遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】本当はカラダよりもココロが水を求めている

 

ヤコブの井戸

Jacob’s Well in Nablus(Photo by Larry Koester

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

今日の画像は、〈ヤコブの井戸〉とされる場所の写真をお借りしました。パレスチナ(ヨルダン川西岸)のフォティニア教会で保存されてるそうです。

ヤコブは、アブラハム→イサクに続くユダヤ人の先祖です。英語では、「James(ジェームズ)」とか「Jacob(ジェイコブ)」とか呼ばれてますね。なんで James なんだ(?_?)

どうでもいいんですけど、ハリポタ役の俳優の本名は「ダニエル・ジェイコブ・ラドクリフ」です。本当にどうでもよかったですね・・・。

 

〈ヤコブの井戸〉が今回の舞台だよ、ってのをお伝えして、先週6月28日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年6月28日 聖霊降臨節第5主日礼拝

2020年6月28日
聖霊降臨節第5主日礼拝

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第84編2~13(1~12)節。要約すると、

「万軍の主のいますところは、どれほど愛に満ちていることか。主の祭壇にはつばめも巣を作り、雛を育てている。主の家に住むことができるなら、どれほど幸いだろうか。
主に勇気づけられる人には、嘆きの谷も泉となる。彼は力強く進み、エルサレムで神に出会うだろう。主よ、わたしの祈りを聞き、わたしたちの王を顧みてください
主の庭では1日も1000日にまさる。主は太陽、盾。神は恵み、栄光。万軍の神、主に依り頼む人は、どれほど幸いなことだろう」

という内容です。神さまを切に求める様子が伝わってきますね。今回のキーワードは「泉」。実は冒頭で紹介した井戸も、正式名称は〈ヤコブの泉〉というようです。

 

牧師説教は「その水を飲ませてください」と題し、「ヨハネによる福音書」第4章5~26節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

ある日の正午ごろ、イエスはシカルというサマリアの町に来て、ヤコブの井戸のそばに座っておられた。そこにサマリアの女が水をくみに来ると、イエスは「水を飲ませてください」とおっしゃった。

すると女は、「あなたはユダヤ人なのに、なぜサマリア人のわたしに頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

イエスは答えられた。「もしあなたが、あなたに水を求めた人がだれであるか知っていたなら、あなたのほうからその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えただろう。」

すると女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないのに、どこからその水を手に入れられるのですか。わたしたちは父ヤコブからこの井戸を与えられました。あなたはわたしたちの父よりも偉いのですか。」

イエスはまた答えられた。「この井戸の水を飲む者はまた渇くが、わたしの与える水を飲む者は決して渇かない。わたしの与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」そこで女は、イエスにその水を求めた。

イエスは女に夫を呼んで来るように言われたが、女は「夫はいません」と答えた。するとイエスは、女にはかつて5人の夫がいたこと、いま連れ添っているのは夫ではないことを言い当てられた。

女は言った。「主よ、あなたは預言者でしょう。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたはエルサレムが礼拝すべき場所だと言っています。」

そこでイエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。この山でもエルサレムでもない場所で、父を礼拝する時が来る。礼拝しているものをあなたがたは知らないが、わたしたちは知っている。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が、いま来ている。父はそのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊であるから、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

女が「わたしはメシアが来られることは知っています。そのとき、わたしたちにすべてを知らせてくださいます」と言ったので、イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われた。

 

―「ヨハネによる福音書」第4章5~26節(独自に要約)

 

イエスという井戸から水を飲んだ孤独なサマリア女

体が潤っても、心は渇いたまま

イエスはユダヤ地方からガリラヤ地方への旅の途中、歩き疲れて〈ヤコブの井戸〉の近くで休んでおられました。そこにサマリア人の女性がやって来ます。

イエスはその女性に水をお求めになりますが、それに対する彼女の返事には、どこか冷たい印象を受けます。でも実は、女性は戸惑っていたのでした。

聖書はその理由を「ユダヤ人はサマリア人と交際しないから」と語っていますが、それどころの話ではありません。両者は「敵対関係」にあったのです。

 

