遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】神と隣人に仕えるのに、常識なんて必要ない

 

グラスに入ったオリーブオイル

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは2019年4月のイースターの日から、教会で神を礼拝しています。毎週の礼拝では「牧師説教」というものがあり、牧師先生が解説してくださる聖書の御言葉を通して、神の恵みを頂きます。

前々から、教会へ来たことのない人たちにも伝えたいなぁと思っていたので、牧師先生の許可を得て、このブログで神の恵みをお裾分けすることにしました!

そこで新しく〈礼拝〉というカテゴリーをつくったので、過去の説教内容も少しずつ載せていこうと思っています。「メモを取ろう!」という思いを与えてくださった、神に感謝です٩( 'ω' )و

 

初回は、先日3月22日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年3月22日受難節第4主日礼拝

交読詩編は、第2編1~12節。牧師説教は「主に仕えるとは」と題し、「ヨハネによる福音書」第12章1~8節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

1すぎこしさいの6日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。

3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

―「ヨハネによる福音書」第12章1~8節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

イエスの足にナルドの香油を塗ったマリアの愛

心からの信仰は常識を打ち破る!?

今回のお話は、ユダヤ三大祭りのひとつ、すぎこしさいの直前に起こった出来事です。過越祭は、かつてエジプトで強制労働をさせられていたユダヤ人が、神に救われたことを記念する祭りで、神に罪のゆるしを乞う儀式でもありました。ユダヤ人にとって、とても大切な祭りです。

ところが、祭儀を取り仕切るはずの祭司長たちは、その準備にいそしむでもなく、ゆるしの祈りを捧げるでもありませんでした。あろうことか、イエスの殺害計画を練っていたのです! 彼らは、自ら「」と称するイエスを、冒とく罪で逮捕するつもりでした。

でもそれを妨げるかのように、イエスの信奉者はものすごい勢いで増えていきます。それにひと役買ったのが、「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ(1節)の存在。そこで祭司長たちは、そのラザロをも殺害しようとたくらみ、罪に罪を重ねていたのでした

 

さて、今回の主人公は、ラザロの姉妹・マリアです。

イエスはマリアの住む村へやって来て、ラザロ一家のもてなしを受けておられました。もちろんマリアも同じ家にいましたが、イエスいとしさのあまり、あるタブーを犯してしまいます。

給仕するつもりもないのに、食卓に立ち入ってしまったのです。ユダヤの慣習では、女性が食事の席に入っていいのは、給仕するときだけでした。そのマリアの非常識な行動を、聖書はこのように伝えています、

 

マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった(3節a)

 

ナルドの香油とは、「かんしょうこう」という、インド原産の植物から採れる油です。インドからパレスチナへの輸送も難しかったことから、当時、高級品としてギリシャの貴族に好まれていました。

そんな高価な油を、マリアはイエスの足に塗った、というのです。

実はユダヤでは、目上の人への敬意を表すために、その人の足に油を塗ることがありました。ただ、マリアの塗った油の量は、1リトラ(約326g)。缶ジュースほどの分量でしょうか。いくらなんでもやりすぎです。

また、聖書が「家は香油の香りでいっぱいになった(3節b)と伝えるように、せっかくの料理が台なしになったかもしれません。

 

マリアはいったいなぜ、そんな常識はずれの行動を取ったのでしょうか?

――それは、そうせずにはいられなかったからです。マリアがイエスの足に油を塗ったのには、敬意を表す以上の意味があったのです。それをひもとくために、ちょっとだけ歴史を振り返ります。

 

イスラエルの初代国王に、サウルという人物がいます。彼は神の直々の任命によって王となり、その印として、預言者・サムエルから頭に油を注がれました。そのことから、ヘブライ語で「油を注がれた者」の意味の「メシアמָשִׁיחַ」という言葉が生まれ、それがのちに「救い主」の代名詞となったのです。

つまりマリアの行動は、サムエルからサウルへの油注ぎに通じ、マリアの信仰の表れだったのです、

 

 

イエス様こそ、メシアであらせられます!

