ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくが初めて教会の扉を開いたのは、なんとイースターの日。キリスト教についてほとんど無知だった当時のぼくも、イースターはかなり大切らしい、ということは知っていました。
最近だと、「イースター」という言葉はそんなに珍しいものじゃなくなったかなと思います。某テーマパークでも、春のイベントとして取り上げられていますもんね☆
喜ばしいこと(?)ですけど、そもそもイースターってなにかご存じですか? 日本では「復活祭」とも呼ばれて、カラフルな卵とかウサギとか、かわいらしいシンボルで飾られていますよね。
そこで今回の記事では、イースターとはどんな祝日かについて説明します。実はクリスチャンにとって、その日はクリスマスよりも重要なのです!
キリストの受難を振り返る日々
あの辞書を編み上げた方々には、ほんとに頭が上がりません。『広辞苑』で「イースター」と引いたら、「復活祭」とありました!
ふっかつさい【復活祭】
キリスト教会で、イエス=キリストの復活を記念して春分後の満月直後の日曜日に行う祭事。イースター。
―新村出編『広辞苑 第6版』
とあるように、
イエス・キリストの復活を祝うことが、イースターの目的なのです!
でも、イエス・キリストの復活とは、いったいどういう意味なのでしょうか?
人間の「罪」を背負ったキリスト
イエス・キリストという名前は、「キリストであるイエス」、つまり「わたしたちの救い主であるイエスさま」という意味です。
ぼくたち人間は生まれながらに罪深い存在で、その罪ゆえに神から遠ざかり、死後は裁きを受けて地獄に落とされる定めにあります。
でも、神はぼくたちを愛してくれていますから、ぼくたちを天国へと救い上げるために、一人の救い主を遣わしてくれました。
罪について詳しく知るにはコチラ
キリスト教でいう〈罪〉ってどんなこと?
その救い主こそ、
イエス・キリストです!!
神がどのようにぼくたちを救ってくれたかというと、ご自分の一人息子・イエスに、ぼくたちの罪をすべて肩代わりさせたのでした。
もっとわかりやすく言うと、神は無実のイエスを「有罪」とする代わりに、
こうしてイエスは地上での最後の3年間、多くの人々からバカにされ迫害され、想像絶する痛みと苦しみの中で死ぬことになりました。
イエス・キリストのその苦難のことを、受難といいます。ここからは、イエスの受難と復活のストーリーをざっくりと見ていきましょう。
「退け、サタン」~荒野の誘惑
イエスはマリアのお腹に聖霊(神の霊)によって宿り、大工・ヨセフの養子として、「キリスト=救い主」の役目を持って生まれました。
イエスが人々の前で宣教活動を始めるのは、それから約30年後のことだとされています。それ以降のイエスの歩みを、「公生涯」と呼んでいます。
イエスは宣教に先立って
神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ
(ルカ4:3b)
イエスはひどい空腹の中、ご自分がキリストであることの証明を強いる悪魔の誘惑を打ち破り、とうとう悪魔を追い払いました!
