遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】悲劇はキリストとともに生きる人生にも起こるけれど・・・

 

ヨルダン川で洗礼を受ける女性

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

クリスチャンの中には、「キリスト」という呼び方を嫌う人が少なくありません。宗教としてカテゴライズされるのは仕方ないとしても、その中身はいわゆる「宗教」ではないからです。

多くの宗教は、修行や喜捨といった人間側の努力によって、神仏に認められることを教えています。また特に日本では、人生をよりよく生きるための“ツール”のような側面もあるでしょう。イエス・キリストへの信仰は、そのどちらでもありません。

キリストを信じる人は、神や教会になんの貢献がなくても、ただ「信仰」ゆえに神に認められます。一方、歴史上のクリスチャンを見ると、その人生はほとんど不幸の連続です。それにもかかわらず、いまなおクリスチャンが生まれるのは、いったいなぜでしょうか?

 

今回は、先週6月21日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年6月21日聖霊降臨節第4主日礼拝

この日は、〈父の日〉でした。この記念日は〈母の日〉と同様、キリスト教会が発祥だと言われています。その起源と概要について、牧師先生の解説文を抜粋します。

 

1909年、アメリカのワシントン州スポケーン市のドット夫人が、男手ひとつで育ててくれた父をたたえ、牧師に願って父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったのが、父の日のきっかけだと言われています。

最初の父の日の祝典は、その翌年にスポケーンで行われました。1916年、ウッドロー・ウィルソン大統領が同市で演説を行ったことで父の日が認知されるようになり、1966年、リンドン・ジョンソン大統領が6月の第3日曜日を「父の日」と定めました。

父の日の花はバラ。ドット夫人が父の墓前に白いバラを手向けたからとされており、最初の祝典の際には、父が健在の者は赤いバラを、そうでない者は白いバラを身につけたと伝えられています。

父の日は母の日と違い、日本キリスト教団の教会暦では、教会行事として定められていません。それはやはり、教会においては「父=神」だからではないでしょうか。聖書でも「母マリア」と記されているのに対し、「父ヨセフ」という表記はありません。

ちょっと寂しい気もしますが、この「父の日」、親族としての父だけでなく、わたしたちの救い主の父である神に、心を向けることも大切なのだと思います。

 

 

この日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。読上げ箇所は、第16編7~11節

牧師説教は「喜びに満たされるために」と題し、「ヨハネによる福音書」第3章22~36節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行き、そこに一緒に滞在し、洗礼〔バプテスマ〕を授けておられた。23このとき、洗礼者ヨハネもまた、アイノンで洗礼〔バプテスマ〕を授けていた。24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。

25ところがヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人と清めのことで論争を起こし、26ヨハネに言った。「ラビ、あなたの証しされたあの人が、洗礼〔バプテスマ〕を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」27ヨハネは答えた。「だれでも、天から与えられずに受けることはできない。28わたしは『自分はメシアではな い。あの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証人となる。

29花嫁を迎えるのは花婿だ。その介添え人が花婿の声を聞いて喜ぶように、わたしは喜びで満たされている。30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 

31「地から生まれる者は地に属し、天から来られる方は万物の上におられる。32この方は見聞きしたことを証しされるが、だれもそれを受け入れない。33受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。

34神が遣わされた方は“霊”を限りなく与えられるので、神の言葉を話される。35おんちちは御子を愛し、その手にすべてをゆだねられた。36御子を信じる人は永遠の命を得、そうでない者は命を失うばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 

―「ヨハネによる福音書」第3章22~36節(独自に要約)

 

この箇所を Bible.com で読む

 

イエスに弟子を奪われたヨハネに学ぶ「喜び」と「成功」の本質

栄枯盛衰に神慮あり!

今回は、「洗礼」にまつわるお話です。今日の主人公は洗礼者ヨハネですが、このお話の直前には、律法教師・ニコデモが登場しています。イエスは彼との問答の中で、だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(ヨハ3:5)とおっしゃいました。

ニコデモは“超エリート教師”でしたが、イエスの御言葉を読み解くことができず、イエスがだれなのかを正しく理解することもありませんでした。でも、洗礼者ヨハネは違います!

イエスはであり、神から遣わされたメシア救い主キリスト)です。そのことをちゃんと心得ていたのは、エリート街道とは無縁のヨハネだけでした。

ニコデモの登場する記事はコチラ

「生まれ変わる」ではなく「新しく生まれる」

 

さて、「水と霊とによって」とは、ずばり洗礼のことを指しています。今回のお話では、イエスもヨハネも、それぞれに別の場所で洗礼を授けていました。どちらにほんとうの権威があるのか、競い合っているように思えなくもありません。

“洗礼合戦”とでも呼べそうな様相だったのか、「ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった(25節)と聖書は語っています。論争の内容はわかりませんが、「あるユダヤ人」は、イエスから洗礼を受けたのでしょう。

彼だけでなく、多くの人がヨハネを離れていくというのに、当の本人はどこ吹く風だったようです。気が気ではない弟子たちは、「ラビ(先生)みんながあの人の方へ行っています」と、ヨハネになにか行動を促しました。

するとヨハネは、「自分はメシアではない(28節a)と、弟子たちにきっぱり宣言しました。しかも、「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる(同節b)とまで言っています。つまり、こういうことです、

 

 

イエス様こそが、メシアなのだ! おまえたちもいずれわたしを離れ、あの方のもとに身を寄せるようになる。

 

