ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは10代のとき、高橋歩さんという旅人の本を読んで、バックパッカーに憧れた時期がありました。高橋さんに影響されて、「自分探し」のためにインドへひとり旅に出かける若者は多いらしいです。
結局、ぼくはひとり旅をする勇気が出なかったんですが、旅先で出会う「新しい自分」って、決してゴールではないですよね。新しい自分を見つけたら、またその自分との旅が始まるわけで。
人の生き方はゴールをどこに設定するかで変わるし、どうやってそこへ到達するかでも変わります。ぼくのゴールはもう決まっているので、いまはその道のりをどう生きるか模索しているところです!
さて今回は、先週7月26日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
*
この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年7月26日 聖霊降臨節第9主日礼拝
2020年7月26日
聖霊降臨節第9主日礼拝
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。
読上げ箇所は、「詩編」第54編3~9(新改訳1~7)節。要約すると、
「神よ、わたしを救ってください。この祈りを聞いてください。暴虐な者どもが、神を恐れぬ者どもが、わたしの命をねらっているのです。だが、見ているがいい。神がわたしを助けてくださる。
わたしへの攻撃を彼ら自身の上に臨ませ、彼らを滅ぼし尽くしてください。わたしの救いの神、主よ、あなたにいけにえを
という内容です。
牧師説教は「目指す地へ進もう」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章16~21節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。25ないし30スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
―「ヨハネによる福音書」第6章16~21節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
ガリラヤ湖の嵐に吹かれる弟子たちとその信仰心
信頼は恐怖に勝る
「ヨハネによる福音書」ではほかの3福音書と異なり、イエスは常に弟子たちと行動をともにしておられます。それは弟子たちにご自分を見習わせるためであり、宣教もイエスご自身がなさいました。
でも今回の箇所では、イエスは珍しく弟子たちと別行動を取っておられます。実は、イエスは人々から隠れるように、山の中へ逃げておられたのです。
と言うのも、イエスの奇跡を目の当たりにした人々が、イエスを救い主として信じるのではなく、“便利な人”として利用しようと考えていたからでした。
さて、イエスと離ればなれになった弟子たちは、対岸の町・カペナウム(カファルナウム)を目指してガリラヤ湖を漕ぎ出しますが、運悪く嵐に見舞われてしまいます。
聖書はそのときの様子を「荒れ始めた」と語っています。ギリシャ語の原典を直訳すると、「波が起き上がらされた」。なんとも回りくどい言い方ですが、湖はまさにそのような状況だったのでしょう。
もと漁師で舟の扱いに長けているはずのペトロ(ペテロ)、ヤコブ、ヨハネでさえも、とても対処できないような激しい嵐が起こったのです。
弟子たちのいる場所は、岸から25~30スタディオン(5㎞前後)。ガリラヤ湖は南北に約20㎞、東西に約13㎞ですから、弟子たちは半分近くまで漕いで来たことになります。
湖のほぼまん中にいて、進むことも戻ることもできない状況。そんな弟子たちのもとへ、イエスが近づいて行かれました。しかも、なんと湖の上を歩いて行かれたのです∑(゜д゜)
でも、弟子たちに安堵した様子は見られません。むしろ逆で、湖上のイエスの姿に恐れを抱いています。恐怖の理由は書かれていませんが、まさかこんなところに人がいるわけがないと思ったのでしょう。「マタイ」「マルコ」の両福音書には、幽霊だと思って恐れた、と書かれています。
そこでイエスは、弟子たちにこう声をおかけになりました、
「わたしだ。恐れることはない」
この「わたしだ」という言葉は、「ヨハネによる福音書」ではよく目にします。ほかの箇所でも、イエスがご自分について言い表すときに使われているのです。例えば、
わたしが命のパンである
(6:35b)わたしは世の光である
(8:12b)わたしは復活であり、命である
(11:25b)わたしは道であり、真理であり、命である
(14:6b)
などなど。これらはもともと、「わたしだ。●●である」という表現で書かれています、「わたしだ。命のパンである」といったように。
弟子たちはその「わたしだ」の声かけによって、イエスをイエスだと認識できました。それは、イエスと弟子たちの信頼関係があったからこそでしょう。
わたしたちも家族などの親しい人に電話をかけるとき、わざわざ名乗らなくても「わたしだよ」とさえ言えば、相手に認識してもらえます。それはお互いに信頼関係で結ばれているからです(その信頼関係は「オレオレ詐欺」などに悪用されもしますが・・・)。
イエスは恐怖にすくむ弟子たちに、ご自分との信頼関係を思い出させたのです。そして弟子たちは、イエスこそが恐怖を取り除く力であることを、改めて認識したのでした。
ゴールへの船路をだれと行くのか?
