ハレルヤ~! 安田遜です。
ある日、SNSで「人間死んだら終わり」という、化石のような言葉に出会いました。最近はあんまり見聞きしなかった言葉なので、まだそういう考え方の人がいるんだなぁって、ちょっと驚きました。
日本では神仏習合の影響なのか、いろんな死後の世界観がありますよね。極楽とか浄土とか、三途の河とかナンタラ地獄とか・・・。死んだら無の唯物論もあれば、生れ変りの転生論(てんしょうろん)もある。
聖書は、人間は肉体が死んでも魂は生きる、という世界観を語っています。そして魂には、生前の「信仰」によって2つの行き先があるのだと――。
さて今回は、キリスト教における〈死〉の概念について綴ります。地上での限りある人生の先に待つ、死後の限りない世界をのぞいてみましょう!
〈死〉に至る病
小学6年生のとき、父方の祖父が肝臓ガンで亡くなりました。父の実家は宮城にあり、伯母から危篤の連絡を受けて現地に着いた2~3日後、見舞い帰りの伯父から、祖父の死が東北なまりで伝えられました、
「おじいさん、死んでしまったぁ」
あのときの伯父の言葉は、いまでも忘れられません。伯父はフッと鼻で笑ったあと、車のキーを靴箱の上に放り投げながら、微笑むような顔で自分の父親の死を告げたのです。
「人間が死ぬって、そんなふうに笑えちゃうことなの・・・?」と、ぼくは子ども心に思ったものでした。いま思えば、伯父の微笑みは、悲しみの裏返しだったのだとわかります。
ぼくは病床の祖父の姿を見ています。「い~やい、いゃい」と痛みにもだえるだけで、父やぼくの呼びかけにはまったく反応しませんでした。「痛い」の3音もまともに発せない祖父に、ぼくは恐怖さえ覚えました。
さらに、病室には薬品と尿の混じったようなにおいが充満していて、“人間臭さ”がこれっぽちも感じられません。小6男子にはとてもストレスフルな現場でした、それは大人でも変わらないでしょうが・・・。
祖父の遺体は、あれほど苦しんでいたとは思えない、とても穏やかな表情をしていました。脱脂綿に含ませた水が、閉ざされた唇の中へ吸い込まれていくのを不思議に思いながら、死んだ祖父に水を飲ませてあげた記憶があります。
火葬炉から出てきた骨は、薄いピンク色でした。薬品の影響なのでしょう。箸で持ち上げるとホロッと崩れてしまう様子に、いとこはひどくおびえて母親にしがみついていました。
――ちょっと長くなりましたが、これが人の〈死〉を初めて身近に体験したときの話です。
ぼくたちは自分以外の〈死〉を何度か経験しますが、自分自身の〈死〉はたった一度しか経験しません。だからこそぼくたちは、死後の世界について知りたがるのでしょう。
さて、かなり前に「人間はだれでも『死』のキャリアである」という格言めいた言葉を耳にしました。でも正しくは、「人間はだれでも『罪』のキャリアである」です。
なぜなら〈死〉は結果であって、罪がその原因だからです()。
その罪というものは、はじめ悪魔によってもたらされました。そして、ぼくたちの遠い先祖であるアダムとエバが、悪魔の誘惑に屈して罪を犯してしまったのです。
ローマ6:23a
罪が支払う報酬は死です。
(新共同訳)
アダムとエバははじめ、エデンの園という楽園にいて、神と良好な関係を保っていました。アダムたちは自由を保障されていましたが、ただ一つ、善悪の知識の木の実を食べることだけは禁じられていました。
でも、悪魔の巧みな詐術に惑わされて、その禁じられた実を食べてしまうのです。アダムたちが神への不従順を示したことで両者の関係は破綻し、人間は「
罪についての詳しい解説はコチラ
キリスト教でいう〈罪〉ってどんなこと?
キリストの弟子・パウロは、人間が〈死〉に至る理由を、実に端的に述べています。
このようなわけで、1人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
―「ローマの信徒への手紙」第5章12節(新共同訳)
罪を犯した結果として〈死〉がもたらされたとすると、アダムたちは本来「永遠に生きるべき存在」だったわけです。まとめると、次のような公式が成り立つでしょう。
Human - God = Death
人間は神との友好関係を破綻させた罪によって「永遠の命」を失い、代わりに〈死〉を手に入れてしまったのです。なんてバカなことを・・・(ノД`)
パウロも言っているように、ぼくたちは自覚の有無にかかわらず、だれでも神に対して罪を犯しています。ぼくたちは例外なく「罪のキャリア」であり、たとえまじめに生きていても罪人なのです。
さて、ぼくたちは自分の罪によって死ぬべき存在となりました。次は、〈死〉の具体的な結果を見ていくことにしましょう。
霊的な〈死〉
〈死〉とひと言で言っても、たんに心臓がとまることだけを意味しているのではありません。聖書の〈死〉は、「霊的な死=魂の死」を強調しています。
霊的な〈死〉はまず、生きているうちに起こります。と言うのも、そもそも〈死〉は「神との断絶」を意味するからです。神のいないところに命はありません。
また、神はぼくたちに「隣人愛」を命じていますが、その神との関係が破綻していれば、当然、人間同士の関係にも影響が出てきます。クリスチャン同士でも醜い争いはあるけどね・・・(._.)ヒソヒソ
アダムとエバは、神よりも悪魔に従うことを選びました。その罪の性質は子の世代に引き継がれ、人類初の殺人が、しかも「兄弟殺し」が起こってしまうのです!
