ハレルヤ~! 安田遜です。
ごくたまに「命」について考えて、ふわぁ~っと気が遠くなることがあります。頭の中で家系図をつくっていくと、祖父母が4人、曾祖父母が8人、高祖父母が16人…。いったい先祖は総勢何人になるのでしょうか!?
それに、歴史の授業を思い出せばわかるとおり、人類史は戦乱・ききん・天災の連続です。そういう過酷な時代を生きぬいてきた先祖の、ぼくは子孫なんだなぁと思うと、なんだか頭がクラクラしてきます(@_@)
ぼくの命をつないでくれたのが先祖であることは間違いないですが、聖書は、ぼくたちの「まことの親」は神だと教えています。命の第一の根源は神なのだ、と。
今回は、先週7月19日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第96編7~13節。
牧師説教は「永遠の命を与えるお方」と題し、「ヨハネによる福音書」第5章19~30節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。
また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
―「ヨハネによる福音書」第5章19~30節(新共同訳)
神との合一性を自分の無力によって証しする裁き主・イエス
神の子だからこそ、なに事もできない?
今回は、ある場面でイエスがなさった演説から学んでいきましょう。イエスはまず、「子(イエス)は、…自分からは何事もできない」(19節)という御言葉で語りはじめられました。
イエスは人となって来られた、神のであり、神にできないことは何一つない
(ルカ1:37)はずなのに、あまりに意外な御言葉です。しかも、それを2度の癒しの直後に言っておられます。
- 病気で死にそうな子どもを言葉だけで救われた
- 38年間苦しみつづけていた病人を治された
独り子三位一体の神の第2位格で、子なる神イエス・キリストのこと。父なる神と同一の神性を持ちながら人となり、人間の罪をあがなうために十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった。
普通なら、そんな奇跡を起こす力を誇るところでしょうが、イエスは「はっきり言っておく」という前置きを伴ったうえで、“無力宣言”をしておられます。その前置きは「ヨハネによる福音書」に特徴的な言葉で、救いに関する大切なことを話す際の注意喚起として、イエスがよく言われた口癖です
ギリシャ語の「アーメン、アーメン(Ἀμὴν ἀμὴν)」を意訳したものですが、元はヘブライ語で「確かにそうです」を意味します※。アーメンは祈りの最後に必ず唱える決まり文句ですが、聖書中で「アーメン、アーメン」と言う人物は、イエスおひとりだけなのです。
遜註
アーメン(ἀμὴν)はヘブライ語「אָמֵן」の音訳で、正確には「アメーン」と発音します。現代ギリシャ語では「アミン」と言うそうで、英語では「エイメン(Amen)」とも発音します。
さて、「アーメン、アーメン。おれはなにもできない」という宣言は、実はイエスを敵視する人々に対してなされています。その真意を知るために、今回のお話の直前に書かれている内容を見てみましょう。
16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
―「ヨハネによる福音書」第5章16~18節(新共同訳)
イエスの敵対者たちはまず、労働を禁じられているに、イエスが病人を癒すという“労働”をされたこと(=「このようなこと」)を非難しています。先述の、38年間患っていた人が癒された件です。
そしてそれ以上に、「おれは神だ!」とも取れる、冒とく的発言で怒り心頭に達し、イエスに激しい殺意を抱いたのでした。
安息日週の7日目のこと。金曜日の日没から土曜日の日没がそれにあたり、神に心を向けるために労働を禁じられた。〈天地創造〉で神が7日目に休息されたことに由来する。
そのことを踏まえてイエスの“無力宣言”を聞いてみると、「いやいや、おれはまったくの無力だ。おれには、なに事もできないんだよ」という、保身目的の謙遜に聞こえなくもありません。
――が、それはまったく違います。
イエスの御言葉には、「父のなさることを見なければ」という前提がありました。つまり、父なる神の御心でなければなにもできない、ということです。では、イエスの“無力宣言”を超訳してみたいと思います、
おれのすることは、すべて神の御心だ。神の御心は、すべておれの業に現れている。おれの業は、すべて神の御業なのだ!
イエスの“宣言”には、神とイエスは一体である、という真理が秘められてるのです。
神のプレゼントでなければ得られなかったもの
イエスの“無力宣言”にはまた、ぼくたちへの真剣な問いかけが隠されています、
おれは神の御心でなければ、なに事もできない。では、おまえはどうなのか?