ヨハネにとって、イエスに弟子が奪われることは、なんの損失でもありませんでした。それは、ヨハネを離れていった弟子たちにも言えることです。彼らがイエスに従うのなら、それは決して失敗ではありません。ヨハネはまた言います、

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(30節)

ヨハネは活動を始めたとき、預言者・イザヤの言葉を引用して、わたしは荒れ野で叫ぶ声である(ヨハ1:23)と自己紹介しました。声は出たらそれっきり、跡形もなく消えてしまいます。

 

すべての人をイエス・キリストのもとへ導き、自分は「荒れ野で叫ぶ声」として消えていく。それこそがヨハネの人生、そして本望だったのです。

 

「マイナス」に見えるけど、絶対的に「プラス」な生き方

ヨハネの「成功」とは、愛弟子を含むすべての人が、救い主イエス・キリストの弟子となることでした。ここで、ある牧師の言葉を紹介します、

 

 

仕事を上手にこなすこと、自分にとってのプラスを積み重ねること。それらは確かに立派ですが、神の御前では、カッコしてマイナスがついているのです、「(-)成功」という具合に。

 

お金・地位・名誉などを求めることは、決して悪いことではありません。ただ、自分だけのためにそれらを欲しがり、自分の利益だけを見据えて仕事・投資することは、どうでしょうか?

たとえ本人に悪意がなくても、「自分だけ」にとらわれていては、成功のために他人を蹴落としたり、泣く人をつくったりしてしまうでしょう。果たして、それをいい人生だと言えるでしょうか? そのような成功も、この世では称賛に値するのかもしれません。

ところが神の御前では、その種の成功は「マイナス」としてカウントされます。一方、マイナスに思える事柄も、イエスの十字架を土台として積み上げれば、神に喜ばれる「プラス」へと転化します!

 

先ほど、弟子たちがイエスにすることがヨハネの成功だった、と書きました。それは、世間の価値観に照らせばありえないことでしょう。ヨハネの生涯は、その後も(世的に見れば)悲劇の連続でした。無実の罪で投獄され、最期は宴会の余興として首をはねられたのです

とても幸せとは思えませんが、ヨハネは「わたしは喜びで満たされている(29節)と言いました。

イエスの繁栄を見ることができたからです。イエスは多くの人に洗礼を授け、その人々はイエスの弟子となって救われました。ヨハネはそのことを喜び、満ち足りた生涯を終えたのでしょう。

 

一見悲劇的な出来事が喜びをもたらした例は、ほかにもあります。

「ルカによる福音書」第2章に、シメオンという信仰深い人物が登場します。彼は、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない(26節)とのお告げを受けていました。

そして、エルサレム神殿で赤ん坊のイエスと出会ったのち、そのお告げが成就します。「シメオンの死」という悲しみが、「救い主の到来」という喜びを告げ知らせたのです!

 

神の内にある人間の喜び

普通に考えれば最悪な死を遂げたのは、ヨハネだけではありません。イエスご自身もまた、むごたらしく死なれました。顔にツバを吐かれて侮辱され、激しくムチ打たれたすえの、十字架です。ところが、その十字架の上で、イエスはある宣言をなさいました。

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

―「ヨハネによる福音書」第19章30節(新共同訳)

成し遂げられた」は、まぎれもない喜びの御言葉です。神の救いの御業が、イエス・キリストの死によって、完全に成就したからです(≧∇≦)ハレルヤァ

 

ぼくたちが救われるために、神は愛する独り子・イエスを捧げてくださいました。神は、そのイエスをぼくたちが信じ、「ほんとうの喜び」を知るようになることを望んでおられます。

人間は、神の似姿としてつくられました。この世の「プラス」を手に入れても、どこか満たされない感覚の残るのは、神を見上げていないからではないでしょうか? また、「自分だけ」に執着しているからではないでしょうか?

音楽の父・バッハは、いつも楽譜の最後を「神のみに栄光あれ」という言葉で締めくくっていたといいます。彼は音楽の才能で人々を喜ばせ、作曲の能力を神に捧げました。同じように、ぼくたちは「自分以外のだれか」を支えるため、そうすることで神の栄光を表すため、それぞれに才能や能力を与えられています

 

視線が自分ではなく神に、神を通して他人に向くとき、ぼくたちはほんとうの喜びを知ります。

 

そして、イエスを信じる人の最大の喜びについて、メソジスト(プロテスタントの一教派)の創始者ジョン・ウェスレーは、もっともよいことは、神がともにいてくださることだ、と語っています。

どんな悲劇に見舞われても、神はあなたを見捨てられません。神はいつもあなたのそばにいて、あなたの不運をプラスに変えようと計画しておられます。ぜひ聖書を開き、あなたの神を見上げてください!

 

遜の黙想

イエス・キリストを信じたのがこの世で幸せになるためだったら、ぼくはとっくに信仰を捨てていたと思います。信じても苦しいし、聖書的価値観のせいで、むしろ生きづらくなる面が増えたからです。

より生きづらくなったのだから、信仰なんかやめればいいのですが、なぜかそうはいきません。信仰を一旦中断して元の生活を楽しんだことも何度かありますが、不思議にその楽しさが長続きしないのです。そして、だんだん鬱っぽくなっていきますw

信仰を再開して神を見上げたとき、「これこれ!」というような感覚になるのは、もっと不思議なことだと思います。神からくる喜びは、炎天下で飲む、よく冷えたサイダーのようです。

天におられるお父様、悲劇の絶えない罪の世から、小さなぼくを捜し出してくださり感謝します。いつもあなたの御手の内にあることを、苦難の日々にも確信させてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
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