遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】あなたが生きている命は、ほんとうの命ですか?

 

発熱で寝込む男の子

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

もはや例年のこととなった豪雨災害が、今年も規模を増してやって来ました。九州の方はお気の毒です、と言うと他人事のようでイヤですが、無事と慰めを祈ることしかできません・・・。

大氾濫した川の水に流される家・1階が完全に水没した家をニュースで見ると、文明の非力さを思い知らされますね。もうなんか、手の打ちようがない感じ。

人間が万全を期したつもりでも、それはほんとうに「つもり」であって、自然はその想定を上回って挑戦してくる。そういう荒々しい自然の中で生かされているんだという、謙虚な姿勢が必要なように思います。

 

さて今回は、先週7月12日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝

2020年7月12日
聖霊降臨節第7主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第49編13~21(新改訳12~20)節。要約すると、

「自己を誇る者、自分を賢いと思い込む者は死に、で飼われる羊の群れと化す。そこでは高ぶっていた邪悪な者も、目覚めれば正しい人に踏みつけられている。
しかし、神はわたしの魂をあがなってくださる。悪人が富んで幸福な人生を送ろうとも、やがて何ひとつ持たずに永遠の闇に下って行く。だから、恐れるな。栄華を極めた者も、獣のごとく死んでいく」

という内容です。

 

牧師説教は「あなたは生きる」と題し、「ヨハネによる福音書」第4章43~54節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

2日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。

ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。

イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。

この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。

イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」

その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、しもべたちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後1時に熱が下がりました」と言った。

それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、2回目のしるしである。

 

―「ヨハネによる福音書」第4章43~54節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

“ご利益主義”の信仰でイエスを頼ったカペナウムの役人

目に見える物事以上に必要なもの

イエスは故郷・ガリラヤ地方へ帰って来られました。わたしたちは久しぶりに里帰りして友人などに会うと、かなり印象が変わったと感じたり、またそう思われたりするものです。

一方、昔から顔見知りだっただけに、大人になっても子どものときと同じように接してしまうこともあるのではないでしょうか。幼いころ一緒に遊んだり、世話したりした経験があるからです。

イエスは人々を導く預言者として里帰りしましたが、そのような人々の性質を思い、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言っておられます。

 

「マルコによる福音書」では、里帰りして来たイエスが会堂で教える言葉を聞き、人々は驚いてこんなふうに言い合っています、

この人は、このようなことをどこから得たのだろう。・・・この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか(6:2c-3)

ところが「ヨハネによる福音書」には、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と書かれています。それは、イエスがエルサレム滞在時になされた、数々の奇跡を目の当たりにしていたからでした。

どんな奇跡を見たのかはわかりませんが、言葉よりも奇跡を信じた、ということに注意する必要があります。ガリラヤの人々は、「ここでも奇跡を起こしてくれるに違いない!」と期待したのです。

 

奇跡を期待したのは、その町の人ばかりではありません。イエスの噂を聞きつけたのか、カペナウム(カファルナウム)という別の町から役人がやって来ます。

息子の病気を治してくださるように願う役人に、イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と答えられました。かなり的はずれな感じがしませんか?

答えるなら、「もちろん行って治そう」とか「もう治してやれないのだ」とか、病気のことについて言うのが普通です。でも、ここでは「信仰」を問題にしています。

「なにを信じるのか・どのように信じるのか、それが大切な問題なのだ!」とおっしゃるのです。イエスが的はずれに思える返事をなさったのは、

 

役人がイエスを“役に立つ人間”として見ていたからです。

 

ここで別の聖書箇所を引用します。

イエスはすぎこしさいの間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。

 

―「ヨハネによる福音書」第2章23~24節a(新共同訳)

イエスが人々を信用されなかったのは、ひとえに彼らが「まことの信仰」を持っていなかったからです。

 

人々には、イエスを信じる条件と前提がありました。それは第一に、イエスが「自分に利益を得させてくれる人物」であること、第二に「奇跡を起こしてくれる人物」であること。

それらの条件がなくなってしまえば、イエスは人々にとって「信じるに値しない人物」となってしまう、というわけです。そんなものは正しい信仰ではありません!

