遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

文句タラタラ鱈之介の347日間(三)

 

神さえいなければ! でも、やっぱり…

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

10月に入り、ようやく過ごしやすい季節! ・・・と思いきや、なんですかこの残暑は? 体温上昇率が高くて汗っかきなぼくは、まだまだ汗拭きタオルが手放せません。秋の趣を楽しめないまま、一気に冬へ突入しそうな予感ですね。

さて、前回前々回と、昨年10月からブログを離れていたぼくの近況報告をしました。今回はその最終回です! すっかりたらすけと化したぼくの文句タラタラっぷり、どうか憐れみをもって見守ってくださいm(_ _)m

 

 

墓から這い出た消滅願望

イースターを境に、得体の知れない“黒カビ”に心を覆われたぼくは、宿しゅくである人間嫌いを爆発させ、その炎を信仰にまで燃え移らせてしまったのだった。

イライラを職場仲間に理不尽にぶつけることは、なんとか避けられた。その代わり、だれに対しても経験がないほど、神さまを憎むようになった。と言うのは、こんな理屈からだ。

 

この世界全体は神による茶番劇の舞台であり、人間はその演者としてつくられた奴隷である。キリストの十字架というのも、この神のサディスティックで(あるいはマゾヒスティックで)猟奇的な自作自演なのだが、すべてが茶番を基礎とした世界においては、それを信じなければ地獄に掃き捨てられる。

神はこの茶番世界の創造主であり、それを信じようが信じまいが、その存在は揺るがない。在るものは在る。ならば人間には、神のこの茶番につき合うしか道がない。

自殺してみても、魂の所有権は神にある。つくられた以上、その作者である神からは決して逃れられない。こんなくだらない茶番に否応なくつき合わされた挙げ句、地獄に落とされたのではたまらない。

だから、すべての人間は神に抵抗するのを諦めて、イエス・キリストを信じるしかない。神の自分勝手な思いつきのために、永遠に苦しむことなどない。

 

これはある日の日記の抜粋だが、精神異常者が独房で綴った手記のようで、われながら危険なニオイがするw まぁ、そのときの本音に違いない。

要約すると、「生まれてきさえしなければ・・・」という思いが、「神さえいなければ・・・」というそもそも論に発展した、ということだ。

そしてその発展の中から、すでに葬り去られたはずの「消滅願望」が蘇ってきた。自殺願望より消極的な、でも根の深い願望だ・・・。

 

ぼくは一度自殺に失敗していて、自分に自分を殺すだけの勇気がないことを知っている。だから、もう二度と自殺を考えることはないだろう。

ただぼくの人生には、消滅願望が通奏低音のように流れているようなのだ。

死にたいというより、ふっと消えてしまいたいという思いが、いつも心のどこかにある。生きたいと思わないように注意している感さえある。

ぼくにはその種の感受性が個性として組み込まれていると、それはそれで受け入れるしかないとして、・・・そうするとなおさら「神憎し」となるのが鱈之介であるw

 

聖書を踏みつける

5月中旬のある朝、ぼくはまとわりつくような不快感を覚えた。体がだるく、寝起きだというのに疲労感が凄まじいのだ。受難節中の甘味断ちの反動と人間嫌いのストレスで、砂糖を摂りすぎていたから当然だろう。

そうは思うが、こんな不完全な体でぼくを生み落とした神が憎い!

ぼくはだるさを振り払うために腰を布団に、後頭部を枕にこすりつけた。体のだる重さは消えないが、仕事に行かなきゃならない。あぁ、こんなくだらない世界で生きていくために・・・щ(゜゜щ)フンヌッ!!

 

いまにも自分自身を破滅させてしまいそうな怒りをバネに、ぼくはなんとか起き上がった。そして平静を取り戻すために、この内攻する怒りを発散しなければと周囲を見渡した。

枕・・・。手応えがなさすぎて、逆に怒りのボルテージが上がりそうだ。

窓・・・。割れば爽快、のちには後悔。人生で一度はやってみたいが、いまじゃない。

テレビ・・・。壊せば痛快、のちには後悔。DVDが観られなくなるのはヤダ。

さて、どうしたものか? ぼくは吠え猛る獅子のように、なにかをぶっ壊してやろうと探し回っていた。そして見つけた、“ゴッド・ヘイター”におあつらえ向きの代物を!

 

それは、『ハリー・ポッター』シリーズの単行本数冊を下敷きにして、尊大にぼくを見下ろしていた。ぼくはその書物に書かれている、ある一節をふと思い出した。

わたしの目にあなたはあたい高く、貴く

わたしはあなたを愛し・・・

 

―「イザヤ書」第43章4節(新共同訳)

その瞬間、怒りが頂点に達した。ぼくは聖書を引っつかむと、頭上高く持ち上げて、思いっきり床にたたきつけた。パーン!!

