遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

文句タラタラ鱈之介の347日間(二)

 

神さま、ぼくは救われてないんですか?

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

前回の記事に引き続き、今回もブログ更新を怠けていた約1年間の報告をします。どこぞの馬の骨の生活に興味などないでしょうが、それがブログっていうもんじゃないですか!笑

ちなみに、この記事ははじめ〈文句タラタラたらすけの半年間〉というタイトルで、この春には投稿する予定だったのですが、こんなに延びのびになってしまいました。怠け癖って恐ろしいですねぇ~( ̄∀ ̄;;)

・・・とんでもなくどうでもいい記事を、とんでもなくどうでもいい導入で始めてしまいました。でも、ぼくはあなたを逃がしません。さぁ、とんでもなくどうでもいい時間に、おつき合い願いましょう!!

 

 

受難節に甘いものを節制して過ごす

2月、消防設備士補助者を辞め、客室清掃員として働きはじめてから1週間が過ぎた。清掃員も体力のいる仕事ではあるが、朝4時台に起きなければならないトンデモシフトはない。

苦手な早起きから解放され、体の調子もゆっくりと回復していったぼくは、十分な心の準備をもって、教会暦の切替りを迎えることができた。

 

2月17日は〈灰の水曜日〉といい、キリスト教会はこの日から「受難節」に入った。受難節とは、キリストの味わった苦しみを記念する、悔改めの期間だ。

多くのクリスチャンは受難節の間、キリストが自分のために苦しんだことを体と心に刻むため、嗜好品などを断って生活する。ぼくは大の甘党なので、甘いものを極力摂らないようにして過ごしていた。

コーヒーや紅茶には砂糖ではなく、少量の人工甘味料を入れて飲んだ。菓子パンやスイーツ、間食のスナックなども食べなかった。ただ、この節制生活にはある問題があった。それは、

 

甘いものを食べないことが目的になっていた

 

ということ。これではノンクリスチャンもやっている、ただの「ちょっと健康を意識した生活」に過ぎない。節制の意味はほとんどなかった、と言っていい。

受難節のこの的はずれな過ごし方が、ぼくのその後の霊的状態に、かなり大きな影響を及ぼすことになる・・・。

 

他教会の礼拝で「霊的聖餐」にあずかる

受難節を迎える前、ぼくの準備を整えてくれた出来事が、もう1つあった。

2月の第1主日(第1日曜日のこと)、ぼくは所属教会での礼拝を終えたあと、同じ教会の先輩クリスチャンと一緒に、ほかの教会の礼拝に参加した。同じ日本キリスト教団の教会だ。

その教会はウチの教会より何倍も大きく、数百人もの教会員が所属しているという。“零細な”わが教会とは比べものにならない・・・(゜A゜)ジーザス!!

 

さて、ぼくはその教会で、はじめて「聖餐(せいさん)」にあずかった。聖餐とは、かの有名な〈最後の晩餐〉の場で、キリストが弟子たちに教えた重要な儀式のことだ。

儀式とは言っても、そんなに大がかりなものではない。ひと欠片かけらのパンと少しのブドウジュース(ワインの代わり)を頂くという、どちらかというと地味な儀式だ。

パンはキリストの体を、ブドウジュースはキリストの血を象徴し、それらを頂くことで、キリストがぼくたちを救うために犠牲になってくれたことを思い、感謝する。

地味ではあるが、プロテスタント教会では洗礼とともに「聖礼典」に定められている、欠かすことのできない至極大切な儀式なのだ! だれだ地味だと言ったのはっ(`皿´)

 

でもこのコロナ禍・・・、食品を用いる儀式には慎重にならざるを得ない。ウチの教会では、泣くなく聖餐式を取りやめていた。こちらの教会でも全体的な聖餐は行われず、代表者一人がパンと杯にあずかるかたちで聖餐を守っていた。

この教会では、それを「霊的聖餐」と呼んでいるそうだ。

この日の代表者は、主任牧師の奥さまである副牧師。牧師先生によって聖別されたパンと杯をそれぞれ受け取って口にし、沈黙して感謝の祈りを捧げる・・・。

会堂に集った信徒たちも、目をつむって胸の前で手を組み、副牧師先生の無言の祈りに参加する。こうして、それぞれに与えられているを通して、同じ聖餐にあずかったのだった。

 

初めての聖餐式に特別なかたちで参加したぼくだったが、やはり初聖餐は自分の所属教会で受けたかった。まぁ、このことさえも神さまの計画なのだろう、意図はわからんが・・・^^;

 

Twitterを整理

ぼくはTwitterをやっているのだが、受難節の間は、ほとんど開くことがなかった。それも神さまに心を向けるためだ。ただこの期間、地道にやっていたことがある。

一つは、過去のツイートをすべて見返し、クリスチャンとしてふさわしくない発言を削除すること。

いまあるTwitterのアカウント(@YasudaSon)は、伝道のためにつくったものだった。それがいつしか、“単なるTwitter”に様変わりしつつあったのだ。

 

とは言え、クリスチャンの“単ツイ”も重要だ。ぼくも以前はそうだったのだが、クリスチャンと聞くと、どこか浮世離れした、清貧な生活を送っているイメージがないだろうか。わかりやすく言うと、修道士の“在家”バージョンだ。

でも実はそうではないということが、クリスチャンをフォローしているとわかる。BL好きの人・演奏好きの人・昆虫好きの人・酒好きの人・お笑い好きの人・オタク気質の人・苦悩を抱えて生きている人・・・。

ノンクリスチャンの生活とそう変わることはない。唯一の大きな違いは、神さまと一緒に生きている、ということだけだ。彼らの“単ツイ”からわかるように、聖書の神さまは、雑多な日常にまで降りて来てくれるのだ!

