ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは小さなころからスピリチュアルな世界に興味があって、特に占いには目がありませんでした。占い師に見てもらったことはないものの、本やネットで手当たり次第に情報をかき集めたものです。
なぜそれほど熱中したかというと、たぶん具体的なアドバイスをくれたからかなぁと思います。運を引き寄せるために、幸せになるために、占いに一種の救いを求めていたのでしょう。
でも、ぼくたちはそういう「目先の救い」を求めるだけで、ほんとうにいいのでしょうか? 現世の先にある「魂の救い」について、ぜひしっかりと考えていただきたいと思います!
今回は、先週8月16日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第146編1~10節。
牧師説教は「救いの時は来ている」と題し、「ヨハネによる福音書」第7章1~9節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
1その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。2ときに、ユダヤ人の
仮 庵 祭 が近づいていた。3イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」5兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
6そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
8あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」9こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
―「ヨハネによる福音書」第7章1~9節(新共同訳)
大舞台での奇跡の実演を拒否したイエスの真意
奇跡の人か? 神からの救い主か?
今回は、ユダヤ教三大祭日のひとつ、
仮庵祭はまた、神の守りと導きによって生かされていることを再認識し、神への感謝を捧げるための期間でもありました。ただ、イエスの時代には、仮庵祭は「嘆きの時」になっていたのです――
旧約時代、ユダヤ人は神の恵みをごく身近に体験していました。エジプトでの長い奴隷状態から抜け出せたのも、その後の40年にも及ぶ放浪生活を生きぬけたのも、神の実際的・直接的な働きかけがあったからです。でも当時のユダヤ人は、それを当たり前に思って感謝せず、何度も神に反抗しました。
一方、新約時代のユダヤ人は、強大なローマ帝国の支配下にあって、独立国家の樹立を熱心に祈りながら、神の厳しい律法を守りとおしていました。それにもかかわらず、神からの応答らしい応答は、一切ありませんでした。
わたしたちの先祖は、どんなに不信仰でも救われた。それなのに…神はなぜ、これほど信心深いわたしたちを救ってくださらないんだ!?
神の恵みをまったく感じられない中で、ユダヤ人は、神の臨在を心の底から求めていたのです。
そこでイエスの弟たち(イエスには4人の弟と、少なくとも2人の妹がいました)は、「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい」(3節)とイエスに勧めます。
イエスの奇跡によって、人々は神を体験できるだろうと考えたわけですが、「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」(5節)と聖書は語っています。ちょっと不思議ですよね。イエスを信じていたからこそ、弟たちは奇跡を見せるように促したのではないのでしょうか?
弟たちの勧めに、イエスは「わたしの時はまだ来ていない」(6節)と返答しておられます。かなりわかりにくい御言葉ですが、イエスの真意はこういうことです、
おれがキリスト(救い主)であることを、はっきり示す時がくる。だが、いまはその時ではない。
「わたしの時」とは、イエスが十字架の上で死なれるとき、そして復活されるときにほかなりません。それは、この仮庵祭の期間中に実現されるべきことではなかったのです※。
遜註
イエスの十字架と復活は、の当日に実現しました。過越祭で捧げられる小羊の血は重要な意味を持ち、それはイエスが十字架で流す血を予表するものでした。
過越祭ユダヤ教三大祭日のひとつ。イスラエル民族がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを記念する。名称は、エジプトのすべての初子を絶命させた災いが、イスラエル人を過ぎ越したことに由来する。
