遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

キリスト教でいう〈罪〉ってどんなこと?

 

「あなたは罪人です」ってどういう意味?

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ある日、ウチの近所を歩いていたら、「まことの神はわれらを愛し、その罪をゆるす」と書かれた看板を見つけました。黒地に白の筆文字の、あの看板です。そういうのは地方にしかないと思っていたので、まさか東京の、しかも近所でお目にかかるとは小さな驚きでした。

さて、ノンクリスチャンの方に質問です。上の言葉を読んで、なにか訴えかけられるものはありますか?

「まことの神はわれらを愛し」にはじんわりとなにか感じると思うのですが、「その罪をゆるす」とはどういうことなのか、あまりピンとこないのではないかと思います。

 

そこで今回は、キリスト教における〈罪〉の概念について綴ります。ほんとうの信仰を持つためには、この概念の理解が必要不可欠なのです!

 

 

人間が生まれながらに持つ〈原罪〉

聖書は、ぼくたちに「信仰による救い」を約束しています。とすると、「信じる=救いを求める」ということですよね。救いを求めるとき、幸せな状態にある人はいません。

助けて~!」と叫ぶのは、窮地に立たされているときのはずです。

つまり、ほんとうの意味でキリストを信じている人というのは、信じる前に窮地に陥っていたか、窮地に陥っている自覚があったか、そのどちらかだと思うのです。「窮地に陥っている自覚があった」と回りくどく言うのは、次のことをだれもが自覚しにくいから。それは、

 

人間はだれしもつみびとである

 

ということ。そんなことを言われて、素直に認められる人は少ないでしょう。怒りを覚える人もいるかもしれません。当然です。多くの人は犯罪に手を染めることなく、日々まじめに生きているはずですから。

ただお察しのとおり、ここでいう「罪人」とは、法律を犯した「犯罪者」ということではないのです。では、どういうことか?

 

――それを知るために、旧約聖書のある有名なシーンを引用します。

2:7主なる神は、土(アダマ)のちりで人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。8主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

15主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。

18主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」21主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、22人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

 

3:1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてよいのです。3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 

―「創世記」第2章7節~第3章7節より抜粋(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

ご存じ、アダムとエバの物語です。ギュッと要約すると、「人間が初めて神に逆らう物語」と言えるでしょう。

 

エバはヘビに乗り移ったにだまされて、“禁断の実”を食べてしまいました。アダムもエバの勧めるままに、神の命令に背いてしまいました。「食べたら死ぬぞ!」と念押しされていたのに食べてしまったのは、その果実があまりにおいしそうだったからではありません。

食べれば賢くなれる、という言葉に誘惑されたからです。とするとこの物語は、「自分たちが神になろうとした物語」と言ったほうが正しいかもしれません。

 

これが、人間の〈〉の始まりです!

 

実は、アダムאָדָםは固有名詞であると同時に、ヘブライ語で「人間」という意味の普通名詞でもあります。つまり、アダムとエバだけが罪を犯したのではなく、すべての人間が“反神的気質”を持った罪人なのだ、と聖書は暗示しているのです。

考えてみればぼくたちは、人生設計・自己啓発・自己実現といった、もはや強迫観念とも言える自己中心的思考を持っています。それは、自分自身を神そのものに位置づける考え方にほかなりません。

エバが〈善悪の知識の木〉になる果実に引きつけられたのも、「わたしにとっての善悪は、わたしが自分で決めたいわ!」という、神を排除した考え方が原因でした。

 

創造主である神に従わず、自分自身が神になりたいと欲する性質を、キリスト教では〈原罪〉と呼んでいます。冒頭で触れた「その罪をゆるす」の「罪」とは、この〈原罪〉のことです。

アダムとエバの物語で暗示されているように、ぼくたちは〈原罪〉を持って生まれてきました。たとえ犯罪に手を染めていなくても、ぼくたちはみな、生まれつきの罪人なのです。

ただ〈原罪〉を持っているとして、それがなぜ窮地に立たされていることになるのでしょうか? それはもう少しあとに綴ります。

 

次は、さらに広い意味の〈罪〉を見てみることにしましょう。

 

神の存在を認めない〈罪〉

ひと口に「罪」と言っても、その意味の範囲は幅広いものです。ところで、英語では「罪」をなんと言うのか、手持ちの和英辞典を久々に開いて調べてみました。

つみ 罪

【宗教・道徳上の】(a) sin;【法律上の】a crime;【規則違反などに対する】an offense;【失敗などに対する責め】blame (for);【有罪】guilt.

 

―小西友七=編「グランドセンチュリー和英辞典 第2版」

こんなにも細分化されているとは驚きですが、聖書のいう〈罪〉の訳としては、先頭の sin(シン)が使われています。その原語はなにかというと、ギリシャ語の「ハマルティアἁμαρτία」。

 

もともとは、「的はずれ」という意味です。

 

さて、初めに、神は天地を創造された(創1:1)という聖書の宣言に対して、あなたはどのような態度を取られるでしょうか?

