ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは、2019年4月1日の深夜、イエス・キリストが自分の救い主であることを受け入れ、晴れてクリスチャンとなりました(≧∇≦)ワーイ
ぼくは特定の宗教に所属すること、つまり「信仰」っていうものに強烈な抵抗感を持っていた人間です。日本人特有の宗教観のせいですね。
だから、まさか自分がキリスト教を信仰するようになるなんて、ほんとに1ミリも思っていませんでした。そこで今回は、ぼくがイエス・キリストを信じた理由について綴ります。
- 午前0時からは、神さまの時間です
- 見えないあなたは、だれですか?
- 神は、なにも答えてくれない・・・
- 神は、ずっと戸口に立っていた
- キリストが人生の土台
- 神は答えてくれないが、応えてくれる
- 主イエス・キリストを紹介します
午前0時からは、神さまの時間です
ぼくは小さなころから神さまの存在を信じていました。と言っても、「信仰」ということではなく、「認識」という程度のことです。
いまぼくが存在し、家族が存在し、友達が存在しているのと同じくらい当たり前に、神さまはいるものだと思っていました。幽霊や魂も同じです。
キリスト教は幽霊(この世にとどまる死者の魂)の存在を否定しており、ぼくもその考え方を受け入れています。
小さなころは仏壇に水を供えるのが好きでした。コップの中の水がだんだん減っていくのが、うれしくてたまらなかったのですw
「ひぃおじいちゃん、お水飲んでくれたよ!」
蒸発という現象を知らなかったし、家族も子どものぼくに合わせて喜んでくれていました。そういう経験があったから、神さまや霊魂を認識するようになったのでしょう。
あなたにも、同じような経験がありませんか? ただ忘れているだけで、
もともと人間には、目に見えないものへの関心が備えられている
と、ぼくは思っています。
ぼくの関心の中でも、神さまはユニークでした。だれに教わったのか、ぼくはこの世界が神さまによってつくられたことを知っていました。不思議ぃ~(゜゜)...
人間は深夜0時になるとみんな寝静まって、その間に神さまが天から降りて来るのだと思っていたのです。そしてレゴブロックを組み立てるように、家やビル、遊園地や高速道路をつくってくれているのだと。
そう、ぼくはメルヘンな少年でしたwww
たしか小学2年生ごろ、その思い込みは打ち砕かれましたが・・・。あるよく晴れた日、作業着姿の人たちが高速道路の入口にたむろしていて、ぼくは不思議に思って父に尋ねました。
「パパ、あの人たちなにしてるの?」
「ん? あぁ、新しい高速道路をつくるんだよ」
「・・・・・・ッ∑(゜Д゜)」
人生で3つの指に入るほどの衝撃でした。こんなにちっぽけな人間が、あんなにでっかい高速道路をつくるなんて!
それでも神さまの存在は、不思議と揺るぎないものでした(土木関係の仕事に興味を持つこともありませんでした)。
見えないあなたは、だれですか?
時は経ち、社会人になってから、ぼくは神さまの存在をいよいよ強く認識するようになります。
社会に出てからこの10年、ぼくは職を転々としてきました。同じ仕事を続けていると、なぜか突然やる気が出なくなるからです。
そんな自分勝手な人間が自分の職場にやって来たら、普通はすぐに追い払おうとしますよね? でも、ぼくは追い払われませんでした。
どの職場の人たちも、意気消沈するぼくを心配し、励まし、助けてくれたのです。その助けに報いることができず、結局退職することになっても、最後まで見捨てられはしませんでした。あの親切な方々には、いまでもほんとうに感謝しています。
“意気消沈”についての考察はコチラ
自分を愛するとは、自分が愛されていると知ることだ
「親切にされる覚えなんてないのに、なんでこれほど人に恵まれるんだろう?」
ぼくは職場のみんなに感謝すると同時に、ある考えを抱くようになりました。
「だれかがあの親切な人たちのとこに、ぼくを導いてくれてたんだ。絶対そうだ!
