ハレルヤ~! 安田遜です。
新米クリスチャンの怖がっていることをお教えします。それは、ノンクリスチャンの方々に伝道(宣教)することです。正しくは、伝道した結果、相手に拒否反応を示されてしまうこと、ですかね。
日本人の“宗教アレルギー”は、ぼくも重々承知しています。なにを隠そう、ぼく自身もまた、“アレルギー”の保持者でした。キリスト教をはじめとした「一神教」には、特に強い抵抗を感じていました。キリスト教界では、日本は「宣教師の墓場」などと言われているそうです(∵;)
さて、今日の記事は、伝道に悩むクリスチャン向けになることをお許しください。イエス・キリストの御言葉に励まされ、それぞれが送られている場所での、働きのかてとしましょう!
今回は、4月26日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
この日は〈労働聖日〉でもありました。どういう日かというと…牧師先生の説明をそのまま引用させていただきますw
労働聖日は、「働く人の日」とも言われます。簡単に言うと、さまざまな仕事をして働いている人に感謝する日ということです。そして、その仕事を与えてくださった、また、その仕事をする賜物を与えてくださった神様に感謝する日でもあります。
賜物とは、人それぞれが神に与えられている物事をいいます。家庭や人間関係といった環境も含まれますが、特に才能や能力など、個人の資質を指すことが多いようです。
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交読詩編は、第145編1~9節。牧師説教は「来て、食事をしなさい」と題し、「ヨハネによる福音書」第21章1~14節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
1イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。2シモン・ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、ほか2人の弟子が一緒にいたときのことである。3ペトロが「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは「一緒に行こう」と言った。そこで皆舟に乗り込んだが、その夜は何もとれなかった。
4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで網を打ってみると、魚があまりに多く、網を引き上げることができなかった。
7弟子の一人がペトロに「主だ」と言った。ペトロはそれと聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは網を引きながら、舟で戻って来た。
9さて、陸に上がると、炭火がおこしてあった。その上には魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11ペトロが網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。
12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と尋ねはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスはパンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにされた。14イエスが復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう3度目である。
ガリラヤ湖で落胆する弟子たちを励ましたイエスの食事
魚+パン+「イエス」=喜び
今回は、イエスの弟子たちのうち7人が、ガリラヤ湖(ティベリアス湖)で漁をしたときのお話です。弟子たちが一緒にいると、ペトロ(ペテロ)が唐突に「わたしは漁に行く」(3節a)と言い出したのでした。
もと漁師であるペトロにとって、漁はなにも特別なことではありません。また、ゼベダイの子のヤコブとヨハネの兄弟も、漁師でした。ほかに名前の挙がっているトマス、ナタナエル(バルトロマイ)たちの職業はわかっていませんが、恐らく漁へ出た経験はなかったでしょう。
それでも彼らは、だれに強制されてでもなく、「わたしたちも一緒に行こう」(同節b)と自ら舟に乗り込みました。「しかし、その夜は何もとれなかった」(同節c)と聖書は語ります(._.)ガッカリ
そこへ登場するのが、復活なさったイエスです。ところが、あまりの疲労と落胆のせいなのでしょうか、「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(4節)と書かれています。
さて、イエスは「子たちよ、何か食べる物があるか」(5節)と声をおかけになりましたが、実は、直訳では「なにも食べる物はないだろう」という、ちょっとイヤミったらしい言い方なのです。
もちろんイエスは、弟子たちをからかわれたわけではないし、漁の失敗をおとがめになったわけでもありません。その証拠に、「子たちよ」という親しい呼びかけをしておられます。
イエスは弟子たちの苦労や困窮を受け入れ、深い慈愛をもって近づかれたのです。
そしてイエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)とおっしゃいました。漁のアドバイスにしてはかなり大雑把に思えますが、それに従った弟子たちは一転、とんでもない大漁を得てしまうのです∑(゜д゜)ワッツ!?
その奇跡が起こって初めて、弟子たちは目の前の人物が「主」であることに気づきました。ペトロが「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」のは(7節)、イエスの前で少しでも身なりを整えたかったからでしょう。
イエスは弟子たちに大漁をお与えになっただけでなく、湖のほとりで朝食の準備までしておられました。自ら火を起こし、パンまでも用意されたのです。ガリラヤ湖での食事と言えば、〈5000人の給食〉※が思い浮かびます。
あのとき、行き場のない大勢の人々が、イエスの祈りによって空腹を満たされました。今回のお話では、自力で食べ物を得られなかった弟子たちが、イエスの奇跡によって食事にありつくことができました。でも、満たされたのは胃袋だけだったのでしょうか?
