遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】すべての人の救いのために励まされる人々

 

魚を焚火で焼く

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

今日の東京は、半袖でも過ごせるくらいのポカポカ陽気。でも“ステイホーム週間”ですから、この暖かさを楽しむ人の影もまばらです。

最近は東京の感染者も2桁に収まっていますけど、ここで気を抜くと確実にまた増えていっちゃいます。それぞれの良識を長く保ちたいものですね!

さて、今回は遅ればせながら、先日4月26日のLINE礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

 

この記事についてお断りをさせていただくと、

  • 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
  • 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
  • ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)

 

2020年4月26日 復活節第3主日礼拝

2020年4月26日
復活節第3主日礼拝

この日は新型コロナウイルスの感染予防策として礼拝堂に集まらず、LINEのライブ配信機能を使って礼拝を守りました。

ちなみに、この日は労働聖日でもあります。どういう意味かというと・・・、牧師先生のご説明をそのまま引用させていただきますw

労働聖日は、「働く人の日」とも言われます。簡単に言うと、様々な仕事をして働いている人に感謝する日ということです。そして、その仕事を与えてくださった、また、その仕事をする賜物を与えてくださった神様に感謝する日でもあります。

いまの時期は特に、コロナ禍のまっただ中で闘っておられる医療従事者の方々に感謝です。天からの励ましと慰めが与えられるよう、祈りをもって応援しています!

交読詩編は、「詩編」第145編1~9節。要約すると、

「わたしの王、神よ、あなたの御名をいつもいつまでも賛美します。偉大なる主よ、大きな御業は人知も及ばず、わたしを驚かせました。その御業をわたしは数え上げ、あなたの栄光と威光を、人々に歌って聞かせます。
人々が御業をほめたたえ、御力を語り継ぎ、御恵みを記念とし、御救いを喜び歌い、それらが世代を超えて伝えられますように。主は忍耐強く、その恵みはすべてのものに及び、主は慈しみに満ち、その憐れみは万物を覆います」

という内容です。

 

牧師説教は「来て、食事をしなさい」と題し、「ヨハネによる福音書」第21章1~14節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。

 

シモン・ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、ほか2人の弟子が、ティベリアス湖畔で一緒にいたときのことである。

ペトロが「わたしは漁に行く」と言うと、ほかの弟子たちも「一緒に行こう」と言った。そこで皆舟に乗り込んだが、その夜は何もとれなかった。夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、弟子たちは「いいえ」と答えた。イエスが「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われたので、弟子たちはそれに従った。するとたくさんの魚がかかり、網を引き上げることができないほどであった。

弟子の一人がペトロに「主だ」と言った。ペトロはそれと聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは、網を引きながら舟で戻って来た。

陸では炭火がおこしてあった。その上には魚がのせてあり、パンもあった。イエスが「とった魚を何匹か持って来なさい」と言われると、ペトロは網を陸に引き上げた。網は、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。

イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは、もはや「あなたはどなたですか」などと尋ねなかった。その人が主であることを知っていたからである。イエスはパンと魚を取り、弟子たちに与えられた。

復活したイエスが弟子たちの前に現れられたのは、これでもう3度目であった。

 

―「ヨハネによる福音書」第21章1~14節(独自に要約)

 

ガリラヤ湖で落胆する弟子たちを励ましたイエスの食事

人は愛と喜びにこそ満たされる

ペトロが漁に出かけたのは唐突なことでしたが、もと漁師である彼にとって、漁はなにも特別なことではありません。ほかの弟子たちもペトロに従います。

ペトロ以外では、ゼベダイの子たちが漁師でした。ほかの弟子たちがなにを生業にしていたかはわかりませんが、恐らく漁をした経験はなかったでしょう。

それでも彼らは、ペトロに強制されてではなく、自分の意志で舟に乗り込んだのです。しかし結果は、収穫ゼロ。弟子たちは失望と疲労に襲われます。

 

そこにイエスが姿を現し、弟子たちに「何か食べる物があるか」と質問なさいました。原語を直訳すると、「食べ物はなにもないだろう?」という意味です。

少しイヤミな言い方に聞こえなくもないですが、イエスは決して弟子たちを皮肉っておられるのでも、漁の失敗を責めておられるのでもありません。

それは、イエスが「子たちよ」とお呼びかけになったことでわかります。イエスは弟子たちを愛し慈しみ、その困窮を受け入れられたのです。

 

さらにイエスは、「舟の右側に網を打ちなさい」とおっしゃいました。漁のアドバイスにしては簡単すぎると思いますが、弟子たちはそれに従って大漁を得ました。

はじめはイエスだとわからなかった弟子たちも、この奇跡による収穫で目を開かれ、眼前の人物が主であることに気づくのです。

それまでほぼ裸だったペトロが、わざわざ上着を羽織ってから水に入ったのは、イエスの前で少しでも身なりを整えようとする気持ちからでした。

 

