遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

文句タラタラ鱈之介の347日間(二)

 

神さま、ぼくは救われてないんですか?

 

 

2月、消防設備士の仕事を辞め、客室清掃員として働きはじめてから1週間が過ぎた。清掃員も体力のいる仕事ではあるが、始業は10時過ぎだから、朝はだいぶゆっくりできる。

苦手な早起きから解放され、体の調子もゆっくりと回復していったぼくは、十分な心の余裕をもって受難節を迎えることができた! 受難節とは、キリストの味わった苦しみを記念する、悔い改めの期間のこと。

 

一部のクリスチャンは受難節の間、キリストが自分のために苦しんだことを体と心に刻むため、嗜好品などを断って生活する。ぼくは大の甘党だから、甘いものを極力摂らないようにして過ごしていた。

コーヒーや紅茶には人工甘味料を入れたり、頂き物以外の菓子パンやおやつは食べなかったり・・・。ただ、この節制生活にはある問題があった。それは、

 

甘いものを食べないことが目的になっていた

 

っていうこと。それではノンクリスチャンもやっている、ただの「ちょっと健康を意識した生活」に過ぎない。節制の意味はほとんどなかった、と言っていい。

受難節のその的はずれな過ごし方が、のちのぼくの霊的状態に、かなり大きな影響を及ぼすことになる・・・。

 

さて、話はちょっとさかのぼり、受難節を迎える前――

2月の第1主日(第1日曜日のこと)、ぼくは所属教会での礼拝を終えたあと、同じ教会の先輩クリスチャンと一緒に、ほかの教会の礼拝に参加した。同じ日本キリスト教団の教会だ。

その教会はウチの教会より何倍も大きくて、数百人もの教会員が所属しているらしい。わが教会とは比べものにならない・・・(゜A゜)

 

ぼくはその教会で、初めて「聖餐(せいさん)」にあずかった。聖餐とは、かの有名な〈最後の晩餐〉の場で、キリストが弟子たちに教えた重要な儀式のことだ。儀式とは言っても、そんなに大がかりなものじゃない。

キリストの体と血を象徴する、ひと欠片かけらのパンと少しのブドウジュース(ワインの代わり)を頂くという、どちらかというと地味な儀式だ。そのパンと杯を通して、キリストがぼくたちを救うために犠牲になってくれたことを思い、感謝する。

地味だけど、プロテスタント教会では洗礼とともに〈聖礼典〉に定められている、欠かすことのできない至極大切な儀式なのだ! だれだ地味だと言ったのはっ(`皿´)

 

でもこのコロナ禍・・・、食品を扱う儀式には慎重にならざるを得ない。ウチの教会では、泣くなく聖餐式を取りやめていた。こちらの教会でも全体的な聖餐は行われず、代表者一人がパンと杯にあずかるかたちで聖餐を守っていた。

その教会では、それを「霊的聖餐」と呼んでいた。

この日の代表者は、主任牧師の奥さまである副牧師。牧師先生によって聖別されたパンと杯をそれぞれ受け取って口にし、沈黙して感謝の祈りを捧げる・・・。

会堂に集った信徒たちも、目をつむって胸の前で手を組み、副牧師先生の無言の祈りに参加する。そうやって、それぞれに与えられている聖霊(神の霊)を通して、同じ聖餐にあずかったのだった。

 

初めての聖餐式に特別なかたちで参加したぼくだったが、やっぱり初聖餐は自分の所属教会で受けたかったなぁと思う。まぁ、それも神さまの計画なんだろう、意図はわからないけど・・・^^;

 

 

さ~て、たいへん長らくお待たせいたしました。いよいよ「鱈之介(たらのすけ)の登場でございます!笑笑

3月末、受難節が終わりに近づいたころ、ぼくの心に黒いカビのような感情が芽生えはじめた。なにに対してかわからない、捉えどころのない不平不満。糖分不足なんだろうか、とにかくイライラするのだ。

 

「人間なんて、さっさと滅べばいいのに・・・」

 

ふとそんな言葉が浮かぶほど、ぼくは“黒カビ”を繁殖させてしまったようだ。「人間嫌い」という先天性の持病が、ジワジワと表面化してきたらしい。キケン信号~(ФДФ)

ぼくはだれかに悪口を言われたり、嫌がらせをされたりしたわけじゃなかった。ただただ人類全体を毛嫌いし、軽蔑し、人類のすることすべてがくだらなく思えただけなのだ。

 