ビッグバン現象が宇宙の始まりであり、ちりやガスが偶然に天体を形成したという「仮説」が、あたかも真実のように語られていますが、全宇宙とそこに存在するすべてのものは、全知全能の神によってつくられました。そのことを認めず、創造主である神の存在を無視するならば〈罪〉です。

すべてのことは科学で証明できる、というのは「的はずれ」であり、あまりに自信過剰だと思います。例えば、水は水素と酸素でできているということはわかりますが、なぜそのような構造でなければならないのかは説明しきれないはずです。

 

なぜでしょうか?

――科学者たちはあくまで「研究者」であって、「創造者」ではないからです。

 

どうして水素だけでは水ができないのか、理路整然と説明ができるのは創造者である神だけですが、説明されたところでチンプンカンプンでしょう(^艸^)

人体・物質・宇宙。どれを取っても人知の及ばない造形と緻密な法則で成り立っていますが、それらをつくったデザイナー兼プログラマーの存在は明らかです!

 

また、そのような存在を認めてはいても、ほんとうに崇拝するべき対象を見失って、まことの神ではない「人工のカミ」をあがめているならば〈罪〉です。

神話や伝承に登場する多くのカミガミは、大自然への強い畏怖、大きな力を誇った故人への崇敬の念、人間の豊かな想像力などによってつくられたものだと言えるでしょう。

そのようなカミは、一種の興奮作用によってご利益を与えてくれるかもしれませんが、それはあくまで目先のご利益であって、永遠のものではないはずです。

 

なぜでしょうか?

――永遠のものを与えられるのは「創造主」であって、「被造物」ではないからです。

 

被造物である人間によってつくられたカミというのは、言うなれば二次創造物で、3Dプリンターで形成されたフィギュアのようなものです。

フィギュアを拝んで救いを得ようとするのは、まったくの「的はずれ」であり、一時的な感情の高ぶりによって気を紛らわすだけのことでしかありません。

 

自分が神につくられたことを忘れて受け入れず、創造主である神と無関係であるかのように生きている状態こそ、聖書の語る〈罪〉なのです。

 

神の律法に背く〈罪〉

キリスト教の前身(と言っていいのかな?)であるユダヤ教には、とても厳しい宗教的法律が定められています。それが、モーセの〈十戒〉に代表される律法です。〈十戒〉とは読んで字のごとく、次の10項目からなる戒めのこと。

  1. 主のほかに神をあがめてはならない
  2. 偶像を拝んではならない
  3. むやみに神の御名を呼んではならない
  4. を守りなさい
  5. 父母を敬いなさい
  6. 人を殺してはならない
  7. 姦淫を犯してはならない
  8. 盗んではならない
  9. 他人についてウソの証言をしてはならない
  10. 他人の持ち物を欲しがってはならない

 

モーセの律法は、厳密にはイスラエル民族だけに与えられたものですが、その精神はイエス・キリストによっても教えられました。それが、〈愛の律法〉です。

37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。38これが最も重要な第一のおきてである。39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。40律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」

 

―「マタイによる福音書」第22章37~40節(新共同訳)

 

〈十戒〉や〈愛の律法〉は神の要求に応えるため、また神に祝福された生活を送るために、ぼくたちが守るべきことを説いています。

――が、それは実践不可能です(・_・)ナヌッ!

覚えていますか? アダムとエバ、およびぼくたちは、「あの木の実を食べてはならない」という単純な命令さえも守ることができませんでした。

 

ぼくたちは律法を通して、自分がどれほど神からかけ離れたつみびとであるかを、まざまざと思い知らされることになるのです。

 

ここまで〈罪〉について綴ってきましたが、これらの〈罪〉を背負った状態の人間が、なぜ窮地に立たされていると言えるのでしょうか?

罪を犯したならば、それを償う必要があります。その償いが苦しいものであるというのが、「窮地」の意味なのでしょうか?

 

「永遠の死」と「救い主」

十字架の前でひざまずいて祈る人

地獄行きの運命

アダムとエバの物語で、ふたりがどうして〈善悪の知識の木〉の実を食べてはいけないと言われたか、覚えておられますか?

