遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】救いを手にして「その時」を待ち望め!

 

青空に輝く太陽

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

最近、地上波で占い番組がレギュラー放送されていますね。母と妹が感嘆しながらそれに食い入るのを、ぼくは心苦しい思いで眺めています・・・、占いは数少ないタブーの一つなので。

占いにハマる理由って、かなり具体的なアドバイスをくれるからじゃないかなぁと思います。だから以前は、ぼくも占いに一種の救いを求めていました。いま思えば、その救いも“現世限り”のものなんですよね。

「ほんとの意味での救いってなんだろう?」と、この日曜日のひととき、ティーカップ片手に(ワンカップ片手にでもいいですけどw)考えてみてほしいな、と思います!

 

そのための一つの参考として、先週8月16日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年8月16日 聖霊降臨節第12主日礼拝

2020年8月16日
聖霊降臨節第12主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第146編1~10節。要約すると、

「ハレルヤ。わが魂よ、主を賛美せよ。この命ある限り、わたしは主をほめたたえ、賛美の歌をうたおう。どんな権力者にも、人を救う力はない。人間はいずれ土に帰り、その思惑も無に帰するのだから。
ああ、なんと幸いなことか、ヤコブの神、天地の創造主を助けとする人は。主は弱い人の味方となり、従う人を愛される。主はとこしえに王。イスラエルよ、あなたの神は永遠に王なのだ。ハレルヤ」

という内容です。

 

牧師説教は「救いの時は来ている」と題し、「ヨハネによる福音書」第7章1~9節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人のかりいおさいが近づいていた。

イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。

そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。

あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

 

―「ヨハネによる福音書」第7章1~9節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

大舞台での奇跡の実演を拒否したイエスの真意

奇跡の人か? 神の救い主か?

イエスには、少なくとも4人の弟と2人の妹がいました。その兄弟たちが、「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業(奇跡)を弟子たちにも見せてやりなさい」とイエスに勧めます。

このときエルサレムは、仮庵祭を間近に控えていました。仮庵祭とはユダヤ教三大祭日の一つで、旧約聖書に定められている祝祭です。

毎年7日の間、これを主の祭りとして祝う。第7の月にこの祭りを祝うことは、代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちは7日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。

これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちのの人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。

 

―「レビ記」第23章41~43節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

この祭りの期間中、ユダヤ人は自宅の庭や玄関先につくった仮庵(仮設住居)で暮らし、先祖が荒れ野で天幕テント生活を送ったことを思い起こすのです。

 

仮庵祭はまた、自分たちがだれによって生かされているかを再認識し、神の守りと導きに感謝するための期間でもありました。

ところが、イエス在世時代の仮庵祭は、“嘆きの時”になっていたのです。

出エジプトの際には、ユダヤ人は神の恵みを豊かに体験できていました。エジプトを脱出できたのも、荒れ野での生活が守られたのも、神の実質的な働きかけがあったからこそです。それに対して、当時のユダヤ人は不平不満で応えています。

一方、イエス時代のユダヤ人は、強大なローマ帝国の支配下にあって、ユダヤ国家の独立を実に熱心に祈り、また神の掟をしっかりと守っていました。それにもかかわらず、神からの応答は一切ありませんでした。

 

「われわれの先祖はどんなに信仰が薄くても救われた。それなのに・・・、なぜ神はこれほど敬虔なわれわれを救ってくださらないのか!」

 

神の恵みをまったく感じられない状況の中で、人々は神の臨在を心から求めていたのです。だからこそイエスの兄弟たちは、神の御業を示すようにイエスを促したのでした。

兄弟たちの意見はもっともなことのように思えますが、「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」と聖書は語っています。これはちょっと不思議です。

イエスを信じていたからこそ、兄弟たちは仮庵祭の場で奇跡を行うように勧めたのではないのでしょうか? 信じていなければ、そんな提案はしなかったのではないでしょうか?

 

イエスの兄弟たちへの返答を見てみましょう、「わたしの時はまだ来ていない」。これはとてもわかりにくい言葉ですが、イエスの真意はこういうことです、

「わたしがメシア(救い主)であることを示すときは、いまではない」

「わたしの時」とは、イエスが十字架にかけられて死ぬときのことであり、復活するときのことです。それは、この仮庵祭の期間中に実現するべきことではありませんでした。

イエスが神の小羊として捧げられるとき、つまり(すぎこしさい)のときこそが、イエスのおっしゃる「わたしの時」なのです!

