ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは記事を書く前、いつもお祈りをしています。全然書けないときは、だいたいお祈りを忘れているんですね。まぁ、祈っても書けないときはありますが・・・^^;
どんなふうに祈るかというと、「どうか聖霊を働かせて、ぼくを通して語ってください」みたいな感じです。「聖霊」っていう単語を知ってほしくて、この話をしましたw
聖霊というのは、キリストを信じた人に与えられる、神さまの霊のことです。いま、自分の中に神さまが住んでくれている。これって、すごいことだと思いませんか!?
さぁ、予備知識をお伝えしたところで、6月14日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年6月14日 聖霊降臨節第3主日礼拝
2020年6月14日
聖霊降臨節第3主日礼拝
この日は、子どもの日・花の日でもあります。これは日本基督教団が独自に制定した記念日で、毎年6月の第2日曜日がそれにあたります。牧師先生による解説文(抜粋)をご覧ください。
この日の起源は1856年、アメリカのマサチューセッツ州チェルシー市にある教会のレオナルド牧師の提案にあると言われています。6月のある日曜日に子ども中心の特別礼拝を行い、その中で幼児祝福式を行ったのが始まりです。
また、そのころが最も花盛りの季節であることから、人々は花を持ち寄って教会堂を飾り、礼拝後にはそれを子どもたちに持たせて病人を見舞わせたり、派出所や社会施設などを慰問させたりしたそうです。
この「子どもの日・花の日」は、教会全体で子どもたちの成長と信仰の継承を願う時です。一人ひとりが子どもたちのことを覚え、祈り続けたいと思います。
日本はキリスト教後進国で、10年後には、いまある教会の半分はなくなるだろうと言われています。日本のキリスト教会の未来も子どもたちに懸かっていますから、祈りつつ伝道に励みます!
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交読詩編は、「詩編」第29編1~11節。要約すると、
「栄光と力を主に帰し、聖なる輝きに満ちた主にひれ伏せ。天にまします主の御声は雷鳴をとどろかせ、力と輝きを帯びて杉の木を砕き、山々を子牛のごとく躍らせ、カデシュの荒れ野を震わせる。
主の御声に雌鹿はもだえて早産するが、神殿では皆が主をたたえ唱える、『栄光あれ』と。主はとこしえの王。どうか主が民に力を与え、民を祝福して平和を賜るように」
という内容です。
牧師説教は「新しく生まれるために」と題し、「ヨハネによる福音書」第3章1~15節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
ある夜、ファリサイ派のニコデモという議員がイエスを訪ねて言った。「ラビ、わたしたちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられなければ、あのような奇跡を行うことはできません。」
イエスがそれに答えて「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたので、ニコデモは「年とった者が、また母親の胎内に入って生まれることなどできるでしょうか」と言った。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉は肉から生まれ、霊は霊から生まれるものだ。」
するとニコデモは、「そんなことがどうしてありえるでしょうか」と言った。そこでイエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしは見知ったことを語っているが、あなたがたはその証しを受け入れない。
地上のことを話しても信じないのに、天上のことを話したところで信じるだろうか。人の子のほかに、天に上った者はだれもいないのだ。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。人の子を信じる者が皆、永遠の命を得るためである。」
―「ヨハネによる福音書」第3章1~15節(独自に要約)
神の国が見たいニコデモの切望と、そこへ導くイエスの洗礼
神の国はいずこに?
