遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】あなたの人生は自己啓発本の中には見つけられない

 

水くみバケツ

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

10代後半ころ、ぼくは自己啓発本にのめり込んだ時期がありました。若輩らしい夢想や野望があり、なにか刺激を求めていたのです。まぁ、その後の社会生活で、自分は野心を持ちうる人間ではない、という現実を突きつけられましたがσ^^;

ひと口に自己啓発と言ってもいろいろありますが、ざっくりまとめると、「自分を救えるのは自分だけ」という哲学に基づいていると思います。それを否定するつもりはありません。ただ、自分自身を助けられる範囲には、やはり限界があるのではないでしょうか?

ぼくたちは目に見える「世」で生きていますが、ぼくたちの本質は不可視の「霊」です。だから、ほんとうは「自分をえるのはだれなのか?」を追求しなければなりません。

 

今回は、先週7月5日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年7月5日聖霊降臨節第6主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第126編1~6節

牧師説教は「御言葉を信じる」と題し、「ヨハネによる福音書」第4章27~42節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

27そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのに驚いた。しかし、そのことで問いただす者はいなかった。28女は水がめを置いたまま町に戻り、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしのことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

31その間、弟子たちがイエスに食事を勧めると、32イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と言い合った。34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方の御心を成し遂げることである。

35あなたがたは『刈り入れまでまだ4か月ある』と言うが、わたしは言っておく。畑は色づいて収穫を待っており、既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざどおりになる。38あなたがたは他の人々が労苦したものを刈り入れ、その実りにあずかっている。」

39さて、女の言葉を聞いたサマリア人たちはイエスを信じ、40イエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、彼らの町に2日間滞在された。41そして、更に多くの人々がイエスを信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちはもうあなたが話してくれたからではなく、自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かりました。」

 

―「ヨハネによる福音書」第4章27~42節(独自に要約)

 

この箇所を Bible.com で読む

 

敵意を超えてユダヤ人のイエスを信じたサマリア人たち

「どうぞ泊まってってください」

今回は、大勢のサマリア人がイエスを信じる、というお話です。サマリア人とユダヤ人は犬猿の仲でしたが、イエスはサマリア地方の町で休憩をしておられました。そこで、水くみにやって来たひとりの女性(この記事では便宜上、アンナと呼びます)に、水を飲ませてください(ヨハ4:7)と声をおかけになります。

アンナは初め、イエスに冷淡な態度を取りました。敵対者であるユダヤ人から親しげに話しかけられ、しかも頼み事をされるという“非常事態”に動揺したからです。

そこでイエスはご自分の正体をアンナに暗示し、その罪深い生活を言い当ててみせることで、彼女の心を開かれたのでした。今回のお話は、その続きです。

 

アンナの性的に乱れた生活は、イエスに見破られただけではなく、同じ町のサマリア人たちにも知られていたでしょう。だからこそ、アンナはなるべく人目を避けるように生活していました。

それが、ここでは自分のほうから町の人々に声をかけ、イエスのことを紹介しています。しかも、「をすべて、言い当てた人(29節a)と言っています。自分の罪を認めて公に白状している、ということです。

これには、ほかのサマリア人たちも驚いたに違いありません。普段まったくつき合いのないご近所さんが、いきなり自分たちに語りかけてきたのですから!

 

一方でアンナは、「この方がメシア(29節b)と、どこか自信なさげでもあります。確かに、彼女はイエスを正確には認識していませんでした。ただ、イエスをメシア(救い主/キリスト)だと信じるのに十分な体験はしているのです。

その体験談、つまり、自分の罪を見抜かれてしまった事実を話したことで、サマリアの人々はイエスを信じるようになりました。そしてイエスを訪ね、「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」のです(40節a)

 

 

イエス様、どうかおれたちの町に泊まってってください!

 

さぁ、ここで思い出してください、ユダヤ人とサマリア人が「敵対関係」にあることを。それにもかかわらずこのサマリアの人々は、ユダヤ人のイエスに泊まっていただきたいと願っています。

自分の家に旅人を泊めるのは、イスラエルのよき習慣でもありました。旅人への奉仕は、「愛の行い」の実践にほかならないからです。サマリアの人々は、イエスに愛の業を施したい、と願ったのです。

 

ところで、「とどまる」という言葉は、「ヨハネによる福音書」においてとても重要な意味を持っています。それに関連するイエスの御言葉を、別の箇所から引用します。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 

―「ヨハネによる福音書」第15章5節(新共同訳)

この「つながって」は、ギリシャ語の原典では、先ほどの「とどまる」、また後述の「滞在された」と同じ言葉(メノー|μένωで書かれています。

 

つまり、イエスに対するサマリア人の願いは、「イエス様、おれたちとつながっててください!」と言い換えることができるのです。

日本には、「同じカマの飯を食う」という慣用句があります。旅行やキャンプなどで寝食をともにして、初めてお互いを理解し合えたという喜ばしい経験が、あなたにもあるでしょう。

聖書は「イエスは、2日間そこに滞在された(40節b)と語り、サマリア人の願いが叶えられたことを示しています。こうしてサマリアの人々は、イエスに「つながって」霊的栄養を頂き、信仰の実を結んだのでした。

 

イエスの救いはボーダーレス!