――そう、「食べると必ず死んでしまう」と言われたのでしたね。

でも、アダムもエバも、すぐには死にませんでした。あのあと、ふたりはエデンの園を追放されたものの子どもを生むし、アダムは930年生き、そして死んだ(創5:5)と書かれています。

 

神は、アダムたちを脅すためにウソをおっしゃったのではありません。事実、アダムは“ギガ長寿”をまっとうしましたが、間違いなく死んだのです。

聖書は、罪が支払う報酬は死です(ロマ6:23)と言っています。

そして、死の原因である〈罪〉を生じさせたのが、神への不従順を示したアダムとエバでした。もしアダムたちが〈罪〉を犯していなければ、ぼくたちは神との友好関係を保って、苦しみや悲しみとは無縁の、永遠の命を楽しむことができていたのです(ノД`)

 

ところで、聖書の語る「死」とは、肉体的な死だけを意味しているのではありません。それよりも、むしろ「霊的な死=魂の死」を強調しています。

〈罪〉を持った人間の霊は、神のもとへ帰れないまま死んでしまうのです。

それは「無」になるということではなく、地獄で永遠に苦しみつづける、ということです。つみびとには例外なく、燃えさかる炎で永遠に責めさいなまれる運命が待ち受けています。

死と地獄について詳しくはコチラ

キリスト教でいう〈死〉ってどんなこと?

 

さて、「窮地」の意味が、これでおわかりいただけたと思います。

ぼくたちは生まれながらに罪人であり、神の律法も守りきれません。このままでは地獄に落ちるしかありませんが、なにか救われる方法はないのでしょうか?

 

イエス・キリストへの信仰だけが免罪符

つみびとが地獄に落とされるのは、神に背く〈罪〉によって、神との友好関係が破綻しているからにほかなりません。ならば、その壊れてしまった関係を修復すればいいのです。

とは言え、神と人間の間はどれほど遠く隔たっているかわからないし、そんな簡単にぼくたちの〈罪〉がゆるされるとは思えません。でも、心配ご無用(・∀・)ホエッ!?

ぼくたちは神と“仲直り”するために、たくさんの献金を捧げたり、だれもまねできないような善いことをしたり、厳しい修道生活を送ったりする必要はないのです。ぼくたちがするべきことは、たったひとつ、

 

イエス・キリストを信じること!

 

神はぼくたちをおつくりになった、言わば「ほんとうの親」ですから、ぼくたちひとりひとりを愛しておられます。「みんな天国へ来てほしい!」というのが、神の心からの願いなのです。

一方、神は厳正な「裁き主」でもあります。いくら愛しているからと言って、ぼくたちの〈罪〉をなんの代償もなく、ただ見逃すようにゆるすことはできません。

そこで神は、ぼくたちに向けられるはずだった裁きを、・イエスにお下しになりました。ぼくたちの〈罪〉に対する賠償金として、キリストはご自分の命を、十字架の上で捧げてくださったのです!

 

イエス・キリストは神でありながら、ぼくたちと同じ人間としてお生まれになりました。石を投げられれば痛み、ムチ打たれれば血を流し、罵られれば傷つく、ぼくたちと変わらない生身の人間です。

ただひとつ違うのは、キリストは〈罪〉を犯さなかった、ということ。

神に対してはどこまでも従順で、人に対してはひたすらに誠実でした。一片の〈罪〉もないキリストが、神の前で罪人として裁かれることによって、十字架による救いは、ぼくたちひとりひとりに例外なく与えられたのです。

 

プロテスタント教会の十字架には、キリストの姿がありません。なぜなら、キリストによる〈罪〉のあがないは、すでになし遂げられたからです。キリストはいまや天に昇り、父なる神とともにぼくたちの帰りを待っておられます。

からの十字架は、ぼくたちの救いが完了している証です。キリストの十字架を受け入れる人の〈罪〉は、完全かつ不可逆的にゆるされます。キリストの弟子・パウロは、その事実について次のように語っています。

23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 

―「ローマの信徒への手紙」第3章23~24節(新共同訳)

 

神はイエス・キリストを信じる信仰によって、ぼくたちを「義=無罪」と認め、その〈罪〉をひとつも思い返すことなく、天国へと迎え入れてくださるのです!

 

まとめ

  1. アダムが神の命令に背いたことで、この世に〈罪〉が入り込んだ
  2. 人間はだれでも神に背くほうへ傾いており、その性質を〈原罪〉という
  3. 〈罪〉とは、神を信じなかったり偶像を崇拝したりする「的はずれ」のこと、また、神の定めた律法に違反することである
  4. すべての人間がつみびとであり、その〈罪〉はイエス・キリストへの信仰によってゆるされる

 

今回は、とても大切な〈罪〉の概念について綴りました。

わかりやすく書いたつもりですが、それでも理解しにくいことかもしれません。実際、ぼくが自分の〈罪〉をほんとうに認識したのは、イエス・キリストを信じたあとでした。この記事から受けた印象はさまざまでしょうが、〈罪〉について考えるきっかけになればいいなと思います。

 

「まことの神はわれらを愛し、その罪をゆるす」

 

キリストはぼくたちの身代わりとして十字架につき、まことの神の愛を示してくださいました。どんな間違いも、いくら繰り返したあやまちも、キリストの十字架にゆるせない〈罪〉はありません。その恵みをぜひ受け取っていただきたいと思います。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
  • 小西友七=編「グランドセンチュリー和英辞典 第2版」(三省堂)
参考資料
画像の出典(Pixabayより)