遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】どんなに小さく儚い愛でも、キリストは喜んでくれる

 

Love Me

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは今日もLINEのライブ礼拝を守りました。個人的にこういう礼拝スタイルを「テレワーシップ」と名づけたいのですが、どうでしょうか?笑

まぁ名前はなんであれ、会堂に集まって礼拝するのが一番ですよ!!

新型コロナウイルスは熱と湿気に弱いらしく、「終息」はずっと先でも「収束」はこの夏になるだろうっていう話もありますから、もうちょっと辛抱しましょう。

コロナの収束と集会の再開を心待ちにしながら、本日5月3日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年5月3日 復活節第4主日礼拝

2020年5月3日
復活節第4主日礼拝

今日の交読詩編は、「詩編」第118編1~12節。要約すると、

「恵み深い主に感謝せよ。その慈愛は永遠に、わたしたちの上に降り注ぐ。イスラエルよ、祭司よ、すべての信仰者よ、主をほめたたえて言え、『慈しみはとこしえに』と。
苦難の中で御名を呼ぶと、主はわたしを救ってくださった。主が味方なのだ、だれがわたしに手出しできよう。頼るべきは、ただ主のみ。敵が蜂のごとく攻め来ようと、わたしは主の御名によって彼らを打ち滅ぼす」

という内容です。

 

牧師説教は「主は愛しておられる」と題し、「ヨハネによる福音書」第21章15~19節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

2度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

3度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが3度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 

―「ヨハネによる福音書」第21章15~19節(新共同訳)

※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

イエスとペトロの問答に見る「神の愛」と「人間の愛」

弱さを通して働くイエスの力

イエスは死から復活したのち、弟子・ペトロ(ペテロ)たちとともに、湖のほとりで食事をされていました。と言うのも、こんないきさつからです。

ペトロたちは伝道に行き詰まったある夜、湖で漁をしていました。でも、収獲はありません。弟子たちが疲労と落胆に襲われていると、そこへイエスがやって来られます。

「収獲ゼロ=伝道成果ゼロ」ということですが、イエスは弟子たちにアドバイスして大収獲を得させ、同じように伝道も実を結ぶことになると激励なさったのでした。

 

 

その出来事のあと、イエスはペトロに「わたしを愛しているか」とお尋ねになったのです。それに対するペトロの答えは、決して素直なものではありませんでした。

「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」というかなり遠回しな答え方で、本心を明かし渋っているようにも聞こえます。

でも、ペトロがイエスを愛していたことは、聖書を読んでも明らかです。

イエスの復活を聞いてまっ先に墓へ向かったのはペトロだし、湖にイエスが来られたときには急いで身なりを正しました

 

では、ペトロはなぜ素直な返事をしなかったのでしょうか?

 

――実はしなかったのではなく、したくてもできなかったのです。

イエスがユダヤ人たちに逮捕されたとき、ペトロは連座して処刑されるのを恐れ、イエスのことを「知らない」と言って裏切りました。

イエスとの師弟関係を断固否定し、イエスの十字架送りが決まってもなにもせず見殺しにした・・・。そのことを思うと、ペトロはまっすぐに答えられなかったのです。

 

でもイエスは、ペトロがどれほどご自分を愛してくれているかをご存じでした。

同様に、ご自分を見捨てざるをえなかったペトロの弱さも十分知っていて、その弱さを受け入れてもおられました。

 

そのうえでイエスは、ペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」とお告げになります。「小羊=イエスの弟子たち」の指導者として、ペトロに教会をお委ねになったのです。

ペトロは別名を「ケファ」といいます。これはアラム語で「岩」という意味で、イエスはわたしはこの岩にわたしの教会を建てる(マタイ16:18c)とも言っておられました。

その予告どおり、イエスは羊飼いとしてのご自分の役割を、ペトロに引き継がせられたわけです。イエスはペトロへの愛ゆえに、あえて弱さを持った彼を教会の指導者に任命されたのでした。

 

イエスは弱い人々を特に愛し、ご自分の弟子として選ばれます。そして、人とは弱いものです。

わたしたちはイエスの愛に接すると、弟子としての役目を果たしたいと望むようになります。それぞれの役目を務める過程で、わたしたちはイエスの愛に応える者へと変えられていくのです。

 

完全な愛じゃなくていいから

さて、今回の箇所では、「わたしを愛しているか」という質問が3回も繰り返されています。そして、同じ質問を繰り返されるペトロの心情が、「悲しくなった」と描写されています。