その黒い感情を、ぼくはどうしても消すことができなかった。自分の罪深さに打ちのめされ、十字架の力を信じて神さまに赦しを乞う。そんなことを一日に何度も繰り返していた。

でも、ざんしても懺悔しても、心のカビは広がるばかり・・・。「信仰は心のカビキラー」なんて、そんな言葉はウソ八百だったのだ! いや、そもそもだれも言ってない(=_=)

 

さて、寝る前の懺悔が習慣になりつつあった中、4月1日を迎えた。その日は〈洗足の木曜日〉といい、キリストが弟子たちの足を洗ったことを記念する日だった。そして、ぼくのスピリチュアル・バースデーでもあった。

2年前、2019年4月1日の深夜、ぼくはこの記事を書いている8帖の殺風景な部屋で、イエスを自分の「救い主=キリスト」として受け入れたのだった。

神さまが天地をつくる前からぼくを御心に留め、必ず救われるように計らってくれた、そのアンビリーバボーな愛と御業に、ぼくは感謝した――はずだった。実際は、できなかった。

 

黒い感情に支配され、救われた感謝と喜びが湧いてこない。感謝の祈りをする代わりに、「ぼくはほんとうは救われてないんでしょうか?」と尋ねることしかできなかった。

 

 

4月2日の〈受難日〉は、キリストがぼくの罪のために十字架にかかった日の記念だった。そして、洗礼を受けてから初めてのイースターを迎えた。

そのイースター礼拝から、ウチの教会は聖餐式を再開した。実際にパンと杯にあずかるのは、それが初めてだった。ぼくはずっとこの日を心待ちにしていたのだ!

 

感染予防のために、蓋つきの小さなカップに入れられたパン。飲み口が100円玉大くらいの小さなグラスに満たされたブドウジュース。キリストの体は食べ慣れた味で、キリストの血はほんのり甘かった。

待ちに待った聖餐式は、ずいぶんあっさりと終わった。聖餐にあずかることのできた喜びは、もちろんあった。でもその喜び方が、われながらもの足りない。なんじゃこの感じ・・・(+д+)

 

その日を境にぼくの人間嫌いは激しさを増し、それに釣られるように、ぼくの罪性が一気にあぶり出されてきた。ムラムラとした情欲・イライラとした利己心・グチグチとした不平・・・。

これは単なる気分障害とか抑鬱気分じゃない、とぼくは思った(もちろんそれもあると思うけど)。どうか驚かずに読んでいただきたいのだが、悪魔の、正しくはその手下であるあくれいの攻撃を疑ったのだ。

もしそうだったら、ぼくにできることはただ一つ、神さまに赦しと助けを乞うことだけだ、悪魔を打ち破れるのはキリストだけだから。それで、実際はどうしたか――

 

「なんでこんな弱い人間に生んだんだ! 祈ってもなんにもしてくれないじゃないか! 全知全能のくせに無能だな!!
あんたは宇宙一の迷惑者だ。勝手にこの世をつくって、勝手におれを生んで、勝手におれをつみびとにして! なにが愛だ! ふざけんなっ!!」

 

ただひたすら神さまに八つ当たりし、気の済むまで罵倒しつづけたのだった。神さまが憎くて憎くてたまらなかったのだ。

この世は神さまのつくった茶番劇の舞台で、人間はその茶番を演じるように強いられた奴隷でしかないと、それまでにないほどの強烈なえんせい観に囚われてしまっていた。

 

なんでそんなふうになってしまったのか?

当時はいくら考えてみてもまったく心当たりがなかったけど、いま振り返ってみると、これが原因かもしれないということがある。受難節の過ごし方だ。

ぼくは受難節の間、キリストの犠牲に感謝するよりも、甘いものを食べないという“律法”を守ることに専念していた。その間違った姿勢が、ぼくを「信仰の大スランプ」に陥れてしまったのだщ(゜゜щ)

 

きっと原因はほかにもある。基本的な人格の欠陥かもしれないし、心理的な問題かもしれないし、自分の気づかなかったストレスのせいかもしれないし、いわゆる五月病の先取りかもしれない・・・。

でも、「霊的に深刻な不調」があることは間違いないと思う。

ノンクリスチャンの方には理解しがたいと思うけど、身体的・精神的な不調があるように、霊的な、魂の不調もまた存在するのだ。

 

 

 


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画像の出典(Pixabayより)