ただ聖書は、悪魔は時が来るまでイエスを離れた
(ルカ4:13)という、なにやら含みを持たせた言い方をしています。ちょっと覚えておいてください。
さて、イエスは40日間の苦行を経験したわけですが、この「40」という数字は、聖書におけるキーナンバーです。例えば、
- ユダヤ人はエジプトから脱出したあと、40年間に渡って荒野をさまよった
- 指導者・モーセは神と契約を交わすため、40日間の山ごもりと断食を行った
- 預言者・ヨナは神の啓示を受けて、「あと40日でこの都は滅びる」と預言した
などです。そのことからキリスト教会では、特にイエスの断食を覚えて、復活祭当日から日曜日を除く40日前を、灰の水曜日と制定しています。
その日を境に、教会暦は受難節(四旬節/レント)に入り、多くのクリスチャンは嗜好品を断つなどして、イエスの受難に心を向けます。
ちなみにある先輩クリスチャンは、毎年コーヒー断ちをしているそうです。え? ぼ、ぼくですか・・・。ぼくはですねぇ・・・、次に行きます。
「いと高きところにホザンナ」~エルサレム入城
そんなイエスの公生涯が中盤に差しかかったころ、弟子たちはある予告を耳にします。
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
―「マタイによる福音書」第16章21節(新共同訳)
弟子たちはその言葉の意味をまったく理解できませんでしたが、同じことが3回繰り返されたあと、一行は実際にエルサレムへ赴きます。
でも、イエスはただで都入りするような方ではありませんw 弟子たちに子どものロバを見つけて来させ、それに乗ってエルサレムの城門をくぐったのです。
エルサレムの人々はその姿に大興奮、ナツメヤシの枝と「ホサナ!」の叫び声とともにイエスを迎えました。主の名によって来られる方に~ヽ(≧∇≦)ノホサナホサナ
ホサナとは「神よ、いま救ってください」という意味で、現在では「ハレルヤ(神を
ところで、ぼくは音楽の父・バッハが好きなのですが、そのミサ曲の中に〈いと高きところにホザンナ〉という合唱曲があります。
「♪ホゥザンナッ、ホゥザンナッ」という軽快な混声から始まる曲で、明るいラッパの音色がイエスを歓迎する人々の様子を想像させます。ぜひ一度聴いてみてください^^
話が逸れましたが(ぼくの悪い癖で・・・)、イエスが子ロバに乗って都入りしたのは、実は旧約聖書の預言を成就させて、ご自分がキリストであることを証明するためでした。
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
―「ゼカリヤ書」第9章9節(新共同訳)
人々がイエスを歓迎したのは、その預言を知っていたからこそです。ただ、正しいキリスト像をもって迎えたわけではありませんでした。
人々は罪の赦しと永遠の命を与える「救い主」としてではなく、ローマ帝国からの独立と自由をもたらす“地上の王”として、イエスに期待を寄せていたのです。
さらに、当時のユダヤ人がイエスをキリストと認めなかったことは、教会が十字架をシンボルにしていることでも明らかになっています。
ユダヤの有力者たちは、イエスがキリストであることを断固否定し、逆に神を冒瀆する者として抹殺しようとしていたのです、イエスの予告どおりに・・・。
この〈エルサレム入城〉をきっかけに、イエスの公生涯はクライマックスに突入しました。
イエスの死がこの出来事の1週間後であることから、復活祭直前の日曜日を棕櫚(しゅろ)の主日(枝の主日)と呼んで特別視しています。
そして、その日から復活祭前日までの1週間を受難週(聖週間)といい、イエスの入城以後の苦難について思いを巡らせます。
「これはわたしの体と血」~最後の晩餐
次の話題は、かの有名な絵画のモチーフとなった食事会に移ります。実はそのとき、弟子たちの身に信じられない出来事が起こっていました。それは、
主であるイエスが、自ら弟子たちの足を洗いはじめた!?
というハプニング。人の足を洗う行為は、目下の人が目上の人への敬意を表すためにすることで、そうでなければ奴隷の仕事でした。
だから、一番弟子のペトロ(ペテロ)も驚いて拒絶しようとしました。でも、イエスは奴隷のように振る舞うことで、弟子たちへの愛を示したのです。
またこれは、「あなたたちもわたしを見習って、お互いがお互いのしもべとなりなさい」という、最後の説教でもありました()。
ヨハネ13:14
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
(新共同訳)
さて、〈最後の晩餐〉の終盤、イエスはパンとブドウ酒を取って「これはわたしの体と血である」と言い、弟子たちの手に渡しました。なんだか奇妙なセリフですよね。
その謎を解くには、この晩餐が過越祭(すぎこしさい)の一環として開かれたものだ、ということに注目する必要があります。
過越祭はユダヤ教の祭りではありますが、イエスがその食事の席であの言葉を語ったのには、とても重要な意味が秘められているのです。
かつてユダヤ人はエジプトに寄留していましたが、神は奴隷状態だったユダヤ人を救い出すべく、彼らを執拗に引き留めるファラオに10の災いを下しました。
その最後にして最大の災いが、エジプト全土の初子が死ぬ、という衝撃的なものです。そこで神は、ユダヤ人にこう命じました、
「小羊を生け贄として捧げ、その血を家の門の柱と鴨居に塗りなさい。わたしはエジプト全土を巡るが、血塗られた家を過ぎ越し、その家の者には災いを及ぼさない」
その夜、王族から家畜に至るまで、エジプトじゅうのすべての初子が死に絶え、ユダヤ人は430年ぶりにファラオの支配から解放されたのです!