そうじゃなきゃおかしい!!」
「だれか」が「神」であることは、すぐに思い当たりました。神さまへの認識は、幼いころから養われています。
問題は、その「神」が「だれ」なのかです。
ここから、ぼくの人生を大きく変えることになる、“神探し”が始まりました。
神は、なにも答えてくれない・・・
日本は多神教の国です。ぼくも日本で生まれ育ったので、ぼくを導いている神さまは、当然日本の神さまだと思っていました。ただ、その数の多さたるや・・・。
『古事記』の1ページ目を開いただけでも、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)なんて聞き慣れない神も、どんどん出てきます。
「ぼくを導いてくれてるのは、記紀神話の神々じゃないかも・・・」
まさか天照大御神や大国主神が、東京の田舎町に住む、こんなちっぽけな人間を気にかけるはずがありません。
「そうだ!」と思いついたのは、小さなころから毎年の初詣でお世話になっていた天神さんでした。天神さんとは、学問の神として有名な、あの菅原道真のことです。
数年前に買ったまま返納していなかったお守りを持って、ぼくは縁のある天神さんへお参りに行きました。
いままで見守ってくださっていた神さまの前に立つのだから、と事前に正しい参拝の仕方をググり、手水舎で手と口を清め、お守りを返納箱に納め、いやらしくないくらいのお賽銭をチャリン♪
「神さま、小さなころからぼくを見守ってくださり、ありがとうございます。これからもどうか、ぼくの行く道を守ってください」
それからしばらく、神社の敷地内をブラブラし、少し肌寒い薄曇りの空気に心と体を清められながら、神さまのことを思いました。
・・・どうもしっくりこない。
平安時代に朝廷のトップに昇り詰め、ライバルにはめられて失脚し、死後は雷神として恐れられたあの道真公が、ぼくの神?
ぼくの“神探し”は、ふりだしに戻りました。
ぼくはもう、その「だれかわからない神」なしでは生きられないと思っていました。だから一刻も早く、ぼくの神さまを知る必要があったのです。
あるときは、祈りました。部屋のまん中に正座し、「あなたがだれなのか教えてください」と祈りました。神さまがどこにいるかわからないので、東を向いたり西を向いたりして祈りました。
またあるときは、手紙を書きました。いままでのお礼はもちろん、自分が犯してきた悪事の懺悔もツラツラと書きました。そして天に届くように、その手紙をベランダで燃やしました。
でも、なにも答えてくれない!!
神さまはかくれんぼを楽しんでいるのでしょうか? 夢にでも出て来てくれればいいものを、まったくなんのレスポンスもないのです。
神は、ずっと戸口に立っていた
そうこうするうちに数年が経ち、ついにその時がやって来ました。という言い方もヘンですね。ついにその神に気がつきました、としましょう。
と言うのも、実はこのとき、当時退職したばかりの職場で、一人のクリスチャン女性・Rさんと出会っていたのです。
神の名前が示される
2015年秋――
ぼくはあるビジネスホテルで働きはじめました。ところが、就労から1年もしないうちに、例の“意気消沈”が頭をもたげはじめます。
抑鬱状態は次第に悪化、フロントマンなのに笑顔をつくることさえ苦しくなっていき、もはや退職以外の選択肢はなくなりました。
それを、エリアマネージャーのAさんが慰留してくださったのです。彼女は着任されたばかりで、ぼくとの面識はほとんどありませんでした。
それなのにAさんは、ぼくを気にかけて面談の時間をつくり、別の店舗へ異動することを勧めてくださいました、「この店舗はかなり忙しいから、もう少し落ち着いた店舗に異動してみて、それで無理だったら辞めればいいんじゃない?」。
上司として当然の対応だと言われればそれまでですが、アルバイトのぼくが慰留されるほどの理由は見当たりませんでした。
別の上司からも熱く説得されてはいたものの、あの正体不明の“意気消沈”を思うと、とても接客を続けていけるとは思えません。
だからAさんとの面談の間も、退職の意志はかたかったのです。でも、Aさんの情熱的なオファーに心動かされ、2016年秋、ぼくは不安と希望を抱いて異動を決めました。
その異動先で働いていたのが、Rさんです。
彼女との出会いによって、ぼくの探し求める神さまの姿が、初めて具体的に示されるようになります。その神さまとは、・・・もうおわかりですよね。
イエス・キリストです!
