遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

【礼拝】どんな闇を抱えていても、キリストが愛してくれる

 

離れ去っていく人々

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

激しく後悔していることがあります。小学6年生のとき、大親友だったMくんに一方的に絶交を告げたことです。そんなことをしなければ、きっと彼との友情はいまも続き、それどころか一生の宝になっただろうと思います。

絶交の理由は、なんのことはありません。ぼくの恋した子がMくんを好きだということを知って、ただ嫉妬しただけです。心の闇に打ち勝てず、ぼくは大親友を愚かにも捨ててしまいました

心の闇に支配されて大切な人から離れてしまうのは、イエス・キリストの弟子たちも同じでした。彼らの闇はおもに「恐怖」でしたが、キリストは弟子たちをどのように見ておられたのでしょうか?

 

今回は、3月15日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。

 

  • この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
  • 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
  • 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
  • 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
  • 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。

 

2020年3月15日受難節第3主日礼拝

交読詩編は、第90編1~12節。牧師説教は「あなたも離れて行きたいか」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章60~71節から御言葉を学びました。

 

 

聖書の御言葉

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 

―「ヨハネによる福音書」第6章60~71節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

 

イエスのもとに残った十二弟子の心に広がっていた闇

たったいま救いが欲しい!

今回は、大勢の人たちがイエスの弟子を辞めてしまうというお話です。冒頭で、弟子たちは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(60節)と憤慨していますが、それはイエスのこんな御言葉に対する反応でした、

人の子(イエス)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない(ヨハ6:53)

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである(同55節)

グロテスクな表現ですが、イエスが文字どおりのことをお求めになったわけではないのは、もちろんのことです。弟子たちが拒否反応を示した理由は、気味悪い御言葉の意味をわからなかったから――だけではないと思います。

 

弟子たちが求めていたイエスと、キリスト(救い主)であるほんとうのイエスの姿が異なっていた

 

という背景こそが、弟子たちの拒絶の最たる理由でしょう。イエスは多くの奇跡を起こしてきたし、この直前には嵐を静めておられます。弟子たちはその光景を目撃して、イエスにある望みを懸けました、

 

あの方は自然さえも従わせてしまわれる。もしあの方が王になってくだされば、おれたちゃ怖いものなしだ!

当時のユダヤ人は、ローマ帝国からの独立を熱望していました。弟子たちはイエスの奇跡の力を頼りにして、イエスを「ユダヤの王」に推戴しようと考えていたのです。

 

でもその考え方によれば、災害が起こったり病気になったり、なにか不幸の起こるたびに奇跡を起こしていただかなければなりません。

この世界ではさまざまな災いが絶えず起きます。ということは、ユダヤ人はいつまでも奇跡に頼りつづける、ということです。果たして、それはほんとうの平安と言えるのでしょうか?

 

まことの救いは見えにくい

弟子たちをはじめとするユダヤ人は、現世的・政治的な理由でイエスをあがめていました。でも、イエスはそれ以上の方です٩( 'ω' )و

イエスはぼくたちに、「永遠に朽ちることのない命」を求めるよう教えておられます。では、その命とはなんでしょうか? ――その答えは、イエスの御言葉にあります。

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 

―「ヨハネによる福音書」第6章35節(新共同訳)

永遠に朽ちない命とは、イエスご自身にほかなりません。だからイエスは、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃったのです。大胆に意訳するとこうなります、

 

 

おまえたちの救いのために、おれはこの体と血を十字架の上で捧げる。おれを信じろ。そうすれば、天のお父様が永遠の命を下さる!

 

さて、イエスはユダヤ人の望むように、“地上の王”になるおつもりは毛頭ありませんでした。多くの弟子たちがそのことを悟って絶望し、たった12人だけを残して立ち去っていきました。

イエスは残った十二弟子に、「あなたがたも離れて行きたいか(67節)とお尋ねになります。それは、「おれのほかに従うべき者がいるのか?」という問いかけでした。

イエスは慈愛に満ちた神ですが、同時に厳格な裁き主でもあります。

いましも道を誤ろうとする十二弟子の心を、イエスは真剣な問いによって正されました。道路に飛び出そうとする子どもを激しく叱りつける父親のように、イエスは十二人を正しい道へと引き戻されたのです。

 

人が離れても、イエスは離れない

救い主イエス・キリストは、ぼくたちと神をつなげる唯一の正しい道です。その道から離れたのは、当時の弟子たちだけではありません。

日本では江戸時代、キリシタン迫害の渦中で信仰を捨てた人々がいました。また太平洋戦争下では、天皇を「神」としてあがめることを強制され、処罰を恐れて棄教した人々もいました。

そして十二弟子も、同じような理由でイエスから離れることになります。「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた(71節)とありますが、イスカリオテのユダだけでなく、ほかの11人も残らず逃げてしまうのです。

 

弟子たちは「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられたとき、いざとなったら逃げてやろうというつもりは、まったくなかったはずです。弟子たちは本気でイエスを愛し、イエスと運命をともにすることを決心していたでしょう。

でも、イエスは弟子たちの「心の闇」を見抜いておられました

弟子たちの持っていた闇は、だれの心の中にもあります。ぼくたちはみな、いつでもイエスから離れうる弱さを持っています。その弱さを、イエスはご存じです。

 

イスカリオテのユダはどうだったでしょうか? 彼はイエスを裏切り、十字架送りのきっかけをつくった張本人です。そのユダさえも、イエスは最後の最後まで愛しぬかれました

自分の内にユダのような恐ろしい闇、正しい生き方を妨げる思いを見つけたとしても、また、現にその闇に支配されていたとしても、イエスの愛を疑う理由にはなりません。

 

ぼくたちの罪がゆるされるために死んでくださったイエスは、ぼくたちが心の闇ゆえに離れていっても、必ず追いかけてくださるのです!

 

遜の黙想

ぼくをMくんと絶交させた嫉妬は、その後の人生にもしばしば顔を出しました。大人になってある程度抑えられるようになったとは言え、その分、心の中では右に左に広がりつづけているかもしれません。

いつまた心の闇に流されて大切な人との縁を切ってしまったり、神への信頼を失ってしまったりするか、内心ビクビクしています。でもイエス・キリストは、その闇ごとぼくを神の国に入れてくださいました。

ぼくの心にはいまも確かに闇がありますが、以前と違うのは、自分だけでその闇を抱えなくていい、ということです。キリストを通して神に心を開き、そこにあるジュクジュクした闇を照らしていただける、ということです。

天におられるまことのお父様、ぼくの心の中をご覧ください。あなたとの関係を損なわせ、自分と他人を傷つけるこの闇を、どうすることもできません。どうかあわれんで、あなたの愛の光で癒してください。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)