さて、弟子たちが獲った魚は153匹。この数字は、ガリラヤ湖(ティベリアス湖)で獲れる魚の種類を表しています。

つまり、弟子たちはイエスの言葉に従って、全種類の魚を得るほどの豊かな収穫に恵まれたのです。それだけではありません。

弟子たちは獲った魚に加えて、パンまでも恵んでいただきました。彼らが自分たちの用意できなかった食べ物にあずかる様子は、〈5000人の給食〉を連想させます。

〈5000人の給食〉の奇跡も同じガリラヤ湖で行われましたが、そのとき空腹を満たされた群衆と同様、弟子たちはイエスがともにいてくださる喜びに満たされたのです。

 

遜註

〈5000人の給食〉とは、イエスが十字架にかけられる前に行われた奇跡の一つです。イエスに従う大勢の群衆(成人男性だけで5000人)は、5つのパンと2匹の魚で満腹になりました。

 

世界が救われるのを待っている!

収穫ゼロから大漁に転じたのは、単なる奇跡やしるしではありません。ここで、復活のイエスが現れられたのは、「もう3度目」と書かれていることに注目しましょう。

 

1度目のけんげん(イエスが姿を現されること)は、復活の当日。あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす(ヨハネ20:21)と、弟子たちの平和を祈ったうえで、福音の伝道をお命じになりました。

2度目は、その8日後。イエスの復活を信じない弟子・トマスの前に現れ、彼に信仰をお与えになりました。また、(わたしを)見ないのに信じる人は、幸いである(同29節c)と、暗に伝道命令を匂わせられています。

そして今回の場面では、伝道に励もうとする弟子たちの姿が描かれているのです。漁の収穫がなかったことは、彼らの伝道が失敗続きだったことを暗示しています。

 

思うように信仰者を獲得できないと落胆する弟子たちに、イエスは「とれるはずだ」と言葉をおかけになります。そして弟子たちは、実際に大漁に恵まれるのです。

これは、「あなたたちの働きは無駄にならない。必ず多くの人が信仰に入るはずだ!」という、イエスの激励と約束の言葉でした。

また、弟子たちが全種類の魚を得たことは、国や人種を問わず、すべての人がイエスの“救いの網”に捉えられることを暗示しているのです。

 

イエスの3度目の顕現は、弟子たちを食事で癒し慰めるため、そして、さらなる伝道の旅へと送り出すためのものでした。

 

御言葉という食事を食べて

イエスは弟子たちの前に、3度姿を現されました。

はじめの2度は弟子たちを伝道に送り出すため、3度目は伝道から帰った弟子たちをねぎらい、新たな伝道へと旅立たせるためでした。

現代に生きるクリスチャンにとって、教会こそが、あの日のガリラヤ湖です。そして、そこで行われる礼拝の中で、わたしたちは3度目のイエスと出会います。

 

わたしたちの中には、積極的な伝道で多くの成果をあげている人がいます。一方で、なかなか伝道が実を結ばず、落ち込んでいる人もいるでしょう。

また、伝道したい気持ちはあっても、どのように福音を伝えればいいかわからず、自分にはなにもできないと悩んでいる人もいるかもしれません。

イエスは、それぞれの成果のあるなしにかかわらず、わたしたちに「御言葉」という食事を与えてくださっています。そして、語りかけてくださっています。

わたしたちは命の糧である御言葉によって生かされ、ふたたび世へ歩み出せるのだという、感謝と自覚を持って日々を過ごしたいと思います。

 

遜の黙想

日常雑事や人間関係、この世のさまざまな事柄に心を煩わせ、神さまが遠く雲の上にいるように思える。そういうとき、ペトロたちが愛する主イエスに気づかなかったように、ぼくも神さまの恵みに気づけない。

キリストにしてみれば、3年間親密に話した弟子たちが自分のことに気づかないのは、悲しいことだっただろう。内心怒ってもいたかもしれない。でもキリストは、愛と慈しみだけを抱いていた。

そして、同じ慈愛をぼくにも向けてくれている。そのことを思い出すとき、キリストの気配が間近に戻り、ほっと胸が満たされる。その愛を広く伝えるために、神さまはこの〈遜の箱舟〉をぼくに与えてくれたのだ。

慈愛の神さま、この〈舟〉の管理人にぼくを選び、伝道を託してくださり感謝します。あなたを知らない人々のもとへ、今日も旅立たせてください。あなたの愛に触れ、また一人が救われますように。アーメン。

 

 


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参考資料

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)

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