ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくはノンクリ時代、自己啓発本にのめり込んだ時期がありました。10代後半~20代前半くらいですかね。表紙にデカデカと書かれている文句が、まぁかっこいいんですよ!
「人生暇してる時間はない!」とか「きみは自由になるために生まれてきた!」とか。・・・かっこいいだけで全然身になりませんでした。だって、ほとんど“自慢話”なんだもん(`^´)グヌゥ
自慢じゃなくて生き方を知りたいっていう方へのおすすめは、もちろん聖書。読み方の学びはある程度必要ですけど、大切なことは全部そこに詰まっていますから。
ちょっと挑発的な(?)導入を書いたところで、先週7月5日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日礼拝
2020年7月5日
聖霊降臨節第6主日礼拝
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。
読上げ箇所は、「詩編」第126編1~6節。要約すると、
「主が捕囚の民をエルサレムに帰してくださると知り、まるで夢を見ているようだった。わたしたちは歓喜の歌をうたい、異国の人々も驚いて言うだろう、『神は彼らに偉大なことをなさった』と。
主よ、救ってください。わたしたちを故郷に帰らせてください。泣きながら種
という内容です。
牧師説教は「御言葉を信じる」と題し、「ヨハネによる福音書」第4章27~42節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
イエスがサマリアの女と話しておられると、買い物に行っていた弟子たちが帰って来た。そして、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いたが、詳しく問いただそうとはしなかった。
女は水がめを置いたまま町へ戻り、人々に「わたしのことをすべて言い当てた人がいます。あの方がメシアかもしれません」と言った。その間、弟子たちがイエスに食事を勧めると、イエスは言われた。
「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。それは、わたしを遣わされた方の御心を成し遂げることである。あなたがたは刈り入れまで4か月あると言うが、わたしは言っておく。
畑は色づいて収穫を待っており、刈り入れる人は既に報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざどおり、あなたがたは他の人々が労苦したものを刈り入れ、その実りにあずかっている。」
さて、女の言葉を聞いたサマリア人たちはイエスを信じ、イエスのもとにやって来た。人々が自分たちのところにとどまってほしいと頼んだので、イエスは彼らの町に2日間滞在された。
そして、更に多くの人々がイエスを信じ、女に「わたしたちはもうあなたの言葉によってでなく、自分で聞いたこの方の言葉によって、この方が本当に救い主であると分かりました」と言った。
―「ヨハネによる福音書」第4章27~42節(独自に要約)
憎しみを超えてユダヤ人のイエスを信じたサマリア人たち
信じられる人との「コネ」をつくるには?
イエスは、サマリアという町にある〈ヤコブの井戸〉のそばで休憩中でした。そして、井戸へ水汲みにやって来たある女性に、「水を飲ませてください」と声をおかけになります。
サマリア人とユダヤ人は長年の敵同士。女性はユダヤ人であるイエスに話しかけられ、しかも頼み事をされたことに動揺します。
でも、自分の罪深い生活(バツ5で、夫でない男性と同棲していること)をずばりと言い当てられたことで、イエスに心を開いたのでした。今回は、そのお話の続きです。
イエスとサマリア女の出会いはコチラ
【礼拝】ほんとうはカラダよりもココロが水を求めている
イエスと女性が話し込んでいる様子に、弟子たちは驚きました。普通、律法教師が軽々しく女性と話すことなどないし、相手がサマリア人なら、なおさらありえません。
敵対しているユダヤ人とサマリア人が親しく話していること・教師であるイエスが女性と話しておられること、それらが弟子たちを驚かせたのです。
さて、女性の性的に堕落した生活は、同じ町に住むサマリア人にも知られていたことでしょう。だからこそ、女性は人目を避けるように生活していました。
その女性が、ここでは自分のほうから町の人々に声をかけ、イエスを紹介しています。しかも、「
これにはほかのサマリア人たちも驚いたでしょう。普段まったく関わらない人が、急に自分たちに語りかけてきたのですから。
一方で女性は、「この方がメシア
その体験談を話したことで、サマリアの人々はイエスを信じるようになりました。そして、イエスのもとを訪ねてこう言います、
「イエスさま、どうかわたしたちの町にとどまってください!」
もう一度、ユダヤ人とサマリア人の関係を思い出してください。彼らは「敵対している」はずなのです。それにもかかわらずサマリアの人々は、ユダヤ人のイエスに泊まってほしいと勧めています。
自宅にだれかを泊めるのは、イスラエルのよき習慣でもありました。それは旅人に奉仕して、「愛の業」を実践するためのものでした。サマリアの人々は、イエスに愛の業を施したい、と願ったのです。
また、「とどまる・滞在する」という言葉は、「ヨハネによる福音書」において非常に重要な意味を持っています。別の箇所からイエスの言葉を引用します。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
―「ヨハネによる福音書」第15章5節(新共同訳)
ここで「つながる」と訳されている言葉は、ギリシャ語の原典では、今回の箇所の「とどまる・滞在する」と同じ言葉で書かれています。
つまり、サマリアの人々がイエスに願ったセリフは、
「イエスさま、わたしたちとつながっていてください!」
と言い換えることができるのです。
日本にも「同じカマの飯を食う」という言葉があるように、寝食をともにして、初めてお互いを理解し合えることがあるものです。
イエスがサマリアの人々の願いに応えて彼らの町に「滞在した」ことで、サマリアの人々はイエスに「つながって」実を結び、イエスこそ救い主だという信仰へと導かれたのでした。
あなたもわたしも救われるべき人
イエスを信じた人々は、女性に「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」と言いました。それは決して女性の行動を否定する言葉ではありません。
女性は「水を飲ませてください」のひと言に救われ、イエスによるその救いをサマリアの人々へとつなげました。女性はたしかに、伝道者の役割を果たしたのです!
