遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

ホサナ! 「いまここ」を救ってほしいんですっ!

 

2体の招き猫

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは「(神に)すくわれる」と書くときに、「われる」と当てることがあります。神は究極的にはぼくたちの「霊」を救うのであって、必ずしも「生活上の困難」から救うわけではない、ということを強調するためです。それを、自分自身に言い聞かせるためでもあります。

ぼくの信仰のあり方や神の見方を見つめると、あくまで“ご利益”を求めている感が否めません。ここ9か月ほどの不信仰期を振り返ってみても、神を都合のいい、招き猫かなにかと勘違いしていたように思えます。これくらいのことをしてくれたら礼拝してやってもいい、という傲慢極まりない思いさえありました。

そんな不信仰に至った理由を、「愛である神が人間をみじめな境遇に生み落としたことに、矛盾を感じるようになったから」などと、ぼくはもっともらしく綴ってきました。それが本音であることは間違いないですが、もっと直接的に本音を吐くとこうです、

 

 

神は、おれを幸せにするべきだ!

 

ぼくは不仲な両親の営む、機能不全家庭で生まれ育ちました。子どものぼくに安息を与えてくれなかった両親への恨みと、その呪縛からなかなか抜け出せない自分へのイラ立ちに、ぼくはいまも苦しんでいます。

神はぼくのことを愛していると言いますが、それなら、なぜぼくをこんなにみじめな境遇に放り込んだのでしょうか?

「この間、家族で温泉旅行に行ったんだ~♪」と言う友達や、父親の肩に腕を回して友達のように接する人や、母親に悩み相談に乗ってもらったという話を見聞きすると、昔から胸が張り裂けんばかりに羨ましくなってしまいます。そして、ぼくにはなぜそういう親子関係を与えられなかったのか、思い悩まずにはいられないのです。

 

イエス・キリストを信じたあともその羨望は尽きず、生まれついた境遇が気に食わなかったことの、恨みつらみの手ごろなはけ口として、神に八つ当たりをするようになりました。つまりは、その八つ当たりを、ぼくは「不信仰」と呼んでいたわけです。

生きづらさの根源を神に見出そうとするのがいちばん楽だし、自分の境遇について愚痴を言える相手を持たないぼくには、神はちょうどいい“サンドバッグ”でした。ネネちゃんのお母さんにとっての、ウサギのぬいぐるみですねw

初めのうちは偉大なる創造主、すべての人間が礼拝するべき唯一まことの光だった神も、ぼくをこの苦しみから救い出してはくれないのだ、届いているはずの祈りもことごとく無視するのだ、と思うようになってしまっては、信仰を失うのも無理はありません。

 

でも冒頭に書いたように、神は生活上の苦しみを取り除いてくれる、“ご利益のカミ”ではないのです。神とはどういう存在なのかを、ぼくはそもそも誤解していたのでした。

クリスチャンが神を信じるのは、そうすることでなにか得をしたいという下心からではなく、神がすでにしてくれたことへの感謝と応答をするためです。ぼくたちがわれるために、神が生けにえとしてひとり息子・イエスを捧げてくれた、その計り知れない愛への応答が、信仰なのです。

神は救ってくれないとぼくは嘆きますが、神はイエスを捨てるまでして、ぼくをってくれました。ただ、それがどんなに大きなことか、ぼくにはよくわかりません。

 

そこまでぼくを愛してくれるなら、ぼくはなぜ両親が結婚に失敗した代償を、否応なく支払わされる羽目に陥っているのでしょうか?

ぼくをうためにイエスを捨てた神が、それより比ぶべくもなく簡単だと思える救いを行ってくれないのは、いったいどうしてでしょうか?

 

ぼくにとっては、体験したことのない地獄の苦しみよりも、いま目の前にある生活の苦しみのほうが、ずっとずっと切実な問題なのです。

 

 

同じ教会のが祈っていてくれたお陰で、最近、ほんとうの信仰が与えられるように祈るまでには、神への信頼が戻ってきました。そして、行ったり行かなかったりではあるものの、教会での礼拝に出席できるほど、気持ちは前向きになってきています。

とは言え、これまでの記事で綴ってきたような疑問は、まったく解決されていません(もともと解決できるようなことじゃないんですが。いまでも矛盾は感じるし、一生感じつづけるかもしれず、今後完全に信仰を捨ててしまう可能性だってあります。

イエス・キリストを信じつづけるには、その愛の大きさを知り、「それだけぼくを愛してくれるんだから、どんなに苦しくても、神様は絶対にぼくを見捨てない!」と確信する必要があるのでしょう。

 

