ハレルヤ~! 安田遜です。
小さなころに聴いた歌で、いまでもよく覚えているもののひとつに〈ふしぎなポケット〉があります、「♪ポケットの中にはビスケットがひとつ、ポケットをたたくとビスケットはふたつ」。自分ならチョコを増やしたいなぁ、と妄想しながら聴いていましたw
聖書にも似たような話があり、イエス・キリストが5000人以上の人々を食べさせるのに、たった5つのパンと2匹の魚だけで事足りてしまった、というのです。キリストはあの〈ポケット〉の持ち主だったのでしょうか!?
そんなありえないと思える奇跡が今日のテーマですが、無理に信じようとする必要はありません。そのお話を通して、聖書が伝えんとしているキリストという神について、ただ知っていただきたいと思います!
今回はちょっと前に遡って、2月23日の礼拝で牧師先生が話してくださった説教の内容を分かち合います。
- この記事は、ブログ筆者が礼拝中に取ったメモをもとに綴ります。
- 説教者の意図を損ねないと思われる範囲で、筆者独自の表現に改めている箇所があります。
- 説教にない注を加える際は遜註で示し、実際の説教内容と区別します。
- 内容はいくつかある聖書解釈の一説であり、必ずしも一般的な解釈とは限りません。
- 筆者の所属教会は、日本キリスト教団が母体です。旧統一教会・エホバの証人・モルモン教、その他の新興宗教団体とは一切関係ありません。
交読詩編は、第95編1~11節。牧師説教は「命のパンの恵み」と題し、「ヨハネによる福音書」第6章1~15節から御言葉を学びました。
聖書の御言葉
今回は全文を引用すると長くなりすぎるため、筆者が『聖書 新共同訳』をもとに要約した文章を掲載します。ご了承ください。
1-2イエスがガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られると、大勢の群衆が後を追った。イエスの行われたしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと共にそこに座られた。4まもなく
5イエスは群衆がやって来るのを見て、フィリポに言われた。「彼らに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」6これはフィリポを試みるためであって、イエスは御自分でしようとしていることを知っておられた。7フィリポは「200デナリオン分のパンでは、とても足りないでしょう」と答えた。
8すると、弟子の一人のアンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦パン5つと魚2匹を持っている少年がおりますが、こんなに大勢では何の役にも立たないでしょう。」10イエスは「人々を座らせなさい」と言われた。それで男たちは草場に座ったが、その数はおよそ5000人であった。
11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、好きなだけ与えられた。12人々が満腹すると、イエスは弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの
13集めると、人々が5つの大麦パンを食べて残ったパン屑は、12の籠にいっぱいになった。14人々はこのしるしを見て、「この人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が御自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりで山に退かれた。
5000人の空腹を満たしたパンと魚とイエスの祈り
イエスの祈りで満ち足りたお腹と心
今回取り上げるお話は、〈5000人の給食〉と呼ばれています。聖書の中でも特に有名かつ大切なので、ほかの3つの福音書、「マタイ」「マルコ」「ルカ」にも記録されています。
それらは「共観福音書」といって、互いに似通った概観を持っていますが、「ヨハネによる福音書」はやや異なる視点で描かれているのです。
それは今回のお話でも同様で、ひとつは「イエスが人々に食べ物をお与えになるきっかけ」に特徴があります。
共観福音書では、まず弟子たちが人々を解散させるように願い、それからイエスにあなたがたが彼らに食べ物を与えなさい
(マコ6:37)と言われています。
一方「ヨハネによる福音書」は、「大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て…『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた」(5節)と書き、イエスが弟子たちに先んじて人々を心配される様子を描いているのです。
福音書著者・ヨハネは、ある一貫した姿勢でイエス・キリストを伝えています。それは、
「イエスの
ということ。弟子たちに対応を求められる前に、すでに人々のことを心配しておられた点は、イエスの能動性の表れと言えるでしょう。
さて、大勢の人々の身を案じられたイエスではありましたが、あいにく、全員分の食べ物を賄えるだけの手持ちはありませんでした。弟子・アンデレは言います、
「ここに大麦のパンが5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)
ところが、イエスは「人々を座らせなさい」(10節)とお命じになり、約5000人もの人々がその場に腰を下ろしました。5000人というのは「男たち」の数なので、彼らの妻子などを合わせると、実際には1万人近くいただろうと考えられています。
イエスは例の大麦パンと魚を手に取り、神に感謝の祈りを捧げてから、人々に分け与えられました。驚くなかれ、1万人ほどの人々は、それで満腹になってしまったのです(≧∇≦)パンタスティック!