「わたしたちは自分で聞いて・・・分かった」と人々は言います。まさに、イエスというブドウの木に直接つながったことが、サマリア人の内に信仰の実を結ばせたのです。
イエスの言葉を直接聞きながら、実を結ばなかった人もいます。
「ヨハネによる福音書」第3章に登場する律法教師・ニコデモがその一人です。ニコデモは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています
(2節b)と、イエスを大絶賛しました。ただそれは、イエスのなさる奇跡の数々への称賛にすぎません。
サマリアの人々のように本質的には、ニコデモはイエスとつながっていなかったのです。だから、イエスの言葉の真意を悟れず、イエスを救い主だと信じることもできませんでした※。
遜註
ニコデモが最後までイエスを信じなかったかどうかはわかりません。イエスの死後、その弟子とともに遺体を引き取っていることから、のちにキリスト教徒となったという伝承もあります。
ニコデモの登場回はコチラ
【礼拝】「生まれ変わる」のではなく「新しく生まれる」
さて、イエスの御言葉によって信仰に導かれたサマリアの人々は、「この方が本当に
「イエスさまが『すべての人の救い主』として来られたことが、いまわかりました!」
サマリア人は何世紀もの間、もともと同胞であるはずのユダヤ人から忌み嫌われ、神に選ばれたイスラエル民族としてのアイデンティティーを全否定されていました。
でもイエスの正体がわかった瞬間、すべての差別や憎悪を乗り越えたのです。
サマリア人は、もはやユダヤ人を憎むことができなくなりました。「世の救い主」であるイエスが、ユダヤ人をも救おうとしておられるのですから!
人生を取り戻させる御言葉
世の救い主であるイエスは、わたしたちの救い主、あなたの救い主です。それがほんとうなのかを知るには、またそれを確信するには、どうすればいいのでしょうか?
――「わたしにとどまってください」と、イエスに願えばいいのです。そうすれば、イエスはつながってくださいます。わたしたちは、そのときに語られる御言葉に耳を傾けましょう。
イエスの御言葉に心が潤っていくのがわかるでしょう。御言葉は魂の渇きを癒す水です。また、生きる力と勇気を与える食べ物でもあります。
イエスの御言葉はときに厳しく、決して聴き心地のいいものばかりではありません。その厳しさも、わたしたちを神の
遜の黙想
(ヨハネ1:14a)。肉となった言とは、イエス・キリストのことだ。サマリアの人々が貪欲に求めたのは御言葉というより、むしろキリスト本人だったのだろう。
サマリアの人々ほど熱心に、ぼくは御言葉を求めていない。聖書にまったく触れない日さえある。それは、キリストとのつながりを放棄することではないのか? ぼくにはキリストが必要ないのだろうか?
もちろん、ぼくはキリストと一緒にいたい。そう願う前から、キリストはぼくのそばにとどまってくれた。これから先もずっと、キリストとぼくはつながっている。御言葉が、その確信を与えてくれるのだ。
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天の父なる神さま、ぼくの内に聖霊としてとどまってくださり感謝します。あなたの御言葉に聞き従い、御子・イエスが「すべての人の救い主」であることを大胆に証しできますように。アーメン
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
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