫緊の問題に直結することだったからです。
自己都合で神の真否を判断する人間の罪
ユダヤ人の中には、イエスがメシアであっては困る、という立場の人々がいました。それが、ファリサイ派の人々(パリサイ
実はこのとき、パリサイ人たちはイエスを逮捕しようと、下役たちを
パリサイ人は律法を厳格に守るグループでしたから、イエスが律法違反を犯したのであれば、彼らに大義名分があります。ところが、そうではありません。
パリサイ人がイエスを逮捕したがった理由――それは、
自分たちの思い描くメシア像と徹底的に正反対の人物が、メシアとしてあがめられていたから。
パリサイ人はメシアを心待ちにしていました。本来であれば、まっ先にメシア(キリスト)であるイエスを歓迎したはずなのです。
でも実際に現れたメシアは、パリサイ人の期待を見事に裏切る人物でした!
律法遵守を励行しているパリサイ人を称え、自身も完璧に律法を守り、天国ではパリサイ人たちをよい地位に就かせてくれる・・・。それがパリサイ人の思い描いたメシア像です。
実際のイエスはどうだったでしょうか?
パリサイ人を「偽善者」呼ばわりし、もっとも厳格に守るべきの規定を破り、さらにはけがれた
自分たちこそが正しいと自負しているパリサイ人にしてみれば、その正しさを断固否定し、律法も守らないような人物がメシアなどとは、とうてい認められないわけです。
安息日週の7日目のこと。金曜日の日没から土曜日の日没がそれに当たり、神に心を向けるために労働を禁じられた。〈天地創造〉で神が7日目に休息されたことに由来する。
さて、イエスを逮捕するはずだった下役たちは、パリサイ人のもとに手ぶらで帰って来ました。イエスの言葉に心を打たれ、任務を放棄してしまったのです。
パリサイ人は「お前たちまでも惑わされたのか」と下役たちを叱りつけましたが、「惑わされる」とは「信仰から逸れる」という意味です。続くパリサイ人のセリフを意訳してみます、
「われわれファリサイ派は正しい。そのわれわれの中に、あの男を信じている者がだれかいるか? われわれが信じぬ者を信じるのは、おまえたちが信仰から逸れているからだ!」
さらにパリサイ人は、イエスを信じる人々について「呪われている」と言い放ちました。イエスを信じる者は神の裁きによって滅びるしかないのだ、という痛烈な非難です。
その言葉を受けて、ファリサイ派の一人であるニコデモが、「律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と反論しました。ニコデモはファリサイ派には珍しい、“親イエス派”の人物でした。
“反イエス派”のパリサイ人はその正論を封殺、なんと律法を無視してイエス排除へと動き出します。イエスがガリラヤ人であることを理由に、聴取は必要ないと断じたのでした。
このようにパリサイ人は、自分の尺度で人を裁く越権行為に及び、堂々と律法違反を犯していました。自分たちにはそれが許されると思い込んでいたのです。
神の律法を自分勝手な基準で解釈することこそ、パリサイ人の犯した大きな罪でした。
聖書を通してイエスを知る
イエスのメシア性を巡って、ユダヤ人は2派に分かれました。それぞれの態度の違いを簡単にまとめてみましょう。
- イエス=メシア派 イエスの言葉を聞いて感じ入った
- イエス≠メシア派 自分の知識を頼りにイエスを否定した
両派の決定的な違いは、イエスの言葉に耳を傾けたかどうかです。
パリサイ
一方、下役たちのようにイエスの話を聞いた人々は、内容を理解するには及ばなかったかもしれませんが、その言葉に心打たれたことでイエスを信じました。
事実、“親イエス派”のニコデモも、イエスとの会話ではまったく真意をつかめませんでした。それでもイエスを「神がともにおられる方」と評したのは()、イエスの言葉に特異性を見出したからです。
ヨハネ3:2b
「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
(新共同訳)
イエスとニコデモのこんにゃく問答はコチラ
【礼拝】「生まれ変わる」のではなく「新しく生まれる」
ニコデモは仲間たちに、イエスの言葉を聞くように訴えました。いまは聖書を通して、わたしたちにも訴えかけています。
わたしたちには、イエスの御言葉が必要です。日々、聖書を読みましょう。
御言葉を自分の知識や経験だけに基づいて解釈し、神の御心を知ろうとしないなら、わたしたちはイエスをふたたび十字架につけることになります。
聖書には、一読しただけでは真意のわからない御言葉もあります。でも、諦めずに耳を傾けるのです。
そうするうちに、御言葉が自分の中で泉となって湧き出ていることに気づくでしょう。その水こそが、あなたをイエスへの信仰に導く命の水です。その水が、イエスの正体を悟らせてくれます。
さぁ、いま聖書を開いてください。神は、イエスは、あなたになにを語っておられますか? この新しい一週間、語られた御言葉に聴き従いながら歩んでいきましょう。
遜の黙想
聖書を読むのは、神さまを知って信仰を深めるため、また、隣人によく仕える心得を学ぶためだ。でも、わかりにくい御言葉をなんとか理解しようとするとき、かつての人生観が邪魔をする。
請売りの哲学や理屈をこねくり回したすえに導き出した解釈は、のちにほとんどが「見当違い」だったと判明した。もはや間違いでさえなく、そもそもの論点を見誤っていたのだ。
ぼくは御言葉のエッセンスを得ようとはしていなかったのかもしれない。パリサイ
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神さま、自分の知識や世間の常識が、あなたの声をかき消します。御言葉を下さい。ぼくがあなたに従うことで、人々に御言葉の力を伝えられますように。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)