ハレルヤ~! 安田遜です。
7歳くらいのころ、友達の家から自宅まで帰るのに、道がわからなくなって半ベソをかいたことがありました。友達が一緒に案内してくれた行きのときに、しっかりと道順を確認しておらず、迷子になってしまったのです。
わずかに見覚えのある景色をたどりながら、なんとか日暮れ前に家へ帰ることができました。あのときの言いようのない不安と心細さは、25年たったいまでも忘れることができません。
迷子になってしまうのは、どこに目的地があるのか、または、どうやって目的地へ行けばいいのかわからないからでしょう。ところで、あなたは人生という道の上を、どこへ向かって歩んでおられますか?
今回は、先週7月26日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第54編3~9節(改1~7節)。
牧師説教は「目指す地へ進もう」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章16~21節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
16夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
1925ないし30スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
―「ヨハネによる福音書」第6章16~21節(新共同訳)
ガリラヤの湖上を歩くイエスが弟子たちに与えた信頼と希望
イエスがいれば怖くない!
今回のお話は、イエスの弟子たちがガリラヤ湖の上で体験した出来事です。このとき、弟子たちはイエスと離ればなれになって、次の目的地へ先行しようとしていました。
というのも、イエスが人々から隠れるように、山の中へ逃げておられたからです。イエスの奇跡を目撃・体験した人々は、イエスを“便利な人”として利用したがっていたのでした。
さて、次の旅先・カファルナウム(カペナウム)を目指して、弟子たちはガリラヤ湖を漕ぎ出しましたが、運悪く嵐に見舞われてしまいます。そのときの様子を、聖書は「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」(18節)と語っています。
原典の後半部分を直訳すると、「湖は起き上がらされた」となり、嵐の激しさをうかがえます。弟子の中にはペトロ(ペテロ)、ヤコブ、ヨハネら、舟の扱いにたけているはずのもと漁師もいましたが、彼らでさえどうすることもできなかったようです。
しかも、舟はいまや岸から25~30スタディオン(5㎞前後)の位置。ガリラヤ湖の横幅は約13㎞ですから、弟子たちは半分近くまで漕いで来たことになります。湖のほぼまん中にいて、まさに進退きわまった状況です!
絶体絶命の弟子たちのもとへ、ようやくイエスが合流なさいます。別の舟に乗って…と思いきや、なんと「湖の上を歩いて舟に近づいて来られ」たのでした(19節a)。
でも、弟子たちに安心した様子は見られません。むしろ逆で、「彼らは恐れた」(同節b)と聖書は伝えています。「マタイ」「マルコ」の両福音書いわく、イエスを幽霊だと思って恐れたのだ、と。そこでイエスは、弟子たちにこうお呼びかけになりました、
「わたしだ。恐れることはない」(20節)
この「わたしだ(エゴー・エイミ|Ἐγώ εἰμι)」は、「ヨハネによる福音書」ではよく目にする言葉で、以下のように、イエスがご自分について証言なさるときに使われています。
わたしが命のパンである
(6:35)わたしは世の光である
(8:12)わたしは復活であり、命である
(11:25)わたしは道であり、真理であり、命である
(14:6)わたしはまことのぶどうの木
(15:1)
これらは、原典では「わたしだ。○○である」という表現で書かれています、「わたしだ。ぶどうの木である」といった具合に。
イエスの「わたしだ」の声かけによって、初めて弟子たちはイエスを認識できました。それは、イエスと弟子たちの信頼関係があったからこそだと思います。
ぼくたちも家族などの親しい人に電話をかけるとき、「ぼくだよ!」とさえ言えば、わざわざ名乗らなくても相手に認識してもらえます。それは、お互いに信頼関係で結ばれているからです。残念ながら、その信頼関係が「オレオレ詐欺」などに悪用されることもありますが…。
イエスは恐怖にすくむ弟子たちに、ご自分との信頼関係を思い出させられました。そして弟子たちは、イエスこそが恐怖を取り除く力であることを、改めて思い知らされたのでした。
イエスこそ最良の旅の友
弟子たちは、嵐の湖上を近づいて来たのが幽霊ではなく主だとわかると、イエスを舟の中へ迎え入れようとします。――が、その矢先、舟は目的地に着いてしまいました…(・∀・)ハニャ??