過越祭とはその出来事を記念し、神に罪の赦しの乞うための祭りです。エルサレムでイエスを迎えた人々も、この祭りのために集まっていました。
いま、イエスが〈最後の晩餐〉で弟子たちに語ったセリフを再構成してみます、
「わたしは小羊としてこの身を捧げ、十字架の上でこの血を流す。神はすべての
洗礼者ヨハネはイエスを「神の小羊」と呼び()、使徒・パウロもイエスを「過越の小羊」と言っています()。
イエスは公生涯を歩みはじめてから、人間の罪を取り除く生け贄となるために、ただ十字架一つだけを見つめていたのです! 感謝(TωT)
ヨハネ1:29b
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
(新共同訳)
Ⅰコリント5:7c
キリストが、わたしたちの過越の小羊として
屠 られたからです。(新共同訳)
〈最後の晩餐〉の記念日は、イエスが弟子たちの足を洗ったことにちなんで、洗足の木曜日(聖木曜日)と呼ばれています。
キリストの復活をお祝いする日
弟子たちは〈最後の晩餐〉で、戸惑いながらもイエスに足を洗ってもらいましたが、同じ場でさらなるハプニングが起こっていました。
イエスが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている
(マタイ26:21b)と言い放ったのです。その瞬間を切り取っているのが、ダ・ヴィンチのあの名画ですよね。
明智光秀以上に裏切り者として悪名高いイスカリオテのユダは、ついに名指しされて晩餐の席を立ってしまいます。「その時」がやって来たのです。
「この杯を取り除けてください」~ゲツセマネの祈り
さぁ、約3年ぶりに、イエスのそばを離れていた存在が戻って来ました。覚えていますか?
イエスへの裏切り行為について、聖書はイスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った
(ルカ22:3)と語っています。
そのとき、イエスはゲツセマネの園で祈りを捧げていました。聖書に書かれているその姿は、とても救い主のものとは思えません。
イエスは弟子たちの面前で恐怖と悲しみに震え、できれば十字架行きの運命を変えてほしいと思い、この杯をわたしから取りのけてください
(マルコ14:36c)と神に祈ったのです。
でも、さすがは神の子。イエスはらしくない弱音を吐いたあと、しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように
(同36節d)と、自分の運命を受け入れました!