 

ただぼくの場合、調子に乗って行きすぎた部分や、キリスト教会にとってマイナスになりそうな部分が少なからずあったので、そういうものを片っ端から闇に葬っていった。

「神さま=まことの親」の顔に泥を塗るような言動を慎むようにすることは、クリスチャンにとって決して大袈裟な心がけではないと思う。それができているかと問われたら、・・・ねぇ。その・・・、そのぉ・・・・・・

 

さて! もう一つは、フォローの整理。これはいまでも定期的にやっていて、あなたにもぜひ実践してほしいことだ。

Twitterは自分の欲しい情報をすぐ手に入れられる反面、欲しくない情報・知る必要のない情報も、同じように目に入ってきてしまう。神さまの業がいかに素晴らしくても、情報を無限にため込める脳は人間に与えられていない。

そこでフォローを半数以上はずし、タイムラインを最適化した。ちなみにミュート機能を使わなかったのは、どちらにしろ同じことだと感じたからだ。

 

タイムラインの最適化は、自分の心を守るうえでも役立つと思う。ところがその直後、同数程度のフォロワー減に直面したぼくは、しばらく落胆したのであった・・・(._.)笑

 

「人間嫌い」が燃え盛る

さーて、たいへん長らくお待たせいたしました。いよいよ「鱈之介」の登場でございます!

3月末、受難節が終わりに近づいたころ、ぼくの心に黒いカビのような感情が芽生えはじめた。なにに対してかわからない、捉えどころのない不平不満。糖分不足なのだろうか、とにかくイライラするのだ。

 

客室のベッドメイキングをしている間も、マットレスが重すぎるだの、ベッドと壁の隙間が狭すぎてやりづらいだの、心の中では常に文句を言っていた。

当たり前のことだが、ベッドメイクでは、シミや穴が少しでもあるリネンは使えない。メイク完成間近になって小さな汚れや穴に気づくことがあるのだが、そういうときのぼくの顔は人に見せられるものではない。

怒りはまず、そんなつまらないことに腹を立てる自分に向かい、噂話のように拡大していく。不良リネンを何枚も納品するリネン業者 → ちょっとの汚れにケチつける客 → それが普通である社会・・・。

 

「人間なんて、さっさと滅べばいいのに」

 

そんな言葉が浮かぶほど、ぼくは“黒カビ”を繁殖させてしまったようだ。そして、「人間嫌い」という先天性の持病がジワジワと表面化してきた。キケン信号~(ФДФ)

ぼくは黒い感情を、どうしても消すことができなかった。そして、この人間嫌いを導火線として、ぼくの嫌悪の炎は、着火してはいけないところに着火してしまうのだった。

 

クリスチャン3年生になる

人間の滅亡を願う自分の罪深さにどうしようもなく打ちのめされ、十字架の力を信じて神さまに赦しを乞う。そんなことを一日に何度も繰り返していた。

でも、ざんしても懺悔しても、心のカビは広がるばかり・・・。「信仰は心のカビキラー」なんて、そんな言葉はウソ八百だったのだ! いや、そもそもだれも言ってない(=_=)

 

キリストは隣人愛を教えている。他人が気に食わなくても、たとえ自分の敵だったとしても、その人の幸せを願うようにと

でもぼくは、だれかに悪口を言われたり、嫌がらせされたりしたわけじゃなかった。ただただ人間全体を毛嫌いし、また軽蔑し、人間のすることすべてがくだらなく思えただけなのだ。

ぼくはそのことを包み隠さず神さまに打ち明け、祝福を祈ることもできないと正直に告白した。そして、ひたすら赦しを乞うた。

 

さて、寝る前の懺悔が習慣になりつつあった中、4月1日を迎えた。その日は〈洗足の木曜日〉といい、キリストが弟子たちの足を洗ったことを記念する日だった。そして、ぼくのスピリチュアル・バースデーでもあった。

2年前、2019年4月1日の深夜、ぼくはこの記事を書いている8帖の殺風景な部屋で、イエスを自分の「救い主=キリスト」として受け入れたのだった。

神さまが天地をつくる前からぼくを御心に留め、必ず天国の国民となるように計らってくれた、そのアンビリーバボーな愛と御業に、ぼくは感謝した――はずだった。実際は、できなかった。

 

黒い感情に支配され、救われた感謝と喜びが湧いてこない。感謝の祈りをする代わりに、「ぼくはほんとうは救われていないのでしょうか?」と尋ねることしかできなかった。

ほかに祈る言葉も思いつかず、ついにヤケになって、「ぼくは地獄に落とされて当然です。そうなったら、不満を言わずに焼かれます」と自分の罪を開き直る始末。

 

・・・でも、ぼくは言うのだろう。なにせ、文句タラタラの鱈之介なのだから!