でもそれは、生身の愛に浴した経験のない人間にとっては、なかなか難しいことです。

キリストの直弟子たちは約3年間、生身のキリストの愛を全身に浴びながらも、結局はわが身かわいさに逃げ散ってしまいました。イスカリオテのユダ以外は、みんな殉教を遂げるほどの信仰者に生まれ変わりますが、キリスト本人の愛でさえ、一度は信仰を諦めさせてしまったのです。

ぼくは人に恵まれているなぁと思うことがあっても、愛されているなぁと感じたことはありません。残念ながら、ぼくにとって愛とは、たぶんこういうものだろうと想像するしかない、概念に過ぎないのです( p_q)

だから、ぼくは上手に自分を愛することができないし、他人をほんとうの意味で大切にすることもできない。イエスを捨てた神の愛をわからないのも、ぼくの中に愛がつちかわれていないからかもしれません。そう思うとなおさら、振出しに戻っていってしまいます、

 

 

どうして、ぼくは幸せな家庭に生まれて来られなかったんだろう

 

話が前後しますが、ぼくは先ほど、自分の境遇について愚痴る相手がいないと書きました。ただ、Twitterで知り合ったあるクリスチャンの方とは、お互いのことについて深く話すことがあるのです。

彼女とは、いわゆる毒親育ちという共通点から、LINEを交換する仲になりました。その彼女が、あるときのトークでこんなことをおっしゃったのです、

 

 

親たちは子どもを愛してはいたけど、子どもがそれを実感できるような愛し方を、ただ知らなかっただけなのかも、って考えてるんです。

 

親自身もまた、自分の親からの愛を十分に受けないまま、大人になってしまったのではないか、と。

言われてみれば確かに、ぼくの母の両親、つまりぼくの祖父母は、娘であるぼくの母に対して、いくらか理不尽を働いていたようです――

 

祖父は酒やギャンブルを好きなのに加え、やたらと八方美人で、そのためによく借金をしていたらしく、母のアルバイト代の一部も、有無を言わさず借金返済にあてられていたのだとか。祖母も祖母で、亭主関白の夫を口では叱りながらも、実際的に娘を守るだけの気概はなかったようです。

そう考えると、母もまた両親から受けた傷を抱えていて、夫であるぼくの父との不仲も、その後遺症によるところがあったのかもしれません。

父はと言うと父との総会話時間が72時間に満たない(たぶん実際それくらい)ぼくには、その境遇をまったく知りません。ただ、父方の祖父は漁師だったので、父も父親との関係が希薄だった可能性はあるでしょう。

 

そういう人たちが親になるというのは、子どもの側からすれば大変な迷惑なのですが、ぼくが苦しいからと言って「毒親」と断じるのは、それこそ理不尽なのかもしれませんね。

でも、両親のせいでぼくの精神的土台が発達不全になったのは事実だし、神がこの世代間の“毒”の連鎖にぼくを巻き込んだことに、どうしようもない鬱憤を募らせてしまうのです。

 

 

神に祈っているとおり、ぼくはほんとうの意味でイエス・キリストを信じたいし、そのためにキリストの愛を知りたい。そうすれば、自分がわれていることを、決して疑いはしないでしょう。

神は善い存在で、どこまでも正しく、ぼくたちをむやみに苦しい状況に陥らせはしない。

そう理屈ではわかっていても、少しでも不都合に直面したら、ぼくは疑心暗鬼に駆られてしまいます。そして不平不満を募らせ、自分のほうから神を拒んだにもかかわらず、神はなにもしてくれないと嘆くのです。悲劇のヒーロー症候群(¬_¬)

 

キリストはブドウの木であり、ぼくはその枝であって、枝が木から離れてしまえば、どんなに小粒でも実らせることはできません

また礼拝に行きだしたり、祈りを捧げはじめたりしたのは、そのことを思い出したからでもあります。ほんとうは初めから、心のどこかでは気づいていたのだとも思います。それでも苦しくて、理不尽で、毎日が不毛に思えて、いっそ信仰など捨ててやろうと、どこかヤケクソになっていたのでした。

その時点でぼくは、神がすでにしてくれたことを忘れ、キリストに猫耳をつけて小判を持たせていたのです。いえ、最初からぼくの心にいたのは、猫耳小判のキリストだったのでしょう。

 

だから、ぼくはもう一度、イエス・キリストに出会い直そうと思っています。

具体的には、なにものも差し挟まずに聖書を読み直すことです。例えば、注解書を開くのは、当時の文化や歴史的背景を知る必要のあるときにとどめ、それ以外は、自分なりに考えてみることです。言っていることがわからなくても、たとえ解釈を間違えても、まずは一対一でキリストと向き合ってみようと思います。

その素っ裸の対話の先に、“ご利益”ではないもっと価値のあるもので満たしてくれる、まことの神の姿が見えてくるはずですから。

 

 

 

画像の出典(Pixabayより)