アダムの長男・カインは、弟・アベルとともに捧げ物を納めますが、神がアベルのほうを喜んだことに不満を抱いて、ついに弟を殺してしまった、という事件です。
もしカインが神とのつながりを保っていれば、嫉妬に支配されるのではなく、アベルの捧げ物が選ばれたことを一緒に喜んだだろうと思います、2人は兄弟なのですから。
神から離れるというのは、光より闇を選ぶことであり、愛ではなく憎しみへ、希望ではなく絶望へとひた走っていくことなのです。それは、まさに〈死〉に直結します。
さらに神との断絶は、人間と自然の関係も破壊します。神がアダムとエバに命じた言葉を見てみましょう。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の
魚 、空の鳥、地の上を這 う生き物をすべて支配せよ。」
―「創世記」第1章28節(新共同訳)
ひと言で言うと、「自然を支配しなさい」ということ。それは「自分の思いどおりに好き勝手していいよ♪」という放任ではなく、「しっかりと管理せよ!」という命令です。いまの人間はどうでしょうか?
この自然はもともと神から「委託」されたものであって、「譲渡」されたものではありません。つまりぼくたちは、神の資産である自然をよく管理する者として、神からの義務と期待を受けているのです。
このように霊的な〈死〉は、ぼくたちの日常のさまざまな場面に暗い影を落としています。それを克服しないままでいると、その先に決定的な〈死〉が待っています。
第二の〈死〉
先ほど「霊的な死=魂の死」と書いたように、罪を持った人間の魂は、神との友好関係に戻ることができず、死ぬ定めにあります。神はその正しさゆえに、米粒ほどの罪も見逃すことができないからです。
そして魂の〈死〉とは、「永遠の滅び」を意味します。
そう聞くと、「どうせ永遠に滅びるなら、罪があろうがなかろうが命あるうちに好き勝手して、自分が楽しいように生きてもいいじゃないか!」と思うでしょう。
でも、永遠の滅び≠無、なのです!
聖書を読むと、舌の上に水を一滴垂らされるだけでもありがたい、と思うほどの苦しさだとわかります()。それこそ「どんだけ~!」だよ(゜゜)
ルカ16:24
そこで、大声で言った。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」
(新共同訳)
すべての罪人はいずれ「神の裁き」を受けますが、〈陰府〉は拘置所だと言えるでしょう。裁きを待つ間、罪人の魂は〈陰府〉で苦しみながら生きつづけるのです。
ただ、神の裁きは死後すぐに行われるわけではないようです。このあたりはかなりハイレベルな知識なので、説明は40年後まで待ってください。
――聖書には、すべての死者が裁きを受けるために復活することが示されています。
海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
―「ヨハネの黙示録」第20章13節(新共同訳)
罪人は〈陰府〉から出されると、神の御前で裁かれます。ただし、その裁きで知っておくべきなのは、「天国に行くか地獄に落ちるか」という裁きではない、ということです。
残念ながら、この時点で罪人が地獄に落ちることは決定しています。これはぼくの勝手な憶測なのですが、恐らく量刑を決めるための裁きだと思われます。
神は公正な方ですから、極悪非道の殺人鬼に重い刑罰を科しても、献身的なボランティア活動家にそれと同等の刑を言い渡すとは思えません。←これも憶測!!
そして裁きを受けた罪人の魂は、すべて〈火の池〉に投げ込まれるとされています。それが地獄で、罪人の魂は灼熱の火で焼かれることになるのです。
聖書はそのことを、〈第二の死〉と言っています。
その〈死〉でもっとも恐ろしいのが、燃え盛る炎によって永遠に責めさいなまれる、ということです。何億年や何兆年ではなく、永遠なのです。
『寿限無(じゅげむ)』という落語をご存じでしょうか? ある子どもの名前を巡る笑い話で、ぼくは某子ども番組を観て以来、その名前をすっかり暗記してしまいました。
両親が子どもの長生きを願って縁起のいい名前を考えるのですが、欲張りすぎた結果、ものすごく長い名前になってしまった、というストーリーです。
その名前の中に「五劫(ごこう)のすり切れ」というものがあります。劫とは「とても長い時間」という意味なのですが、どれほどの長さかを表した文章を見つけました。
天女が時折泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減り、それを繰り返して岩が無くなってしまうまでが一劫とされ、・・・別の落語では、天女が三千年に一回、
須 弥 山 に下りてきて羽衣で一振りして、須弥山がなくなるまでが一劫である。
その一劫が5回繰り返されるのですから、天地創造からいままでよりも、ずっとずっと長い時間なのかもしれません・・・!