結局、ぼくのメンタルはそれから半年ほどしか持たず、異動後も積極的に続けられていた、Aさんのサポートに応えることはできませんでした・・・。
いま思えばあの異動は、Rさんというクリスチャンと出会うために用意された、一つのイベントだったのかもしれません。
追記2020-03-09
Aさんもクリスチャンだったことが判明しました。高校時代に洗礼を受け、しかも神学部を卒業なさっていたとのこと。クリスチャン人口1%未満の国で起きた奇跡っ(。≧∇≦。)
心のドアをノックする神
ぼくのふがいない退職のあとも、Rさんは一緒にお食事をする機会をつくってくださり、ぼくは彼女の語るキリストの話に耳を傾けました。
キリストは、すべての人を御心に留めていること――
「イエスさまが安田さんを見ててくれるから、わたしは安心してます!」
キリストは、すべての人に対して計画を持っていること――
「イエスさまは、どんなことでも益としてくれるんですよ!」
キリストは、すべての人を招いていること――
「イエスさまは、どんな人でもウェルカムだから!」
はじめは「なんか勧誘されてるのかな・・・」と思うほどの熱心さに、ぼくはちょっと引き気味で、キリストに対して心を閉ざしていました。
それに、キリスト教はパレスチナ発祥の宗教だし、イエスはユダヤ人だし、日本人のぼくとはなんの関係もないようにも思えました。
その心の扉がどういう経緯で開いたのか、実はあまりはっきりと覚えていないのです。ただ、Rさんと出会ったのが“神探し”を始めたころだと気づいたことが、信仰の後押しになったように思います。
それよりも確実だと言えるのは、単純に、
「イエス・キリストが、ぼくの神さまだったらいいな。
イエスさまを信じたい!!」
と思ったことです。
それまでの人生で、ぼくはRさん以外のクリスチャンの方と関わったこともなく、聖書も教養のために読む程度でした。
だからぼくの中のキリストは、名前も知らない『古事記』の神々よりもおぼろで、神格化された歴史上の偉人にすぎませんでした。それなのに不思議です。
幼いころから親しんでいた天神さんでも、日本古来の八百万の神でもなく、「生まれてからずっとぼくのことを見守ってくれてたのは、イエスさまだったんだ」と受け入れることができたのですから!
聖書には、次のように書かれています。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
―「ヨハネの黙示録」第3章20節(新共同訳)
キリストはずっと戸口に立って、ぼくの心のドアが開くのを、辛抱強く待ってくれていたのだと思います。
キリストが人生の土台
さて、ぼくは冒頭で、信仰への抵抗感があったと書きました。実は、キリストによる救いを受け入れる直前まで、その気持ちはしぶとく残っていたのです。
一方、神さまを認識し、その働きかけを実感しているのに、信仰しないというのは、とても身勝手な態度だとも思っていました。
だって、「あなたからの“ご利益”は頂きますけど、あなただけを信じることはありません」って、あまりにも都合よすぎるじゃないですか!?
