遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

“いい子ちゃん”の仮面をブチ捨てて、でっかい懐に飛び込め!

 

海に飛び込む男

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくはもう、“いい子ちゃん”をやめる。突然なにを、と思われただろう。いやぁ昨日の夜、なかなか眠れなくて、「いい子ちゃんやめてやる!」と叫んだのだ。

叫んだと言っても、実際に叫んだわけではなく、心の中で神さまに叫んだのだ。もう昨日は、心の中のすべてをブチまけてやった。

 

このブログ、1か月ほど更新していない(デザインはチョコチョコいじっていたのだが)。なにを書けばいいのか、まったくわからなかったからだ。

このブログのテーマは、「キリストのもとに憩える喜びを綴る」。でも正直、全然憩えていなくて、全然喜べていなかったから、書く気が失せていたのだ。書けなかった。

別になにか、特別イヤなことがあったとかではなく、なんとなく気分が沈んでいる感じ。倦怠感。無気力。そんな感じだ。

 

聖書を読む気も湧いてこないし、読まなきゃと思ってページをめくってみても、ただ文字を文字と認識しているだけ。見ても、読んでいない。

それで〈聴くドラマ聖書〉というアプリがあるのだが(コレ、ほんとにすごいアプリなので、ぜひダウンロードしてください。無料ですから!)、それを聞き流していても入ってこない。大和田伸也さんの深く渋い声で神さまのセリフが語られても、スーーーン。聞いても、聴いていない。

 

そんな感じなので、全然キリストのもとに憩えていないのだ。それどころか、憩うためにキリストに頼ろうともしていない。

うまくたとえられないが、キリストを雲の上の神殿に追いやってしまって、自分のほうは世の粗雑な生活の中に埋没しながら、そこで必死になにかをつかもうとしている感じ。

 

はっきり言って、無駄だ。

 

キリストなしに、神さま抜きに、なにかをつかむなんて・・・。つかんだ気でいるとしたら、それは氷だ。時が経てば跡形もなくなる。なんの価値もない。

世の中のだいたいのことは、結局、この氷なのだ。ほんとうにくだらない。でも、そのくだらない価値観の中で生きなければならない。自分の居場所を確保しなければならない。

 

神は愛です(Ⅰヨハネ4:16b)と、聖書には書かれている。神さまは愛のある方だ、ではなく、「神さま=愛」。神さまは愛そのものだと。

ぼくは、それは真実だと思う。思うけれど、だからこそ、神さまがほんとうにぼくを愛していると言うのなら、この世に生んでほしくなかった。そう思ってしまうのだ・・・。

2回目だが、ぼくは別にイヤなことがあったわけではない。むしろ、最近はイヤなこととはほぼ無縁だ。快適に生きている!笑

 

でも正直、あなたもふと思わないだろうか?

あぁ、くだらねぇ世の中だ!!

と。

 

物事はそれなりに進んでいて、周りの環境にも文句はない。でもなぜか、ほんとうになぜかわからないのだが、ものすごく沈んでえんせい的になる。梅雨だから?

もうなんかどうでもよくなってしまって、キリストに「いい子ちゃんやめてやる!」と叫んだ次第だ。なんで生んだんだと言ってやった、神さまにw

 

 

レギュラー読者の中には、「あれ? コレ安田遜のブログ・・・、だよな??」と少し困惑している方もいらっしゃるだろうか。いつもと雰囲気が違うから無理もない。

大丈夫です。安田遜です、ぼくw

なんならこっちがほんとうのぼくで、いままでのが“いい子ちゃん”だった。いままでのがちょっと、等身大のぼくとは違っていた。

 

「ブログ伝道するぞ!」と張りきってみたはいいものの、その張りきり方が的はずれだったと言うか、ちょっと澄ましていた。

クリスチャンと聞いて、あなたはどんな人をイメージするだろうか?

なにか自分とはかけ離れた、異世界の、高尚な志向を持つ聖人君子――。なんて大袈裟なものではないにせよ、なんとなく清潔な感じの人を思い浮かべないだろうか?

ぼくの理想的なクリスチャン像は、そういう清潔な人なのだ。だから、そういう人にならなきゃ、そういう人に見せなきゃ、と仮面をかぶっていた。

 

清潔というのはもちろん、毎日お風呂に入って歯を磨いて・・・、そういうことではない。性格的に、人格的に清潔ということだ。善い人ということだ。

ぼくは小さなころから、善い人であろうと努めてきた。

ぼくは見た目が“お坊っちゃま”だったうえに、学校の先生にもよく褒められていた。親以外に叱られた経験が、ほんとうにないのだ・・・。それが原因かな?

 

わからないけれど、とにかくぼくは“いい子ちゃん”を器用に演じてきて、それがほんとうの自分ではないということもよく自覚していた、小さいながらに。

疲れてくるのだ。かと言って、みんなの前で“いい子ちゃん”の仮面をはずす機会も見出せない。もう先生にとっても友達にとっても、「遜はいい子ちゃん」で定着してしまっていたのだ。

小学生のころなど、まるで貴族のような扱いだったw みんな仲よくしてくれはするけれど、どこか打ち解けていないというか、しっくりと交ざり合わない。

 

やんちゃな友達が羨ましかった。ほんとうに羨ましかった。どうしたらあんなふうに、のびのびと自分を表現できるのかと。素晴らしいことだ!