――いいえ。〈5000人の給食〉の体験者も弟子たちも、魚とパンだけでは満たされえない、豊かな喜びに満たされていたのです。それは、「イエスがともにいてくださる」という喜びでした(〃▽〃)
遜註
〈5000人の給食〉とは、イエスが行われた奇跡のひとつです。イエスに従う大勢の群衆(成人男性だけで5000人)は、5つのパンと2匹の魚で満腹になりました。
イエスの網にすくい取られて救われよ!
収獲ゼロから大漁に転じたのは、たんなる奇跡のパフォーマンスではありません。ここで、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう3度目である」(14節)という記述に注目しましょう――
1度目の顕現(イエスが姿を現されること)は、復活の当日。あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす
(ヨハ20:21)と、弟子たちの平和を祈ったうえで、の伝道をお命じになりました。
2度目は、その8日後。イエスの復活を信じない弟子・トマスの前に現れ、彼に信仰をお与えになりました。また、〔わたしを〕見ないのに信じる人は、幸いである
(同29節)と、暗に伝道者としての義務を匂わせておられます。
そして3度目の今回は、伝道に励もうとする弟子たちの姿が描かれているのです。漁の収獲がなかったことは、弟子たちの伝道が失敗続きだったことを暗示しています。
福音「よい知らせ」を意味する、ギリシャ語「エウアンゲリオン」の訳。イエスをキリスト(救い主)だと信じる者が罪をゆるされ、永遠の命にあずかることを指す。
人々をイエスへの信仰に導けないことが、弟子たちを落胆させていました。でも、彼らに漁のアドバイスをしたとき、イエスが「とれるはずだ」とおっしゃったのを覚えておられますか?
弟子たちはその御言葉を信じて行動し、たくさんの魚を捕ることができました。同じように、彼らはその後の人生において、数えきれないほどの人々をイエス・キリストのもとへ導くことになります。
おまえたちの働きが徒労に終わることは、絶対にない。たくさんの人が、おれを信じるようになるはずだ!
イエスはそのように約束・激励し、弟子たちを勇気づけられたのでした。ところで、このとき捕った魚は「153匹」だった(11節)と、わざわざ漁獲数が記録されています。それは、ガリラヤ湖で捕れる魚の種類の総数なのです。
弟子たちはイエスの御言葉に従ったことで、全種類の魚を得るほどの豊かな収獲に恵まれました。今回のその奇跡は、次のことを示しています。
イエスの「救いの網」は、国籍や人種を問わず、すべての人をすくい取る!
イエスは3回目の顕現で、弟子たちに食事を振る舞って慰め、彼らの疲れをお癒しになりました。そしてその食事は、救いを待つ人々のもとへ派遣される弟子たちの、なによりの励ましとなったのです。
激励の主、イエス・キリスト
イエスは復活ののち3回、弟子たちの前に姿を現されました。初めの2回は弟子たちを伝道へ送り出すため、3回目は伝道から帰った弟子たちをねぎらい、次なる伝道へと旅立たせるためでした。
現代を生きるクリスチャンにとっては、「教会」こそが、あの日のガリラヤ湖です。そこで行われる礼拝の中で、ぼくたちは“3度目のイエス”と出会います。
クリスチャンの中には、積極的に伝道して、何人もイエスのもとへ導いた方がおられます。一方で、なかなか伝道の成果が見えなかったり、疑いや拒絶を恐れて伝道を諦めてしまったりする方もおられます。
自分の伝道が実を結ばないとき、クリスチャンは落ち込むものです。「どうやって福音を伝えればいいんだろう?」とか「どうせ自分にはなにもできないよ…」と悩むことも少なくありません。
でも、毎週の礼拝で出会う“3度目のイエス”は、それぞれの成果のあるなしにかかわらず、ひとりひとりに「御言葉」の食事を与えてくださいます。
御言葉は命のかてであり、魚やパンでは得られない、豊かな活力を与えてくれます。イエスがあなたに語ってくださった御言葉が、日々それぞれの場所で伝えられるとき、そこに「救いの網」は広がるのです。
遜の黙想
初めて祖父母に福音を伝えた日、ぼくは伝道の難しさに直面しました。人を救うはずの福音が、全然響かないのです…。イエス・キリストを伝えることに喜びを見いだしはじめたころだったので、なおさら落胆したのを覚えています。
でも、「あぁ~、もう伝道なんかやめちゃおう」とは思いませんでした。キリストの御言葉が、ぼくの喜びでありつづけたからです。喜びを感じたとき、人は本能的に、だれかと分かち合いたいと願うのではないでしょうか?
ガリラヤ湖で弟子たちに魚とパンをお恵みになったように、キリストは先回りして喜びを用意してくださいます。その喜びは、直接的にはクリスチャンのためのものですが、やがて救われるべき人々のものでもあると思うのです。
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慰め主である神様、恐れや不安から、伝道に後ろ向きになってしまうことをゆるしてください。あなたの与えてくださった喜びをまっすぐ伝えられるように、よい知恵を授けてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)