遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】信仰とは、理解できないことを信じることだ!?

 

I Can't Believe It!

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

クリスチャン作家・遠藤周作の『沈黙』を原作とした、同名映画を観たことがあります。時は江戸時代、キリシタン弾圧の厳しい長崎にポルトガル人宣教師が潜入するも、逮捕・拷問のすえ、ついに棄教してしまうという物語です。

史実をもとにした作品だけに圧倒され、小説も買って読みました。宣教師がいくら痛切に救いを祈っても、神はなんの応答もされません。その「沈黙」に対する絶望と葛藤が、読むのをやめたくなるほどの生々しさで描かれています

神はなぜ彼らをお救いにならなかったのか? その答えが示されないまま、イエス・キリストはいまもなお、ぼくたちを信仰へと招いておられます。

 

今回は、6月7日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年6月7日聖霊降臨節第2主日礼拝

交読詩編は、第37編23~40節。牧師説教は「わたしが言うのを信じなさい」と題し、「ヨハネによる福音書」第14章8~17節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

8フィリポが「主よ、わたしたちにおんちちをお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしのおきてを守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 

―「ヨハネによる福音書」第14章8~17節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

イエスを神だと信じられないフィリポに見る人間の頑固さ

ズッコケ十二人組

今回は、十二弟子のひとり、フィリポ(ピリポ)が神を見たいと願う場面から始まります。フィリポがそう願ったのは、イエスが次のようにおっしゃるのを受けてでした。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 

―「ヨハネによる福音書」第14章7節(新共同訳)

弟子たちがイエスを知っているなら、彼らはイエスの父、つまり父なる神を知っており、それどころか目の前に見ているのだ、ということです。

 

ところがフィリポは、すぐに「わたしたちに御父をお示しください(8節)とイエスに願いました。イエスご自身が父なる神を示しておられることを、まったく理解していなかったのです。

とは言え、神が見たいというフィリポの願いは、人類共通の願いではないでしょうか? 見えない神を信じているクリスチャンでさえ、なにか災難に遭うたび、つい神の存在を疑ってしまうものです。

 

さて、「ヨハネによる福音書」第13章から、イエスの最後の説教が始まります。〈決別説教〉と呼ばれるその箇所では、イエスが弟子たちに次のことをにおわせられました、

 

もうすぐ、おれはおまえたちと別れて、天におられる父のみもとへ帰って行く。

弟子たちはその暗示を読み取ることはできませんでしたが、イエスがどこかへ去ってしまわれるのだ、ということはわかりました。

いつも一緒にいて、反対者の批判には力強く反論し、数々の奇跡によって神の力を示してこられたイエスが、いなくなる。しかも、わたしが行く所に、あなたは今ついて来ることができない(ヨハ13:36)とまでおっしゃる(;_;)

弟子たちの感じた不安の大きさは、想像にかたくありません。そこでフィリポは、「せめて、いまのうちに神を知って安心したい!」と考えたのだと思います。その思いに、イエスはこう答えられました、

 

フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか(9節)

 

ごもっともなお言葉です。弟子たちは約3年間、人類史上もっとも濃密にイエスと接し、もっとも頻繁に御言葉と御業を見聞きしたのですから。

十二弟子がイエスを理解せず、信じられないならば、ほかのだれにイエス・キリストを信じることができるでしょうか!?

 

ハンパな信仰なんていらない

理解の足りないフィリポに、イエスは「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか(10節)と問いかけられました。

ただ、イエスは「信じていないこと」を責めておられるのではありません。「信じようとしないこと」に対して訴えかけておられます。

 

イエスは父なる神と一体であると信じることは、キリスト信仰の根幹です。ところが、その信仰を公言するのは命懸けのことだった、と聖書は語っています。

ユダヤ人たちは既に、イエスをメシア(救い主/キリスト)であると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

 

―「ヨハネによる福音書」第9章22節b(新共同訳)

それどころか、イエスを神だと信じることは、まことの神を冒とくする行為と見なされて、死刑に処せられるのが当然の成行きでした。だから、迫害や処刑を恐れて信仰を捨てる人々が、数えきれないほどいたのです。

そのような環境下での、「信じないのか」という問いかけ。フィリポたち十二弟子には、とても強烈に響いたと思います。

 

イエスは、中途半端な信仰を望んでおられません!

 

イエスをキリスト(救い主)だと明確に信じ、そのことをはっきりと告白するように求めておられます。現代の日本では、そうしたからと言って、迫害されたり命を狙われたりすることはありません。

ただ残念ながら、「だから大丈夫ですよ!」とは言えません。信教の自由が保障されている日本でも、信仰から離れていくクリスチャンは多いからです。

仕事が忙しくて礼拝に出られない、信仰ゆえに家族や友達と距離ができてしまった。現代日本ならではの理由によって、イエスを信じられなくなってしまうことは、決して珍しくないのです。

 

イエスのハンパじゃない覚悟

信じないのか」という御言葉は、ぼくたちの耳にも厳しく聞こえると思います。でも、それはぼくたちを責め裁く御言葉ではありません。

 

イエス・キリストを信じること、信じつづけること、つまり、「信仰」への招きの御言葉なのです。

 

弟子たちに対して、イエスは言葉を続けておられます、

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい(11節)

この御言葉は、普段のイエスと矛盾しているように思えます。人々が奇跡ゆえに信じることのないように、イエスはよく「この業のことをだれにも話してはいけないぞ!」と釘を刺しておられたからです。また、のちに復活して弟子たちの前に現れたときには、〔わたしを〕見ないのに信じる人は、幸いである(ヨハ20:29)ともおっしゃいました。

そのイエスが「業そのものによって信じなさい」とまで言い放たれるところに、ぼくたちに対するイエスの強い思いを感じるのです、

 

 

どんなことがあっても、おれはおまえたちを救う!

 

また、神であるイエスが生身の人間として生まれて来られたのも、救いを求めるなら目で見たことを信じても構わない、という御心の表れなのではないでしょうか。

 

イエスこそは、ぼくたちのキリストです。イエスはあなたにも「信じなさい」と語りかけ、信仰による救いへと招いておられます。ぜひともイエスの御言葉に応えてください。

 

遜の黙想

『沈黙』を観たり読んだりしながら、「神様はどうしてこんな苦しみをお許しになったんだろう?」と考えずにはいられません。また、ぼくはどうしてこんな世に生まれたのだろう、とも。

ぼくの生きる世は、フィリポやキリシタンや宣教師の時代に比べれば、ぬるま湯もぬるま湯です。だからと言って、苦しくないわけではない。沈むような苦しみの中で神に祈っても、即座に応えていただけるわけでもありません。

それでも、ぼくは信じつづけることを選びます。「なぜ」の答えはわからずじまいかもしれないけれど、「信じなさい」と招きつづけてくださるイエス・キリストの御言葉に、不思議に気力が湧いてくるからです。

天のお父様、疑いと迷いに心を曇らせてしまうことをゆるしてください。信仰への招きに応じつづけることを、ぼくの努力ではできません。信じる力を、あなたがいつも与えてくださいますように。アーメン。

 

 

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)