ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは去年のイースター、つまり2019年4月末から教会に通っています。今日までの礼拝出席数を数えてみたら、なんとなんと49回!!
礼拝を休んだのは、たしか友達と旅行に行っていた1日だけだったかな。娯楽のために礼拝を休むのは、ちょっと気が引けたんですけどね・・・^^;
さて、礼拝では牧師説教というものがあり、牧師先生が解説してくださる聖書の御言葉を通して、神さまの恵みを頂きます。
前々から、教会へ来たことのない人にも伝えたいなと思っていたので、牧師先生の許可を得て、このブログに説教内容を綴っていくことにしました!
そこで新しく〈礼拝〉というカテゴリーをつくったので、過去の説教内容も少しずつ載せていこうと思っています。初回となる今日は、先日3月22日の説教を分かち合います。
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お断りをさせていただくと、
- 記事はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴っていきます。過去49回中1回を除き、すべて記録してあります。
(ちなみにその1回は、ありえないくらいの眠気に襲われて、牧師先生のお話に集中するのがやっとだったので、メモが取れませんでした・・・汗) - 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年3月22日 受難節第4主日礼拝
2020年3月22日
受難節第4主日礼拝
この日は新型コロナウイルスの感染予防策として、いつも5曲歌っている讃美歌が3曲に減らされました。
交読詩編は、「詩編」第2編1~12節。要約すると、
「なぜだ、国々が騒ぎ、地上の王たちが、主とその油注がれた者に逆らうのは。主は聖都エルサレムで王を即位させ、彼にお告げになる、『わたしの子よ、国々をお前の領土とし、反逆者を器のごとく砕け』と。
世の王よ、国々の支配者よ、今こそ主を畏れ敬い、おののきつつ喜べ。主の怒りを受けて滅びることのないように、神の子に口づけせよ。ああ、なんと幸いなことか、主を避けどころとする人々は」
という内容です。
牧師説教は「主に仕えるとは」と題し、「ヨハネによる福音書」第12章1~8節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
過 越 祭 の6日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
―「ヨハネによる福音書」第12章1~8節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
遜註
ここに登場するマリアはイエスの母とは別人で、ラザロとマルタの姉妹です。ラザロというのは、病死して墓に葬られてから4日後、イエスの奇跡によって生き返った男性です。
イエスのためにナルドの香油を惜しまなかったマリアの愛
常識を打ち破る信仰
過越祭とは、ユダヤ三大祭りの一つです。エジプトで奴隷となっていたユダヤ人が神に救われたことを記念するもので、神に罪の赦しを乞う儀式でもありました。ユダヤ人にとって、とても大切な祭りです。
でもその直前、祭司たちは儀式の準備にいそしむでもなく、赦しの祈りを捧げるでもありませんでした。なんと、どうすればイエスを殺せるかと計画を練っていたのです※。
またそのとき、死んだはずのラザロを生き返らせたことで、イエスはさらに信奉者を増やしていました。そこで祭司たちは、ラザロの殺害も企んでいたのです。
祭司の地位にある者が、赦しを乞うべき祭りを前に人殺しを考えるのですから、イエスの厳しい非難を受けるのも当然でしょう。
遜註
イエスはご自分が神の子であると宣言したことから、神を
さて、ナルドの香油とは、甘松香(かんしょうこう)というインド原産の植物から採れる油です。当時はインドからパレスチナへの輸送も難しく、高級品としてギリシャの貴族に好まれていました。
マリアは、そんな高価な香油を手にして食卓のイエスのもとへ行ったわけですが――、ここで彼女はあるタブーを犯しています。
それは、女性が食事の席に加わる、ということ。
ユダヤの慣習では、女性が食事の場に入っていいのは給仕のときだけでした。マリアはそれを無視して、実に非常識な行動を取ったのです!
しかもマリアは、持っていた1リトラもの油を、すべてイエスの足に塗ってしまいました。1リトラは326g、だいたい缶ジュースほどの量になります。
実はユダヤでは、人の足に油を塗るのは、その人への敬意を表すための行為です。
とは言え、高価な油を大量に塗るというのは、いくらなんでもやりすぎのように思えます。これまた非常識な行動です。
おまけに、マリアが塗ったのは「香油」。部屋じゅうに強烈な匂いが立ち込めて、せっかくの料理が台なしになったことでしょう。
いったいなぜ、マリアはこんな常識はずれな行動を取ったのでしょうか?
