ハレルヤ~! 安田遜です。
去年の夏ごろから、ぼくはひどい不信仰に陥っていました。言ってみれば、信仰の鬱状態。神に対して謙虚になれず、それどころか、あらゆる苦しみの元凶として憎悪と不満をぶっつけていたのです。
それが、少し前から捧げていた「ほんとうの信仰を下さい!」という祈りが聞かれたようで、だんだん不信仰から目覚めてきました。毎日祈り、聖書を読み、聖句を書き写し、精神と肉体に神の御言葉を刻みつけるように心がけています。
そうすることで気づかされたのは、まずやはり、ぼくが神に対して犯していた罪の大きさでした。ぼくは自分の不信仰を棚に上げ、このブログで神をこき下ろすことに執念を燃やしていました。そうすることで、自分を正当化しようとしていたのです。
この10か月弱の間、ぼくが訴えつづけていた主張の一部を振り返りながら、それがどんなに的はずれだったかを、今日はざんげの思いとともに綴ります。
こんな家庭に生まれたなんて・・・
ぼくが根本的に抱いていたのは、不満でした。
それは突き詰めれば、この世を器用に生きられない自分自身に向けられたものですが、いくら自罰的なぼくと言えども、不満のすべての原因を自分の中に見いだそうとすることはできません。もしそんなことをしていたら、ぼくはとっくにこの世を去っていたでしょう(゜A゜)ブルル
そこでぼくは、自分の苦しみについて拡大解釈し、(本能的に自己防衛機能を働かせて)こう思うことにしたのです、
ぼくが苦しいのは、神がこの世界を完璧につくらなかったせいだ!
苦しみの原因はいろいろ考えられるけれど、そもそもは人間自体に欠陥があるせいであり、この世界が理不尽に満ちているせいであり、元をたどれば、それらをつくり支配している神のせいなのだ、と。
この持論には無理がある、あまりに自分勝手で幼稚な暴論だ、と十分わかっていながらも、崩れかけた心を守るために、ぼくは理屈を並べて必死に正当化しようとしていたのです。
ところで、ぼくの不満の始まりは、物心ついたときにまで遡ります。
ぼくは不仲な両親のもとに生まれ、小さなころから、父と母の間の
子どものころに負った心の傷は、大人になってからのほうが、より重くのしかかってくるものです。
人並に働くことができず、自信を失って引きこもり、その間も自責の念にさいなまれ、とうとう自殺未遂にまで追い詰められたことを、ぼくの両親は知りません。自分たちがぼくに対してなにをしたか、両親は知ろうともしません。父と母の失敗によってこそ、ぼくが苦しめられているのは事実です。
でも、怒りや不満の直接的な矛先は、その呪縛からなかなか抜け出せずにいる、自分自身に向けられます。そして、そのあまりにも大きなフラストレーションのはけ口として、八つ当たりの相手として、ぼくは神を利用していたわけです。
ぼくにとって、不信仰なぼくにとっては、神はただ迷惑な存在でした。こんな不完全な世界の、あんな夫婦のもとに、ひ弱なぼくを、頼んでもいないのに生み落としたのですから…。
家族との仲むつまじい話を友達から聞かされるたびに、ぼくは激しい羨ましさと、むなしい不公平感に襲われたものです。彼らには幸せな家庭があるのに、ぼくにはなぜそれが許されないのか、と。「愛情」へのないものねだりが、ぼくの不満の源でした。
神目線で見る自分の境遇
神は愛です
(Ⅰヨハ4:16)と、聖書は繰り返し語ります。神は愛にあふれる方だ、ではなく、神は愛そのものだ、ということです。つまり、愛とは神のことなのだ、と。
それは、頭ではわかります。でも心で、実感として、「愛」というものがどうしてもわからない。両親の愛を十分に受けず、また、父と母の夫婦間の愛を見たこともないからです。だからなおさら、自分の境遇を嘆かわしく思ってしまいます、
愛のある家庭に生まれてれば、神の愛もわかったはずなのに。神に喜ばれる人間にも、なれたはずなのに…。
――人間の内に罪性があること、この世の理不尽が募っていくこと、ぼくが不仲な両親のもとに生まれたこと。それらがどうしてなのか、ぼくにわかるはずはありません。人間に、神を知ろうともしない人間に、それをわかる資格などないのですщ(゜゜щ)
でも、神はぼくをあわれんでくださいました。ぼくの祈りを聞いて信仰心をよみがえらせ、聖書を通して、あることをぼくに伝えてくださったのです。
12しかし、
言 は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
―「ヨハネによる福音書」第1章12~13節(新共同訳)
「言」とは、神の御言葉そのものである、イエス・キリストのこと。キリストの名を信じたぼくは神の子であり、神によって生まれた人間だ、と聖書は語ります。それは、神がまるでこんなふうに語っておられるように、ぼくには思えました、
おまえは、確かに不仲な両親のもとに生まれた。だが、おまえが生まれたのは、両親に望まれてではなく、彼らの結婚の結果としてでもない。ただ、わたしひとりの思いによって生まれたのだ!