そして、ベロンと開いたページを、興奮に汗ばんだ足で何度も踏みつけた。もし絵踏みを強要されても、なんのためらいも葛藤もなく、十字架上のキリストをけがしてやれるほどの怒りだったのだ。

 

破れた聖書の一ページ

破れた聖書の一ページ(Photo by Son)

 

そのとき抱いていた怒りは、ちょうど欲しいお菓子を買ってもらえない子どもが、自分への愛情ゆえの拒否であることを知らずに駄々をこね、母の背中を殴りつけるのと同じだった。

 

神さまへの憎悪が薄らいでいく

子どもっぽいかんしゃくを起こしたあとも、神さまへの憎悪はなかなか消えなかった。ぼくを愛していると言いながらこの苦しみを放置する、神さまの御心が理解できなかったのだ。

5月に入ってからは礼拝にもまともに出ていなかったし(「朝起きられたら行こー」という感じ)、5月23日の礼拝さえも欠席した。完全に、冷めていた。

 

ほんの少しずつ信仰心が戻ってきたのは、6月下旬を過ぎたころだった。信仰心が戻ってきたと言うより、自分の“ガキっぽさ”が恥ずかしくなってきた、と言ったほうが正しいかもしれない。

それに、ぼくを辛うじて信仰につなぎ留めていたある事実に、だんだん正直になってきたからだろう。その事実とは、

 

ほんとうの安らぎは神さまのもとにしかない

 

ということだ。素直になりきれはしなかったが、自分の考え方や行動について、少しずつ赦しを乞うようになった。そうすると、胸につかえていた糸くずのようなものがほどけていくのを感じた。

YoutubeやPodcastで、いくつかの牧師説教を聴いたりもした。人間は罪を犯すものだが、その罪の問題はすでにキリストが解決してくれている。神さまの慈愛に、心が潤されてきた。

 

羊飼い・キリストは「おまえを赦してくださるように取りなしておくから、安心して帰って来い!」と、牧場の門を開けて待ってくれている。

でも聖書を踏みつけたような人間が、おめおめと赦しを乞うて、まっ正面から門をくぐるのは図々しいんじゃないか・・・。ぼくは牧場の柵のそばをウロウロしながら、しばらく時を過ごしたのだった。

 

ぼくはなぜ人間が嫌いなのか?

神さまへの憎悪が少しずつ薄らいでいったぼくだったが、人間嫌いのほうは相変わらずだった。好意的につき合っている人たちはもちろんいるが、総合的に言って「嫌い」なのだ。

それも消滅願望と同じように、ぼくが一生つき合っていかなければならない個性の一つなのかもしれない。だから、嫌いなのは仕方がないと、自己防衛のために一応は受け入れている。

 

ただ、どうしてこんなに人が嫌いなのかと考えてみると、その一因には、やっぱり「自己中心性」がある。自分のことばかり気にかけるから、思いどおりに動いてくれない他人を呪わしいほどに煙たがるのだ。

自殺を失敗した(正しくは中止した)夜、ぼくの頭に「他人のために生きなさい」という言葉が浮かんできた。あまりに突然だったので、神さまからの命令だったのだと信じている。

 

 

ほんとうに他人のために生きるには、どうすればいいのだろうか?
――そうするには、自分自身のことを思うくらい強く、他人のことを思わなくてはならない。

心から他人のことを思うには、どうすればいいのだろうか?
――そうするには、自分のけている愛を通して、他人を見なければならない。

愛の目を通して他人を見るには、どうすればいいのだろうか?
――そうするには、唯一変わらない愛を、つまり神さまの愛を知らなければならない。

 

ぼくはまだまだ神さまを知らないのだ。

神さまはぼくの罪を赦して永遠の命を授けるために、罪のない独り子・イエスを身代わりとして捧げてくれた。それがどんなにありがたいことなのか、ぼくはまだまだわかっていないのだ。

 

体調不良で仕事を休む

実は9月初めから、ぼくは体調不良を理由に仕事を休んでいる。ある月曜日の早朝、久しぶりの頭重感と倦怠感、そして強い抑鬱気分に襲われたのだった。

ぼくは6月から責任者業務を任されるようになったのだが、しばらくやってみて、どうも自分にまっとうできる仕事ではなさそうだ、ということに気づいた。

 

責任者は、その日に清掃する客室の情報を各階のフロア責任者に引き継ぎ、それぞれの進捗状況を見ながら必要な指示を出す。要するに司令塔なのだが、ぼくはこう思った、

柄じゃない。

業務内容は事務的なのでぼくの得意な分野ではあるのだが、指示出しなどの人の上に立つような業務に、ぼくはあまり向いていないようだ。

早い段階でそのストレスに気づいたので、すぐ上司に辞退を申し出た。一応の了承は得られたものの、急に代わりが見つかるはずもなく、しばらくはできる範囲で協力していた。

 

