遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】「ニンゲン」が「人間」に戻るために必要な食べ物

 

パン、ワイン、麦、ブドウ

 

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは歴史が好きで、中国の歴史書『正史 三国志』なんかを読んでいると、すごくびっくりすることが書かれているんです。

なんでも籠城中に兵糧が尽きてくると、城主は自分の妻やめかけを殺して、その肉を配下の兵士に与えたんだそうです。それが「崇高な行い」として書かれているから、時代って怖いなぁと・・・^^; 日本でも大飢饉のときには、仕方なく人肉を食べることがあったらしいですが。

今日はそんなグロテスクな表現が、本題の中にも出てきます。でも、いわゆるカニバリズムじゃありませんので、安心して最後まで読んでみてくださいね!

 

さて今回は、先週8月9日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日礼拝

2020年8月9日
聖霊降臨節第11主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第78編23~39節。要約すると、

「神は砂漠をさまよう民の上にマナを降らせられ、人々は天からのパンを飽きるほど食べた。神はまた、彼らの陣営に鳥の群れを送り、彼らの食欲を大いに満たしてくださった。
彼らは欲望のままに肉を食い、それゆえに神の怒りが若者たちを打ったというのに、彼らはなおも神の御業を信じなかった。罪の報いがその身に及んで初めて、彼らは神を捜し求めた。
彼らは口で神を賛美しても、心までは忠実でなかった。彼らは神を欺いたのだ。しかし、憐れみ深い神はその罪を赦し、彼らを根絶やしにはされなかった。人間が滅ぶべき存在であることを、御心に留められたからだ」

という内容です。

 

牧師説教はせいさんの恵み」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章41~59節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

ユダヤ人たちはイエスが言われたことについて、「彼はヨセフの息子ではないか。我々はその両親も知っているというのに、なぜ『わたしは天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき始めた。

そこでイエスは答えられた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしの父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。

聖書に『彼らは皆、神によって教えられる』とあるように、父から学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は、神のもとから来た者のほかには一人もいない。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

わたしは命のパン、天から降って来た生きたパンである。マンナを食べたあなたたちの先祖は死んでしまったが、そのパンを食べる者は永遠に生きる。そのパンとは、世を生かすためのわたしの肉である。」

そこでユダヤ人たちは、どうやって自分の肉を食べさせるつもりかと、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉はまことの食べ物、血はまことの飲み物だからである。

わたしを食べる者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。わたしが父に遣わされ、父によって生きるように、その人もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は永遠に生きる。」

 

―「ヨハネによる福音書」第6章41~59節(独自に要約)

 

「わたしの肉を食べ、血を飲みなさい」というイエスの暴論に秘められた恵み

神の横暴なまでの愛が信仰を与える

「わたしは天から降って来たパンである」それはユダヤ人にとって、を思い起こさせる言葉です。

そう聞いた人々は、「これはヨセフの息子のイエスではないか。・・・どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」とつぶやきました。別訳では「つぶやく」を「不平を言う」としていますが、それは旧約時代のユダヤ人も同じでした。

 

かつて奴隷とされていたエジプトを脱してからの40年間、ユダヤ人はあらを旅しながら、神のさまざまな御業に救われてきました。例えば、

  • エジプトの追撃隊に追い詰められたとき、海が左右に割れて逃げ道ができた
  • 肉が食べたくなったとき、宿営地にウズラの大群がやって来た
  • 飢餓状態に陥ったとき、天からマナという食べ物が降ってきた

などです。これほどの奇跡を目にしても、ユダヤ人は神に信頼せず、事あるごとに指導者・モーセに不平を言い募るのでした。

 

それと同じように、この時代のユダヤ人もイエスを信じず、

「あいつは学も地位も権力もない、ただの大工の息子じゃないか! それなのに自分を神と同等のように言うなんて、神へのぼうとくだ!」

と不平を言い合ったわけです。

 

一方、イエスはそのような人々に対してこうおっしゃいました、

「わたしをお遣わしになった父(父なる神)が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」

ここに「引き寄せる」とある言葉は、「引きずる」という、より強い意味の言葉にも訳されています。そのことから、2つの事実が読み取れるでしょう。

 

1つは、神が人間に対して抱いておられる思いはそれほど強いのだ、ということ。

もう1つは、人間は強力な働きかけがないとイエスを信じられないのだ、ということです。

 

イエスを食べるとはどういうことか?

