ハレルヤ~! 安田遜です。
暑い夏、水分補給は欠かせませんが、一度に水を飲みすぎると、「水中毒」になることがあるそうです。飲んでも飲んでも渇きが癒えず、血液が薄まって、死に至ることもあるのだとか。
水にも中毒があるとは意外ですが、聖書には、いくら飲んでも害にならないどころか、飲み水よりも人を潤す「水」について書かれています。それが、今日のテーマ!
トップ画像に拝借したのは、その「水」とゆかりの深い、「ヤコブの井戸」と伝えられる場所の写真です。パレスチナ(ヨルダン川西岸)のフォティニア教会で保存されています。さぁ、水くみの準備は整いましたか? では――
今回は、先週6月28日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第84編2~13節(改1~12節)。
牧師説教は「その水を飲ませてください」と題し、「ヨハネによる福音書」第4章5~26節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
5イエスは、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、その井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは「水を飲ませてください」と言われた。…9すると女は、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリア人のわたしに頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10イエスは答えられた。「もしあなたが、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えただろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないのに、どこからその水を手に入れられるのですか。12あなたはわたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を与え、皆、ここから水を飲んだのです。」
13イエスは答えられた。「この水を飲む者はまた渇くが、14わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くこともくみに来る必要もないように、その水をください。」
16イエスが「あなたの夫を呼んで来なさい」言われると、17女は「夫はいません」と答えた。イエスは言われた。「夫はいないとは、そのとおりだ。18あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」
19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20あなたがたは、この山ではなく、エルサレムが礼拝すべき場所だと言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。そのどちらでもない場所で、父を礼拝する時が来る。…
23今こそ、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が「わたしはメシアが来られることは知っています。そのとき、わたしたちにすべてを知らせてくださいます」と言ったので、26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
イエスという井戸から水を飲んだ孤独なサマリア女
体が潤っても、心は渇いたまま
今回のお話の舞台は、サマリアという土地にあるヤコブの井戸です。イエスはユダヤ地方からガリラヤ地方への旅の途中、歩き疲れて、その井戸の近くで休んでおられました。
そこへ、サマリア人の女性(この記事では便宜上、アンナと呼びます)がやって来ます。イエスは彼女に飲み水をお求めになりますが、アンナは「どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節a)と、どこか冷たい態度です。でも実は、彼女は戸惑っていたのでした。
聖書はその理由を「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないから」(同節b)と語っていますが、実際はそれどころの話ではありません。両者は「敵対関係」にあったのです――
その昔、ユダヤは、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂していました。北王国の滅亡後、その首都だったサマリアは、多くの異民族の入植地となります。それは、宗教的清潔を重んじるユダヤ人にとって、忌むべきことでした。
ところが、サマリアのユダヤ人は異民族との結婚を受け入れ、そのことで南王国のユダヤ人から猛反発を受けることになりました。のちに南王国も滅びますが、その地のユダヤ人たちはサマリアの人々を同胞とは認めず、ついに彼らの神殿を焼討ちするまでに至ったのです。
それほど険悪な仲のはずの両者、ユダヤ人のイエスとサマリア人のアンナが、話を交わすことさえありえない出来事でした。そのうえ、イエスは「水を飲ませてください」(7節)とお頼みになったのです。
常識ではとても考えられない状況に戸惑うアンナに、イエスはこうおっしゃいました、
「もしあなたが、…『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)
「生きた水」とは、のどの渇きを潤すものではありません。「心の渇き」を癒すものです。イエスはアンナの心が渇いているのを見抜き、実はこうお尋ねになったのでした、
水を飲みたがっているのは、むしろあなたのほうじゃないのか?
アンナがイエスの御言葉の裏を読めるはずもなく、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」(11節)と答えるだけでした。井戸の深さは約30mもありましたから、無理もないでしょう。
アンナはまた、「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」(12節)とも言っています。その井戸は、イスラエルのの祖・ヤコブから、代々受け継がれていたものでした。「おれが水を飲ませてやろう」とおっしゃるイエスが、どこか尊大な人物に見えたのかもしれません。
十二部族イスラエル民族を構成する12の氏族のこと。アブラハムの孫でイサクの子であるヤコブの、12人の子および孫を直接の先祖としている。
でも、イエスは引かれませんでした。御言葉を受け入れようとしないアンナに、イエスはさらにおっしゃいます、
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)
アンナもその御言葉に動かされたのか、ついに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と答えました。ただ、イエスの真意を理解したわけではありません。アンナにとって水は、あくまでも「井戸からくみ上げる水」でした。
ところが一点だけ、注目するべき変化が起こっていることにお気づきでしょうか?