イエスを信じたサマリアの人々は初め、アンナの言葉に動かされました。でも、彼らは言います、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない(42節a)。一見、アンナの働きが軽んじられたように思えますが、そうではありません。

このお話は、イエスの「水を飲ませてください」のひと言をきっかけに、アンナが救われるところから始まりました。そして、アンナはその救いを自分のところで終わらせず、同じ町の人々へとつなげました。確かに、アンナは「伝道者」の役割を果たしたのです(≧∇≦)

サマリア人は、「わたしたちは自分で聞いて、分かったからです(同節b)と言っています。まさに、イエスというブドウの木に直接つながったことが、サマリア人の内に信仰の実を結ばせたのでした。

 

イエスから直接御言葉を頂きながら、実を結ばなかった人もいます。

「ヨハネによる福音書」第3章に登場する、律法教師・ニコデモがそのひとりです。彼は、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています(2節)と、イエスを大絶賛しました。ただそれは、イエスがなさった奇跡の数々への称賛に過ぎません。

サマリアの人々のように本質的には、ニコデモはイエスとつながっていなかったのです。だから、イエスの御言葉の真意をつかめず、イエスがメシアであることを信じることもできませんでした

遜註

ニコデモが最後までイエスを信じなかったかどうかはわかりません。イエスの死後、その弟子とともに遺体を引き取っていることから、のちにキリスト教徒となったという伝承もあります。

 

さて、御言葉によって信仰を得たサマリアの人々は、「この方が本当に世の救い主であると分かった(42節c)と言っています。「わたしたちの救い主」とは言わず、「世の救い主」なのだ、と。これは重要な告白です!

 

 

おれたちはわかった! イエス様は、「すべての人の救い主」として来てくださったんだぁ!

 

サマリア人はもともと、ユダヤ人と同じ民族でした。ところが、異民族との結婚を受け入れたことで、以後何世紀もの間、同胞であるはずのユダヤ人に忌み嫌われ、神に選ばれたイスラエル民族としてのアイデンティティーを断固否定されていました。

でも、イエスの正体をわかった瞬間、すべての差別や憎悪を乗り越えたのです。

この町のサマリア人たちは、もはやユダヤ人を憎むことができなくなったでしょう。自分たちの敵もまた救われるようにと、「世の救い主」であるイエスが降って来られたのですから!

 

人の生き方は聖書の中にある

イエス・キリストは、「世の救い主」です。この世で生きるすべての人の救い主、ぼくの救い主、あなたの救い主なのです。それが真実かどうかを知るには、またそれを確信するには、どうすればいいのでしょうか?

――このわたしにとどまってください!」と、イエスに願えばいいのです。そして聖書を開き、語られる御言葉に耳を傾ければいいのです。イエスは、必ずあなたにつながってくださいます。

イエスの御言葉は、たんなる言葉ではありません。御言葉は、ぼくたちの霊の渇きを癒す水です。また、生きる力と勇気を与える、霊的な食べ物でもあります。

 

イエスの御言葉はときにわかりにくく、厳しく、聞き心地のいいものばかりではありません。その不可解さや厳しさも、イエスとのつながりを求めさせる「愛」だと言えるでしょう。その愛に応え、神のみもとへと招いておられるイエスの御言葉に、あなたの人生を見いだしてください。

 

遜の黙想

自己啓発本は、「自分を生きるために自分自身でなんとかしろ!」と教えます。一方イエス・キリストは、わたしを離れては、あなたがたは何もできない(ヨハ15:5)とおっしゃいます。

ぼくが自己啓発本で変われなかった理由は至極単純で、自分の中に変革の力がなかったからです。だからこそ、いま、キリストとのつながりを求めることができます。自分の内側にないのなら、外から力を頂かねばなりません。

ぼくの持っていなかったもののうち、いちばん大きな力は、もちろん「信仰」です。目に見える状況はひとつも変わりませんが、信仰によって、本質である霊が生き返り、最終的な勝利が決定づけられました٩( 'ω' )ヤッター!

愛するイエス様、ぼくの内にとどまってくださり感謝します。ぼくを通して世を愛し、ぼくを通して世の友となり、ぼくを通して世に救いを告げ知らせてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)