神には、ぼくがこの境遇に生まれて来なければならない理由があったのです。その理由を、ぼくは知りえません。ぼくが天国へ帰ったとき、神が教えてくださるかもしれませんが(^艸^)
ぼくにできることは、神の正しさを信じきって生きることだけです。意味や理由はまったくわからないけれど、ぼくの境遇が神の栄光のために、またぼく自身の救いのためにプラスに働くのだと、神に信頼して前を向くことだけが、ぼくにできる最善の生き方なのです。
ぼくは神によって、神を礼拝する者として、神の栄光を現すためにつくられました!()
後の世代のために
このことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された。」
(新共同訳)
だから、ぼくの人生に(もちろんあなたの人生にも)起こるすべてのことは、どんなに小さいと思えることでも、神にとっては有益ななにかになりえるのです! それがなにになるか、ぼくたちにはわからないだけで。
悪人さえも救う神の恵みとキリストの十字架
信仰に戻ってから、ぼくがまず読んだのは、「ヨハネによる福音書」です。ほかの3つの福音書、「マタイ」「マルコ」「ルカ」に比べるとちょっと難解ですが、神としてのイエス・キリストを知りたかったので、その書巻を選びました。
また並行して、旧約聖書も読み進めています。〈預言書〉という書巻群を、ぼくはあまり深く読んでいなかったので、「エゼキエル書」から読むことにしました。エゼキエルという人が、聖都・エルサレムの陥落を予告した書物です。
全部で48章あって、まだ半分強しか読めていませんが、神に対するぼくの罪が書き連ねてあるかのように思えました。イスラエル民族の神に対する背信の数々が、読むのも気が引けるほどのおぞましい言葉で書き表されているのです。
先述したエルサレムの陥落は、強大な他国軍によってなされました。それは、イスラエル人の“反神的行為”への罰として起こったことでした。イスラエル人は神から
彼らの姿に、ぼくは自分を見るようでした。
イスラエル人は自分たちを愛してくださった神を裏切りつづけ、神の心を傷つけました。ぼくも、ぼくのために・イエスを捨ててくださった神を中傷し――「神なんかいなければ苦しまなかったのに!」――神を悲しませました。
イスラエル人は人間をおつくりになった神を礼拝せず、人間が自分勝手につくり上げたカミを拝んで、まことの神を怒らせました。ぼくも神を礼拝しないばかりか、神を偶像のカミに劣るものとして――「神は人間にとって都合のいい存在であるべきだ!」――神の御名を冒とくしました。
独り子三位一体の神の第2位格で、子なる神イエス・キリストのこと。父なる神と同一の神性を持ちながら人となり、人間の罪をあがなうために十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった。
イスラエル人は犯しつづけた罪の結果、帰るべき都を失い、自分たちの命さえも滅ぼすことになる、とエゼキエルは予告します。その後、神の裁きは行われ、預言のとおりになりました。それは、歴史的事実です。
ぼくの犯した罪は、イスラエル人と同じ目に遭っても不思議ではないほど、深く重いものだと思います。もしぼくが旧約時代のイスラエル人だったら、確実に裁きの対象です。天国へは行けません。
でも神は、キリストの十字架によって、ぼくの重罪をゆるしてくださいました。そう言えるのは、神ご自身が聖書を通してぼくの罪を示し、その罪を告白してざんげするように促してくださったからです。
冒とく級の不平不満で神に挑んでも、ぼくに天罰が下らなかったのは、キリストがその罪を背負ってくださったからにほかなりません。キリストが身代わりとして、ぼくに向かうはずだった裁きを、すべて十字架の上で引き受けてくださったのです。
いつかの礼拝で、牧師先生がこんなことをおっしゃったのを覚えています、
神様は、イエス様の十字架によって、どんな罪もゆるしてくださいます。だからと言って、罪を犯しつづけることは、イエス様をそのたびに十字架に打ちつけるのと同じです。
ぼくはまさに、キリストを何度も十字架送りにしていました。キリストはその十字架の上で取りなしてくださったのでしょう、不信仰の間、ぼくは(生活の上では)なに不自由なく暮らすことができました。神はぼくの悪口雑言を浴びながら、それでも必要なものを惜しみなく与えてくださったのです。
そのことを、恵みといいます。
神は、ぼくたちの帰りを忍耐強く待っていてくださいます!
たとえ人生の半分以上を不信仰に過ごしたとしても、心から悔い改めれば、神は必ずすべての罪を水に流してくださるでしょう。預言者・エゼキエルを通して、神はこう語っておられます。
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
―「エゼキエル書」第18章23節(新共同訳)
ぼくは、死すべき悪人です。決して卑下自慢で言っているのではありません。ぼくは、神によってそのことをはっきりと示されました。そして、その悪人を生かすことができるのも、また神の力なのです。
* * *
不信仰からの奇跡の復活について、ざんげの思いで綴りました。
実は、ぼくは以前にも深刻な不信仰に陥ったことがあり、今回はそれにも増して激しい不信仰でした。それでも、神はぼくをあわれんで救い出し、そのふところの深さとキリストの十字架の力を、改めて教えてくださいました。
「不信仰になってよかったぁ!」なんて口が裂けても言えませんが、神はぼくの不信仰さえも、このように信仰のかてとしてくださったのです。神のそのあわれみ深さに、これからも頼っていくことになるでしょう。
ただ、「エゼキエル書」のイスラエル人のようには、もうなりたくありません。神を礼拝する本来の人間の姿を、ぼくは死ぬまで保ちたいと思います。神とともに、神に導かれる人生を、心から感謝して生きることができますように。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)