遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

文句タラタラ鱈之介の347日間(三)

 

神さえいなければ! でも、やっぱり…

 

 

イースターを境に、得体の知れない“黒カビ”に心を覆われたぼくは、“持病”の人間嫌いを爆発させ、その炎を信仰にまで燃え移らせてしまったのだった。

イライラを職場仲間に理不尽にぶつけることは、なんとか避けられた。その代わり、それまで抱いたことのない激しい憎しみを、神さまに対して感じるようになった。と言うのは、こんな理屈からだ。

 

この世界全体は神による茶番劇の舞台であり、人間はその演者としてつくられた奴隷である。キリストの十字架というのも、この神のサディスティックで(あるいはマゾヒスティックで)猟奇的な自作自演なのだが、すべてが茶番を基礎とした世界においては、それを信じなければ地獄に掃き捨てられる。

神はこの茶番世界の創造主であり、それを信じようが信じまいが、その存在は揺るがない。在るものは在る。ならば人間には、神のこの茶番につき合うしか道がない。

自殺してみても、魂の所有権は神にある。つくられた以上、その作者である神からは決して逃れられない。こんなくだらない茶番に否応なくつき合わされた挙げ句、地獄に落とされたのではたまらない。

だから、すべての人間は神に抵抗するのを諦めて、イエス・キリストを信じるしかない。神の自分勝手な思いつきのために、永遠に苦しむことなどない。

 

これはある日の日記の抜粋だ。精神異常者が独房で綴った手記のようで、われながら危険なニオイがするw

簡単に言うと、「生まれてきさえしなければ・・・」という思いが、「神さえいなければ・・・」というそもそも論に発展した、っていうこと。

もうお気づきだろうが、心の中にわだかまる負の原因を、すべて自分以外のなにかに求めようとするのが、「鱈之介(たらのすけ)なのである。別名・ヒトノ星人ヽ(ФДФ)ノ

 

さて、5月中旬のある朝、ぼくはまとわりつくような不快感を覚えた。その内攻する不平不満が、いまにも自分自身を破滅させてしまいそうな怒りとなって、ついに暴発した!

 

ぼくは吠え猛る獅子のように、なにかをぶっ壊してやろうと探し回っていた。そして、『ハリー・ポッター』シリーズの単行本数冊を下敷きにして、尊大にぼくを見下ろしている一冊の書物を見つけた。

目玉がひっくり返りそうになるほどのにらみを利かせながら、ぼくはその書物に書かれているある一節を、思い出すともなく思い出した。

わたしの目にあなたはあたい高く、貴く

わたしはあなたを愛し・・・

 

―「イザヤ書」第43章4節a(新共同訳)

 

――プチンときた。ぼくは聖書を引っつかむと、頭上高く持ち上げて、思いっきり床にたたきつけた。

パーン!!

そして、ベロンと開いたページを、興奮に汗ばんだ足で何度も何度も踏みつけた。もし絵踏みを強要されても、なんのためらいも葛藤もなく、十字架上のキリストをけがしてやれるほどの怒りだったのだ。

 

 

子どもっぽいかんしゃくを起こしたあとも、神さまへの憎悪はなかなか消えなかった。ぼくを愛していると言いながらこの苦しみを放置する、神さまの御心が理解できなかったのだ。

5月に入ってからは、「朝起きられたら行こー」っていう感じで、礼拝にもまともに出ていなかった。5月23日のペンテコステ礼拝さえも欠席した。

ペンテコステは、キリストの弟子たちが聖霊(神の霊)を与えられた記念の日で、イースターやクリスマスと並ぶ祝日だった。それも、どうでもよかった。完全に、冷めていた。

 

 

ほんの少しずつ信仰心が戻ってきたのは、6月下旬を過ぎたころ。信仰心が戻ってきたと言うより、自分の“ガキっぽさ”が恥ずかしくなってきた、と言ったほうが正しいと思う。

それに、ぼくを辛うじて信仰につなぎ留めていたある事実に、だんだん正直になってきたからでもある。その事実とは、

 

ほんとうの安らぎは神さまのもとにしかない

 

っていうこと。素直になりきれはしなかったけど、自分の考え方や行動について、少しずつ赦しを乞うようになった。そうすると、胸につかえていた糸くずのようなものがほどけていくのを感じた。

