遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】あなたが生きている命は、ほんとうの命ですか?

 

発熱で寝込む男の子

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

教会では、人間はみなつみびとだ、という前提で説教がなされます。初めてそれを聞く方は、一方的に罪人認定されたことを不快に思われるかもしれません。事実、そのために教会を離れてしまう方もおられます。

その不快感をあおるようなことを言いますが、「罪人=生けるしかばね」です。神に対して罪を犯している人間は、どんなに生きいきとして見えても、神の目には死人同然に映ります。

では、神はどういう人を「生きている」と認められるのでしょうか? その答えを、神はイエス・キリストを通して丁寧に語り、ぼくたちが真に生きる道を教え示してくださいました!

 

今回は、先週7月12日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年7月12日聖霊降臨節第7主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第49編13~21節12~20節)。

牧師説教は「あなたは生きる」と題し、「ヨハネによる福音書」第4章43~54節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

432日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。44イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。45ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。

46イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。

さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。

48イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。49役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

51ところが、下って行く途中、しもべたちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。52そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後1時に熱が下がりました」と言った。

53それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。54これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、2回目のしるしである。

 

―「ヨハネによる福音書」第4章43~54節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

“ご利益主義”の信仰でイエスを頼ったカファルナウムの役人

目に見えるものが隠しているもの

今回は、イエスが故郷・ガリラヤ地方へ里帰りされたときのお話です。里帰りというのはうれしいものだと思うのですが、イエスは「預言者は自分の故郷では敬われないものだ(44節)と、どこか不満げです。

それは、自分たちを導いてくださる預言者として、人々がイエスを見ていたわけではないからでしょう。

ガリラヤの人々はイエスを、「一緒にかけっこして遊んだイエスくん」「おしめを替えてやったイエスちゃん」などと、昔からの顔見知りとしか思わなかったのかもしれません。

 

それでも、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎し」ました(45節a)。その理由は、「エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたから(同節b)。彼らは、祭りのときにイエスがなされた奇跡の目撃者だったのです。

それがどんな奇跡だったかはわかりませんが、とにかく御言葉よりも奇跡を信じたのでした。ガリラヤの人々は、「ここでも奇跡を起こしてくれるに違いない!」と期待したのでしょう。

 

奇跡を望んだのは、その町の人ばかりではありません。イエスのウワサを聞きつけたのか、カファルナウム(カペナウム)という別の町から役人がやって来ます。

彼は息子の病気を治してくださるように願ったのですが、イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(48節)と答えられました。かなり的はずれな返事ですね(・_・)

答えるなら、「もちろん行って治そう」とか「もう手遅れなのだ」とか、病気のことについて言うのが普通です。でも、ここでは「信仰」を問題にしています。

なにを信じるのか、どのように信じるのか、それが大切な問題だ、とイエスはおっしゃるのです。イエスがとんちんかんとも思える返事をなさったのは、

 

役人がイエスを“役に立つ人”として見ていたから

 

です。ここで別の聖書箇所を引用します。

23イエスはすぎこしさいの間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、

 

―「ヨハネによる福音書」第2章23~24節(新共同訳)

イエスを信じた人々は、イエスに対して「まことの信仰」を抱いていたわけではありませんでした。イエスは、そのことをよくご存じだったのです。

 

人々には、イエスを信じる条件と前提がありました。それは第一に、イエスが「自分に利益を得させてくれる人物」であること、第二に「奇跡を起こしてくれる人物」であること。

それらの条件がなくなってしまえば、イエスは人々にとって「信じるに値しない人物」となってしまう、というわけです。その態度は、イエスの求めておられる信仰と大きくかけ離れています!

 

ところで、イエスは役人への回答に「あなたがた」とおっしゃいました。つまりイエスは、役人以外のユダヤ人、ひいてはぼくたちにも語っておられるのだと思うのです。

 

この世にあるのは、目に見えるものだけではありません。でもぼくたちは、特にお金など、目に見えるものばかりを追い求めてしまいます。

ぼくたちの本質は「霊」であり、その霊に必要なものは目に見えません。だから、ぼくたちの心はどうしてもそちらへ向きにくいのです。では、ぼくたちがほんとうに求めるべきものとはなんでしょうか?