かつてユダヤは、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂していました。北王国の滅亡後、その首都だったサマリアは、多くの異邦人の移住地となります。

のちに南王国も滅びますが、その地のユダヤ人たちは、異邦人と交わったサマリアの人々を嫌い、彼らの神殿を焼討ちするまでに至りました。それ以来、ユダヤ人とサマリア人の仲は非常に険悪でした。

サマリア人の女性がユダヤ人であるイエスに声をかけられ、しかも水を飲ませてほしいと頼まれるというのは、常識では考えられないことだったのです。

 

イエスは戸惑う女性に「わたしのことを知っていたなら、あなたのほうから生きた水を求めるだろう」とおっしゃいました。つまり、

 

「本当に水を飲みたがっているのは、あなたではないのか?」

 

と言うのです。〈生きた水〉とは、肉体の渇きを癒すものではありません。心の渇きを癒すものです。イエスは女性の心の渇きを見抜いておられました。

 

でも、女性はイエスの言葉を理解できず、道具もなしにどうやってその水を汲むのか、不思議に思っていただけでした。井戸の深さは30メートルもありましたから、無理もありません。

さらにその井戸は、イスラエルの十二部族の父・ヤコブから受け継がれたものだったので、女性にはイエスの「水を与える」という言葉が、大言壮語のように聞こえたのでしょう。

十二部族 ユダヤ民族を構成する12の氏族のこと。アブラハムの孫でイサクの子であるヤコブの、12人の子および孫を直接の先祖としている。

 

ご自分の言葉を受け入れようとしない女性に対して、イエスは〈生きた水〉を求めるようにくり返します。そしてついに、女性は「その水をください」と答えました。

でも、女性はイエスの真意を理解したわけではありません。女性にとって「水」は、あくまでも井戸から汲み上げるものでした。結局、イエスと女性の会話は、最後まで噛み合わなかったのです。

 

ただ、ここで注目するべきことがあります。それは、

はじめイエスのほうから水を求めていたのが、最後には立場が逆転して、女性のほうからイエスに求めるようになった

ということです。

 

イエスとの出会いが心に泉を湧かせる

さて、イエスはなんの脈絡もなく、女性に「夫を連れて来なさい」とおっしゃいました。それは女性にとって、決して触れられたくない部分に触れる言葉だったでしょう。

と言うのも、女性は5人もの男性と別れたのち、夫ではない男性と暮らしていたからです。それは信仰的にも正しくない生活でした。

その性的に問題のある暮らしぶりは、近所の人々にも知られていたはずです。女性はサマリア人の中でも孤立していました。そのことは、女性が正午に井戸へ来ていたことからわかります。

 

パレスチナは暑さが厳しく、夏には気温が45℃に達することもあります。だから、水汲みは涼しい朝のうちに済ませるのが普通です。

ところが女性は、わざわざ一日のうちで一番暑くなる「正午」に、水を汲みに来ていました。その理由はただ一つ、だれとも顔を合わせたくなかったから

この女性は神からだけでなく、人からも引き離されて、心満たされない状態にあったのです。そんな女性に、イエスは声をおかけになりました、「水を飲ませてください」

孤独な自分がだれかに話しかけられることさえ驚きなのに、そのうえ頼み事をされるとは・・・。女性にとっては、自分の愛を求める人との出会いでした。

 

イエスは女性に「隣人愛」を実践するチャンスを与え、それを通して、彼女を神に近づけられたのです。

 

イエスが女性に夫のことを話したのは唐突で、デリケートな部分にズケズケと踏み込んでいるようにも思えます。でもその目的は、女性に自分の罪を自覚させるためでした。

事実、女性は「すべてをご存じのあなたは預言者に違いありません!」と言い、だれにも相談できなかった汚点を、包み隠さず打ち明けることができました。

 

ところで聖書には、女性が悔い改めたかどうかについては触れられていません。でも、イエスを「主」という敬称で呼ぶようになっています。

しかもこのあと、女性は自ら町の人々に「メシアかもしれない方がおられます!」と呼びかけ、彼らをイエスのもとへ導くようになるのです(ヨハネ4:28-30)

 

生きた水、ここにあります!