湖上の人物が幽霊ではなく主だとわかった弟子たちは、イエスを舟の中へ迎え入れようとします。――が、その矢先、舟は目的地に着いてしまいました! おかしなことです。
ちょっとほかの福音書の、同じ場面を見てみましょう。すると、
- イエスが舟に乗られる
- 嵐が鎮まる
- 目的地に到着する
という流れが、はっきりと書かれています。でも、「ヨハネによる福音書」ではそうではありません。
著者・ヨハネにとって、イエスが舟に乗り込まれたかどうか・嵐が鎮まったかどうかは、さほど重要なことではないのです。では、なにが重要なのか?
――弟子たちが恐怖を忘れてイエスを迎え入れようとした、という事実こそが重要なのです。
弟子たちが目的地にたどり着けたのは、決して嵐が鎮まったからではありません。嵐がどうなったかにかかわらず、イエスを受け入れたからこそ、弟子たちはゴールできたのです!
弟子たちを襲った嵐のように、わたしたちの人生にもときどき、自分の力ではどうすることもできない出来事が起こります。
そのようなときでも、イエス・キリストがともにいてくださるのです。
イエスを救い主だと信じさえすれば、人生の嵐は鎮まり、いいことだらけの平穏な人生が訪れる――。そんなことはありえません。相変わらず苦しいことのほうが多いかもしれない。
でも、その苦しみや悲しみの中でともにいてくださるのが、イエス・キリストという方です。わたしたちはこのイエスとともに、どんな状況に見舞われても、それぞれの目指す地へ到達することができるのです!
イエスは弟子たちとともにカペナウムへ上陸されましたが、その地は通過点にすぎませんでした。イエスの真の目的地はエルサレムであり、そこで待ち受ける「十字架」です。
十字架は、イエスにとってゴールでした。一方、弟子たちにとっては喪失でした。
のちに復活して弟子たちの前に現れたとき、イエスはこのときのように「わたしだ」とは言っておられません。ただ行動によって、ご自分であることを示されました。
復活を信じようとしない弟子・トマスに、自らあなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい
(ヨハネ20:27b)とおっしゃったのです※。
遜註
十字架刑の際、イエスは両手両足に太い釘を打たれました。また死後、絶命していることを確かめるため、脇腹を槍で突き刺されました。
トマスはそのことによって信仰へと導かれましたが、弟子たちの人生で嵐が鎮まることはありませんでした。ユダヤ社会からの追放と迫害、そして殉教・・・。
弟子たちの人生には、暴風雨が吹き荒れつづけました。それでもイエス・キリストこそが神だと信じ抜き、ひたすら目的地へと漕ぎ進んだのです。
神の国を目指して
わたしたちの目的地とは、いったいどこでしょうか?
――それは、神の国です。神の支配が広くこの世界に及ぶことこそ、すべての人の目指すべきゴールです。
その実現への願いは、〈主の祈り〉の中にもあります。「御国を来たらせたまえ」という祈りです。
〈主の祈り〉は、イエスがそう祈るように命じられたからと、ただ形式的に唱えるものではありません。わたしたちが目的地を目指すための祈りなのです。
クリスチャンになると、人々に御言葉を伝えるメッセンジャーの使命を与えられます。毎週の礼拝を終えてそれぞれの生活の場に戻ることは、神の国を建設するために派遣されることを意味するのです。
イエスはツラいことの多い現実を生きる、わたしたち一人ひとりに語りかけ、ご自分の存在を示しておられます。その声を聞き、いつもそばにいてくださるイエスに信頼しましょう。わたしたちの目指すべきゴールは、神の国なのです!
遜の黙想
「ぼくは生きられる」その瞬間、ぼくはもっとも自信に満ちあふれていた。たった数秒前まで、一切の望みを失い、自ら人生を卒業しようとしていたにもかかわらず。
それからも、ぼくの人生は相変わらずぼんやりとしていて、自分の将来像など定めようもない。違うことはただ一つ、キリストのいる「神の国」というゴールを見出した、ということだけだ。
キリストは、ぼくの思い悩みの闇に輝いて以来、いつも隣にいて、決して迷わないように導いてくれる。つまづいてもつまづいても、顔を上げれば、そこにキリストは輝きつづけている・・・。
*
イエスさま、ときどきあなたを疑ってしまいます。ぼくのために命を捨ててくださったあなたを、もっと信頼したいです。身軽になって神の国を目指せるように、余計な荷物を預けさせてください。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)
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