不良だった人が立派な大人になるとは、よく聞く話だ。ぼくはやんちゃな子のほうが、いい子ちゃんよりよっぽど見込みがあると思う。

 

いい子ちゃんだって、悪い面はあるわけだ。でもそれが表面に出てこないから、矯正されるチャンスを逃してしまう。矯正という言い方はよくないかもしれないが。

逆にやんちゃな子は、そのチャンスに恵まれやすい。悪い面をたたかれて、反抗して、ねじ伏せられて、そうやって鍛えられていく。・・・ぼくにはそれがなかった。

悪い面をずっと隠し持ったまま、だれにも触れられないまま、だれにも鍛えられないまま、ついに社会に出てしまった・・・。これねぇ、危険だよw

 

ぼくは、ほんとうはやんちゃなのだ。全然いい子なんかではないし、善い人でもない。それは褒められるのはうれしいし、できれば善い人だと思われたい。

でも、演じているのだ。そういう評価は、ぼくの「演技力」に対するものなのだ。ぼくの人格への評価ではない。まぁちょっと、過剰に自己卑下しているが^^;

 

ぼくの中には、もちろん善い人もいる。前言撤回www

でも、その人格を無理やり押し広げて、やんちゃな自分を包み隠してしまった。シュウマイくん。ぼくはシュウマイくんだ笑

 

もう、“いい子ちゃん”はやめよう。

 

世の中がくだらないとか言ったけれど、ぼくは、心の奥底では世の中が大好きなのだ!! いい人ばかりだし、ほんとうに純粋な人たちが多い。

ぼくはその人たちが羨ましいのだ。ぼくも純粋になりたい。純粋になりたい。仮面なんか着けないで、その人たちの間で、一緒に生きていきたい。

 

だって神さま、あなたは世を愛してるじゃないですか!

すべての人のために、イエスさまを十字架にかけたんじゃないですか!

 

 

なんで生んだんだなんて、ひどいことを言うものだ。それも神さまに向かって、クリスチャンが言ったのだ、洗礼を受けたばかりだというのに。

クリスチャンのイメージが変わっただろうか?

悪い方に変えてしまったかもしれない。でも、ぼくのようなどうしようもないやつもいる笑 それでも、神さまは愛してくれる。

 

聖書には、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい(マタイ5:48)などと書かれている。キリストは、無理難題がお好きのようだ。

キリストを信じて間もないころは、この聖句をメモして心に留めていた、“いい子ちゃん”の仮面の上に、さらに聖人君子の仮面を着けて。

それでクリスチャンになったつもりで、心に余裕があるように自分自身も欺いていた。気持ち悪い、そういうのは。

 

キリストを信じるとは、そういうことではないのだ。もちろんキリストの品性に近づくように、努力することは大切だと思う。

でも、自分にウソをつくのは違う!

キリストを信じて「清潔な人間にならなきゃ!」と、必死こいて自分の感情とか人格を押し殺して、無理やりキリストの型にはまろうとする。

それでは、ほんとうはリア充ではないのにリア充だと思われたくて、必死こいてSNSでアピールしている、かわいそうな“エセ・セレブ”と同じではないか。ちょっと違う?

 

どんなに上手に自分を押し殺して、表面上は清潔な人間で通せたとしても、神さまにはぼくの内心が手に取るようにわかるのだ。

「あぁ神さま、今日はこんなことがあって、Aさんに腹を立ててしまいました。ぼくはAさんを赦しますから、ぼくの罪を赦してください」

実に模範的な祈りだが、赦せるはずがないのだ。いくら言葉で「赦す」と告白しても、Aさんへの怒りは腹の底にこびりついている。それを神さまは知っている。

 

口で「赦す」と言いながら、腹では「あのクッソ野郎」と殺したいほどにののしっている。自分にだけでなく、神さまにもウソをついているのだ。罪です(小池都知事風に)

怒りもたしかに罪なのだが、神さまにウソをつくという、より大きな罪を犯すくらいならば、もうはなから怒りをぶっつければいいのだ、

「神さま、もう疲れました。なんなんですか、あのAってやつは? イエスさまは赦せるでしょうけどね、ぼくはイエスさまじゃないから赦せません。もう寝ます」

 

ぼくは神さまから見たら、いや教会から見ても、相当な問題児だと思うwww でもぼくは、神さまを自分の「まことの親」だと思っているので、しっかり甘えることにする。

牧師先生が「ありのままじゃダメ、悔い改めつづけないと!」とおっしゃるように、もちろんキリストの品性を目指して、日々祈りながら努力もするけれど。

ただ、もう“いい子ちゃん”の仮面とは、永久におさらばだヽ(`Д´)ノウェーイ

アダムとエバみたいにコソコソ隠れないで、ぼくはもう素っ裸で神さまの前に立つ。だって、神さまが愛してくれるのだから!!

 

* * *

 

長々とこんな愚痴につき合わせてしまって、ほんとうにすみません・・・。貴重な時間を割いて、最後まで読んでくださりありがとうございます!

 

約1か月ぶりの記事が、まさかの愚痴になっちゃいましたが、これを機に更新ペースを上げていくつもりです。

「1日1記事」とかノルマを設定したほうがブロガーとしてはいいのかもしれませんが、どうせできないのでやめます。

 

最後に、世の中くだらないとかなんとか言ってしまい、申し訳ありませんでした。半分本音ですが、ぼくは人間がそこそこ好きです!

あなたのことも、きっと好きです^^

だから、お気を悪くしないでください。もしよければ、またのぞきに来てください。あなたがこの〈遜の箱舟〉で、キリストと出会えることを祈っています。アーメン。

 

 


▲「いいね♪」と思ったら、クリックで応援をお願いします!

 

参考資料

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)