一読すると、ペトロは「主はわたしの愛を疑っておられるんだ・・・」と悲しんだように思われるでしょう。でも、そういうわけではありません。

ペトロは問いかけられるたびに、自分の裏切り行為を思い起こしていたのです。イエスを「知らない」と否定することは、イエスへの愛を否定することにほかなりませんでした。

 

イエスはペトロの悲しみを知ったうえで、ご自分への愛に立ち帰るように促されます。

ところで、邦訳聖書の「愛する」は、ギリシャ語の原典では「アガパオー」「フィレオー」という、2つの異なる動詞で書かれています。違いは次のとおり。

  • アガパオー なんの見返りも求めずに愛すること(神の愛)
  • フィレオー 家族・友達・隣人を大切にすること(人間的な愛)

 

「神の愛」と「人間の愛」には、筆舌に尽くしがたいほどの大きな隔たりがあります。人間の愛は憎しみに変わったり、時とともに失われたりすることもあるでしょう。

一方、神の愛は決して変わることがありません。

そのことは、特に旧約聖書の記述によく表れています。神はユダヤ人たちを愛し、彼らの危機を幾度となく救ってこられました――

ユダヤ人が敵に追われたときは海を割って逃げ道をつくり、肉を食べたがったときはウズラの大群を呼び寄せ、食糧難に陥ったときは天から食べ物を降らせられたのです。

 

ユダヤ人はその愛と奇跡に触れ、はじめは神を愛して感謝しました。ところが、次第に恵まれることに慣れてありがたみを忘れてしまい、神にひどい文句を言うことさえ辞さなくなります。

そんな自分勝手な振舞いをされても、神はユダヤ人を愛しつづけ、(ときには厳しい罰を下しもしましたが)決してお見捨てにならなかったのです。

 

神であられるイエスははじめ、ペトロに「わたしをしているか?」とお尋ねになりました。対するペトロは、「わたしがあなたをしていることは・・・」と答えています。

ペトロは、イエスを裏切った自分がどういう人間かをよく自覚していました。だからこそフィレオー、つまり人間的な愛で応えるのが精一杯だったのです。そこでイエスは、3回目に質問の仕方を変えられます、

 

「あなたはわたしをしているか?」

 

イエスはペトロの心情を理解し、「あなたの身の丈に合った愛し方でいい。だから、わたしを愛してほしいのだ」と立帰りを促されたのです。

もし、イエスが3回目も「アガパオー」で問われていたらどうなったでしょうか? ――イエスと同じだけの愛を求められていたら、ペトロはきっと立ち帰ることができなかったでしょう。

 

そのあとのペトロの答えは相変わらず「フィレオー」でしたが、直前に「あなたは何もかもご存じです」と言っています。ペトロのこの返答は明らかな信仰告白です、

「わたしがつみびとであることを、あなたはご存じです。それでもあなたは、わたしを愛してくださる。だからわたしは、あなたに従います」

 

一方的で純粋な愛を享けて生きる

わたしたちもペトロと同じです。だれかをフィレオーできても、アガパオーできはしない。人間的な愛でイエスを愛せても、純粋な信仰で愛することは難しいのです。

どちらにしても、わたしたちがイエスを愛せるのは、まずイエスがわたしたちを愛してくださったからです

そのことを認めましょう。そうすれば、わたしたちはイエスの愛に捉えられ、その愛によって生きることができます。イエスは、わたしたちそれぞれの精一杯の愛を喜んでくださいます。

 

わたしたちが生きているのは、イエスの愛があるからこそです。その愛にまだ気づいていない人々のためにクリスチャンは励み、また祈りつづけなければなりません。

 

遜の黙想

神さまに喜ばれないだろうとわかってはいても、ムクムクと湧き上がってくる欲望を抑えきれない。その罪悪感が募ると、もはや懺悔する資格さえない、と畏れ多く感じて祈りを“自粛”してしまう。

ぼくでそうなのだから、ペトロの抱いた罪悪感はどれほど大きかっただろう? ただペトロもぼくも、罪悪感以上の愛をキリストに対して抱いている。どの口がそれを言うのか、と思いながら・・・。

キリストは、自分を信じる者の愛を十分すぎるほど知っている。ぼくの醜く弱い、欠けている部分もすべて知っている。そのうえで、ぼくの「小さな愛」を受けとめてくれる。そんなに感謝なことはない。

愛するイエスよ、罪悪感に押し潰されて、あなたの愛を信じられなくなることを赦してください。あなた以上に、ぼくを愛してくださる方はいません。その愛に大胆に応え、御名をべ伝える勇気を与えてください。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

参考資料

画像の出典(Pixabayより)

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