でも永遠とは、それよりも長いのです。長いと言うか終わりがないのですから、もはや時間の概念をもって語ることじゃない(^艸^)ワラワラ
――いえ、笑い事ではありませんね。
神に背く罪によって、永遠の苦しみが運命づけられるのですから。火あぶりの刑が終わりなく続くという悲惨さは、もはや想像もできません。
聖書の語る〈死〉とはつまり、神に罪を犯した者の魂が永遠に苦しむことです。ここで思い出してください、ぼくたちはみな例外なく罪人であることを。
ということは、ぼくたちはどんなに清く正しい生き方を心がけても、平等に地獄に落ちるしかないということです・・・。なにか天国に行ける方法はないのでしょうか?
「信仰」という逃げ道
行いでは救われない
天国に行くとか地獄に落ちるとか、結果を考える前に、まず「天国」と「地獄」という概念について簡単に定義しておきます。
- 天国 神との「親しいつながり」にとどまっていること。
- 地獄 神の怒りを受けて「隔絶」されていること。
天国と地獄は、ある特別な「場所」を表す言葉という以前に、神との「関係」を表す言葉と思ってもらえばいいと思います。
このことからわかるように、天国に行くためには、罪によって壊れてしまった神との関係を修復する必要があります。つまり、神と“仲直り”をすればいいわけです。
だれかと仲直りしたいとき、あなたはどうしますか?
「ごめんなさい」と直接謝ったり、お詫びの手紙を書いたり、その人の喜ぶことをしたり・・・、なんとか赦してもらおうと積極的に行動するのではないでしょうか。
でも残念ながら、神にその手は通用しません。聖書はいくつもの箇所で、
どんな行いによっても、神から罪の赦しは得られない
と、明確に語っています。
モーセの〈十戒〉の精神を学び、キリストの〈山上の垂訓〉を実践しても、それだけで天国に行くことはできません。また、善い行いに励んでも、根本的な罪の解決にはなりません。
自分の力だけに頼って天国に行くことは、ぼくたちにはできないのです。
信仰だけが人を救う
神と人間の間には、決して埋められない〈死〉のフチが口を開けています。ぼくたちはそのフチを飛び越える術も、神のもとへ架けるハシゴも持ち合わせていません。
――が、神のほうからハシゴを渡してくれているのです!
ありがたいことに、ぼくたちが“仲直り”を望む以前に、神はぼくたちの罪を赦すための計画を立てていました。その計画こそが、
イエス・キリストを十字架にかけること。
こういう言い方は正しくないかもしれませんが、神もあるジレンマを抱えています。神は
そこで神は、一人息子であるイエスに全人類の罪を背負わせることによって、そのジレンマを解消したのです。イエスがどのような運命をたどったかは、あなたもご存じだと思います。
神とイエスを分けて書いていますが、イエス・キリストは「神」です。
神というと、高いところから人間を見下ろしているのが一般的なイメージでしょうが、イエスはそうではありません。イエスは、最悪の重罪人に科せられる十字架刑によって死にました。
その十字架は、たしかに教会の屋根や会堂の高いところに掲げられていますが、実際にはだれの目にも留まらないようなどん底に立っています。
ぼくたちは自分の犯した罪によって霊的な〈死〉を生きる結果、さまざまな苦難に見舞われて、もはや生きる気力を失うことがあります。
そういうときに陥るどん底に、イエス・キリストの十字架は立っているのです。
その十字架は、ぼくたちの消えない罪が赦されて、生きながらの〈死〉からほんとうの「生」へと移り変わることを約束しています。
ぼくたちはその十字架を、イエス・キリストを信じるだけでいいのです。そうすれば、十字架というハシゴによって神のもとへ至り、天国で永遠の命を生きることができるのです。パウロは言います。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
―「ローマの信徒への手紙」第6章23節(新共同訳)
神はぼくたちに「イエス・キリストへの信仰」という“仲直り”の方法を提供し、それを通してぼくたちを〈死〉から救ってくれるのです。ハレルヤ!
* * *
今回は、だれもが経験する〈死〉について綴りました。
自分で書いていて「ちょっと脅すような内容だなぁ・・・」と思わないでもなかったんですが、持論じゃなくて聖書に書かれていることなので、そのままストレートに伝えましたw
ただ、「キリストを信じないと地獄に落ちるよ!」とは言えません。一人ひとりが死後に行く場所について、ぼくたちは軽々しく口に出すべきではありません、そこは神さまの領域なので。
だから、ぼくの祖父がいまどこにいるのか・ぼくが死んだら再会できるのか、それもまったくわかりません。ぼくは神さまの「正しさ」を信じることしかできないんです。
ただ確実に言えるのは、天国と地獄は単なる観念や空想じゃない、っていうこと!
それだけは声を大にして言います。死後の世界はあるし、神さまの裁きも必ずある。そのとき、あなたが(あなたにとって)不利な判決を下されないように、イエス・キリストを受け入れることを心から願っています。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
- ウィキペディア
参考資料
- 熊沢義宣『東神大パンフレットⅥ 伝道的教義学入門』(東京神学大学出版委員会)
- 聖書入門.com(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)
画像の出典(Pixabayより)
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