遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】「知りたい」「知ろう」と思うことの大切さ

 

ケンカする男たちの人形

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

最近、「分断」という言葉をよく聞くようになりました。分断は特にアメリカで大問題になっているようですが、日本でも同じようになりつつある気がします。小さなところでは家族間で、大きなところでは官民で

分断はまず意見や価値観の違いから起こるのでしょうが、その深まりは、意見そのものよりも「感情」によるところが大きいのではないでしょうか?

さて、2000年前のパレスチナでは、大工・イエスを巡って大きな分断が起こっていました。宗教指導者たちを中心に深まった溝はユダヤ人同士、そして、神とユダヤ民族の間に決定的な分裂をもたらすことになります。

 

今回は、先週8月23日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年8月23日聖霊降臨節第13主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第15編1~5節

牧師説教は「主の言葉を聞こう」と題し、「ヨハネによる福音書」第7章40~52節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

40この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、41「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。42メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」

43こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。44その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

 

45さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。46下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。

47すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。48議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」

50彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。51「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」

52彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

 

―「ヨハネによる福音書」第7章40~52節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

イエスの神性を巡って二極化したユダヤ人たち

イエスはただの奇跡の人か? 天からの救世主か?

今回のお話は、ユダヤ人の祭りの最終日、エルサレムに集まった人々の間で起こった出来事です。神殿の境内で語られたイエスの御言葉は人々を驚かせ、特に次の御言葉は大きな物議をかもしました。

37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 

―「ヨハネによる福音書」第7章37~38節(新共同訳)

この御言葉が人々に与えた衝撃は、よくも悪くも、人々の耳と心に残ったでしょう。祭りが終わったあともなお、人々はイエスの語りかけを受けつづけたのです。

 

祭りの場では、不思議なことをお語りになるイエスについて、人々の論じ合いが繰り広げられました。「群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいた(40~41節a)と聖書は伝えています。

あの預言者」とは、かつて指導者・モーセが、主はあなた(イスラエル民族)の中から、わたしのような預言者を立てられる(申18:15)と言った人物のこと。

また「メシア」とは、神に特別に選ばれた王のことです。一部の人々は、ローマ帝国を倒してユダヤ国家を建国する救い主として、イエスに期待を寄せていました。

 

でも一方では、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか(41節b~42節)などと、異を唱える人々もいました。

イエスの地元・ナザレがあるガリラヤ地方は、昔から異民族との交流が多く、宗教的にけがれた土地と考えられていたのです。そのようなところから預言者やメシアが生まれるはずがない、と考える人がいても、まったく不思議ではありませんでした。

ただ、イエスの出生地がベツレヘムであることを、新約聖書は証言しています。イエスは旧約聖書の預言どおり、ダビデの村でお生まれになったのですが、そのことは周知の事実ではなかったようですね。

 

人々の意見の相違について、聖書は「イエスのことで群衆の間に対立が生じた(43節)と語っています。この「対立」にあたるギリシャ語(スキスマ|σχίσμαには、実はもっと強い意味があって、「分裂」とも訳せます。

「イエスはメシアなのか?」という問題が分裂にまで発展したのは、それがたんなる意見の食い違いでは済まなかったからでしょう。

イエスが救い主かどうか。それは、「自分たちは救われるのか?」という、切実かつ喫緊の問題に直結することだったのです!

 

自己都合で神の御言葉をねじ曲げる罪

何世代にも渡ってメシアを心待ちにしてきたユダヤ人の中でも、特に熱心な信仰集団がいました。それが、の人々(パリサイびと)です。

パリサイ人は愚直に神のおきてを守りつつ、メシアを待ち望んでいたのですから、救い主であるイエスを歓迎したはずです。ところが実際は真逆で、イエスをメシアと認めないばかりか、捕らえて殺害しようと策動します。その理由は、

 

イエスが、自分たちの思うメシアと徹底的に正反対なのにもかかわらず、メシアとして信奉されはじめていたからщ(゜゜щ)フンヌッ!

 

パリサイ人の理想とするメシアと、実際のメシアであるイエスがどんなに違っていたか、簡単にまとめてみましょう。

理想のメシア 実際のメシア
律法を遵守するパリサイ人を褒めてくれる パリサイ人を「偽善者」呼ばわりする
律法を非の打ちどころなく完璧に守る もっとも厳守するべきの規定を破る
けがれを避けて宗教的清潔を保つ 罪ある人々と一緒に食事をする

見事なまでに真逆ですねw 自分たちの正しさを自負しているパリサイ人にとって、その正しさを断固否定し、あまつさえ律法も守らないような人物がメシアだとは、とうてい容認できなかったわけです。

 

そこでパリサイ人は今回のお話の直前、イエスを逮捕しようと、下役たちを祭りに潜入させました。さて、彼らは命令を果たせたのでしょうか?