 

純粋な愛は人を非常識にさせる!?

マリアの行動を非常識だと思ったのは、ぼくたちだけではありません。イエスの弟子、イスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか(5節)と、マリアを厳しく非難しました。

1デナリオンは1日分の賃金にあたりますから、ユダの言うとおりにしていたら、間違いなく多くの人々を救えたでしょう。一般論として当然で、まったく常識的な指摘です。

ところが聖書は、「彼がこう言ったのは、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである(6節)と、ユダを非難し返しています。

 

イエスもまた、ユダの常識的発言を退け、マリアの非常識な行動を擁護されました。それは、ぼくたちの常識には限界があるからではないでしょうか?

この世の常識は、個人・環境・地域などでそれぞれ異なり、時代によってもコロコロと移り変わってしまいます。また、常識的な言葉、いわゆる正論は、ときに冷たく聞こえることがあります。確かに正しいのですが、それゆえに人を苦しめ、結局はだれのためにもならない場合も多いものです。

 

一方、マリアの非常識には、「愛」がありました

 

常識も、周囲の目も、香油の値段さえも気にせず、ただ全力でイエスを愛することを願ったのです。イエスが目をお留めになったのは、その「思い」でした。

ユダは常識的で正しかったかもしれませんが、イエスへの愛がありませんでした。だからこそ、のちに裏切りの罪を犯すことになったのでしょう。

マリアは、兄弟・ラザロの命を救ってくださったイエスを心から愛し、また真心をもってイエスに仕えました。彼女は、きっと隣人にもよく仕えただろうと思います。最後までぼくたちを愛し、ぼくたちに仕えてくださった、イエスにならって。

 

だれでも“ナルドの香油”を持っている

今回のお話は、「マルコによる福音書」にも書かれています。そこでは、イエスがマリアの行動をわたしに良いことをしてくれたのだ(14:6)と評価しておられます。ここで「良い」と訳されているギリシャ語(カロス|καλόςには、ほかに「美しい」という意味があります。

マリアのようにイエスを愛し、心から神に仕えることは、ほんとうに美しいことなのです。

そのために、マリアは高価なナルドの香油を捧げました。でも、値段の高いものを捧げればいい、たくさん献金すればいい、ということでは決してありません。

 

神の恵みに対する心からの感謝があれば、自分自身を捧げ物とすることができます。自分に与えられたを最大限に活かして、神に仕えることができるのです。

 

ところで、イエスはマリアの香油について、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだ(7節)とおっしゃいました。その御言葉の意味を、当のマリアにもわからなかったかもしれません。

香油は、死後の腐敗臭を防ぐためにも使われました。つまりイエスは、ご自分が十字架の上で死ぬことを、この時点で予告しておられたのです。

イエスはご自分の命を捧げることで、ぼくたちに仕えてくださいました。それは、イエス・キリストを信じる人が、だれでも神の恵みをけるようになるためです。

 

あなたの常識を打ち破り、ぜひこの十字架を見上げてください!

 

遜の黙想

自分の置かれた環境、自分の才能、自分の築いた人間関係。あらゆるものを使って隣人に仕え、そうすることで神の栄光を現すのが、クリスチャンの生き方です。

それは、ぼくの受けるべき裁きの身代わりとして、神が独り子・イエスを遣わしてくださったから。その愛を示すために、イエス・キリストが十字架の上で命を捧げてくださったから。神に仕えるのに、それ以外の理由づけは必要ありません。

でもぼくはいま、神に仕えず、隣人の必要に関心を払わず、自分自身のために生きています。高価な香油を惜しみなく注いだ、マリアのようにはなにもできません。ぼくのために犠牲になられたキリストよりも、やっぱりこの自分がいとおしいのです

天の父なる神様、あなたの賜物をひたすら自分のために使ってしまうことをざんげします。マリアの信仰と愛をぼくに与え、あなたと隣人に喜んで仕える者として整えてください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
参考資料
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