ハレルヤ~! 安田遜です。
〈礼拝〉の記事は久々の投稿ですね。言い訳すると、メモをまとめるのに時間がかかるんです。なにを書いてなにを書かないか、考えれば考えるほどわからなくなります(@_@)
完璧主義が災いして納得いかない部分を無視できず、そうすると執筆が遅々として進まず、更新がピタッととまってしまう。・・・ブログは向いていないかもしれませんw
この記事もなんとなく納得してはいないんですけど、神さまに「とりあえずアップしときなさい!」って急かされている(気がする)ので、仕方ないからアップします。
久々の今回は、6月7日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年6月7日 聖霊降臨節第2主日礼拝
2020年6月7日
聖霊降臨節第2主日礼拝
この日は新型コロナウイルスの感染予防策として、4月中旬以降恒例となっている、LINEのライブ配信で礼拝を守りました。
交読詩編は、「詩編」第37編23~40節。要約すると、
「主は人がまっすぐ歩めるように、正しい道を備えてくださる。たとえ倒れても、主に支えられて生きることができる。わたしは長く生きたが、主に従う人が見捨てられ、その子が物乞いに身を落とすのを見たことがない。
主に従う人の口には知恵が、舌には正義が、心には御教えがあり、彼はまっすぐに歩む。主に逆らう者は彼を殺そうと待ち構えるが、主は彼がその魔手に落ちるのをお許しにならない。だから、ひたすら主の道を歩め。
主に逆らう者が勢力を得ようとも、彼はいつか消えうせる。無垢であれ、まっすぐであれ。主に従う人を主は助け、
という内容です。
牧師説教は「わたしが言うのを信じなさい」と題し、「ヨハネによる福音書」第14章8~17節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
フィリポが「主よ、わたしたちに
御 父 をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
―「ヨハネによる福音書」第14章8~17節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
イエスを神と信じられないフィリポに見る人間の性
聖書の真理は理解不能!?
今回の箇所の直前で、イエスは弟子たちにあなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父(父なる神)をも知ることになる。・・・いや、既に父を見ている
(ヨハネ14:7)とおっしゃいました。
弟子・フィリポ(ピリポ)はその真意がわからず、「わたしたちに御父をお示しください」とイエスに懇願しています。でもイエスのおっしゃるとおり、イエスご自身が、すでに父なる神を示しておられるのです。
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
―「ヨハネによる福音書」第1章18節(新共同訳)
とは言え、神が見たいというフィリポの願いは、人類共通の願いではないでしょうか? 見えない神を信じているクリスチャンでも、なにか災難に遭うと、ついその存在を疑ってしまうものです。
さて、「ヨハネによる福音書」第13章から、イエスの最後の説教が始まります。〈決別説教〉と呼ばれるその箇所で、イエスは弟子たちにこうお語りになりました、
「わたしはあなたたちと別れて、天におられる父の
イエスはいつも弟子たちとともにおられました。反対者の批判には毅然と反論し、さまざまな奇跡によって神の力を示してこられました。そんなイエスが自分たちの前からいなくなる、と弟子たちは聞かされたのです。
イエスを追って天へ昇って行く方法など、もちろんわかるはずもありません。弟子たちはとても不安になったことでしょう。そこでフィリポは、「いまのうちに神を知って安心したい!」と考えたのでした。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」というイエスの反応はもっともです。弟子たちは約3年間、人類史上もっとも濃密にイエスと接し、もっとも頻繁に御言葉と御業を見聞きしたのです。
その弟子たちがイエスを理解できず、また信じられないならば、ほかのだれにイエスを信じることなどできるでしょうか!?
ハンパな信仰なんていらない
神は預言者・モーセを通して、ユダヤ人に律法をお与えになりました。〈十戒〉をはじめとするその律法を、ユダヤ人は何世紀にも渡って忠実に守っていましたが、その態度は表面的なものにすぎませんでした。
特に律法学者と呼ばれる人々は、律法に秘められた神の御心を考えず、自分勝手に律法を解釈・適用していました。さらにそれを人々に押しつけ、守れない人々をさげすんで、神に近づくことを許しませんでした。
一方、イエスの言葉は神から直接出たものであり、自分勝手に語られたものではありません。イエスは常に人々を悔い改めに導き、だれもが神の憐れみを受けるべきだと教えておられたのです。
そのイエスが、フィリポに「信じないのか」とお問いになりました。
イエスは「信じていない状態」を責めているのではなく、「信じようとしないこと」に対して訴えかけておられます。
「イエスと神が一体である」と信じることは、キリスト信仰の根幹です。ところが、その信仰を公言するのは命懸けのことだった、と聖書は語っています。
ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
―「ヨハネによる福音書」第9章22節b(新共同訳)
それどころか、イエスを神だと信じることは、まことの神を
だから、一度イエスを信じて洗礼を受けても、迫害や処刑を恐れてユダヤ教に戻る人々が、数えきれないほどいたのです。そのような環境下での「信じないのか」という問いかけは、とても強烈に響いたことでしょう。
イエスは中途半端な信仰を望んでおられません。イエスを救い主だと明確に信じ、そのことを人前で告白するように求めておられます。
現代の日本では、イエスを信じたからと言って、迫害されたり命を狙われたりすることはまずありません。それでも、教会から離れていくクリスチャンはいます。
仕事が忙しくて礼拝に出られないとか、家族や友達と距離ができてしまったとか・・・、そういう理由で教会から遠ざかる人は、決して珍しくないのです。
イエスのハンパじゃない覚悟
イエスはフィリポを通してわたしたちにも、「信じないのか」と問うておられます。でも、それは裁きの言葉ではありません。
イエス・キリストを信じること・信じつづけること、つまり、信仰への招きの言葉なのです。
イエスは「わたしが言うのを信じなさい」と言葉を続けておられます。しかも、「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」とまでおっしゃるのです。
その言葉は、普段のイエスと矛盾しているように思えます。人々が業(奇跡)ゆえに信じることのないように、イエスはよく「この奇跡のことをだれにも話してはならない」と釘を刺しておられました。
また、のちに復活して弟子たちの前に現れたときには、〔わたしを〕見ないのに信じる人は、幸いである
(ヨハネ20:29c)とも言っておられます。
そのイエスが「業そのものによって信じなさい」とおっしゃるところに、「どんなことがあってもあなたたちを救う!」という、イエスの強い思いを感じるのです。
また、神であるイエスが生身の人間として生まれて来られたのも、「救いを求めるなら、目で見たことを信じても構わない」という御心の表れなのではないでしょうか。
イエスこそは、わたしたちの救い主です。そして、「信じなさい」と、ご自分への信仰による救いへと招いてくださっています。神のその御言葉に、ぜひとも応えていただきたいと思います。
遜の黙想
「いっそ神なんか信じないで生きるほうが、よっぽど生きやすいじゃないか!」と、信仰を持たずに生きている人々を羨んでみることがある。世の価値観に埋もれたほうが、楽だと思うからだ。
でもそういうとき、神さまは必ず語りかけてくれる。なにか声が聞こえるわけではないが、御言葉を通して、人との会話を通して、トラブルを通して、「信じなさい」と伝えてくれる。力強く、美しい呼びかけだ!
信じつづけよう。決意とも言えない静かな息を吹き返しても、ぼくはキリストの後ろを情けない姿でついて行くことしかできない。キリストの背中を見つめつつ、一方で後ろを振り返りつつ・・・。
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天のお父さま、ぼくはあなたから離れたくありません。御子・イエスにつき従っていく力を与えてください。そして、あなたが与えてくださった救いの望みを、一人でも多くの人に伝えられるように助けてください。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)