神の御心は、イエスがユダの裏切りによって捕らえられ、ローマ帝国のもとで死刑判決を受けることにほかなりませんでした。
その御心が成就したことで、イエスは弟子たちへの予告どおり、多くの苦しみを受けてから十字架の上で死ぬことになります。
キリスト教会はその受難を覚えるために、復活祭直前の金曜日を受難日(聖金曜日)と制定し、多くの教会で礼拝を守っています。
さて、イエスは十字架にかけられる前、ムチ打ちの刑にも処せられました。聖書はそのことをサラッと語っていますが、〈パッション〉という映画ではリアルに表現されています。
その描写は実に凄惨で、上映中にショックのあまり、心臓発作を起こして亡くなった人がいるほどです。イエスは木のムチやカギ爪つきのムチで、あばら骨がむき出しになるまで、全身をめった打ちにされました。
それはあくまで演出にすぎませんが、実際と大きな相違はないだろうと言われています。どれほど痛み苦しんだことでしょうか・・・。
ぼくたちの罪というのは、神の子が想像もできないくらいの苦痛を味わわなければ赦されないほど、深く重いものなのです。
「彼らを赦してください」~十字架上の祈り
イエスは満身創痍になりながらも重い十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘に連行されました。ゴルゴタとは、ヘブライ語で「ドクロの場所」という意味です。
午前9時、イエスは手足に釘を打たれ、とうとう十字架につけられました。その罪状書きは、「ユダヤ人の王」という皮肉っぽいものでした。
そのとき、イエスは父なる神にあることを祈っています、
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです
(ルカ23:34b)
自分にツバ吐いて侮辱し、ムチ打っていたぶり、十字架にまでつけた人々のために、イエスは取りなしの祈りを捧げたのです。
イエスが最後までぼくたちを愛してくれた一方、ぼくたちは最後までイエスを救い主として受け入れず、バカにしつづけました。
「神の子だなんて偉そうにほざいといて、十字架から降りて自分を救うことさえできない。おまえなんか、メシアじゃなくてペテンシアだ!」
もし、ぼくが当時のユダヤ人だったら、そんな罵詈雑言を放つ自分を誇って、神に忠実な人間を気取ったことでしょう・・・。
「成し遂げられた」~十字架上の死
昼12時になって、突然太陽が陰りました。これは一説によると、神がイエスに対して御顔を隠したことを意味しているそうです。
イエスもそのことを悟ったように、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか
(マルコ15:34c)と、天に向かって叫んでいます。
そして――
午後3時、イエスはぼくたちの罪を清める「神の小羊」としての役目を終えました。イエスの辞世の句は、「成し遂げられた」でした()。
こうして神の人類救済計画は、イエスによって完遂されました。イエスの十字架を受け入れることで、ぼくたちは神の前に罪を赦され、地獄行きの運命から解放されるのです!
ヨハネ19:30
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(新共同訳)
イエスの遺体は、アリマタヤのヨセフという弟子によって墓に葬られました。その翌日、ユダヤの有力者はイエスの墓に兵士を送り、厳重に見張らせました。
弟子たちがこっそりイエスの遺体を盗んで、「主は復活なさった!」と奇跡をでっち上げないようにとの、言わば“復活対策”です。
カトリック教会などでは、イエスが墓に葬られている日の記念として、聖土曜日という祭日が設けられているそうです。
「あの方はここにはおられない」~死者からの復活
イエスの葬りを見届けた人々の中に、マグダラのマリアをはじめとした、数人の女性たちがいます。
イエスの死から3日目、彼女たちは亜麻布を巻かれただけのイエスの遺体に死後処置を施そうと、ふたたび墓を訪れました。
聖書には、そのときの女性たちをひどく驚かせた出来事が記録されています。
・・・〔婦人たちは〕週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た2人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、2人は言った。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、
罪 人 の手に渡され、十字架につけられ、3日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、11人とほかの人皆に一部始終を知らせた。・・・婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
―「ルカによる福音書」第24章1~11節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
※〔〕内は、ブログ運営者による補筆です。
この出来事こそ、クリスチャンの信仰の根っこであり、キリスト教会が復活日(イースター)にお祝いする、イエス最大の奇跡です! ハレルヤ(≧∇≦)!!!
イエスの墓は大きな石でふさがれていたはずで、その前には見張りの兵士もいました。「輝く衣を着た2人の人」とは、天使たちのことです。
「マタイによる福音書」には、その天使たちが封印の石を動かし、見張り役たちを震え上がらせる様子が描かれています()。
女性たちも同様に怖がりますが、からっぽの墓の意味を悟り、11人の弟子たちにイエスの復活を告げるのです(ユダは裏切りの直後に自殺しています)。
マタイ28:2-4
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
(新共同訳)
弟子たちははじめ、イエスの復活を信じていませんでした。そんな弟子たちの前にイエスご本人が登場するのですから、彼らはどれほど驚き、また喜んだことでしょう!
