遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

“ご利益”なんか求めていないと思ったら、ちゃっかり出ていた下心

 

ふた股に分かれた道

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

最近、いままでになく信仰を試される経験をしました。めちゃくちゃプライベートかつデリケートなことなので詳細は控えますが、結論から言うと、神さまに従うことはできませんでしたφ(・_・

その試練を通過している間、ぼくは信仰と感情の間で揺れ動いて、いつも胸がチクチクと痛んでいました。みぞおちあたりがずっと苦しかったんです。信仰的には神さまに示された道を行きたいけど、その道は感情的にとても受け入れられるものじゃない・・・。

「よしっ、従うぞ!」と一度は心を決めたはずなのに、あとになって「いや、やっぱ無理だなぁ」と弱気になる、ということを繰り返していました。それで、さっき話したとおりの結末を迎えたわけです。

 

そんな空前の大葛藤の中、空前の対聖書集中力を与えられました。神さまを知りたくて知りたくて、御言葉が欲しくて欲しくてたまらなかったんです。

そこで先日聖書を読んでいたら、「ぼくは“ご利益”欲しさに神さまに従うんじゃない!」という意識が新たになりました。今回は、その意識を再確認させた御言葉から分かち合います。

 

 

なぜ神に従いたいのか?

ぼくは今回の葛藤を通して、聖書精読を習慣化することに成功しました。毎日「詩編」を1編と、その他の書巻を4章ずつ、ゆっくりと噛み締めながら読み進めています。

もちろん、それまでも聖書を読まなかったわけじゃありません。ただ「御言葉への飢え渇き」が強いと、聖書の一句一句がより神妙に、またより恵み深く訴えかけてくるように感じます。

 

さて、この記事であなたと分かち合いたい御言葉というのは、コチラ。

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

 

―「ルカによる福音書」第6章35節(新共同訳)

聖書の御言葉の中でも特に名高い、そして難しい教えですね。でもぼくが目を留めたのは、「敵を愛しなさい」ではありません。「そうすれば」という言葉です。

 

ところで、実際にできるかどうかは別として、ぼくは純粋に神さまに従いたい。それを義務的に感じたことは、自分でも不思議なんですが、ただの一度もありません。どうして神さまに従うのか? ――その理由はものすごく単純で、

 

神さまがぼくの罪の代償として、御子・イエスを十字架の上で捧げてくれたから。

 

そのひと言に尽きます。ぼくたちはだれでも神さまに背く気質を持った、生まれながらのつみびとです。「罪」とはその“反神的気質”のことで、ぼくたちはそれゆえに神さまに敵対しています。

子どもが親の言うことを聞かないように、ぼくたちも神さまに従わない。「敵を愛せ」と言われたって、そんなことできるはずがないでしょう、敵は憎んで抹殺するものなんだから(`皿´)

でも、それは人間の考え方。神さまは敵であるはずのぼくたちを愛して、地獄行きの運命から救ってくれました。ぼくたちの罪のすべてを一人息子・イエスに負わせ、償いの生け贄として十字架にかけたのです!!

 

罪についての詳細はコチラ
キリスト教でいう〈罪〉ってどんなこと?

 

神さまがぼくを救うために、愛するイエスを犠牲にしてくれた。ぼくはその愛への感謝を示すために、イエス・キリストを通して神さまに従いたいのです。

 

すべては無償の愛に応えるため。だけど・・・

キリストの弟子・ヨハネは、神は愛です(Ⅰヨハネ4:16b)と言っています。それは、「神は愛のある方だ」という意味じゃありません。それ以上の意味で、「神は愛そのものなのだ」ってこと!

ぼくは自分自身を、愛の少ない人間だと思っています。それは謙遜じゃなくて、自分の他人への接し方を振り返ると、決定的になにかが欠けているんです。その「なにか」は「愛」なんじゃないかと。

そんなぼくでさえ、「耐えがたい別れ」というものはあります。でも神さまは、ぼくにはとうていわかりえない、計り知れない喪失の痛みを経験しました。それが、十字架です。

 

愛そのものである神さまが、ご自分にまっ向から敵対する人間を救うために、愛する子・イエスを十字架の上で見殺しにした――

 

その苦しみ・痛み・嘆きは、ぼくにはまったく想像できません。もしそのときの悲痛が自分の上に降りかかったら、ぼくは間違いなく即死するでしょう。

神さまはご自分の全存在を懸けて、ぼくを救った。神さまはご自分の子を犠牲にするほど、ぼくを愛している。その事実は、ぼくが神さまに従うのに十分すぎる動機になります。

 

――が、実際はどうなのか?