――それは、逮捕を命じた宗教指導者たちの言葉からわかります、「どうして、あの男を連れて来なかったのか(45節)。なんと、下役たちはイエスの御言葉にすっかり心を打たれ――今まで、あの人のように話した人はいません(46節)――、任務を放棄してしまったのです!

 

当然、指導者たちは大激怒、「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか(47~48節)と下役たちを叱りつけます。

惑わされた」とはつまり、「正しい信仰からそれた」ということ。指導者たちの叱責の言葉を意訳すると、次のようになるでしょう、

 

 

わたしたちファリサイ派は正しい。そのわたしたちの中に、あの男を信じている者がだれかいるか? わたしたちが信じない者を信じるのは、おまえたちの信仰が道をはずれたからだ!

 

指導者たちはさらに、「律法を知らないこの群衆は、呪われている(49節)と言い放ちました。イエスを信奉する人々は、神の裁きによって滅びるしかないのだという、あまりに痛烈な非難です。

その言葉に黙っていられないファリサイ派のメンバーがいました。ニコデモです。彼はパリサイ人の中でも穏健な人物で、自らイエスに教えを乞うたこともありました。ニコデモは言います、

律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか(51節)

 

この“ド正論”にも、指導者たちは「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる(52節)と反論しました。イエスがガリラヤ出身であることを理由に、聴取は不要だと断じたのです。

このように、神の律法を自分勝手な基準で解釈・適用することこそ、パリサイ人の犯した大きな罪でした。

パリサイ人はニコデモの正論を封殺すると、自覚のないままに律法を無視、イエス排除へと本格的に動きだします

 

聖書を通してイエスを知ろう!

イエスのメシア性を巡って、ユダヤ人は2派に分かれました。それぞれの態度の違いをわかりやすく示してみましょう。

  • イエス=メシア派 イエスの御言葉を聴いて感じ入った
  • イエス≠メシア派 自分の知識に頼ってイエスを否定した

両派の決定的な違いは、イエスの御言葉に耳を傾けたかどうかです。

 

自分の知識や感情のフィルター越しにしかイエスを見ず、ろくに話を聴こうともしない、パリサイびとのような態度を取るなら、イエスを敵視するしかありません。

一方、下役たちのように、イエスの語られることに耳を傾けるなら、たとえ内容を理解することはできなくても、イエスの御言葉によって信じる心を与えられます。

唯一異議を唱えたニコデモも、イエスとの会話では真意をつかむことができませんでした。でも、イエスのことを「神がともにおられる方」と評したのは、イエスの御言葉に余人には語りえない「なにか」を見いだしたからです。

 

ニコデモは仲間たちに、イエスの主張をしっかりと聴くように訴えました。そしていま、聖書を通してぼくたちにも訴えています、

 

 

イエス様の御言葉に、よくよく耳を傾けるのじゃ!

 

聖書に書かれたイエスの御言葉には、一読しただけでは真意のわからないものもたくさんあります。それでも、諦めずに読みつづけてほしいのです。

自分の知識・経験・感情を横に置いて、まっさらな心で神を知ろうとするとき、イエスの御言葉があなたの内に水のように注がれます。そして、それがほかの言葉とは違うということに気づくでしょう。

 

いま、ぜひ聖書を開いてください。渇きの癒される感じを覚えたら、やがてイエスの正体を知る瞬間が訪れるはずです。

 

遜の黙想

聖書の御言葉は、簡単には読めないものが少なくありません。意味がわかりにくいどころか、慣れ親しんだ常識や価値観に逆行するような、または感情的に受け入れがたいような御言葉さえあるのです。

敵を愛せ、下心や怒りを抱いた時点で罪である、天国へ行くのに善行は無意味。聖書のそういう価値観にぶち当たるとき、神はなぜこんなに厳しいことをおっしゃるのかと、諦めや憎悪に似た感情を抱くこともありました。

でも辛抱して読み進めていくと、神は厳格な目でぼくを見下ろしているわけではないのだ、と気づいたのです。神から離れていくしかないぼくを、神ご自身が、どこまでも追いかけてくださる。それが聖書を通して知った、まことの神の姿でした。

ご在天の父なる神様、あなたを「パパ」と呼ぶ特権を、あなたは御子・イエスを通して与えてくださいました。パパ、あなたをもっと知りたいと求める心を、日々豊かに注いでください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
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