――それは、神の御言葉です。

そして、その御言葉の目に見えるかたち、神そのものを示す方としてやって来られたのが、イエス・キリストです

 

イエス・キリストその人を求める信仰こそ、「まことの信仰」なのです!

 

目に見えない御言葉の力で「生きる」

さて、イエスの御言葉を理解できなかったからか、その返事をほとんど無視するように、役人は「子供が死なないうちに、おいでください(49節)とイエスをせかしました。息子がひん死なのですから当然でしょう。

ふたりのいるカナとカファルナウムには約30㎞、歩くと6時間以上の距離があります。まさに一刻を争う状況に、役人は気が気ではなかったのです。

参考地図

そんな役人に、イエスは落ち着いた様子で「帰りなさい。あなたの息子は生きる(50節)とおっしゃいました。すると役人は、ウソのようにあっさりと帰路に就いてしまいます(゜A゜)ホワイ!?

 

役人は、病気に効く薬を手渡されたわけではありません。なにか祈りのような文言を唱えていただいたわけでもありません。

イエスを頼ったはずなのに、「あなたの息子は生きる」という信じるようになったのです!

口語訳はイエスの御言葉を「あなたのむすこは助かるのだ」と訳していますが、新共同訳の翻訳が最適だと思います。「生きる」は、「罪から離れる」という意味合いを含むからです。

 

ぼくたちはみな、神を憎む生来の気質ゆえに罪の支配下に置かれ、言わば神との“絶交状態”にあります。そしてその結果、必ず死を経験することになります。

生きる」というのは、死をもたらす罪から離れること、つまり、罪の延長線上の死に対する「勝利宣言」なのです٩( 'ω' )و

ことばの内に命があった(ヨハ1:4)と聖書が言うように、イエスの御言葉には人を生かす力があります。御言葉に触れるとき、ぼくたちの霊が生気を取り戻します。

死の意味についてはコチラ

キリスト教でいう〈死〉ってどんなこと?

 

イエスがぼくたちの罪を背負って十字架にかかったこと、死んで墓に葬られたこと、3日目に復活していまも生きておられること。

「イエス・キリストの死と復活」を信じた瞬間、神とのつながりが回復します。そして新しい、永遠の命を生きはじめるのです!

 

生きる者へ、そして伝える者へ

役人の息子は、イエスの御言葉どおりになりました。

病気が癒されたのです! しかもそれだけではなく、「彼もその家族もこぞって信じた(53節)と聖書は伝えています。そのことは、ある事実を示しています。

家族は、父また夫である役人の言葉によってイエスを信じた、ということ。そして、役人はイエスをのべ伝える者となった、ということです。役人は家族への伝道(宣教)によって、イエスの与えてくださった恵みに応えたわけです(〃▽〃)

 

役人は初め、目ではっきりと確認できる「奇跡」を求めました。実際に見た物事しか信じようとしないのが、ぼくたち人間というものです。

それでも、イエスは役人を見捨てたりはなさいませんでした。

生きる」の御言葉によってかたくなな心を変え、役人を「信仰」へと導かれたのです。イエスの御言葉には、ぼくたちの心を変える力があります。

 

 

神によって生きろ!

 

ぼくたちを「生きる者」にしようと、イエスは自ら生けにえとなられました。復活したいま、イエスはあなたを招いておられます。ぜひその招きに応えていただきたいと思います。

 

遜の黙想

ぼくは目に見えないものを信じ、見たこともない方を信じています。だからと言って、目に見えるものへの興味がなくなったわけではありません。お金への執着は人並にあるし、ルックスをよくしたいと願うこともあります。

また、神がぼくを愛しておられることを信じる一方、不都合な状況下では、それを疑うような思いに駆られもします。生活のあれこれに追われて、役人の息子よろしく死んだようになることもしばしばです。

そういうときにぼくを生き返らせてくれるのは、やはりイエス・キリストの御言葉なのです。YoutubeやSNSはほどほどにして、聖書にこそ癒しを求めなければなりませんね!

慈愛の神様、あなた以外に癒されようとすることをゆるしてください。ぼくの中の偶像をすべて取り壊し、信仰と御言葉の泉で満たしてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
  • 『聖書 口語訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)