遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】アーメン。それは「命」というプレゼントを受け取る言葉

 

AMENのレターキューブ

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくね、ときどき「命」について考えると、フワァ~って気が遠くなるんですよ。ぼくがいま生きてるってことは、先祖たちがいるってことじゃないですか。

まぁそれは当たり前なんですけど、歴史の授業思い出してみてくださいよ。日本史も世界史も、戦乱・飢饉・天災の連続じゃないですか!? よく生き残れたなって思いません?

先祖たちがそういう過酷な時代を生き抜いてきたからこそ、いまぼくが生きてるんだなぁって考えたら、ちょっとクラクラしちゃうんです(@_@)笑

 

先祖を守ってくれた神さまに感謝して、先週7月19日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日礼拝

2020年7月19日
聖霊降臨節第8主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第96編7~13節。要約すると、

「諸国の民よ、栄光と力を主に帰せよ。供え物を携え、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。主こそ王であり、世界は固く据えられ決して揺らがない。
天も地も、そこにあるすべてのものも、主を迎えて共に喜び祝え。主は世界を裁くために来られ、真実をもって諸国の民を裁かれる」

という内容です。ここでは「裁き」が強調されていますが、今回はそれを免れた先にある「永遠の命」をキーワードにしましょう。

 

牧師説教は「永遠の命を与えるお方」と題し、「ヨハネによる福音書」第5章19~30節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。

また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。

また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。

また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 

―「ヨハネによる福音書」第5章19~30節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

「わたしには何事もできない」という言葉に表れるイエスの神性

イエスは神だからこそ無力?

人間にできないことも神にはできる、というのが聖書の一貫した意見です(ルカ18:27)。でもイエスはここで、「わたしは自分からはなにもできないのだ」と言っておられます。

イエスは神が人となって来られた方ですから、この言葉はとても意外に思えます。しかも、それを2度の癒しの奇跡の直後に言っておられるのです。

イエスは病気で瀕死の子どもを救ったあと(ヨハネ4:49-51)、38年も苦しんでいる病人を癒されました(5:5-9)。普通なら、「わたしは奇跡を起こせるのだ!」と誇ってもいいところです。

 

さらにイエスの“無力宣言”は、「はっきり言っておく」という前置きを伴っています。これは「ヨハネによる福音書」に特徴的な言葉で、「アーメン、アーメン」を訳したものです。

アーメンはもともと「たしかにそうです」という意味で、クリスチャンが祈りの最後に唱えるときには、その祈りが真実であることを表しています。また、だれかの意見に同意するときにも使います。

イエスはこの言葉を、「真理や救いに関わる重要な事柄」を話す前に、注意喚起として使っておられます。そして「アーメン、アーメン」と言う人物は、イエスだけなのです。

 

さて、イエスの「アーメン、アーメン。わたしは無力だ」という宣言は、実はご自分に敵対する人々に対してなされています。今回の聖書箇所の前にある記述を見てみましょう。

そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 

―「ヨハネによる福音書」第5章16-18節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

イエスの敵対者たちはまず、労働をしてはいけない安息日に、イエスが病人を癒すという“労働”をしたことを非難しています(さきほど触れた、38年間苦しんだ人の癒しについてです)。

そしてそれ以上に、「わたしは神だ!」とも取れるぼうとく的発言をしたイエスに対して、激しい殺意を抱いたのでした。

 

そのことを踏まえてイエスの“無力宣言”を聞いてみると、「いえいえ、みなさん、わたしは無力なのです。わたしにはなにもできないのですよ」という謙遜に聞こえなくもありません。

――が、それはまったく違います。

イエスはこの“無力宣言”を通してこそ、「父なる神とわたしはまさに一体なのだ!」ということを示しておられるのです。

 

イエスの言葉には、「父なる神のなさることを見なければ」という前提があります。つまり、「神の御心でなければ、わたしは何事もできないのだ」ということです。

もっと突き詰めて言うと、イエスのなさることはすべて神の御心だということ、神の御心がそのままイエスの御業として現れているということ、「イエスの御業=神の御業」だということです!

 

イエスの“無力宣言”には、神の力の恵みが表されているのです。

 

神から与えられる最大の賜物を受け取ろう!

イエスの意外な“無力宣言”は、「あなたたちはどう考えているのか?」という、わたしたちへの問いかけでもあります。わたしたちはイエスのように、「わたしにはなにもできません」と言えるでしょうか?