さて、きっとあなたは思われたことでしょう、「たったあれだけのパンと魚で、どうやって1万人の人を養ったんだろう?」と。それとも、そんなバカな話があるわけない、と思われたでしょうか?
――が、この奇跡の“タネ”を考えることに、実はあまり意味はありません。
大切なのは、イエスが感謝の祈りによって全員を満腹させられた、という「事実」です。しかも、イエスはただたんに人々の空腹を満たされただけではありません。イエスがお与えになったのは、むしろ「霊のかて」だったのです。
真の生命力を与える命のパン
この奇跡の行われる直前、イエスは弟子・フィリポ(ピリポ)に、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお尋ねになったのでした。それは「フィリポを試みるため」だった(6節)、と聖書は伝えています。
フィリポは試されているとはつゆ知らず、「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分(給料200日分)のパンでは足りないでしょう」(7節)と答えました。
当然、実際に食べるパン、言わば「肉のかて」について言ったわけですが、イエスの期待しておられた回答ではありませんでした。
先述のとおり、イエスがお与えになったのは、本質的には「霊のかて」、言い換えれば「命のパン」だったのです。
そこでもう一点、ヨハネが共観福音書とは異なる角度で書いている箇所を見てみましょう。今度は、「群衆にパンを配る人」に注目です。
共観福音書では、イエスの祈りを受けたパンは弟子たちに渡され、それから人々の手に渡っています。イエスは弟子たちを介して人々にお与えになった、というような描写です。
ヨハネはというと、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(11節)と書いています。イエスご自身の手からもパンが配られたことを示し、ここでもイエスの能動的行動を強調しているのです。ヨハネがそのように書いたのは、
命のパンは、イエスだけがお与えになれるものである!
ということを明確に伝えるためです。イエスを追って来た人々は、さまざまな悩みや問題を抱えていたでしょう。それが、イエスの恵みによって与えられた「命のパン」によって、生きいきとした充足感に満たされたのです。
残念ながら、現代を生きるぼくたちは、イエスから直接パンを頂くことは叶いません。でも、イエスが与えてくださるパンは、あります。
それが、聖書の御言葉です。
ぼくたちはそれぞれに困難な現実に直面しますが、聖書を通してひとりひとりに語られる御言葉が、日々を生きぬくかてとなるのです!
人は命のパンにてこそ生くるものなれ
人々の空腹を満たしたパンはなおも余り、最終的に「12の籠がいっぱいになった」ほどでした(13節)。イエスの恵みによって、それだけたくさんのパンが与えられたのです(*´ω`*)
イエスはぼくたちのカゴにも、命のパンを惜しみなく与えてくださいます。それはぼくたちひとりひとりのために、また、ぼくたちの隣人のために恵まれる命のパンです。
クリスチャンがイエス・キリストをのべ伝えるのは、イエスを知らない人々に、命のパンを分け与えるためにほかなりません。
「命のパン=神の御言葉」は、人間の霊に命を吹き込み、ぼくたちをほんとうの意味で生かすものだからです。
だれかから命のパンを分けてもらったら、ぜひ受け取ってほしいと思います!
あなたの霊が御言葉を食べるとき、肉体もまたそれに支えられ、感じたことのない充足感に満たされるはずです。それこそが、イエス・キリストの恵みなのです。
もしその恵みを体験したら、あなたのカゴに盛られた命のパンを、あなたの大切な人たちにも分けてあげてください。
遜の黙想
イエス・キリストによって与えられた救いの御言葉を、「福音」といいます。分解すると「
人口の1%に満たない日本のクリスチャンも、あらゆる場所で、思いつくかぎりの方法で、いまも伝道(宣教)に励んでいます。正直、「あの人のカゴには、ぼくよりたくさんのパンが入ってる…」と、嫉妬に似た感情を抱くこともありますが。
ぼくはいま、この〈箱舟〉で命のパンを運んでいます。数は少ないかもしれないけれど、必ずだれかのもとへ届き、その人を生かすだろうと信じて。そして、ぼく自身も神の御言葉によって生き返らされ、新しい命を生きているのだと信じて。
*
父なる神様、肉のかてばかりを求めてしまうことをゆるしてください。ぼくのカゴに盛られた命のパンが、だれかとシェアできるほどにたくさん、十分にあることを教えてください。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)