――が、ぼくのメンタルは自分が思う以上に弱かった。数か月分のストレスに季節性の体調不良が重なって、一気にガクンと落ちてしまった。

このことがあってから、ぼくは「柄にもないことはもうしない!」と決めた。歴史家・陳寿も、器のない人間が柄にもない地位につけば破滅するのは自然の道理だ、と言っている。

これからはやたらに人の期待に応えようとしたり、無理に背伸びして挑戦したりするのではなく、いまできる仕事を淡々と、丁寧に、忠実にやり遂げていこうと思う( ̄^ ̄)ゞイエッサ!

 

恥を忍んで、叫べ!

9月下旬、牧場の周りをウロウロしているだけだった迷える小羊は、いつの間にか柵の内側でしれっと牧草をんでいた。きっと痺れを切らしたキリストが、ぼくを抱きかかえて連れ戻してくれたのだろう。ハレルヤ!

本気で神さまを憎んだぼくが、また神さまに近づくことができたのは、ぼくが自分の罪をしっかりと悔い改めたからじゃない。現に、まだ神さまに対する不平はあるし、礼拝も休みがちだ。

 

ぼくが神さまに近づいたのではなく、神さまがぼくを引き寄せてくれたのだ。嵐の中で傘も差さずにピノキオを捜し回るゼペットじいさんのように、キリストがぼくの名前を呼びつづけてくれたのだ!

 

そして、ぼくが信仰を見失っていたとき、ぼくのために祈ってくれた方々がいる。所属教会の牧師先生や信徒たちはもちろん、Twitterで知り合ったたちだ。

この問題をひとりで抱えるには、ぼくの心はあまりに小さく狭すぎた。そこでぼくは助けを求めるでもなく、ありのままの思いをTwitterに吐き出していたのだった。

幼稚な言葉や見るにえない暴言があったにもかかわらず、コメントやDMで励ましてくださる方々がいた。中にはLINEを交換して、親身に相談に乗ってくださった方もいる。

 

時間を割いて話を聞いてくださった方々、心配して祈りに覚えてくださった方々、励ましのメッセージをくださった方々、
ほんとうにありがとうございました!!

 

もしあなたに抱えきれない悩みや不安があったら、ぼくのようにSNSなどに吐き出してみるのはどうだろうか? ネガティブな言葉を嫌がって離れていく人もいるだろうが、やさしく理解を示してくれる人も必ず現れるはずだ。

 

か細いブドウの枝として

仕事の忙しさを言い訳にブログ伝道を怠け、その仕事を離れて新しい職場に導かれたと思ったら、感謝を忘れて信仰のスランプに陥り、同時に体調も崩してしまう・・・。人生とは、ままならないものだ(ノД`)ウゥゥ

まぁ、ぼくの場合は自業自得感が否めないのだが、自分自身の気持ちさえままならないのが、「文句タラタラ鱈之介」というものなのだ!

 

鱈之介とはできれば会いたくない。でも、彼もまたぼくのパーソナリティーの一部なので、上手になだめながら生きていこうと思う。

なによりも、「クリスチャンであり、キリストの弟子であり、神の子である」というアイデンティティーを忘れずに生きていきたい。キリストはこう言っている。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 

―「ヨハネによる福音書」第15章5節(新共同訳)

 

この先、また神さまから離れることがあるかもしれない。ほんとうに信仰の試される、ほんとうに死にたくなる、厳しい出来事が待ち構えているかもしれない。

そのとき、神さまに信頼しきれるのか・・・、正直自信はないけれど、たとえほかの枝葉に埋もれてしまうような細い枝だとしても、ぼくはキリストにつながっていたい。

 

* * *

 

昨年10月下旬からの約1年間の報告を、なんと3回に分けて綴ってきました。時間を割いて読んでくださり、ほんとうにありがとうございます! 大感謝(≧∇≦)!!

 

さて、神さまを激しく憎んだぼくも、結局は神さまのもとに落ち着きました。それはこの記事に書いたとおり、神さまのほうから働きかけてくれたからです。

その神さまの愛は、あなたの周りにも絶えることがありません。それがどんなかたちで現れるかはそれぞれですが、神さまは間違いなくあなたのそばにいます。

そのことを〈遜の箱舟〉を通して、これから証ししていければいいなぁと考えています。今後とも、どうぞよろしくお願いします!!

 

「読者も少ないし、だれのためになるのかなぁ・・・」と思いながらも、正直に書ききることができました。あとは、すべてを有益なことに変えてくれる神さまに委ねます。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)