遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】どんなに小さくはかない愛でも、キリストは喜んでくれる

 

Love Me

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

以前、サイコパスに関する特集番組を観たことがあります。サイコパスは先天的に共感性を欠いた人々で、特に欧米では、いわゆるシリアルキラーなどの連続殺人犯に多い特徴だそうです。

もちろん、すべてのサイコパスが恐ろしい犯罪に手を染めるわけではありません。彼らの人生の吉凶に関わる最大要因は、他者からの「愛」だといいます。家族の豊かな愛の中で育ったサイコパスは、共感性を学習し、むしろ優れた人物となる資質を持つのだ、と。

愛とは、ぼくたちの人生に絶大な影響を与える力です。サイコパスに限らず、ぼくたちには愛が欠かせません。今日はイエス・キリストの御言葉から、「愛」について学んでいきましょう!

 

今回は、本日5月3日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年5月3日復活節第4主日礼拝

交読詩編は、第118編1~12節。牧師説教は「主は愛しておられる」と題し、「ヨハネによる福音書」第21章15~19節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

162度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

173度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが3度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。

このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 

―「ヨハネによる福音書」第21章15~19節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

「神の愛」で問うイエスと「人間の愛」で答えるペトロ

弱さの中でこそ光るイエスの力

今回は、死から復活なさったイエスが、弟子たちとともにガリラヤ湖畔で食事をされたときのお話です。その前夜、弟子たちは宣教に行き詰まり、湖へ漁に出かけたものの、収獲ゼロで落ち込んでいました。

回心者だけでなく魚さえも得られない、落胆と疲労の弟子たちのもとへ、復活のイエスがやって来られます。イエスは弟子たちにアドバイスして、驚くほどの大漁を得させられたのでした。

実は、その奇跡は、「ここでたくさんの魚を捕ったように、やがておまえたちの宣教も実を結び、多くの人が救われる!」という約束と激励だったのです。

 

イエスは弟子たちのために自ら朝食を用意すると、食後、一番弟子・ペトロ(ペテロ)にこうお尋ねになりました、

 

ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか(15節a)

 

それに対するペトロの答えは、決して素直なものではありませんでした、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです(同節b)。どこか回りくどく、本心を明かし渋っているようにも聞こえますね。

でも、ペトロがイエスを愛していたことは、聖書を読んでも明らかです。

イエスの復活を聞いてまっ先に墓へ向かったのはペトロだし、湖にイエスが来られたときには急いで身なりを正しました

 

ペトロは確かにイエスを愛していたけれど、返事に困るほどの後ろめたさを感じていたのでしょう――

 

わたしは3回も、主を知らないなどと言ってしまった。主が十字架につけられるとわかっても、なにもしないで見殺しにした

ユダヤ人たちがイエスを逮捕したとき、ペトロは連座して処刑されるのを恐れ、イエスについてそんな人は知らない(マタ26:72)と言って見捨てました。そのことを思うと、ペトロはまっすぐに答えられなかったのだと思います。

 

それでも、ペトロがどれほどご自分を愛してくれているか、イエスはご存じでした

そして、ご自分を見捨てるしかなかったペトロの弱さを受け入れたうえで、「わたしの小羊を飼いなさい(15節c)とお命じになります。「小羊=イエスの弟子たち」を導く者、教会の指導者となるように、と。

ペトロは別名を「ケファ」といいます。アラム語で「岩」という意味で、イエスはわたしはこの岩にわたしの教会を建てる(マタ16:18)と言っておられました。

その予告どおり、イエスは羊飼いとしてのご自分の役割を、ペトロにお委ねになったわけです。イエスはペトロを愛するがゆえに、弱さを持ったペトロを、あえて教会の指導者に任命されたのでした。

 

イエスの前では、「弱さ」は欠点になりません。事実、ペトロをはじめとした弟子たちもみな弱く、社会的にも低い立場の人々でした。

ぼくたちもまた、自分の弱さに触れていただくことができます。イエスの前に弱さをさらけ出すことで、その弱さを通して神の力が現れ、ぼくたちは神に応えるものとして整えられていくのです。

 

完璧な愛じゃなくていいから

今回の箇所では、「わたしを愛しているか」という問いが3回も繰り返されています。

そして、イエスに同じことを尋ねられるペトロの心情が、「悲しくなった(17節b)と表現されています。一読すると、「主はわたしの愛を疑っておられるんだ」ということで悲しんだように思われるでしょう。でも、そういうわけではなさそうです。

