遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

ぼくは“なんちゃってクリスチャン”なのではないか?

 

絵に描いたスマイルで顔を隠す人

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

信仰を失い、神に対して答えられざる疑問と、ガキっぽくも真剣な怒りを抱きはじめてから早半年。実は、それまでにも同じような経験はちょくちょくあり、そのときの気持ちを赤裸々に綴った記事を投稿したこともあります。

それらの記事には幼稚で浅はかな、ただ感情的なだけの文句が書き連ねられていたので、あまりの恥ずかしさにことごとく撤回してしまいました。まぁ、ここ半年の記事も同じようなものなのですがσ^^;

自分のブログや日記を読み返してみると、「ぼくは信仰なんかしてなかったのかもしれないなぁと感じざるを得ません。今日はそのことについて書いてみます。

 

ぼくが自分のそもそもの信仰を疑ったのは、ひとつには、自分のことに精いっぱいになりすぎているからでした。他人のことを顧みられないどころか、自分の気持ちさえも冷静に捉えることができなくなっていたほどです。

腹から湧いてくる(おもにネガティブな)感情に流されて、その源泉である問題に腰を据えて取り組めない状態。問題の本質がなんなのかよくわからず、とにかく早くいまの苦しさから脱したいという焦りが、もともとの悪感情と並走するかたちで、ぼくの精神をかき乱していました。

目を閉じるとときどき、それらの感情と葛藤がいくつもの太い縄になって、ブルンブルンと鈍い音を立てながら暴れ、互いにぶつかり合いからまり合い、ひとつの極太のヘビのようになるさまが浮かんできます。なにやら病的ですね

 

縄でできたその大蛇こそがいまの自分なのだと、通っている催眠療法の先生には言われています。それがいいとか悪いではなく、矛盾するような感情を同時に抱いているのがいまの「ほんとうの自分」であり、問題に対して積極的な感情も消極的な感情も、どちらも「ほんとうの気持ち」なのだ、と。

白黒はっきりしたいぼくには、なかなか難しい考え方ですが、そのお陰で、自分の感情にある程度は冷静に向き合えています。それはいまでこその話で、以前は濁流のような感情と焦燥感に、いつも追われていました。

 

 

はぁ、なんでこんなにいっぱいいっぱいなんだろう? 平安なんて、全然ないよ

 

とにかく自分自身の(気持ちの)お世話をすることが最優先で、それ以外のことはほんとうに二の次でした。人事を尽くそうにも具体的になにをすればいいのやら見当がつかず、天命の“うんともすんとも加減”にイラついていました。

 

結局、神はなにもしてくれないのだと日々不満を膨らませ、ほんとうは神なんていないのではないか、と至極真剣に思ったことさえあります。そんな自分を振り返ったとき、信仰心などはなからなかったのかもしれない、と感じてしまったのです。

 

 

あまり感謝の念が湧かないことも、自分の信仰に疑いを持った理由のひとつです。それは同時に、自分の人間性を疑わせるものでもありますが、「生かされている」が感謝のではなく、強制の言葉として聞こえてしまうのです

頼みもしないのに、なんの拒否権も認められずにこの世に引きずり出され、あと何年続くかわからない命を、ぼくは今日もます。人生とは無理やり背負わされた荷物だ、と思っているぼくにとって、日々あることに感謝するのは、そう自然にできることではありません。

それは、本来はありがたい状況が当たり前になってしまっているせいもあるでしょうが、そういう環境で生きられることにも、さほどのありがたみを感じません。むしろ、別に望みもしなかった人生なのだから、それくらいは当然享受させてほしいものです。

 

こんなことを平気な顔で言えるのは、ぼくがとても恵まれた環境にいるからこそなのでしょう。確かに、ぼくはなんだかんだ言って恵まれている自覚はあります。

それにもかかわらず感謝できないのは、ぼくに人間としてなにか欠陥があるからでしょうか? 神に救われてもありがたみを感じないのは、そもそも救われていないからでしょうか?

 

実は先月から、約半年ぶりに教会へ行きはじめました。と言っても、行ったり行かなかったりですが。なぜまた教会へ足が向いたのか、信仰が戻ってきたわけでもないので、自分でも特に理由は見つかりません。

ほんとうはなんとなくで行くのはやめて、ちゃんと神と自分の関係に確たるものを見出せたら行こう、と思っていました。それも結局、いつもの「なんとなく」で、中途半端で終わってしまいました。

まぁ、それはもういいとして、教会へ行って礼拝の席に着いても、やっぱり神への讃美や感謝、ざんげの思いは湧いてきません。また、牧師先生に相談したうえで、イエス・キリストのにもあずかりましたが、同じように信仰心は萎えたままです。

 

ただ神への畏れはあり、事前に牧師先生に相談したのもそのためです。聖餐式の冒頭では、次のような文言を含む式文が読み上げられます、

「『ふさわしくないままでパンと杯にあずかる者は、主の体と血とを犯すのであり、主の体をわきまえずに飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招く』と勧められています」

ぼくは神を讃美したくないけれど、その「聖」を犯したくはありません。さんざん神を罵っておきながらどの口が、っていう話ですよねw でも、やはり教会は神聖な場所ですから、そういうところで冒とく的なことをしたくなかったのです。

 

ぼくの懸念に、牧師先生はこう答えてくださいました、

 

聖餐は、ぜひ受けてください。信仰の有無にかかわらず、イエス様はわたしたちの救い主なのだし、心から神様を讃美できないときだからこそ、聖餐にあずかってください。

 

こうしてぼくは、一抹の敬虔さを意識して抱きながら、パンとブドウジュースにあずかったのでした、特別の感動もないままに

 

 

久しぶりの礼拝とせいさんに感動のなかったことは、実はぼくをホッとさせもしました。

あるときからぼくは、自分の感動しやすさを警戒するようになっていたのです。それは、心の大きな揺れ動きが、物事を冷静に、理性的にわかろうとする働きを邪魔するように思えるからです。

ぼくがクリスチャンになったのも、ともすれば「感動」がそうさせたのかもしれない、と思うことがあります。つまり、ほんとうの意味でイエス・キリストを信じたわけではなかったのではないか、と

ほんとうに、正しくキリストの十字架の意味を信じていれば、悩まなくていいことに悩まず、日々神の恵みによって生かされることに、自然と感謝できるはずではないでしょうか?

 

また、キリストを信じてを受けることを「新生」と言ったりするのですが、新しく生まれた気が、ぼくにはまったくしないのです。ぼくの毎日の言動が、新生していないことを物語っているようにさえ思えます。

 

われたと思い込んでいるだけで、実はわれていなかったなんて考えるだけでも恐ろしいことです!

 

その恐怖が現実のものとして身を襲わないために、ぼくはあえて自分の信仰を封じてしまった、と考えることもできるでしょう。つまり、もう一度正しくキリストを信じ直して、確実にわれるために。

ぼくは初めて信仰告白をしたとき、「イエス様がぼくの神様であってほしいなぁ」と思っていたのでした。いまも、そう思っています。なんだか、同じ記事の中で矛盾したことを何度も言っていますねw

 

でも、神を讃美できない(したくない)ぼくも、神から離れたくないと思うぼくも、どちらもひとりのぼくなのです。

 

 

 

画像の出典(Pixabayより)