遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】悲劇はキリストとともに生きる人生にも起こるけれど・・・

 

ヨルダン川で洗礼を受ける女性

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

緊急事態宣言が解除されてから、しばらくが経ちましたね。ぼくは先日、2か月ぶりに会堂へ行って礼拝を守りました。

4月中旬のイースター礼拝&ぼくの洗礼式を最後に会堂へは行けず、それからは毎週、LINEのライブ配信を使って礼拝していたのです。

“テレワーシップ”だと、うっかり寝坊しても遅刻しないからいいんですが、う~ん・・・。やっぱりもの足りないですね。ライブ好きの人の気持ちがわかります。そういう話じゃない(¬_¬)

 

ということで今回は、先週6月21日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日礼拝

2020年6月21日
聖霊降臨節第4主日礼拝

この日は、父の日でした。この記念日はキリスト教会が発祥だと言われています(母の日も同様)。父の日について、牧師先生の解説文を抜粋します。

 

1909年、アメリカのワシントン州スポケーン市のドット夫人が、男手一つで育ててくれた父をたたえ、牧師に願って父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったのが、父の日のきっかけだと言われています。

最初の父の日の祝典は、その翌年にスポケーンで行われました。1916年、ウッドロー・ウィルソン大統領が同市で演説を行ったことで父の日が認知されるようになり、1966年、リンドン・ジョンソン大統領が6月の第3日曜日を「父の日」と定めました。

父の日の花はバラ。ドット夫人が父の墓前に白いバラを手向けたからとされており、最初の祝典の際には、父が健在の者は赤いバラを、そうでない者は白いバラを身につけたと伝えられています。

父の日は母の日と違い、日本基督教団の教会暦では、教会行事として定められていません。それはやはり、教会においては「父=神」だからではないでしょうか。聖書でも「母マリア」と記されているのに対し、「父ヨセフ」という表記はありません。

ちょっと寂しい気もしますが、この「父の日」、親族としての父だけでなく、私たちの救い主の父である神に、心を向けることも大切なのだと思います。

 

母の日・父の日までキリスト教由来だったとは、まったく知りませんでした。そういう日が祝われつづけるかぎり、日本のキリスト教会が零落することはなさそうです^^

さてこの日は、新型コロナウイルスの感染予防策として「詩編」は交読せず、牧師先生の読み上げる声を聴いていました。

 

読上げ箇所は、「詩編」第16編7~11節。要約すると、

「主をたたえます。主はわたしを励まし諭し、いつも隣にいてくださいます。ゆえにわたしは動じず、喜びつつ、安心して憩うことができるのです。
主はわたしをに捨ておかず、命に至る道を教えてくださいます。わたしは主の御前にあって、永遠の喜びで満たされています」

という内容です。

 

牧師説教は「喜びに満たされるために」と題し、「ヨハネによる福音書」第3章22~36節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

イエスは弟子たちと共にユダヤ地方に行き、人々に洗礼〔バプテスマ〕を授けておられた。このとき、洗礼者ヨハネもまた、アイノン――「水の豊かな泉」という意味――洗礼〔バプテスマ〕を授けていた。

ヨハネの弟子たちがあるユダヤ人と論争を起こし、ヨハネに言った。「ラビ、あなたの証しされた人が、ヨルダン川の向こうで洗礼〔バプテスマ〕を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」

するとヨハネは答えた。「わたしは以前、『自分はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、あなたたち自身がそのことについての証人となる。

花嫁を迎えるのは花婿だ。その介添え人が花婿の声を聞いて喜ぶのと同じく、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 

「地から生まれる者は地に属し、天から来られる方は万物の上におられる。この方は見聞きしたことを語られるが、だれもその証しを受け入れない。受け入れる者は、神が真実であられることを確認したことになる。

神に遣わされた方は“霊”を限りなく与えられ、神の言葉を話される。御父は御子を愛し、すべてをその手にゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得、そうでない者は命を失うばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 

―「ヨハネによる福音書」第3章22~36節(独自に要約)

 

イエスに弟子を奪われたヨハネに学ぶ、ほんとうの喜びと成功

栄えるべき人のためなら消えても本望

今回の箇所は、イエスとニコデモの問答のあとに書かれています。イエスはニコデモに、

だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(ヨハネ3:5c)

とおっしゃいました。優秀な教師であるニコデモもその意味はわからず、イエスがどんな方であるかも正しく理解していませんでした。

イエスは神の子であり、神から遣わされたメシア(救い主)です。そのことをちゃんと理解できていたのは、洗礼者ヨハネだけだったのです。

 

ニコデモの登場する記事はコチラ
「生まれ変わる」のではなく「新しく生まれる」

 

さて、「水と霊とによって」とは、洗礼のことを指しています。イエスもヨハネも人々に洗礼を授けていましたが、この2人の洗礼に、なにか違いはあるのでしょうか?