「その水をください」とは、わたしたちの願うべき言葉です。わたしたちはさまざまな状況にあって、現に渇いているからです。

経済的に豊かで、病気もせず健康で、物事も順調に進んでいる。そんな状況でも――いえ、そんな状況だからこそ渇いてしまう、ということもあります。でも、それに気づかない。

自分にとって快適な状況が訪れたとき、わたしたちは「満たされている」と思い込み、クリスチャンでさえも神の救いを忘れてしまうのです。

 

また、渇きに気づいたとしても、“世の水”を求めてしまうのではないでしょうか?

「お金を稼がなきゃ!」とか「出世しなきゃ!」などと考え、また、それをある程度手に入れると、今度は「もっともっと!」が始まります。

 

本当に必要な〈生きた水〉は、イエスだけが与えられるものであり、イエスご自身なのです。

 

イエスの命の御言葉は、わたしたちの中で泉となり、尽きることがありません。苦難また栄光の中でも、決して渇くことのない〈水〉があふれています。

クリスチャンが礼拝に集うのは、説教を聴くためだけではありません。〈生きた水〉を求めるため、それを与えてくださる神を讃美するためです。

そして、わたしたちは渇きを癒され、新たに力を与えられ、メッセンジャーとして世に派遣されて行くのです!

 

わたしたちはいつも〈生きた水〉を求めてそれを受け、たくさんの人々に届けていきたいと思います。

 

遜の黙想

キリストの与える水を飲む者は決して渇かない、というのは本当だろうか?

ある深夜、いても立ってもいられなくなってキリストを受け入れたとき、たしかに経験したことのない癒しを感じた。〈生きた水〉が、ぼくの渇いた心を潤したのである。

それ以来、ぼくの中には〈生きた水〉の泉が湧いているはずなのだが、それが枯渇してしまったかのように思えるときがある。どうしようもなく渇き、なにをしても満たされない・・・。なぜか?

サマリア人の女性について考えてみる。女性の心に〈生きる水〉がしみ通ったのは、彼女が自分の罪を認め、告白したあとではなかったか――

ぼくが渇くとき、泉は“罪の栓”でふさがれているのである。そして、ぼくがその“栓”を抜いて神の御前に差し出せば、泉はふたたび〈水〉を湧かせてくれる。

 

罪は告白することで赦される。しかし、ぼくは自分の罪を認めようとせず、それがまた大きな罪となって、神の豊かな恵みを自ら遠ざけてしまう。

いや、恵みは変わらず自分の上にあるのだが、ぼくはそれに気づかない。神は必要なものを必要なだけ与えてくださっているのに、それでは十分でないと思ってしまうのである。

そういうとき、ぼくは神に対して不平不満を言い募る。ぼくは「出エジプト記」を読むとき、神の確かな臨在に触れながらその恵みを顧みないイスラエルの民に、いつも腹を立てる。自分はあのイスラエルの民と同じではないか!

出エジプトの民は背きの世代として滅ぼされたが、彼らを滅ぼしたその神を、いまぼくは礼拝している。神のご性質が変わることはない。ならば、ぼくもまた、立ちどころに滅ぼされてもおかしくないのである・・・。

 

しかし、神はぼくを生かしてくださる。滅ぼすどころか、背きの中にあってさえ糧を与えて養ってくださる。御子・イエスの血のゆえに、ぼくの罪が赦されているからである。

ただ罪が赦されても、ぼくの中の罪が取り去られたわけではない。ぼくの内側ではいまだ罪がうごめいており、体と共謀して泉に“栓”をしてしまう。神はそれをお見逃しにならない。

キリストがサマリア人の女性にしたように、聖霊を通して、ぼくに罪の告白を促してくださる。すると、“罪の栓”を抜くのはぼくのようであって、実はキリストご自身なのである!

ぼくは小さな“栓”さえ自分の力だけでは抜くことができない。ぼくにできることと言えば、神を称えて罪を打ち明け、ひたすら祈り求めるだけである、「その水を飲ませてください」と。アーメン。

 

 


▲「いいね♪」と思ったら、クリックで応援をお願いします!

 

引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

参考資料

画像の出典