ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくがイエス・キリストを信じたのは、単純に信じたかったからでした。昔からスピリチュアル好きだったぼくは、神や仏もいるのだと信じて疑わず、その神仏がだれであれ加護を
神という絶対的で不可侵な存在に、自分は守られている。そう思って安心したい気持ちがあったこと、いまでもあることは否定できません。ただそれよりも、自分の霊魂が神のもとで永遠に生きつづけると信じたい、自分の命と存在が現世限りのものではないと信じたい。そういう強い願望があったのでしょう。
端的に言うと、神に「自分の生きる意味」を見出したかったのです。
話はちょっと複雑になりますが、ぼくは聖書の記述を全面的に受け入れていて、生物の進化論を否定しています。すべての生き物は種類ごとに神によって形づくられた、と聖書が語っているからです。
進化論の中でも、クジラはもともとオオカミに似た四足歩行の陸上生物だったとする説は、ロマンがあっておもしろくはあります。でも、クジラはクジラとして創造されたというほうが、ぼくにとっては理解しやすい。なんだかしっくりくるw
それに、進化論は「生命の無意味さ」を肯定する、冷徹な学問だと思うのです。進化論では、生命は偶然に偶然が重なって誕生したものだとされています。もしそれが真実なら、ぼくたちの存在にはなんの意味もないことになります。偶然の産物は、存在意義をあとづけできたとしても、もともとは無意味なものだからです。
ぼくたちが生まれたのはまったくの偶然で、そのひとつひとつの命にはなんの意味もないというのに、ぼくたちは自分の存在意義を考えずにはいられません。生まれて来た意味をついに見出せなかったとき、ぼくたちはあの素晴らしい進化によって手に入れた、感情に打ちのめされるのです…。それって進化成功??
進化論が正しいとしたら、ヒトほどみじめな生き物はいません。そのヒトの中でも、安田遜のような人間は、特にみじめな思いをすることになります。自分の命の無意味さを受け入れられず、あくまで生きる意味を求めようとするのですから…。
だからぼくは、人間はひとりひとり神の意志のもとに創造された、と語る聖書に心引かれたのです。この創造論では、すべての人間は等しく神の愛を享け、個人個人がそれぞれの使命を帯びている、とされます。
自分の存在の無意味を受け入れるなんて、ぼくにはとてもできそうにありません。
「神は天地創造の前から、あなたのことを御心に留めておられた」と語る聖書の神・キリストに、ぼくが信仰心を持つようになったのは、それこそ偶然ではなかったのだと思います。
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ぼくの命に意味を与えてくれた、いや、この命に意味があるのだと教えてくれたイエス・キリストではありますが、ぼくはその神への信仰心を失ってしまいました。まったく救いようのない男です(・∀・)テヘッ
聖書の内容を信じていながら信仰心を失ったというのは、聖書の語ることにぼくの感情が「ノー!」と言うようになった、ということ。一方、ぼくの理性は「アーメン(確かにそのとおりです)」と聖書を支持しつづけています。だから、神への“讃美心”を失った、というのが正しいかもしれませんね。
なぜ神を讃美できなくなったのかと言うと、愛である神とその神のつくった世界の間に、あまりにも大きな矛盾を感じ、その矛盾の中に神のエゴイズムを感じたからでした。
神は完璧完全な存在です。そして、この世界もそこに暮らすぼくたちも、全知全能の神によってつくられました。それなら、世界も人間も完璧でなければおかしいではありませんか? 海はいつも静かで山は火を噴かず、子羊はライオンの背で眠り、ぼくたちは隣人の幸せをひたすら願って、戦争など起こさないはずではありませんか??
それなのに…神がすべてを支配しているにしては、ぼくたちの生きる世界はあまりにも殺伐としています。神を信じるクリスチャン同士でさえ、権力やら神学やらを巡って、犬も食わないつまらぬ争いに明け暮れているのです。神などいないと割り切って進化論を受け入れるほうが、いっそ清々しい!
でも、そういう状況が訪れたのは、実は神の意志ではなく、ぼくたちが神に背いた罪の結果なのだというのが、聖書の一貫して説く真理です。
だったら、人間が罪を犯さないようにすればよかったじゃん!!
ぼくはほとんど毎日、そうやって神にツッコミを入れています。人類全体に対して壮大な“ボケ”をかました神はぼくの中で、いまや「宇宙一のエゴイスト」になり果てているのです。全然笑えないし、エゴイストを礼拝する気にはなりません。
とは言え、ぼくにはどうしても神が必要であることは、自分でも否定できない事実です。ぼくの理性が聖書を完全に受け入れてしまっている以上、ぼくの生きる意味は、神を排除した世界観の中に見出せるものではないからです。
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信仰のあるなしにかかわらず、自分の生まれて来た意味を求めるならば、やはり自分自身で見つけるしかありません。神はぼくたちの絶対的な存在意義を保証するだけで、「遜よ、あなたの人生は○○をするためにあるのだ」と具体的に啓示を下すわけではないのです。
祈りを捧げて神の御心を知ったという人もいますが、ぼくはそういう御心を信用しません。それは神のではなく、十中八九、その人自身の“御心”だと思うからです。結局、自分の願望の反映に過ぎません。でも、それでいいのです。
ぼくは自分の願望に正直になって、その願望の中から、ほんとうに価値のあるものを見つけようと思います。そして、その価値あるなにかを、自分の人生の意味にしようと思います。
ぼくは取るに足らない小さな人間だけれど、自分以外のだれかにとって、この社会にとって、有益な人物でありたいと願っています。少なくとも、ただわが身のことばかりを考える人間にだけは、なりたくない。
あるとき、ぼくは充電式のコードレス掃除機を使っていました。掃除機は途中でバッテリー切れになってしまいましたが、電源が尽きる瞬間まで、フルパワーで能力を発揮しつづけていたのです。そういう生き方を、ぼくもしたい。価値あることに自分全部を注ぎ込み、才能や能力を絞るように使い尽くしてから死にたい。
そう思うけれど、生きる意味は現世限りで死んだら終わり、というのはとても受け入れられません。存在意義を考えるスタート地点には、やはり神に立っていてもらわなければ、すべてが無に帰する虚無感に、ぼくの生命力は根こそぎ奪われてしまいます。
自分自身で生きる意味を見つけ、まず自分の力でその意味を果たそうとしていく先に、きっと身も心も打ち砕かれる日がくるのでしょう。
そのとき、初めてほんとうの意味で神を信仰することができるのかもしれません。信仰心をなくしたいま、ぼくは自分の打ち砕かれるときを待ち望んでいる気さえするのです。