 

イースター、聖餐、恩知らず、憎悪・・・

4月2日の〈受難日〉は、キリストがぼくの罪のために十字架にかかった日の記念だった。そして、洗礼を受けてから初めてのイースターを迎えた。

今回のイースター礼拝から、ウチの教会は聖餐式を再開した。実際にパンと杯にあずかるのは、それが初めてだった。ぼくはずっとこの日を心待ちにしていたのだ!

 

感染予防のために、蓋つきの小さなカップに入れられたパン。飲み口が100円玉大くらいの小さなグラスに満たされたブドウジュース。キリストの体は食べ慣れた味で、キリストの血はほんのり甘かった。

待ちに待った聖餐式は、ずいぶんあっさりと終わった。聖餐にあずかることのできた喜びは、もちろんあった。でもその喜び方が、われながらもの足りない。なんじゃこの感じ・・・(+д+)

 

その日を境にぼくの人間嫌いは激しさを増し、それに釣られるように、ぼくの罪性が一気にあぶり出されてきた。ムラムラとした情欲・イライラとした利己心・グチグチとした不平・・・。

仕事は始終面倒臭く、何事にも感謝の念を忘れ、あっちでイライラ、こっちでイライラ、信仰の乱高下はマツコ・デ●ックスの腹の上に置かれた震度計の如しщ(゜゜щ)ゴトシッ!!

これは単なる気分障害や抑鬱気分ではない、とぼくは思った(もちろんそれもあるはずだが)。どうか驚かずに読んでいただきたいのだが、の、正しくはその手下であるあくれいの攻撃を疑ったのだ。

もしそうであれば、ぼくにできることはただ一つ、神さまに赦しと助けを乞うことだけだ。悪魔についてここでは詳しく述べないが、やつらを打ち破れるのはキリストだけだからだ。では、実際はどうしたか――

 

「どうしてこんな弱い人間に生んだんだ! 祈ってもなんにもしてくれないじゃないか! 全知全能のくせに無能だな!!
あんたは宇宙一の迷惑者だ。勝手にこの世をつくって、勝手におれを生んで、勝手におれをつみびとにしてっ! なにが愛だ! ふざけるな!!」

 

ただひたすら神さまに八つ当たりし、気の済むまで罵倒しつづけたのだった。神さまが憎くて憎くてたまらなかったのだ。

この世は神さまのつくった茶番劇の舞台で、人間はその茶番を演じるように強いられた奴隷でしかないと、これまでにないほどの強烈なえんせい観に囚われてしまっていた。

 

なぜそんなふうになってしまったのか?

当時はいくら考えてみてもまったく心当たりがなかったのだが、いま振り返ってみると、これが原因かもしれないということがある。受難節の過ごし方だ。

ぼくは受難節の間、キリストの犠牲に感謝するよりも、甘いものを食べないという“律法”を守ることに専念していた。その間違った姿勢が、ぼくを「信仰の大スランプ」に陥れてしまったのだ!

 

きっと原因はほかにもあるのだろう。基本的な人格の欠陥かもしれないし、心理的な問題かもしれないし、自分の気づかなかったストレスかもしれないし、いわゆる五月病の先取りかもしれない・・・。

でも、「霊的に深刻な不調」があることは間違いないと思う。

ノンクリさんには理解しがたいことを言っていると思うが、身体的・精神的な不調があるように、霊的な、魂の不調もまた存在するのだ。

 

* * *

 

どこぞの馬の骨の近況報告を最後まで読んでくださり、ほんとうにありがとうございます。もう泣いちゃいます(〃▽〃)

そして、すごく中途半端な終わり方をしてすみません。まだまだ書けるのですが、締まりがなくなりそうなので、今回のところは筆を置きます。じゃなくて、(キーボードから)指を離します。

そして、まだ終わりじゃないという事実に、重ねがさねすみません。鱈之介シリーズ最終回の告知をさせていただきます!

 

人間嫌いをこじらせて“ゴッド・ヘイター”となり果てたぼくは、さらに神さまへの憎悪を募らせ、ノンクリスチャンの幼なじみをも唖然とさせる、驚きの行動に出ます。

でも、神さまの愛を覆い隠せる闇はありません。唯一の光である神さまが、迷える小羊を見捨てることはなかったのです、たとえ暴言を吐かれた相手でも・・・。“たらロス”にご注意してお読みくださいねw

 

得体の知れない不安や恐怖、自分や他人を傷つけるネガティブな思い。そのような感情に苦しんでいる方々を、神さまが顧みて寄り添ってくださいますように。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)