遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】カラダ生かしてタマシイ殺す、矛盾した地上生活

 

聖餐式のパンとブドウ酒

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

プロテスタント教会には、「聖礼典」と呼ばれるふたつの大切な儀式があります。ひとつはイエス・キリストを信じたことを表明する洗礼式、もうひとつが「せいさんしき」です。

聖餐式というのは聞きなじみがないかもしれませんが、カトリック教会でいう「ミサ」に相当します。かの有名な〈最後の晩さん〉の席で、キリストご自身がお命じになった儀式で、パンとワイン(またはブドウジュース)を使います。

パンはキリストの体を、ワインはキリストの血を象徴し、それを頂くことでキリストの犠牲を記念するのです。この聖餐式につながるお話が、今日のテーマです!

 

今回は、先週8月2日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年8月2日聖霊降臨節第10主日礼拝

この日は〈平和聖日〉でもありました。日本キリスト教団が独自に制定した記念日で、8月の第1日曜日がそれにあたります。詳しくは牧師先生の解説文(抜粋)をご覧ください。

 

1961年、日本キリスト教団の西中国教区(広島・山口・島根の3県)が、8月6日の原爆投下の日、またはその直前の日曜日を「平和聖日」とすることを提案しました。その後、西中国教区は教団全体で平和聖日を守ることを建議し、1962年に可決されました。原爆の悲惨さを経験した広島の諸教会の祈り、核廃絶に向けての祈りが発端でした。

「平和聖日」は第二次世界大戦、そして原爆という悲惨な過去を思い、平和を祈るものですが、戦後75年を経たいま、わたしたちは心の平和についても考える必要があると思います。

わたしたちは戦争には苦しんでいませんが、新型コロナウイルス感染症によって、健康だけでなく経済的に苦しい思いをしておられる方も多いでしょう。また、感染症に対する考え方の違いにより、トラブルが発生することもありました。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタ5:9)

具体的に平和をつくり出すことはたいへん難しいことかもしれません。だからこそ、わたしたち自身が、神がともにいてくださる恵みに感謝しながら、祈って歩んでいきたいと思うのです。

 

 

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第68編2~11節1~10節)。

牧師説教は「永遠の命に至る食べ物」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章22~27節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

22その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が1そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。23ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。

24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。

26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 

―「ヨハネによる福音書」第6章22~27節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

パンを求めてイエスを猛追する〈5000人の給食〉にあずかった人々

ガリラヤ湖畔で行われていた聖餐式

今回は、〈5000人の給食〉の翌日のお話です。5つのパンと2匹の魚で5000人以上もの人々を満腹させた奇跡は、イエスがキリスト(救い主)であることをはっきりと示すものでした。

湖の向こう岸に残っていた群衆(22節)とは、実際にパンや魚を食べた人たちを指しています。ところが、彼らはイエスをキリストだとは思わず、こんなふうに考えていました、

 

この人をおれたちの王にしよう。そうすりゃ、食いっぱぐれなくて済む。この人こそ、「ユダヤ王」になるべきお方だ!

〈5000人の給食〉の記事はコチラ

【礼拝】人はパンのみにて生くるにあらず

 

勝手に盛り上がる人々をあとにして、イエスはガリラヤ湖(ティベリアス湖)を渡られました。人々はイエスの不思議な力を求めて、なんとかイエスを追おうとします。

その執念に応えるかのように、何そうかの舟が彼らのいる岸へやって来ますが、聖書はそれらが「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た(23節)と、ものすごく回りくどい書き方をしています。その回りくどさを通して、ここが重要な箇所であることを、福音書著者・ヨハネは訴えているのです。

参考地図

 

実は、この箇所は「せいさん」について暗示しています。

聖餐式でパンと杯にあずかることは、イエスをキリストだと信じるクリスチャンであることの証です。ヨハネはここで、〈5000人の給食〉が聖餐式の予表的モデルだったことを示しています。ヨハネの遠回しな表現を、その意味のままに言い換えてみましょう、

数そうの小舟がティベリアスから、人々がイエスの聖餐にあずかった場所へ近づいて来た

 

人々はガリラヤ湖のほとりで、知らずしらずのうちに、イエスから命の源である聖餐を受けていたのです!