ニコデモというファリサイ派(パリサイ
パリサイ人は厳しい律法を忠実に守っていたことから、「自分たちこそが神に認められる人間だ!」と自負していました。その一方、さまざまな理由で律法を守れない人々を差別的に扱い、イエスに非難される存在でもありました。
ニコデモはそのパリサイ人の議員、つまり最高法院での議決権を持つ高官でした。でも、ニコデモはイエスを「ラビ=先生」と呼び、律法の教師として敬意を表しています。
ニコデモはさらに、「神が共におられる・・・」という並はずれた讃辞を送ったうえで、イエスに教えを乞うています。普通のパリサイ人ではまずありえません。
さて、イエスはニコデモの言葉に
と言うのも、ニコデモは挨拶代わりに讃辞を送りはしましたが、特に質問してはいないからです。それなのにイエスが
ニコデモの質問――それは上記のイエスの返答からわかるとおり、
「どうすれば神の国を見られるでしょうか?」
というものだったのです。
ユダヤ人は歴史上、数々の強国の支配下に置かれてきました。そして何世紀もの間、神には黙秘を続けられ、異邦人には同化を強いられました。そこで生活上の不利益を避けるため、ついに異国の神々を拝むようになってしまったのです。
そのような環境下でも不遇に耐え、律法を遵守しながら信仰を保ちつづけていたのが、パリサイ人たちでした。神の国が見えないというのは、ほんとうに嘆かわしいことだったでしょう。
「神の国が見たい」ニコデモにとって、それは心からの願いだったのです。
水と霊によるバプテスマを受けて
ニコデモの切望に対して、イエスは「新たに」という言葉を用いて答えられました。その言葉には、ギリシャ語で「ふたたび・初めから」という意味があります。
イエスはさらに、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と続けておられます。その言葉は明らかに、2つのバプテスマ(洗礼)のことを表しています。
「水によるバプテスマ」だけでは神の国に入るのに不十分だ、とイエスはおっしゃるのです。「聖霊によるバプテスマ」もまた受けなければならないと。
聖霊によるバプテスマは、イエスだけによって授けられます。
ところが、ニコデモはイエスの言葉にすっかり困惑しました。「新たに生まれる」という意味が、まったく理解できなかったのです。ちょっと考えてみましょう。
「新たに生まれる=一からやり直す」という意味ならば、ニコデモが「年とった者が、どうして・・・」と問いかけるのもうなずける気がします。
若いうちであれば、すべてを捨てて人生をやり直すことはできるでしょう。でも、年を重ねるごとにそれが難しくなっていきます。高級議員という身分を背負ったニコデモにとっては、なおさらです。
ただもちろん、それはイエスの真意ではありません。イエスがおっしゃりたかったのは、「わたしから聖霊によるバプテスマを受けなさい」ということでした。
まったく悟らないニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言ってイエスにあきれられています。でも、わたしたちもニコデモと同じことを思うのではないでしょうか?
教会で執り行われるのは、水による洗礼式だけだからです。“聖霊による洗礼式”を挙げることはありません。
いえ、「ありません」ではなく、できません。先ほど話したとおり、わたしたちに聖霊を与えることができるのは神だけ、イエスだけだからです。
では、どうすれば聖霊によるバプテスマを受けられるのでしょうか?
十字架を仰いで新しく生まれよう!
聖霊を授かる方法を知るには、イエスの言葉の後半部分に注目しましょう。そこでは、旧約聖書のある出来事について語られています――
かつてエジプトで奴隷の身分にあったユダヤ人。ある夜、彼らは神の憐れみによって解放され、その後はマナという食べ物を頂きながら旅をしていました。でも、ユダヤ人は不平を言います、
「長い間
神の恵みを軽んじたユダヤ人に、今度は神の怒りが降りかかります。ユダヤ人の宿営地に猛毒のヘビが現れ、多くの人々に噛みついてその命を奪っていったのです。
そこで指導者・モーセが神に赦しを乞うと、青銅製のヘビを旗竿の先に掲げるように命じられました。そして、ヘビに噛まれた人がそのヘビ像を仰ぎ見ると、死を免れたのでした。
青銅のヘビは、ユダヤ人の犯した罪の象徴です。ユダヤ人はそのヘビを見上げることで自分の罪を悟り、悔い改めて命を得ました。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(イエスのこと)も上げられねばならない」
イエスは
イエスの十字架上の死と復活を信じるとき、わたしたちは聖霊によるバプテスマを受けます。そうすることで罪を赦され、神の国に入る特権を与えられて、永遠の命を保証されるのです!
わたしたちが見上げるべきなのは、十字架上のイエスであり、復活して天で生きておられるイエスです。神の国を見られるかどうか? ――それは、イエスを救い主として信じるかどうかに懸かっています。
イエスを信じる人には、例外なく聖霊が授けられます。十字架に、そして天に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見て、新しい永遠の命を生きはじめましょう。
遜の黙想
ぼくはニコデモのように神の国が見たいから、キリストを信じたのではない。ただキリストとつながっていたいから、信じたのだ。神の国や永遠の命というのは、ぼくにとって“サプライズ・プレゼント”のようなものだった。
そんなもの(と言ってはいけないが)が与えられなくても、ぼくはキリストと一緒にいたい。キリストを信じて新しく生まれたあの日、ぼくの中に神さまが降りて来てくれたから、自然とそう思うのだろうか。
いま、改めて十字架を仰ぐ。もうだれもかけられていない十字架は、キリストがいまも天で生きていること、キリストこそがまことの神であることを教えてくれる。そして、ぼくが「赦された
*
主よ、御子・イエスの命と引き換えに新しい命を与えてくださり感謝します。御子を惜しまれなかったあなたの愛に応え、あなたの栄光を表す機会を日々与えてください。ぼくを通して、また一人が新しい人生に導かれますように。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)
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