イエスに問いかけられるたびに、ペトロは自分の裏切り行為を想起していたのだと思います。イエスとの関係を否定することは、「イエスに対する愛」を否定することにほかなりませんでした。

イエスは、ペトロのその悲しみをもご存じでした。イエスが同じ質問を繰り返されたのは、ご自分への愛に立ち帰るようにペトロを促すためです。

 

ところで、ギリシャ語の原典の「愛する」は、ふたつの異なる動詞で書き分けられています。両者の違いは次のとおり。

  • アガパオー なんの見返りも求めずに愛すること。無償の愛。神の愛
  • フィレオー 家族・友達・隣人を大切にすること。友情などの人間的な愛

「神の愛」と「人間の愛」には、筆舌に尽くしがたいほどの大きな隔たりがあります。人間の愛は憎しみに変わったり、時とともに失われたりすることもあるでしょう。

 

一方、神の愛は決して変わることがありません!

 

そのことは、特に旧約聖書の記述によく表れています。神はご自分の選民・イスラエル民族を愛し、彼らの危機を幾度となく救ってこられました――

イスラエル人が敵に追われたときは海の中に逃げ道をつくり、食糧難に陥ったときは天から食べ物を降らせ、肉を食べたがったときはウズラの大群を呼び寄せられたのです。

イスラエル人はその愛と奇跡に触れながらも、次第に感謝の念を忘れ、神に文句を言うことさえ辞さなくなります。それでも神はイスラエル人を愛しつづけ、(ときには厳しい罰もお下しになりましたが)決してお見捨てにならなかったのです。

 

さて、神の・イエスは初め、ペトロに「わたしを愛している(アガパオー)」とお尋ねになりました。対するペトロは、「わたしがあなたを愛している(フィレオー)ことは」と答えています。

ペトロは、イエスを裏切った自分がどういう人間かをよく自覚していました。だからこそ「フィレオー」で、つまり、人間的な愛で応えるのが精いっぱいだったのです。そこでイエスは、3回目に質問の仕方を変えられます、

 

ヨハネの子シモン、わたしを愛している(フィレオー)(17節a)

 

イエスはペトロの心情をよく理解し、「おまえの身の丈に合った愛し方でいい。だから、おれを愛してほしいんだ」と立帰りを促されたのです。

もしイエスが3回目も「アガパオー」で問うておられたら、ご自分と同じだけの愛を求めておられたら、ペトロは立ち帰ることができなかったかもしれません。

ペトロは答えます、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます(17節c)。彼の愛は最後まで「フィレオー」でしたが、この返答はまっすぐな信仰告白だと言えるでしょう、

 

 
主よ、わたしは罪深い者です。あなたはそのことをご存じで、それでもわたしを愛してくださる。だからわたしは、あなたに従ってまいります!

 

イエスの愛に抱かれよう!

ぼくたちもペトロと同じです。だれかをフィレオーできても、アガパオーできはしない。家族や友達を思うようにイエスを愛せても、イエスがぼくたちを愛してくださるようには愛せません。純粋な信仰でイエスを愛することは、やはり難しいのです。

 

どちらにしても、ぼくたちがイエスを愛せるとしたら、それは、まずイエスがぼくたちを愛してくださったからです。

 

イエスはあなたの救いのために、十字架の上でご自分の命を捧げてくださいました。イエスの犠牲を信仰によって受け入れるとき、イエスの愛があなたの中に息づきます。

あなたをアガパオーしておられるイエス・キリストを、ぜひいま信じてください。イエスのふところに、子どものように飛び込んでいいのです。イエスはあなたの愛の応答を、心から喜んでくださいます。

 

遜の黙想

ぼくは(たぶん)サイコパスではないけれど、人の気持ちをわかっていないのではないか、フィレオーさえできていないのではないか、と思うことがあります。「愛」というものが、いまいちピンとこないのです(._.)

だから正直、イエス・キリストがぼくを愛するあまり十字架の上で死なれた、その愛についても十分に理解・実感しているわけではありません。キリストに面と向かって「わたしを愛しているか」と問われたら、きっと沈黙してしまうと思います。

それでも、キリストはぼくを愛してくださる。ぼくの小さな信仰を喜んで、信心を増し加えてくださる。キリストの見えない腕に抱かれていていいのだと、今日改めて教えられた気がします。

イエス様、ぼくを愛してくださり感謝します。あなたの愛に応えるには、ぼくはあまりに小さすぎます。それでも召してくださったあなたへの愛を、どうぞぼくの内に育ててください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
参考資料
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