 

ヨハネの弟子たちがあるユダヤ人と起こした論争について、詳しい内容は書かれていません。ただ、「あるユダヤ人」とはイエスから洗礼を受けた人だ、と言うことはできるでしょう。

イエスとヨハネが別の場所で洗礼を授けている様子は、どちらにほんとうの権威があるかを競い合っているようにも受け取れます。そして多くの人々が、ヨハネを離れてイエスのもとへ行くのです。

そんな状況になっても、ヨハネはなんの行動も起こそうとしません。弟子たちは気が気ではない。ヨハネに不信感とイライラをぶちまけます、「ラビ(先生)・・・みんながあの人の方へ行っています」

恩師のもとで洗礼を受ける人がだれもいなくなってしまうことを、弟子たちは危惧したのです。

 

するとヨハネは、「自分はメシアではない」と、弟子たちにきっぱりと宣言しました。しかも、「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」とまで言っています。つまり、

 

「イエスさまこそがメシアなのだ。
あなたたちもいずれわたしを離れ、あの方のもとに身を寄せるようになる」

 

ということ。弟子たちが離れていくことは、ヨハネにとってなにも失敗ではありませんでした。それは、弟子たちにとっても同様です。ヨハネから離れてイエスに従うことは、決して失敗ではありませんでした。

 

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」

ヨハネは活動を始めたとき、預言者・イザヤの言葉を引用して、わたしは荒れ野で叫ぶ声である(ヨハネ1:23b)と言いました。声は出たらそれっきり、跡形もなく消えてしまいます。

すべての人がメシアであるイエスのもとへ行き、自分は「荒れ野で叫ぶ声」として消えていく。それこそが、ヨハネの本望だったのです。

 

「マイナス」に見える絶対的な「プラス」

ヨハネにとっての成功とは、愛弟子を含むすべての人が、救い主・イエスのもとへ行くことでした。ここで、ある牧師の言葉を紹介します、

 

「どんなにうまく仕事をこなしても、いくら自分にとってのプラスを積み重ねても、神の御前では、カッコしてマイナスがついているのです」

 

お金・地位・名誉などを求めるとき、だいたいの人は自分のためにそれらを欲しがるのではありませんか? そして、そのために仕事や投資をするのではありませんか?

よく言われることですが、成功者の裏には常に泣いている人がいます。

成功者に悪意があるとは言いません。ただ聖書に照らせば、人を蹴落としてまで成功を勝ち取る人生は、決していい人生とは言えません。

神の御前では「マイナス」の現世的な物事は、イエスの十字架という土台に積み上げてこそ、神に喜ばれる「プラス」になるのです。

 

ヨハネの生涯を見ると、成功とは程遠い人生のように思えます。弟子たちを失い、無実の罪で投獄され、最期は宴会の余興として首をはねられる・・・。

とても悲惨なようですが、ヨハネは「わたしは喜びで満たされている」と言いました。イエスが栄えるのを見ることができたからです。

イエスのもとで多くの人々が洗礼を受け、彼らがすべてイエスの弟子となって救われた。ヨハネはそのことを喜び、満ち足りた生涯を終えたのです。

 

悲劇に思える出来事が喜びをもたらした例は、ほかにもあります。

「ルカによる福音書」第2章に、シメオンという信仰深い人物が登場します。シメオンは主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない(26節)とお告げを受けていました。

そして、エルサレムの神殿で赤ん坊のイエスと出会ったのち、そのお告げが成就します。「シメオンの死」という悲しみが、「救い主の到来」という喜びを告げ知らせたのです。

 

ここでまた、偉人たちの言葉を紹介しましょう。

プロテスタントの一教派・メソジストの創始者、ジョン・ウェスレーは、「もっともよいことは、神がともにいてくださることだ」と語っています。

また、「音楽の父」と呼ばれるJ・S・バッハは、「神のみに栄光あれ」という言葉を、いつも楽譜の最後に書き記していたといいます。

 

バッハやウェスレーは、すべてを神の栄光のために捧げて生涯を終えたのです。

 

捧げる喜び、ともにいる喜び

イエスご自身もまた、普通に考えれば最悪な最期を遂げました。顔にツバ吐かれて侮辱され、激しくムチ打たれたすえの、十字架です。その十字架の上で、イエスはなんとおっしゃったでしょうか?

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

―「ヨハネによる福音書」第19章30節(新共同訳)

「成し遂げられた」これは喜びの言葉です。ご自分の惨めな死によって、神の救いの御業がなし遂げられたという、大きな喜びの言葉なのです!

 

人間のほんとうの喜びとはなんでしょうか?

――それは、わたしたちのために命を捧げてくださったイエスに、自分のすべてを捧げることです。

日々聖書を読んで神の御心を知り、神に喜ばれるように努めることです。

それぞれに与えられている賜物ギフトを活かし、神と隣人に奉仕することです。

イエスの御言葉に耳を傾け、イエスを知らない人々にそれを届けることです。

 

ときには御言葉よりも、お金や名誉が欲しくなってしまうこともあります。もちろん、それ自体は悪くありません。ただ、神を抜きにした成功はむなしいものだ、と覚えておきましょう。

この世の「プラス」を求めても、「その『プラス』によって神にお返しができる!」ということを喜びにするのです。

わたしたちの才能や能力はすべて、自分以外のだれかのために与えられています。それを自分のために浪費してしまうことのないように、いつも神の御言葉を求めましょう。

 

神は、いつもともにいてくださいます。その喜びの中で生きることこそ、わたしたちにとって一番大切なことです。

 

遜の黙想

神の栄光を現すのが、クリスチャンの人生観だ。人生とは神さまに栄光を帰することを幸せとし、その幸せを限りなく追求するためにある。ほんとうの喜びは神さまの中にしかないということを、ぼくは体験的に学んでいる。

ところがぼくは、世の近視眼的な価値観に惹かれ、神さまをではなく自分を喜ばせることに腐心している。心の底では、24時間365日、神さまに奉仕したいと願っているはずなのに。それも、人間の根本的な罪の性質によるものなのだろう・・・。

ぼくは自分を「つみびとの中の罪人」だと思っている。そこでキリストは、わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである(マルコ2:17c)と言ってくれた。そんなに心強い言葉はない!

父なる神さま、ぼくは自分の幸せばかりを追い求めています。あなたは御子・イエスを、御子はご自分の命を捧げ、ぼくに仕えてくださいました。あなたと隣人に自分自身を捧げようという志を、どうかぼくに与えてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)