イエスはそのあと、弟子たちとともに40日を過ごしてから、父なる神のもとへ、本来いるべき場所へと帰って行きました。
神はイエスを死者の中から復活させることで、「神の小羊」としてのイエスの死を承認しました。また、イエスを信じる者に「永遠の命」が与えられることを示しました。
イースターとは、イエス・キリストがぼくたちの罪のために十字架にかかり、その死に打ち勝って復活したことを喜ぶ日です。
あなたにもぜひ、キリストを信じてほしいと思います!
そして、キリストを通して与えられた「永遠の命」という希望を胸に抱き、一緒に父なる神さまを讃美してお祝いしましょう(*´ω`*)
名称の由来とデコレーション
最後は、イースターについてのちょっとした雑学を紹介します。
某テーマパークの春のイベントにも取り入れられているように、イースターと聞くと、カラフルな卵やかわいらしいウサギを思い浮かべると思います。
そこでここからは、イースターの由来とその飾りつけについて、さまざまある説のうちのいくつかをもとに紹介していきます!
イースターの名前の由来
実は、「イースター」という単語は、聖書にひと言も書かれていません。ではなにが由来かと言うと、ゲルマン神話のある女神。
それが春と豊穣の女神・エオストレで、英語では Eostre と綴ります。
キリスト教で一番大切な記念日が、ヨーロッパの神話の、しかも女神の名前をもとに呼ばれているというのは、・・・おもしろいですよね^^;
ほかにも、ゲルマン暦で春季の月を表す「エオストレモナト」が由来だという説もあります。エオストレモナトの月に、ゲルマン民族は春の訪れを祝ったのだとか。
デコレーションの意味と由来
毎年イースターが近づくと、フリマサイトなどに精巧な卵細工が出品されますよね。ウチの教会でも、子どもたちが着色してつくった卵を配ってくれます。
教会でウサギの飾りつけを見たことはありませんが、講壇の横にユリの花が飾られることがあります。それらの起源や意味について、簡単に見ていきましょう。
イースター・エッグ
言わずと知れた〈イースター・エッグ〉は、キリストの復活の象徴です。卵は内側に命を秘め、その命は殻を破って生まれます。そのことを、墓から蘇ったキリストの姿になぞらえているそうです。
いまではとてもカラフルに彩られるイースター・エッグですが、はじめは「キリストの血」を表す赤で染めるのが一般的だったと言います。
また、後述するウサギが卵を隠すという伝承から、庭などに隠したイースター・エッグを子どもたちに探させる〈エッグ・ハンティング〉を行うこともあります。ウチの教会でもやってる~(^艸^)
イースター・バニー
次に紹介する〈イースター・バニー〉は、ウサギが子どもをたくさん産むことから、生命と豊穣のシンボルになっています。
また、こんな言い伝えもあります。イースター・バニーは復活祭前夜、卵やおもちゃをバスケットに入れて、子どもたちに届けに来るのだとか。サンタさんみたいですねw
イースター・リリー
礼拝堂に飾られる〈イースター・リリー〉とは、テッポウユリのことです。キリストが十字架につけられたとき、ゲツセマネの園に白いユリが咲いた、という伝説がもとになっています。
個人的な話ですが、ぼくはイースターの日に洗礼を受けました。そのときお祝いとして頂いたのが、テッポウユリの花束でした(//∇//)
さて、イースターを楽しげに彩るデコレーションについて紹介しました。
でも大切なのは、いかに美しいイースター・エッグを飾るかではなく、いかにこの記念日を楽しめるかでもありません。本質は、
キリストの復活・復活・復活!!
ただそれだけです。願わくは、イースターの盛り上がりがキリストへの道を開き、神の国がさらに大きく広がりますように。アーメン。
あなたもこの機会に、ぜひ聖書に触れてみてくださいね!
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
- 新村出編『広辞苑 第6版』(岩波書店)
参考資料
- 聖書入門.com(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)
- メッセージステーション(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)
- ウィキペディア
画像の出典(Pixabayより)
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