ハレルヤ~! 安田遜です。
新型コロナの影響で、ぼくの所属教会では、2週間連続礼拝中止。イースターまではなんとか教会で礼拝したいなと思うんですけど・・・、なんとも言えない状況です。
この週末は「外出を控えてください!」なんて、聞いたこともない町内放送も流れたし、ぼくの洗礼式も延期になっちゃうかもしれませんm(;_;)m
ただもしそうなっても、神さまの決めたことと思い定めて、ぼくは変わらず聖書を読んで神さまを求めるだけです!
ということで今回は、3月15日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年3月15日 受難節第3主日礼拝
2020年3月15日
受難節第3主日礼拝
この日は新型コロナウイルスの感染予防策として、いつも5曲歌っている讃美歌が3曲に減らされました。
交読詩編は、「詩編」第90編1~12節。要約すると、
「主よ、あなたは永遠にわたしたちの家。万物が生まれる前から、そしていつまでもとこしえに、あなたは神。あなたの目には、1000年もひとときにすぎません。人は朝に花咲かせ、夕べにはしおれて枯れ行く草のようです。
あなたはわたしたちの隠れた罪をも、御顔の光で暴かれます。その御怒りの前に、70年ほどの人生はため息のごとく消え、健やかに80歳を迎えても、苦しみの余生を過ごすしかありません。
あなたを畏れ敬うほど、あなたの憤りをも知るようになります。ああ、どうか教えてください、わたしたちに許された日を正しく数えるように。その短さを悟るように。どうか、この生涯を賢く生きられますように」
という内容です。
牧師説教は「あなたも離れて行きたいか」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章60~71節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは12人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
すると、イエスは言われた。「あなたがた12人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、12人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
―「ヨハネによる福音書」第6章60~71節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
最後まで残った十二弟子の心にイエスが見た闇
この世での平和が欲しい!
多くの弟子たちが「実にひどい話だ」と言う場面から、今回の箇所は始まります。これは同じ章の少し前にある、イエスの言葉に対する反応でした。イエスは、
人の子(イエスのこと)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない
(53節)
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである
(55節)
と語っておられたのです。すごくグロテスクな表現ですよね。もちろんイエスは、人々に文字どおりのことをお求めになったのではありません。
弟子たちがイエスの言葉を拒絶した理由は、気味の悪い表現の真意を理解できなかったから。でも、それだけではないでしょう。
そこには、弟子たちが求めていたイエス像と、救い主であるほんとうのイエス像が異なっていた、という背景があります。
イエスはそれまでに数多くの奇跡を起こし、直前には嵐を鎮めておられます。弟子たちはその光景を目の当たりにして、イエスに期待しました、
「あの人は自然さえも従わせてしまう・・・。もしあの人を王にすれば、おれたちゃ怖いものなしだ!」
当時のユダヤ人は、ローマ帝国からの独立を望んでいました※。弟子たちはイエスの奇跡の力を当てにして、イエスを「ユダヤの王」に推戴しようと考えていたのです。
遜註
ユダヤ人は信教の自由を認められたものの、ローマの属国民として税金を支払う義務がありました。神を自称するローマ皇帝への納税は、ユダヤ人にとって屈辱的なものでした。
でもその考え方によれば、災害が起こったり病気になったり、なにか不幸の起こるたびに奇跡を起こしてもらわなければなりません。
この世界ではさまざまな災いが絶えず起きます。ということは、ユダヤ人はいつまでも奇跡に頼りつづけることになります。果たして、それでほんとうの平安が得られるのでしょうか?
裂かれるべき命のパン
弟子たちをはじめとするユダヤ人は、現世的・政治的な理由でイエスをあがめていました。でも、イエスはそれ以上の方です。
イエスが弟子たちにお教えになったのは、「永遠に朽ちることのない命」を求めることでした。その命とは、イエスご自身のことです。
イエスは同章35節で、わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない
とおっしゃいました。イエスこそが、天から降って来たパンなのです。
これが、「わたしの肉を食べ、血を飲みなさい」という言葉の由来です。わかりやすく言い換えるとこうなります、
「十字架の上で捧げられるわたしの体と血を受け入れ、父なる神から永遠の命を頂きなさい」
結局、イエスはユダヤ人の望むような“地上の王”にはなられませんでした。多くの弟子たちがそのことを悟って絶望し、たった12人だけを残して去って行きました。
イエスは残った弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」とお尋ねになります。それは、「わたしのほかに従うべき者がいるのか?」という問いでした。
イエスは慈愛に満ちた、とてもやさしい方です。そして同時に、とても厳しい方でもあります。
いましも道を誤ろうとする弟子たちの心を、イエスは真剣な問いで正されました。道路に飛び出そうとする子どもを激しく叱りつける父親のように、イエスは弟子たちを正しい道へと引き戻されたのです。
人を離さないイエスの愛
父なる神へとつながる正しい道、救い主・イエスから離れたのは、当時の弟子たちだけではありません。
日本では江戸時代、キリシタン迫害の渦中で信仰を捨てた人々がいました。また太平洋戦争下では、天皇を
十二弟子たちもその後、同じような理由でイエスから離れることになります。イスカリオテのユダがイエスを裏切り、ほかの11人もみんな逃げてしまうのです。
弟子たちは「あなたがたも離れて行きたいか」と
弟子たちは本気でイエスを愛していました。もしイエスが殺されるような事態になったら、自分たちも運命をともにしようと、とても真剣に思っていました。
でも、イエスは弟子たちの「心の闇」を見抜いておられたのです。
弟子たちの持っていたその闇は、現代に生きるわたしたちの心の中にもあります。さまざまな理由でイエスから離れてしまう可能性が、わたしたちにはいつでもあるのです。
ただ、わたしたちがそのように弱い存在であることを、イエスは知っておられます。
イスカリオテのユダはイエスを裏切り、十字架送りのきっかけをつくった張本人です。そのユダさえも、イエスは最後の最後まで愛し抜かれました。
イエスは愛してくださいます。ユダのように恐ろしい闇を持っていたとしても、正しく生きようという思いを実現できなかったとしても。
弱さゆえに離れていってしまうわたしたちを、イエスは必ず追いかけてくださいます。
イエスは、わたしたちが罪を赦されるために死んでくださったのです。
イエス・キリストを信じる人は、そのような愛の中に生かされます。その恵みを慕い求め、イエスとともに歩む道を喜んで選び取りましょう。
遜の黙想
日々の祈りの中で、ぼくは“地上の富”を求めている。右手に天から降って来たパンを持ちつつ、左手に地上でつくられたパンを握り締めている。やっぱり、この世での安心が欲しいのだ。
十字架上の犠牲に感謝しているのは確かだが、そうであれば捧げないような祈りを捧げていることに気づくと、自分には十字架の意味がまったくわかっていないのではないか、と思わず信仰を疑ってしまう。
だから、“地上の王”を求めたユダヤ人や、踏絵を踏んでしまったキリシタンを、ぼくは責められない。彼らの持っていた闇を、ぼくも抱えているから・・・。それでもキリストは、「遜が弱いのは知ってる。でもおれは、そのおまえを愛してるんだ!」と言ってくれる。
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イエスさま、世の誘惑から逃れられず、あなたの牧場を迷い出てしまいます。そんなぼくをいつも追いかけてくださることを感謝します。どんな弱さも受け入れてくださるあなたに、だれもが信頼して身を寄せますように。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
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