弟たちは、イエスを「神の力を持つ男」だと認めていました。それは確かですが、イエスを正しく信じるには足りないのです。多くのユダヤ人と同様、弟たちもまた、イエスを「キリスト」だとは信じていませんでした。
罪を悟らせるための辛口意見
イエスがそれを望まれなかったのは、人々が「自分の利益のために奇跡を起こしてくれる人」として、ご自分をあがめるようになるとわかっておられたからです。それは、的はずれの信仰なのです。
これより前、イエスは5つのパンと2匹の魚だけで、5000人以上の人々を満腹させられたことがあります。人々はもちろんイエスを追い求めましたが、それも「イエス様がいれば食いっぱぐれずに済むぞ!」という、自分本位な理由からでした。
〈5000人の給食〉についてはコチラ
そのように自分の損得を中心にした“ご利益主義”の信仰は、たとえイエスをあがめていても、イエスを憎むことになるのです。イエスはおっしゃいました、
「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」(7節)
神をあがめながら、実は自分の利益を求めていた人々に、(パリサイ
イエスはその態度を公然と非難し、パリサイ人の不興を買って、命を狙われるようになります。自分たちの遵奉する律法が殺人を禁じているにもかかわらず、パリサイ人はあくまでイエスを亡き者にしようと策動したのです。そーゆートコッ(*`ω´)
パリサイ人は自分たちの罪に気づきませんでしたが、イエスの弟たちも「兄さんはなんでぼくたちの言うことを聞かないんだ!?」と、自分たちの意見を正しいと思い込んでいたのだと思います。
ファリサイ派ユダヤ教二大派閥のひとつ。律法を厳しく守ることで人々の上に立っていた。名称はヘブライ語「ペルシーム(分離する者)」が由来とされ、律法を守れない人々を差別的に扱った。
自分の間違いに気づかない人々、自分こそ正しいと思い込む人々によって、イエスは憎まれ、そして死に追いやられました。その人々のことを、イエスは「世」と呼んでおられますが、それには現代のぼくたちも含まれています。
パリサイ人はイエスに罪やあやまちを指摘されて
クリスチャンの場合、例えば、自分の好きな御言葉を暗唱聖句として覚える一方、自分の弱点や欠点をたしなめられるような御言葉には、ついつい耳を塞いでしまいます。
そういう耳の痛い御言葉ほど、事実、ぼくたちのためになるのです。イエスがパリサイ人を厳しく非難したのも、彼らに罪を自覚させ、ほんとうの善に立ち帰らせるためでした。残念ながら、多くのパリサイ人はそのことを悟れませんでしたが…。
イエス・キリストの十字架は、ぼくたちの罪の代償です。
ぼくたちは自分の罪に気づいて、初めてイエスの十字架の意味を知ります。イエスの死は、自分の罪がゆるされるためだったのだと知れば、もうイエスを憎むことはできませんね!
「イエス・キリストの時」はすぐそこに!
イエスは「わたしの時」を、ぼくたちの「救いの時」という意味で話されました。ただ、いまはもうそれを意味しません。
なぜなら、イエス・キリストの十字架によって、ぼくたちの救いはすでになし遂げられたからです!
ぼくたちの救いは、個人個人の望むかたちでは実現しないかもしれません。神はぼくたちの望みを知ったうえで、それをはるかに越えたかたちで、ぼくたちを救ってくださいます。その救いを、あとは受け取るだけでいいのです。
さて、イエスの「わたしの時」は、いまや「の時」という新しい意味を持っています!
イエスはあなたが救われるようにと、自ら十字架について、あなたの罪の清算を肩代わりなさいました。このイエス・キリストによる救いをぜひとも信じて、イエスがふたたび来られる、その時を待ち望んでいただきたいと思います。
再臨キリストがふたたび地上に来降されること。世の終わりに実現し、神を信じない人々が裁きを受け、キリストを全世界の王とする〈千年王国〉が築かれる。
遜の黙想
イエス・キリストは十字架につけられたあと復活し、約2000年もの時を経て、神の“安田遜救済計画”を成就させるべく、ぼくの前に現れてくださいました。〈天地創造〉から、実に6000年越しの計画実現ですw
ぼくはその計画を知るよしもなかったし、どの星占いを見ても明かされませんでした。でも、神の計画は必ず全部実現するのだと、ぼくは聖書から、また実体験から知っています。だから、もう占いに心は向きません!笑
キリストを信じても苦しいことはあるけれど、
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ご在天の父なる神様、御子・イエスの救いに感謝します。いま、あなたの子らは世にあって、「主の日」をいまかと待ち望んでいます。マラナ・タ、主イエスよ、来てください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)