 

イエスは役人の懇願に対して、「あなたがた」と言っておられます。つまりあの言葉は、役人以外のユダヤ人に、ひいてはわたしたちに語られているのではないでしょうか。

この世には、目に見えるものと目に見えないものがあります。わたしたちは往々にして、目に見えるものばかりを追い求めてしまうものです。特に、お金はその代表格でしょう。

 

でも、ほんとうに必要なものは目で見ることができません。そしてそれゆえに、世の人々の心はどうしてもそちらに向きにくい。

ほんとうに必要な目に見えないものとは、神の御言葉です。

そして、その御言葉の目に見えるかたちとして、神そのものを示す方として降って来られたのが、イエス・キリストです

 

イエス・キリストその人を求める信仰こそ、「まことの信仰」と言えるのです。

 

「生きる」で変わった役人の信仰

イエスの言葉をほとんど無視するように、役人は「子供が死なないうちに、おいでください」とイエスを急かしました。その気持ちはわかります。

2人のいるカナという町から役人の住むカペナウムまでは、直線距離で約30㎞。徒歩だと6時間以上はかかるでしょうから、役人はもう気が気ではないのです。

でもイエスは、焦る役人に「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃいました。役人はその言葉を信じて帰って行くわけですが、ここで大きな変化が起こっていることにお気づきでしょうか?

 

イエスを信じていた役人が、いまや信じているのです!

 

役人は病気に効く薬を手渡されたわけではありません。なにか祈祷のような文言を唱えてもらったわけでもありません。

「あなたの息子は生きる」という言葉を、ただただ信じたのです。

口語訳聖書ではこの箇所を「あなたのむすこは助かるのだ」と訳していますが、新共同訳の翻訳が最適だと思います。「生きる」は、「罪から離れる」という意味合いを含むからです。

 

わたしたちは神を憎む生来の気質ゆえに罪の支配下に置かれ、言わば神との“絶好状態”にあります。その結果として、必ず死を経験することになります。

「生きる」というのは、死をもたらす罪から離れること、つまり、罪の延長線上の死に対する「勝利宣言」なのです٩( 'ω' )و

ことばの内に命があった(ヨハネ1:4a)と言われるように、イエスの御言葉には人を生かす力があります。御言葉に触れるとき、わたしたちはほんとうの意味で生きはじめます。

 

死の意味についてはコチラ
キリスト教でいう〈死〉ってどんなこと?

 

イエスがわたしたちの罪を背負って十字架にかかったこと・死んで墓に葬られたこと・3日目に復活していまも生きておられること。

「イエス・キリストの死と復活」を信じる人は、神とのつながりを取り戻します。そして新しい、永遠の命を生きるようになるのです。

 

生きる者へ、そして伝える者へ

役人の息子は、イエスの言葉どおりになりました。病気が癒されたのです! それだけではなく役人一家は、そろってイエスを信じるようになりました。そのことは、ある事実を示しています。

家族は役人の言葉によって信じた、ということ。また、役人はイエスをべ伝える者となった、ということです。役人は家族への伝道によって、イエスの恵みに応えたのです。

 

役人ははじめ、目で見ることのできる奇跡を求めました。実際に見た物事しか信じられないのが、わたしたちの本質です。

それでも、イエスは役人を切り捨てたりはなさいませんでした。

御言葉によってかたくなな心を変え、役人を正しい信仰へと導かれたのです。イエスは同じように、わたしたちをも変えてくださいます。御言葉を求めましょう。

 

「神によって生きなさい」

 

わたしたちを「生きる者」にしようと、イエスはいまも招いておられます。その招きに応えてください。ほんとうの命を生きはじめ、イエスに救われた喜びを宣べ伝えていきましょう。

 

遜の黙想

キリストに出会う前、ぼくが賽銭箱の前で漠然とあがめ求めていたのは、「我ガ幸福」という名の“絶対唯一神”だった。カペナウムの役人にとっても、キリストははじめ「我ガ幸福」だったのだろう。

でも役人は、イエス・キリストを信じた。「我ガ幸福」でないほうの神さまを信じた。それは、ただただ「生きる」の言葉を信じたかったからだ。ぼくがキリストを信じたのも、ただただ信じたかったからだ。

信じたい。その思いを酌んでキリストが「生きる」と言ってくれるならば、「信じたい」は「生きたい」と同じ意味だ。ほんとうの命は、キリストの中にある。

イエスさま、ほんとうの人生を取り戻させてくださり感謝します。心から「生きたい」と願い求める人に、あなたの御言葉をまっすぐ伝えられるように助けてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)