わたしたちの多くは、自分の無力を認めたくありません。むしろ「わたしにはアレができるわ!」とか「オレにはコレができるんだ!」とか、自分の能力を誇りたいと思うものです。

能力は自他ともに「優れた人間」と認められる材料になりえるし、なによりも自分自身が自分を「優れた人間」だと思いたいから、その能力を誇るのではないでしょうか。

イエスの「わたしにはなにもできない」という言葉を考えるとき、自分の能力はすべて神のものであり、神から預かったものなのだ、と認識せざるを得ないのです。

 

「マタイによる福音書」第25章の〈タラントのたとえ〉はよく知られています。

主人からそれぞれ5タラントと2タラントのお金を預かった2人の召使いが、それを元手に商売をして、稼いだ分を主人に返上する、というお話です。

召使いの預かったお金があくまで主人のものであるのと同じように、わたしたち一人ひとりの持つ能力・才能も神からの預り物であって、自分が誇っていいものではありません。

このタラントは、「talent(才能)」の語源となりました。オリンピックに出るようなアスリートでも、神が与えてくださっていなければ、自分自身でその才能を得ることはできないのです。

 

そして神は、才能以前に「命」を与えてくださいました。

 

さきほど、イエスが病気で死にそうな子どもを癒したことについて少しだけ触れましたが、イエスがどのようにその子を癒したかというと――

「生きる」

子どもの父親にそう告げただけでした。「あなたの子は治る」ではなく、「あなたの子は生きる」と言って、命そのものをお与えになったのです!

 

「生きる」で救われた子どもの記事はコチラ
【礼拝】あなたが生きている命は、本当の命ですか?

 

このとき救われたのは、実は肉体の命だけではありません。のちに子どもとその両親はイエスを信じるようになり、その信仰によって「永遠の命」を与えられたのでした。

わたしたちは死後、神の裁きを受けることが決まっています。

「裁き」と聞くと、わたしたちは恐れを感じるものです。それは、罪を犯したくないと思っても、わたしたちはその罪から逃れることのできない存在だからです。でも、イエスはこう言われます、

 

「わたしを通して父なる神を信じる者は、永遠の命を得る。そして、裁きを受けることもなくなるのだ!」

 

イエスを自分の救い主として信じる人は、その時点で死に勝利しています。なぜなら、イエスの十字架上の死によって、わたしたちの裁きはすでに済まされているからです。

十字架はすべての人を救うためにある――それはまったく確かなことですが、大切なのは、その十字架の力を信じるかどうかなのです。

別の箇所でイエスは、「わたしを信じる者は死んでも生きるのだ」と言われました(ヨハネ11:25)

 

イエスは信じない人に対して、「あなたは地獄へ落ちてしまえ!」などとは言われません。「信じなさい」とくり返し勧め、それを望んでおられるのです。

 

死から命へ移るために

今回の箇所で「アーメン、アーメン」は3回出てきますが、その3度目でイエスは、「死んだ者が神の子の声を聞くときが来る」と言われました。

この「死んだ者」とは、実際の死者だけを指すのではありません。むしろ霊的な死者――つまり、イエスを信じないために神の裁きのもとに置かれている人を指しています。

 

そして、そのような「死んだ者」こそが、イエスの御言葉を聞くのです!

 

わたしたちは「アーメン、アーメン」の強調とともに、イエスのその御言葉を聞きました。わたしたちも「アーメン」と答えて、永遠の命を生きる者でありたいと思います。

 

遜の黙想

神はある明確な目的を持ってぼくを造られた。そして、ぼくがそれを果たすのに最低限必要なもの――環境・気質・身体的特徴・学力・才能・人間関係・その他諸々を与え、また整えてくださっている。

ぼくは自分の意志で生まれてきたのではない。また、両親の意志のもとに生まれてきたことは確かだが、ぼくの生来の性質は、両親に操作されて定まったものではないだろう。

自分の境遇や性質に不満を持つことは数えきれないほどあるが、神にとってはそれがベストなのである。神がご自分の目的のために、その達成を意図してぼくを造られたのだから。

 

では、神の目的とはなんなのだろうか? ――それはやはり、「すべての人に永遠の命を与えること」だろうと思う。しかし実は、すでにすべての人が永遠の命の獲得権を得ている、キリストの犠牲によって。

問題は、自分が正当な権利者である事実を多くの人が知らない、ということである。また、知っていてもいぶかしんで権利を放棄してしまう、ということである。

神はぼくを造ったとき、こう言われたのではないだろうか、通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ(ルカ14:23)

ぼくに与えられたすべてのものが、神のこの横暴なまでの愛に由来するのだと考えると、本当に胸が熱くなる。賜物を自分のために使うわけにはいかない!

 

人間は自分の意志によって生まれるのではないが、自分の意志によって神に反逆した。だからこそ、自分の意志で神に立ち帰らなければならない。そして、その権利が与えられている。

キリストは「信じなさい」とくり返しておられるし、父なる神もまた、人々の腕をつかんで天国へ引っ張って来たいと思っておられる。

ぼくは自分の賜物を用いて、神の愛と救いをべ伝えていこう。そして、御言葉に触れた人のうち、一人でも多くの人がこう言うのを期待する、「アーメン」。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)