おかしなことですよね。ほかの福音書の同じ場面を見てみると、到着までには、確かに以下のような流れがあったことがわかります。
- イエスが舟に乗り込まれる
- 嵐が静まる
- 目的地に到着する
福音書著者・ヨハネがこの流れを省略したのは、イエスが舟にお乗りになったかどうか、嵐がやんだかどうかを、さほど重要視しなかったからです。では、なにが重要なのか? ――それは、
弟子たちが恐怖を忘れて、イエスを迎え入れようとしたこと!
弟子たちが目的地にたどり着けたのは、決して嵐が静まったからではありません。たとえ嵐が吹き荒れたままだったとしても、彼らはゴールできたでしょう。なぜなら、イエスがともにおられたからです。
弟子たちは湖の上で激しい嵐に襲われました。同じように、ぼくたちの人生にも、自分の力ではどうすることもできない出来事が起こります。
そのようなときでも、イエス・キリストはともにいてくださるのです。イエスを救い主だと信じれば、嵐はたちまちそよ風に変わり、いいことだらけの平穏な人生が訪れる――。
そんなことはありえません!
相変わらず苦しいことのほうが多いかもしれない。でも、その苦しみや悲しみの中でともにいてくださるのが、イエス・キリストという神です。あなたの隣にイエスがおられるなら、ゴールへたどり着けないと嘆く必要はありません。
さて、イエスはカファルナウムへ上陸されましたが、その地は通過点に過ぎませんでした。イエスの真の目的地はエルサレムであり、そこで待ち受ける「十字架」です。
十字架が、イエスにとってのゴールでした。
それは、弟子たちにとっては大きな喪失でしたが、イエスは復活して、ふたたび彼らの前に姿を見せられました。復活を信じようとしない弟子がいても、イエスは今回のように「わたしだ」とはおっしゃいませんでした。
復活を信じない弟子・トマスに、イエスは自らあなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい
(ヨハ20:27)と言い、行動によってご自分を示されたのです※。
遜註
十字架刑の際、イエスは両手両足に太い釘を打たれました。また死後、絶命していることを確かめるため、脇腹を槍で突き刺されました。
トマスはそのことによって信仰へと導かれましたが、弟子たちの人生で嵐が静まることはありませんでした。ユダヤ社会からの追放と迫害、そして殉教…。
弟子たちの人生には、暴風雨が吹き荒れつづけました。それでもイエス・キリストこそが神だと信じぬき、ひたすら目的地へと突き進んだのです。
目指すべきゴールはどこ?
毎回の礼拝では、必ず〈主の祈り〉を唱えます。と言っても、イエスがそう祈るように命じられたから、形式的に唱えるのではありません。〈主の祈り〉は、ぼくたちが目的地を目指すための祈りでもあるのです。
「御国を来たらせたまえ」と祈るとき、ぼくたちは「御国=神の支配」が広くこの世界に及ぶことを願います。それこそが、ぼくたちの目指すべきゴールです。
つまり、ぼくたちの目的地とは、ほかならぬ「神の国」なのです!
いま、あなたがツラい日々を送っておられても、幸せな毎日で神などいらないと思っておられても、イエスはひとりひとりに語りかけ、ご自分の存在をお示しになります。
いつか「わたしだ」の声をお聞きになったら、ぜひイエスを迎え入れ、ただひとつのゴール、神の国を目指しはじめてください!
遜の黙想
ぼくは7歳のころに比べると、道に迷うことはほとんどなくなりました。初めての土地で道がわかならくなっても、地図アプリという案内役があるので安心です。
ただ、人生の道には迷いっぱなしです。これと言ってやりたいこともなく、ゆえに方向性も定まらず、自分の将来像などとても見いだせません。地図アプリに示してもらえたら、どんなに楽でしょうか…笑
イエス・キリストの語りかけを聞いたとき、初めて方向性が与えられました。他人のために生きることです。恥ずかしながら、ぼくはいまでも自分のためにあくせくしていますが、神の国は、他人への愛とともに広がっていくのだと思います。
*
あわれみ深い神様、いま一度心の王座を明け渡しますので、どうぞあなたが座ってください。まずぼくの内にあなたの御国を打ち建て、ぼくを通してあなたの支配をあまねく広げてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
- Tracy Angus-Hammond(Pixabay)
- パブリック・ドメイン(ウィキメディア・コモンズ)
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