ハレルヤ~! 安田遜です。
小さなころ、こんなの欲しいなぁと思わせられる歌がありました、「♪ポケットの中にはビスケットが1つ、ポケットをたたくとビスケットは2つ」。あったらいいですよね!
「ビスケットが割れただけでしょ」とか、そんな悲しいことを言わないでくださいよw そのポケットがあったら、きっと米粒だって無限に増やせるはずです! 食糧危機なんて怖くない(≧∇≦)
そんな〈ふしぎなポケット〉としてキリストを見ていたのが、約2000年前のユダヤ人たち。キリストは、ほんとに寂しかったんじゃないかなぁ・・・。
さて、今回はちょっと前にさかのぼって、2月23日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
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この記事についてお断りをさせていただくと、
- 内容はぼくが礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 牧師先生の話されたことの意図を損ねないと思われる範囲で、ぼく独自の表現を交えて書くことをお許しください。
- 聖書内容や専門用語などについて、説教にない注釈を独自に入れる際は、遜註マークで目印をしておきます。
- ぼくの通っている教会は、日本基督教団という正統な団体に所属していますので、安心してお読みいただけます(^ω^)
2020年2月23日 降誕節第9主日礼拝
2020年2月23日
降誕節第9主日礼拝
交読詩編は、「詩編」第95編1~11節。要約すると、
「主に向かって歓喜の声をあげ、感謝をささげて賛美の歌をうたおう。主は偉大な神、どんな神々にもまさる王。地底から山頂、海から陸、主はそのすべての支配者。さあ、わたしたちの創造主を礼拝しよう。
今日こそ、わたしたちの神、主の声に従え、『あなたたちの先祖はわたしの業を見ながらも、なおわたしを試した。わたしは彼らに、あの心迷う民に、約束の地を踏ませはしなかった。あなたたちは、先祖のようになってはならない』」
という内容です。
牧師説教は「命のパンの恵み」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章1~15節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、ぼくが『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡られると、大勢の群衆がその後を追った。イエスは山に登り、弟子たちと共にそこに座られた。まもなく
群衆がやって来るのを見て、イエスはフィリポに言われた。「彼らに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」これはフィリポを試みるためであって、イエスは御自分でしようとしていることを知っておられた。
フィリポは「200デナリオン分のパンでも足りないでしょう」と答えた。すると、弟子の一人のアンデレが、イエスに言った。「ここに大麦パン5つと魚2匹を持っている少年がおりますが、こんなに大勢では何の役にも立たないでしょう。」
イエスは弟子たちに群衆を座らせるよう言われたが、その数は男だけでおよそ5000人であった。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて人々に分け与えられた。また、魚も同じようにされた。
人々が満腹すると、イエスは弟子たちに残ったパン
イエスは、人々が御自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりで山に退かれた。
―「ヨハネによる福音書」第6章1~15節(独自に要約)
5000人の空腹を満たした5つのパンとイエスの祈り
〈5000人の給食〉が伝えること
今回の〈5000人の給食〉は、ほかの3つの福音書にも書かれていますが、ここではやや異なる描写があります。その一つは、「イエスが人々に食事をお与えになるきっかけ」です。
ほかの3福音書では、まず弟子たちが人々を解散させるようにイエスに願い、それに対してイエスが「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」と言っておられます。
一方「ヨハネによる福音書」では、人々がご自分のほうへやって来るのを見て、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と、自ら心配されたように書かれているのです。
「ヨハネによる福音書」には、ある一貫した特徴があります。それは、
イエスが
ということです。弟子たちに対応を求められる前に、自ら人々を心配しておられる点は、イエスの能動的な態度の表れと言えるでしょう。
さて、大勢の人々の身を案じられたイエスではありましたが、あいにく全員分の食糧を賄えるだけの手持ちはありません。
大麦パンが5つと、魚が2匹あるだけです・・・。
ところが、そのわずかな食べ物にも問題がありました。実は、大麦パンは奴隷が食べるための、粗悪な食べ物だったのです。イエス一行には、実質的に食糧調達は不可能でした。
それにもかかわらず、イエスは弟子たちにお命じになります、「人々を座らせなさい」。群衆は成人男性だけで5000人とありますから、実際はその倍近くはいたでしょう。
イエスは例の大麦パンと魚を手に取り、感謝の祈りを捧げてから、人々に分け与えはじめられました。なんと、それで5000人以上の人々が満腹になってしまったのです!