自分の無力を認めることは、なかなか難しいものです。ぼくたちは、むしろ自分の能力をだれかに認められたい、誇りたいと思ってしまいます。能力や才能は、自他ともに「優れた人間」だと認める材料になりえます。ぼくたちは人に認められたいと思う以上に、自分自身を優れていると思いたいのではないでしょうか?
ただ、「自分からは何事もできない」というイエスの御言葉を考えると、人間の能力や才能は、すべて神から預かったものなのだと思うのです。
「マタイによる福音書」第25章に、〈タラントン〉というたとえ話があります。主人からそれぞれ5タラントンと2タラントンのお金を預かった2人の召使いが、それを元手に商売をして、もうかった分を主人に返上する、というお話です。
召使いの預かったお金があくまで主人のものであるのと同様、ぼくたちひとりひとりの才能も「神からの預り物」であって、本来、自分の名声のためだけに使うものではありません。
ちなみに、英語で「才能」を意味する「タレント(talent)」は、この〈タラントンのたとえ〉が由来になっています。神が与えてくださらないかぎり、だれも自分自身でどんな才能も得ることはできないのです。
「命」もまた、神が与えてくださるものです。
前のセクションで、ひん死の状態から回復した子どもについて、ほんの少しだけ触れました。イエスがどのようにその子を癒されたかというと――
あなたの息子は生きる
(ヨハ4:50)
子どもの父親に、そうお告げになっただけでした。「治る」ではなく「生きる」と宣言し、命そのものをお与えになったのです。ただ、救われたのは体の命だけではありません。のちに子どもとその両親はイエスを信じるようになり、その信仰によって「永遠の命」を与えられたのです!
「生きる」で救われた子どもの記事はコチラ
「アーメン」のひと言が引換券です!
イエスはふたたび「アーメン、アーメン」と前置きしておっしゃいました、
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(24節)
イエスをキリスト(救い主)だと信じる人は、死に勝利しています。イエスが十字架の上で、ぼくたちの身代わりとして裁きを引き受けてくださったからです。
ぼくたちはみな、死後に神の御前で裁きを受けることが定まっています。「裁き」になにか恐ろしい響きを感じるのは、ぼくたちが犯したくない罪をどうしても犯してしまうからかもしれません。
だからこそイエスは、「おまえの裁きは済んでいる。おれを信じろ!」と繰り返し勧めておられるのです。
今回のお話に3回出てくる「アーメン、アーメン」の最後で、イエスは「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」(25節a)とおっしゃいました。
「死んだ者」とは霊的な死者、つまり、「イエスを信じないことで裁きのもとに置かれている人々」を指します。そして、そのような人々がを聞くときは到来し、「今やその時である」(同節b)とイエスはおっしゃるのです!
イエスはさらに「その声を聞いた者は生きる」(同節c)と続け、別の箇所ではわたしを信じる者は、死んでも生きる
(ヨハ11:25)と言っておられます。
福音「よい知らせ」を意味する、ギリシャ語「エウアンゲリオン」の訳。イエスをキリスト(救い主)だと信じる者が罪をゆるされ、永遠の命にあずかることを指す。
イエスはご自分を信じない人を諦めたり、地獄に落ちてしまえばいいと思ったりは決してなさいません。「アーメン、アーメン。おれが、おまえを救うキリストだ!」としつこいほどに訴え、ぼくたちを永遠の命へと招いておられるのです。
その招きに、「アーメン、おっしゃるとおりです」と答えていただきたいと思います。その瞬間、あなたはまったく新しい人間につくり変えられ、永遠の命を生きはじめるでしょう。
遜の黙想
神が何万人もの先祖を生きぬかせ、そのすえにぼくに命を与えてくださったのは、ぼくが永遠の命を得るためでした。ぼくと永遠にともにいたいと思うほど、神はぼくを愛しておられるのです(//∇//)
イエス・キリストの犠牲によって、ぼくだけでなく全人類が、すでに永遠の命の権利を得ています。でも、自分が正当な権利者である事実を多くの人が知らず、また、知っていても怪しんで権利を放棄してしまいます。ほんとうに残念なことです。
神が独り子・イエスを捨ててまで救ってくださった命を、ぼくはいつも「アーメン」と
*
まことの父である神様、ぼくが受けるべき裁きを、あなたは御子・イエスにお下しになりました。その感謝とぼくの命の重さ、また御子の犠牲の尊さを、ぼくが真実に知ることができるように導いてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)