――それは、そうせずにはいられなかったからです。マリアがイエスの足に油を塗ったのには、敬意を表す以上の意味があります。
マリアの行動は、サムエルがサウルに油を注いだことに通じるのです。
サウルはイスラエルの初代国王で、即位のとき、預言者・サムエルから頭に油を注がれました。そこからヘブライ語で「油注がれた者」という意味の「メシア」という言葉が生まれ、のちに「救い主」を指すようになりました。
つまり、マリアはイエスの足に香油を塗って、
「イエスさまこそ、メシアであらせられます!」
と、イエスへの信仰を表明していたのです。
イエスはマリアの信仰告白を受け入れて、さらに「わたしの葬りの日のために、それ(香油)を取って置いたのだ」とおっしゃいました。
その言葉の意味は、マリアにはわからなかったかもしれません。でもイエスは、ご自分が十字架にかけられて死ぬことになるのをご存じでした。
香油は、死体の腐敗臭を防ぐためにも使われます。イエスはこの言葉で、ご自分の死を予告しておられたのです。
非常識な振舞いに見える神への愛
マリアがイエスの言葉を理解できなかったように、ユダもマリアの行動を理解できませんでした。ユダはマリアの非常識な行為を非難しました、
「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」
1デナリ(デナリオン)は1日分の賃金にあたりますから、ユダの言うとおり、油を300デナリで売れば多くの人々を救えたでしょう。
聖書は、ユダがそう言ったのは「金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と彼を非難し返しています。でも、ユダの指摘は一般論からすれば当然で、まったく常識的に聞こえませんか?
ところがイエスは、ユダの常識的な言葉よりも、マリアの非常識な行動を支持されました。それは、人間の常識には限界があるからです。
人間の常識や価値観は、個人・環境・地域などでそれぞれ異なり、時代によってもコロコロと移り変わってしまいます。
また常識的に正しい言葉は、ときに冷たく響くことがあります。正しいがゆえに人を苦しめ、人を生かすことができない場合も多いのです。
一方、マリアの非常識な行動には、イエスへの「愛」がありました。
常識も、香油の価値も、周囲の目も気にせず、マリアはただ全力でイエスに仕えることを願ったのです。イエスが評価なさったのは、その思いでした。
わたしたちは神に目を向けずに、隣人を愛することはできません。
ユダの言葉どおりに人助けをするとしても、まず神に向かう必要があります。そうしなければ、善意は自己顕示欲や名誉欲などに変わり、その行為も間違ったものになっていくでしょう。
隣人を助けられるのは、神の恵みへの感謝があってこそです。神のしてくださったことへの応答として、わたしたちは人助けをするのです。
ユダは正しく常識的だったかもしれませんが、神を見上げてはいませんでした。だからこそ、のちに裏切りの罪を犯すことになったのでしょう。
マリアは、兄弟・ラザロの命を救ってくれたイエスを心から愛し、真心をもってイエスに仕えました。マリアはきっと、隣人にも仕えていたはずです。わたしたちを愛し、わたしたちの救いのために犠牲となられた、主イエスにならって。
ナルドの香油の代わりに捧げるもの
「マルコによる福音書」にも、今回の箇所と同じ場面が描かれています。そこでは、イエスがマリアの行動を、わたしに良いことをしてくれたのだ
(14:6b)と評価しておられます。ここで「良いこと」と訳されているギリシャ語には、ほかに「美しいこと」という意味があります。
ほんとうに美しいこととは、マリアのように心から神に仕えることです。
もしそれができなければ、過越祭で人殺しを企てていた祭司たちのように、イエスの厳しい非難を浴びてしまうかもしれません。
マリアは高価な香油を捧げてイエスに仕えました。わたしたちはナルドの香油の代わりに、なにを捧げられるでしょうか?
自分に与えられた
イエスはわたしたちに仕えるため、ご自分の命を捧げて十字架に上られました。わたしたちはその十字架を見上げ、イエスに仕えるように、隣人にも仕える者でありたいと思います。
ローマ12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして
献 げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(新共同訳)
遜の黙想
自分の置かれた環境・自分に与えられた才能・自分で手に入れたもの・・・。自分の持っているあらゆるものを使って、他者に仕える。そして、そうすることによって神さまに仕え、その素晴らしさを行動で示していく。
それは、ぼくの受けるべき裁きの身代わりとして、神さまがキリストを遣わしてくれたから。その愛を示すために、キリストが命を捨てて十字架にかかってくれたから。神さまに仕えるのに、それ以上の理由づけは一切必要ない。
でも、ぼくは神さまに仕えず、隣人にも仕えず、自分自身に仕えている。高価な香油を惜しみなく注いだ、マリアのようにはなにもできない。ぼくのために犠牲になってくれたキリストよりも、やっぱり自分が愛おしい・・・。
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神さま、御子・イエスを通して示してくださった愛を、ぼくが真実に理解できるように助けてください。マリアの信仰と愛が、ぼくの内に芽生えますように。ぼくがあなたと隣人に喜んで仕える者となりますように。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)