イエスはさらに、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とおっしゃいました。ご自分を「パン」と表現しておられるのです。

それは明らかに、聖餐(せいさん)を意味しています。

最近、日本基督教団では、ある教会が洗礼を受けていない人も聖餐にあずからせている、ということが問題になっています。“差別”が理由だといいますが、は、イエスを信じるからこそ意味があるのです!

聖餐式のパンとワイン(ブドウジュース)は、クリスチャンにとって永遠の命に至る「命の糧」になります。イエスを信じない人にとっては、腹の足しにもならない、ひと欠片かけらのパンとほんの少しのワインにすぎません。

遜註

イエス・キリストを信じる人は、未受洗でもクリスチャンです。ただ洗礼は、イエスへの信仰を表明する重要な儀式であり、受洗者がクリスチャンであるという客観的な確証にもなります。

 

イエスはさらに、「人の子(イエスのこと)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃいました。その言葉は、実はわたしたちへの問いかけでもあるのです、

 

「わたしの十字架上の犠牲なしに、あなたは生きられるのか?」

 

信仰の有無にかかわらず、わたしたちはみな、イエスの犠牲なくしては命を保てない存在です。言い換えると、聖餐なしに永遠の命を得ることはできません。

だからこそイエスは、「聖餐にあずかれるように、わたしのもとへ来なさい」と、わたしたちをほんとうの命へと招いてくださっているのです。

 

また、イエスはこうも言っておられます、

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」

「いつもいる」と訳されている言葉は、もともと「とどまる・つながる」と同じ意味を持っています。そこで連想するのは、〈ブドウの木のたとえ〉です。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 

―「ヨハネによる福音書」第15章5節(新共同訳)

 

イエスにつながれば、豊かな実を結ぶ。その約束を自分のものにするためには、イエスの肉と血にあずかること、つまり聖餐にあずかることが大切なのです。

 

十字架に生かされ、復活を待ち望む

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と、イエスはわたしたちに約束しておられます。

聖餐式では、イエスの十字架を思い起こし、その尊い犠牲に感謝します。でも、それだけでは決して十分ではありません。

 

約束された「永遠の命」と「復活」への希望を、新たに持ち直すことが大切です。

 

死を恐れたり、死を終わりだと思ったりしていませんか?
――それでは、ほんとうの意味でイエスを食べたとは言えません。イエスの血肉にあずかる人は、すでに永遠の命を生きはじめています。

「終わりの日=終末」について意識していますか?
――自分の生きているうちには来ないだろう、と高をくくってはいけません。イエスのを待ち望み、いつも目を覚ましていましょう。

初穂としてのイエスの復活を信じていますか?
――イエスが神の子だからこそ、特別に復活できたわけではありません。イエスの復活は、わたしたちも同じように復活することの証です。

 

また、次の言葉も心に留める必要があります、

「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」

ここでは「生きる」が(「生きておられる」を含めて)3回繰り返され、「生ける神の命 → イエスの命 → わたしたちの命」と、それぞれの命の根拠が示されています。

 

イエスが十字架の上でご自分の肉を裂き、血を流されたことで、わたしたちは「永遠の命」という希望を与えられました。聖餐にあずかってその希望を自分のものにし、神からの命を喜んで生きていきましょう。

 

遜の黙想

今春、ぼくは洗礼を受けて聖餐式に連なる信徒となったが、折からのコロナ禍がぼくを聖餐から遠ざけている。ぼくはまだ、一度も聖餐にあずかったことがないのだ・・・。

聖餐式では毎回、〈制定語(せいていのことば)〉が読み上げられる、「ふさわしくないままで主のパンと杯にあずかる者は、主の体と血とを犯すのであります」。

そして、今回の説教で牧師先生はおっしゃった、「聖餐では、永遠の命と復活への希望を持つことが大切です」。そのことをより深く理解するために、神さまはいま、ぼくに猶予を与えてくれているのだと思う。

慈愛の神さま、十字架・永遠の命・復活の意味を十分に理解できていないと感じることが、ぼくには多々あります。初めての聖餐が許されるその日まで、あなたの御業の大きさを心に刻ませてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)