 

人間嫌いのほうも、神さまへの憎悪のように薄らいでいったかというと、そちらは相変わらずだった。好意的につき合っている人たちはもちろんいる。でも、総合的に言って「嫌い」なのだ。

その理由を考えてみると、一因にはやっぱり「自己中心性」がある。自分のことばかり気にかけるから、思いどおりに動いてくれない他人を呪わしいほどに煙たがるのだ。

ぼくには自殺を失敗した(正しくは中止した)過去がある。そのとき、「他人のために生きなさい」という言葉が頭に浮かんだ。あまりに突然だったから、神さまからの命令だったんだと信じている。

 

 

ほんとうに他人のために生きるには、どうすればいいのか?
――そうするには、自分自身のことを思うくらい強く、他人のことを思わなきゃならない。

心から他人のことを思うには、どうすればいいのか?
――そうするには、自分のけている愛を通して、他人を見なきゃならない。

愛の目を通して他人を見るには、どうすればいいのか?
――そうするには、唯一変わらない神さまの愛を、正しく知らなきゃならない。

 

言うは易し・・・。

神さまはぼくの罪を赦して永遠の命を授けるために、罪のない御子・イエスを身代わりとして捧げてくれた。それがどんなにありがたいことなのか、理屈としてじゃなく、体験していくしかないのだ。

 

 

9月初め、6月から任されていた責任者業務のストレスで体調不良に陥り、しばらくの休養期間を頂いた。柄にもない仕事を引き受けた自業自得の休職はしかし、神さまとの濃密な対話の時間にもなった。

 

9月下旬、本気で神さまを憎んだぼくは、何事もなかったかのように、ついさっきまで駄々をこねて泣いていたはずの4歳児のように、しれっと神さまの御許に落ち着いていた。

ただ、ぼくが自分の罪を完全に悔い改めたわけじゃない。現に、まだ神さまに対する不平はあるし、礼拝も休みがちだ。だから、ぼくが神さまに近づいたんじゃない。

 

神さまがぼくを引き寄せてくれたのだ。

嵐の中で傘も差さずにピノキオを捜し回るゼペットじいさん同様、キリストがぼくの名前を呼びつづけてくれたのだ!

 

この1年で、ぼくは根っからの「鱈之介」なんだ、と痛感した。

焦って飛び込んだ仕事に疲れ果て、その仕事を離れて新しい職場に導かれたと思ったら、感謝を忘れて信仰のスランプに陥り、同時に体調も崩してしまう・・・。

鱈之介とは、できればもう会いたくない。でも、彼もまたぼくのパーソナリティーの一部だから、上手になだめながら生きていこうと思う。

 

なによりも、「クリスチャンであり、キリストの弟子であり、神の子である」っていうアイデンティティーを忘れずに生きていきたい。キリストはこう言っている。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 

―「ヨハネによる福音書」第15章5節(新共同訳)

 

この先、また神さまから離れることがあるかもしれない。ほんとうに信仰の試される、ほんとうに死にたくなる、厳しい出来事が待ち構えているかもしれない。

そのとき神さまに信頼しきれるのか・・・、正直、全然自信はない。でも、たとえほかの枝葉に埋もれちゃうような細い枝だとしても、ぼくはキリストにつながっていたい。

 

* * *

 

昨年10月下旬からの約1年間の報告を、なんと3回に分けて綴ってきました。時間を割いて読んでくださり、ほんとうにありがとうございます! 大感謝(≧∇≦)!!

 

神さまを激しく憎んだぼくも、結局は神さまの御許に落ち着きました。それはこの記事に書いたとおり、神さまのほうから働きかけてくれたからです。

神さまの愛は、あなたの周りにも絶えることがありません。それがどんなかたちで現れるかはそれぞれですけど、神さまは間違いなくあなたのそばにいます。

そのことを〈遜の箱舟〉を通して、これからも伝えていければいいなぁと考えています。今後とも、どうぞよろしくお願いします!!

 

「読者も少ないし、だれのためになるのかなぁ・・・」と思いながらも、正直に書ききることができました。あとは、すべてを有益なことに変えてくれる神さまに委ねます。アーメン。

 

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)