 

食べて死に、信じて生きる!?

人々はこれ幸いと舟に乗り、イエスとの再会を果たします。念願を叶えたのだから喜んでもいいはずですが、人々は「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか(25節)と批判的です。本音はもっと過激だったかもしれません、

 

先生、あなたを王にして差し上げようと思ったのに、なんで離れていかれたんですか!?

自分たちの思いどおりに動いてくださらないイエスに、人々はイラ立っていたのでしょう。そういうことは、ぼくたちにもよくありますよねσ^^;

 

勝手に興奮する人々に対し、イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるし(奇跡)を見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ(26節)とおっしゃいました。

前のセクションで述べたように、人々はイエスをキリストとしてではなく、“地上の王”としてあがめていました。しかも、食べ物に困らないと考えたから、という理由で。そこでイエスはまた、こう説かれます、

 

朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい(27節)

 

朽ちる食べ物」とは、置いておけば腐ってしまう普通の食べ物はもちろん、お金や地位といった欲望の対象のことでもあります。それらを得られないと、ぼくたちは心を騒がせてしまうものです。

一方、永遠の命に至る食べ物」とは、神の御言葉を意味します

イエスは宣教を始める前、40日間の断食をされました。そのとき、石をパンに変えて食べればいい、と悪魔に誘惑されたイエスは、神の御言葉を引用して人はパンだけで生きるものではない(マタ4:4)と言い、悪魔を追い払われたのでした。

 

とは言え、イエスは「朽ちる食べ物」の必要性を否定されたわけではありません。もしそうであれば、恐らく〈5000人の給食〉の奇跡は行われなかったと思います。

食べ物は、ぼくたちの命を保つうえで絶対に欠かせません。でも、人はそれだけでは生きられないのです。だからこそ、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とイエスはおっしゃいました。そして、その具体的な働きを、イエスの御言葉から知ることができます。

イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 

―「ヨハネによる福音書」第6章29節(新共同訳)

 

神がお遣わしになった者=イエス・キリスト」を信じることこそが、「永遠の命に至る食べ物=神の御言葉」のために働くことになるのです!

 

ほんとうの栄養が詰まった命のパン

イエスを追った人々は、ガリラヤ湖でせいさんにあずかりました。そして、その場所から、イエスを捜しに出かけました。

ただ、人々が求めたのは、「永遠の命に至る食べ物」ではありませんでした。その食べ物は「命のパン」とも呼ばれますが、改めて、命のパンとはなにか?

 

――それは、神の御言葉です。

 

聖書に書かれている御言葉は、道徳的ないい話ではなく「あなたに命を与える言葉」であり、大衆向けの説教ではなく「あなたに語られている言葉」なのです。

イエスはぼくたちひとりひとりに、それぞれの境遇に応じて、命のパンを与えてくださいます。ぜひそのパンを求めてください。

 

命のパンは、あなたの命をほんとうの意味で生かしてくれます。イエスのパンと杯は、ほかでもない、あなたに与えられるものなのです!

 

遜の黙想

ぼくには、なに者かになりたい、という思いが常にあるようです。ある社会学者によると、現代の若者は特にその願望が強いのだとか、SNSやYouTubeの影響でしょうか。

イエス・キリストはそういう思いを否定せず、でも、それ以上に求めるべきものがあると教えておられます。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である(ヨハ6:63)とおっしゃるように、人間には神の御言葉こそ不可欠なのだ、と。

キリストを追ったあの人々のように、気づくと「朽ちる食べ物」を求めている自分がいます。毎日しっかりと「命のパン」を頂いて、そのおいしさをよくよく知らなければなりません!

父なる神様、恵みによって与えてくださるすべての食べ物に感謝します。毎朝のトーストと同様、永遠の命に至る食べ物を日々求める心に変えてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)