さて、ここでわたしたちがどうしても考えてしまうのは、「イエスはいったいどうやって、少ないパンと魚だけで5000人以上の人を養ったんだろう?」ということです。
――が、それを考えることには、実はあまり意味がありません。
イエスが感謝の祈りによって全員を満腹させた、という事実こそが大切です。しかも、ただたんに空腹を満たしただけではなく、むしろ「霊の糧」を与えられたのです。
お金で買えない恵みのパン
この奇跡の行われる直前、イエスは弟子・フィリポ(ピリポ)に、どこでパンを買えばよいかとお尋ねになりました。聖書には、「フィリポを試みるため」と書かれています。
フィリポはこう答えました、「200デナリオン分(給料200日分)のパンでは足りないでしょう」。
フィリポは実際に食べるパン、「肉の糧」について答えています。それは当然だと思えるでしょうが、イエスが期待しておられた答えは違いました。
イエスは「命のパン」、つまり「霊の糧」について答えてほしかったのです。
ここでもう一つ、「ヨハネによる福音書」が、ほかの3福音書と異なる書き方をしている部分を見てみましょう。今度は、「群衆にパンを配る人」です。
3福音書では、イエスの祈りを受けたパンは弟子たちの手に渡され、それから人々の手に渡っています。イエスは弟子たちを介して人々にお与えになった、ということです。
一方ヨハネは、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた
としています。イエスご自身が直接、人々にパンを配っておられるのです。
それは、命のパンはイエスのみがお与えになれるものである、ということの強調です。
イエスを追って来た人々は、さまざまな悩みや問題を抱えていたでしょう。でも、イエスによって与えられた「命のパン=恵みのパン」によって生かされたのです。
わたしたちにも同様に、イエスから与えられるパンがあります。それが、御言葉です。それぞれに与えられる御言葉が、困難な現実を生き抜く糧となるのです!
カゴいっぱいのパンを分け与える
人々の空腹を満たしたパンは、最終的に12個のカゴがいっぱいになるほど余りました。イエスの恵みのパンは、それほどたくさん与えられたのです(*´ω`*)
わたしたちのカゴにも、イエスはたくさんの命のパンを与えてくださいます。それは、わたしたち自身のためだけではありません。隣人のためでもあります。
イエスから直接パンを頂いた人は、イエスを知らない人々にそのパンを分け与え、彼らをほんとうの意味で生かすことができます。
あなたは、だれかから命のパンを分けてもらったことがありますか? もしその経験がないのなら、自分が直接頂きたいとは思いませんか?
イエスからパンを頂くか、ほかのパンで満足するか。イエスから頂いたパンを自分だけで食べてしまうか、ほかの人々にも分け与えるか――。それを選ぶのは、わたしたち一人ひとりです。
ぜひ命のパンを食べ、それに支えられて生きられる恵みを味わってほしいと思います。わたしたちはその恵みを、また別の人にも伝えていきましょう。
遜の黙想
キリストの救いの御言葉を「福音」という。それはクリスチャンにとってのみ「福いの音ずれ(さいわいのおとずれ)」なのではなく、すべての人にとってそうなのだ。だから、分け与えなければならない。
人口の1%に満たない日本のクリスチャンたちは、いまもあらゆる場所で、思いつくかぎりの方法で宣教活動をしている。パンくずいっぱいのカゴを提げたその姿に励まされ、ぼくも勇気が湧いてくる!
ぼくたちが分け与えた命のパンは、必ずだれかを生かすだろう。表面的にはわからないかもしれない。でもパンを食べて生き返った人は、いつか自ら福音を求め、キリストを知るようになるはずだ。
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天のお父さま、御子・イエスを命のパンとして与えてくださり感謝します。ぼくのカゴに盛られたパンを、一人でも多くの人のもとへ届けるために、あなたの知恵をも与えてください。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)