 

兄弟たちはたしかに、イエスを「神の力の持ち主」と認識していました。でも、それだけでは正しい信仰とは言えません。兄弟たちも多くのユダヤ人と同じように、イエスをメシアとは信じていなかったのです。

 

自分の過ちを認めないことが過ち

もしイエスが兄弟たちの意見に従っていたら、イエスを信じる人は格段に増えたでしょう。しかも、仮庵祭にはイスラエル全土から人々が集まって来ましたから、イエスの名が広く知れ渡るチャンスでもあったのです。

ただ仮にそうなっていたとしても、人々が信じたのは、「自分の利益のために奇跡を起こしてくれるイエス」だったでしょう。それは間違った信仰なのです。

〈5000人の給食〉を経験した人々もイエスを求めましたが、その理由も「イエスさまがいれば食いっぱぐれずに済む!」という、自分本位なものに過ぎませんでした。

 

〈5000人の給食〉についてはコチラ
【礼拝】人はパンのみにて生くるにあらず

 

自分の利益から発した“信仰”は、イエスを憎むことにつながります。イエスは兄弟たちにおっしゃいました、

「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」

イエスは、(パリサイびと)をはじめとしたユダヤの有力者たちを非難しておられました。それは、パリサイ人たちが誤った動機で神の律法を守り、自分たちの正しさを主張していたからでした。

パリサイ人は自分たちの正当性を公然と否定されたことに怒って、イエスを殺そうと執拗につけ狙うようになります。自分たちの遵守している律法が、殺人を禁じているにもかかわらずです。

兄弟たちはパリサイ人と同様、自分たちの間違いに気づかず、逆に「なんで兄さんはぼくたちの言うことを聞かないんだ!」という態度でいました。それが、イエスを憎み殺すことになってしまったのです。

 

イエスのおっしゃる「世」には、わたしたちも含まれています。パリサイ人はイエスに間違いを指摘されて“逆ギレ”しましたが、そういうことはわたしたちにないと言いきれるでしょうか?

例えば、クリスチャンは日々いろいろなことを祈りますが、それがまったく叶えられないとき、もはや神への信仰を諦めてしまう人もいます。

また、自分の好きな御言葉を暗唱聖句として覚える一方、厳しい御言葉は聞こうとしません。自分の過ちを指摘されるような聖句には、耳を塞いでしまうのです。

 

事実、耳の痛い御言葉ほど、わたしたちのためになります。そのことを認めないなら、わたしたちはパリサイ人と同じです。

わたしたちは自分の罪に気づくことで、初めてイエスの十字架の意味を知ります。

そして十字架の意味を知れば、もうイエスを憎むことはできなくなります。

日本には「足を向けて寝られない」という言葉があります。「眠っている間さえ、受けた恩義を忘れない」という意味ですが、人に対してそうならば、神に対してはなおさらでしょう。

 

救いの恵みはすぐそこにある

「わたしの時」は、現代のわたしたちにとって「救いの時」を意味しません。いまは、「イエスのの時」を指す言葉と言えるでしょう。

なぜなら、わたしたちは十字架によって、すでに救われているからです!

たとえ、その救いが自分の望むようなものでなかったとしても、その望みを越えたかたちでわたしたちは救われるのです。

 

あなたはイエスによる救いを信じていますか?

聖書に書いてあるとおり、生まれる前から救われるように定められていた、とクリスチャンは信じることができます。その喜びを胸に、イエスがふたたび来られる日を待ち望みましょう。

 

遜の黙想

キリストは十字架にかけられたのち復活し、約2000年の時を経て、神さまの“安田遜救済計画”を成就させるために、ぼくの前に現れてくれた。実に、6000年越しで実現した計画だった!

ぼくはその計画を知るよしもなかったが、旧約時代のユダヤ人は、預言者を通して「メシア到来」を告げ知らされていた。にもかかわらず、多くのユダヤ人はその実現を待たずに死んでいった・・・。

でも、神さまの計画は必ず、ことごとく遂行される。いまその実現が待たれている計画は、キリストの再臨だ。世界大戦・疫病・飢餓・・・。世界情勢が聖書の預言どおりに進んでいるいま、目先のことに囚われず、救いの時を待ち望んでいたい。

天のお父さま、御子・イエスを通してぼくを救ってくださり感謝します。「その時」に希望を抱いて祈りつづけられるように、ぼくの内に聖霊を満たしてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)