――そう、立場が逆転しているのです。初めはイエスのほうが水を求めておられたのが、アンナのほうからイエスに求めるようになっているのです!
罪による苦悩を押し流す「生きた水」の流れ
次の場面では、話題がいきなり変わります。
イエスはなんの脈絡もなく、突然、アンナに「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)とおっしゃったのです。それはアンナにとって、決して触れられたくない部分に触れられる言葉だったでしょう。
詳しい経緯はわかりませんが、アンナは5人の男性と離婚したのち、夫ではない男性と同居していました。それは、信仰的にも正しくない生活でした。そしてアンナは、イエスにその汚点を言い当てられてしまったのです∑(゜д゜)
アンナの暮らしぶりは近所の人々にも知られていたはずで、だからアンナは、サマリアの町で孤立していたのです。そのことは、彼女が水をくみに来たのが「正午ごろのこと」だった(6節)、という記述からわかります。
暑さの厳しいパレスチナでは、夏の気温が45℃に達することもあるそうです。だから、水くみは、涼しい朝のうちに済ませておくのが普通。ところがアンナは、わざわざ一日のうちでいちばん暑くなる正午に、水をくみに来ていました。
その理由はただひとつ、だれとも顔を合わせたくなかったからです。
不品行な性関係で人にうとまれ、不信仰な生活で神からも引き離され、アンナは心満たされない状態にありました。そんな彼女に、イエスは声をおかけになったのです、「水を飲ませてください」と。
それは、アンナに「隣人愛」を行うチャンスを与えるためでした。そして、その愛の行為を通して、彼女を神に立ち帰らせようと、イエスは思われたのです!
ただ、アンナが神に立ち帰るには、自分の罪に気づく必要もありました。イエスが彼女のデリケートな部分に、ズケズケと踏み込むようにも思えるやり方で触れられたのは、罪の自覚を促すためだったのです。
自分の汚点をぴたりと言い当てられたアンナは、「あなたは預言者だとお見受けします」(19節)と、イエスへの信頼を示しました。
ところが不思議なことに、アンナが悔い改めたかどうか、つまり、イエスに従って生活態度を正したかどうかについては、聖書は触れていません。聖書が伝えるのは、次のことです。
28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
―「ヨハネによる福音書」第4章28~30節(新共同訳)
アンナは町へ戻り、あれほど避けていた人々の前に自ら立って、イエスをメシア(救い主/キリスト)として紹介したのです!
生きた水、だれでもタダで飲めます!
「生きた水」に心潤された女性を見てきましたが、ぼくたちの心も渇いてはいないでしょうか?
もしかしたらあなたは、経済的に豊かで、病気もせず健康で、仕事もプライベートも順調な毎日を送っておられるかもしれません。ただ、そんな状況だからこそ渇いてしまう、ということもあると思うのです。そして、そういうときの渇きには気づきにくい。
自分にとって好都合なことが続くとき、ぼくたちは「満たされている」と感じます。クリスチャンでさえ、神の存在を忘れ去って、順風満帆のうれしさに溺れてしまうことがあります。
表向きは満たされても、どこか満たされない感覚の残ることはないでしょうか?
だからこそ、「その水をください」と願うことが大切なのです。
お金・地位・名誉…。それらの“世の水”がぼくたちの渇きを癒してくれることは、確かです。でも、それはほんの一時的なことに過ぎません。
“世の水”は、それを得ることにぼくたちを駆り立てたかと思えば、次には「もっともっと!」とぼくたちをかつ望させます。
イエス・キリストこそ、ぼくたちを芯まで潤してくださる「生きた水」です!
神は「生きた水」を惜しみなく、ぼくたちに与えてくださいました。いまこそ教会の扉を開き、「その水をください」と求めていただきたいと思います。教会はそのためにこそ開かれ、心の渇きを癒やしてくださる神を讃美する集いなのです。
遜の黙想
「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」との御言葉を学びました。でも、その泉がかれてしまったかのように思えるときがあります。ぼくがそれと知りながら罪を犯すので、泉が“罪の栓”で塞がれてしまうのです。
イエス・キリストは、アンナにしたように、ぼくに罪の告白と悔改めを促してくださいます。その働きかけに素直に従うと、泉がまたジワジワと染み出すように湧いて、心に潤いが戻ってくるのです。とても不思議な感覚です。
それでも、「生きた水」にではなく、“世の水”に心引かれている自分にたびたび気づきます。それでまた心が渇き、キリストのもとで憩えたと思ったら、次の瞬間にはもう欲にはしろうとしている…。自分のどうしようもない罪深さに気づくのです。
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慈愛の神様、欲望に傾いていくこの
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)