・・・でも、信仰。これは生命保険のように、契約や解約を自由に繰り返せるものではありません。勇気のいる決断です。
キリストを信じ、それまでの人生観を捨てることになるのも怖くて、ぼくはキリストを信仰しない理由をあれこれと考えました。
「キリストに導かれてるって、ただそう思いたいだけじゃないのか?」
「自分を納得させるために、キリストを利用したいんじゃないのか?」
「そんな自分本位な思い込みで、『信じます』なんて言えるのか?」
「そもそも、ぼくの導き手はキリストじゃないかもしれない・・・」
でも、いくら考えてみても、「キリストを信じない」という選択はできませんでした。
キリストを歴史上の人物としてでなく知るようになってから、ぼくは毎日毎分、彼のことを考えていました。まるで恋したかのようですよねw
「恋」というのは、言いえて妙だと思います。キリストを知りながら彼と無関係で生きることは、自分の気持ちを無理やり葬ってしまうことだからです。
いつの間にか芽生えていた「信じたい」という気持ちを無視できず、ぼくはとうとうキリストに告白したのでした。その短いラブレターが残っています。
神の御子・イエスさま、
わたしはあなたを信じます。あなたを「主」と呼ばせてください。
あなたの教えを信じます。あなたに愛されていることを信じます。
わたしはこの人生を、神の目的のために捧げることを告白します。
どうかわたしを用いてください。この告白を聞いてください。
2019年4月1日
実は、この告白は本物のクリスチャンとなるために不十分だったのですが、キリストとの仲を深めるきっかけとしては十分だったでしょう。
キリストはぼくの罪が赦されるために十字架にかかったこと・キリストは人間となった神であること・キリストは死から3日目に復活したこと――。
キリストについてより深く知っていく過程で、ぼくはゆっくりとほんとうの信仰に導かれたのです!
信仰への抵抗感が逆流しはじめた理由は、自分でもうまく言い表せません。神さまを信じるというのは、理屈では説明できないことなのでしょう。
いま、キリストなしの人生はとても考えられません。ぼくの人生にキリストがいるのではなく、キリストという土台の上にぼくがいるのです。
ぼくの“神探し”のゴールがキリストだったのは、必然であり当然だったと思います。ぼくが生まれたときから、キリストがぼくの人生の土台として、いつもそばにいてくれたのですから(〃▽〃)
神は答えてくれないが、応えてくれる
数年に及ぶ“神探し”のすえ、ぼくはイエス・キリストという、愛と慈しみの神さまへとたどり着くことができました。
ただ、「あなたはだれですか?」というぼくの問いかけに、キリストが直接答えてくれたわけではありません。
「遜よ、遜よ。わたしはあなたの神、主である。わたしの名はイエス。わたしがあなたの神、主である」なんて声が聞こえたわけではないのです。
それでもぼくは、「イエス・キリストこそ、ぼくの神さまだ!」と信じています。いえ、もはや信じるという次元でもありません。事実として受け入れています。
それは、キリストがぼくの問いかけに
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
―「マタイによる福音書」第7章7~8節(新共同訳)
キリストは本気で“神探し”をするぼくの前に、Rさんというクリスチャンを遣わしてくれました。そして、Rさんはその御心に従って、ぼくにキリストがどのような方かを教えてくれ、キリストを信仰することの喜びを語ってくれました。
キリストはご自身で直接答えるよりも、ずっと効果的な方法でご自分を示し、ぼくの問いかけに応えてくれたわけです。ハレルヤ!!
主イエス・キリストを紹介します
ここまで、ぼくがクリスチャンになった理由を綴ってきました。少し長くなりましたが、読んでくださってありがとうございます(≧∇≦)
キリストは、ぼくの人生のさまざまな局面でご自分の存在を示し、ぼくへの愛を表してくれました。それはこれからも同じだと信じています。
でも、ぼくだけが特別なのではありません。キリストが土台にいてくれるのは、クリスチャンだけではないのです。
この記事にも書いたように、キリストはすべての人を招いています。キリストはすべての人の神、あなたの神でもあるのです。
その証拠に、あなたはこの記事を読んでいるではありませんか!!
偶然だと思うでしょうが、ぼくは自信を持ってそれを否定します! キリストは意志を持った神さまですから、偶然あなたの生活圏に現れることはありません。
そのことを、この〈テスティモニー〉で伝えられたと思います。テスティモニーとは、「証し」という意味です。
ここに、キリストがぼくの救い主であることを証しし、主イエス・キリストを、あなたに紹介します^^
どうかあなたがキリストを受け入れ、揺るぎない土台の上で、あなたらしい真実の人生を送ることができますように。
そして、あなたがその恵みの中に迎えられたとき、あなたのテスティモニーを通して、また新しい命が救われますように。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
参考資料
- 梅原猛『古事記 増補新版』(学研M文庫)
画像の出典(Pixabayより)
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