「敵を愛しなさい」と言われたって、快く思わない人には相応の態度を取る。

「両親を敬いなさい」と言われたって、親から受けた傷は赦せるものじゃない。

「この道を行きなさい」と言われたって、ぼく自身の思いも無視できない。

神さまに従いたいと思いながら、一瞬一瞬、それと矛盾するような選択をしてしまう。あまつさえ、その選択を正当化できるような理由を探している・・・。

 

「ぼくはほんとうに、神さまに従いたいと思っているんだろうか?」

 

言行不一致と言うか、そういう矛盾を自分の中に発見するたびに、キリストがぼくから顔を背けるが浮かんでしまうのです・・・。

ぼくは神さまに見捨てられたくないので(絶対に見捨てられはしないんですけど)、「ぼくはあなたに従いたいと思っています! ほんとうです!」と、子どものようにしつこく祈ります。

冒頭に綴った信仰の試練の中で、ぼくがその祈りを何度も何度も捧げたことは、あなたがノンクリスチャンでも容易にご想像いただけるでしょうw

 

神さまは心の奥底まで見透かすので、ぼくの祈りが本音か建前か、ぼくが手を組んで祈りはじめる前にわかります。それどころか、ぼく自身にさえ気づけない深層心理まで見透かしちゃうのです! ウソつけんぞっ(・_・)

そういう認識が強くなっていたからなのか、今回の御言葉を読んだとき、いままで気にも留めなかった「そうすれば」の一語に注意を引かれたのでした。

 

「そうすれば」に感じた諦念と愛

「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」

はじめ、ぼくはこの言葉にちょっと悲しくなりました、なんでそんなことを言うのかと。「おまえは条件つきじゃないと従わないだろ?」と、暗に諦められているように思えたんです。

(「いや、条件つきでも従ってないじゃん」というご指摘はごもっともすぎるので、胃腸の奈落に葬っておいてください。お願いします。――ありがとうございます。)

ぼくが神さまに従いたいのは、キリストの言うように「たくさんの報い」が欲しいからじゃありません。繰り返し綴っているとおり、ぼくを救ってくれた神さまに応えたいからです!

 

ところが、現に応えられていない。従えていない。しかもちょっと考えてみると、どこかで“ご利益”を求めている気がする・・・。

事実、ぼくは試練の葛藤の中で、「ここで御心の道を選んだら、きっとなにか祝福があるに違いない!」と思っていました。

祝福がどんなかたちで与えられるかはわからないけど、なにか喜ばしい出来事が起こるはずだと。まぁ結局、その祝福よりも自分の感情を選んでしまったんですが^^;

そういう“ご利益”欲しさの下心をキリストは悟って、「そうすれば」と仕方なしに言っているように、ぼくには感じられてしまったんです。

 

でも黙想しているうちに、キリストの果てしなく広い懐に思い至って、“ご利益”を求めてしまうぼくを憐れんでいるようにも思えてきました。

ご都合主義的な読み方かもしれませんが、下心を持ってしまうぼくの弱さを受け入れたうえで、「それでもいいから、御心に従えよ」と念を押されているような気分。すると必然、こういう結論にたどり着きます、

 

「神さまは、ぼくを祝福したいと思っている!」

 

この際、自分を図々しいやつだと思うことはしませんw なぜなら、神さまはずっと昔に預言者・モーセを通して、ご自分の選んだ人々にこう告げているからです。

イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。

 

—「申命記‬」第10章12~13‬節(新共同訳‬‬)

 

神さまの道には、なかなか喜んで従えない戒めや掟が含まれています。でもその道こそ、ぼくたちがほんとうの意味で幸せになれる、唯一にして最善の一本道です。

「そうすれば」というのは、決してぼくへの諦念から出る言葉ではありませんでした。もちろん、決してぼくを意のままに従わせようとする誘い文句でもなかった。

それは、神さまがぼくのために祝福を用意しているという「証言」であり、必ずその祝福を受けてほしいという「招き」だと気づいたのです!

 

そしてもう一つ気づいたのは、ぼくはキリストを通して「神さまとともに生きる」という究極的な祝福を受けている、ということ。最大の“ご利益”は、実はもう頂いています(^艸^)

だから、いまはその大きな祝福の中で、神さまに喜ばれる生き方をしていきたい。そのために、いつも神さまに従いつづける者でありたいと願うのです。

 

* * *

 

最後に、一つ訂正をさせてください。ぼくは冒頭から「試練」と書いていますが、それは正しくないかもしれません。と言うのも、ぼくが罪を犯した結果として、その苦しみがやって来たからです。

だから、「自分でまいた種の刈取り」と言ったほうが適切でしょう。

その刈取りさえ、神さまの御心どおりにはできませんでした。だからきっと、この先も同じような経験をしなきゃならないでしょう(._.)ウゥゥ

 

さて、キリストは別の箇所で、神がお遣わしになった者(キリストのこと)を信じること、それが神の業である(ヨハネ6:29b)と言っています。

キリストを信じるっていうのも結構難儀な道ですが(笑)、ぼくはその道を歩きはじめて、究極の祝福を与えられました。もちろんあなたも、その祝福に招かれています。

 

すべての人を祝福したいと願っている神さまの愛が、イエス・キリストを通して、あなたの人生に鮮やかに現れますように。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)