ハレルヤ~! 安田遜です。
今日の礼拝のあと、母方の祖父母を訪ねて伝道をして来ました。「伝道」という言葉は聞き慣れないと思いますが、意味は「宣教」や「布教」と変わりません。
実は昨日、突然「祖父母のとこに行かなきゃ!」と思い立ったのです。ふたりとも80歳を過ぎているし、残された時間の少ないことに気づいたのだと思います。
そこで今回は、祖父母を通して思い知らされた伝道の難しさについて綴ります。クリスチャンがどんな思いで宣教活動をしているのか、わずかでも伝えられたら幸いです!
涙の出るほど救われてほしい人
ぼくはクリスチャンになってから、家族や幼なじみには、つたないながらもを伝えてきました。でも、家族以外の親族には、今日が初めてでした(∵;)ドキドキ
ビビッと思い立ったのはいいものの、ぼくはおしゃべりが大の苦手。仲のいい友達とでさえ、15分以上はトークを続けられません。家族の前でもほぼ無口で、ときどき声帯の震わせ方を忘れてしまうほどです。
伝道者として致命的な弱点のあるぼくですが、神はそこそこの「文才」をぼくに与えてくださいました。文章となると、まるで別人のように言葉が出てくるのです!
福音「よい知らせ」を意味する、ギリシャ語「エウアンゲリオン」の訳。イエス・キリストを救い主と信じる者が罪をゆるされ、永遠の命にあずかることを指す。
そこでぼくは、〈福音の三要素〉をまとめた資料をつくることにしました。以下に示した、救われるために信じるべき3つの要点のことです。
イエス・キリストが、
- ぼくたちの罪のために十字架につけられたこと
- 死んで墓に葬られたこと
- 3日目に復活なさったこと
罪とはなんぞやという説明から書き起こし、資料づくりにかかった時間は2時間弱。教会にブックレットとして置いてもらおうかなぁと思うほど、なかなかの出来栄えだと思いますw
さて、ぼくは少なからぬ自画自賛の思いを押し殺し、翌日に控えた祖父母への伝道のため、神にへりくだって祈りを捧げました、
神様、初めて祖父母に御言葉を語ります。どうか、いまから祖父母の心を整えてください。どうかぼくに聖霊を満たし、福音を正しく語らせてください。
すると祈りの最中、祖父母がそろってキリストの腕に抱かれている姿が、自然と頭に浮かんだのです。ぼくは涙が流れるのを感じ、その光景を現実のものにしてくださるよう熱心に祈りました。
そんなふうに祈るのは初めてだったので、「涙ながらに祈らせるからには、神様はもう祖父母を救うおつもりに違いない!」とほぼ確信し、ぼくにキリストを紹介してくださった先輩クリスチャン・Rさんにも、祖父母のためにお祈りをしていただきました!
こうしてぼくは、神が祖父母を御心に留めておられること、が霊の炎を与えてくださったことを実感し、安心して眠りについたのでした。
聖霊三位一体の神の第3位格で、神の霊のこと。キリストを信じたすべての人に宿り、聖書の啓示する真理を理解できるように、また神に喜ばれる生活を送れるように導いてくださる。
救われてほしいのに・・・福音が響かない
聖霊に満たされて迎えた朝、ぼくは礼拝の席で、いつも以上に神の恵みを感じていました。数時間後には祖父母に福音を伝えていると思うと、いつにも増して恵みを頂きたかったのです!
礼拝を終えたその足で、ぼくは祖父母の家へ向かいました。足取り軽く、ちょっとニヤニヤしていたので、ほかの通行人に怪しまれたかもしれません(^艸^)
――祖父母宅へ招き入れられると、祖父はいつものように座イスに鎮座してテレビを観、祖母は昼食のラーメンをつくってくれていました。感謝!
ぼくは仏壇に線香をあげて手を組み、壇上の遺影や仏像に対してではなく、天上の父なる神に向かって、感謝と念押しの祈りを捧げました※。
ぼくは祖父母宅へ行くと、必ず線香をあげて、神に対して黙とうします。聖書は偶像礼拝を禁止していますが、ぼくは仏像をあがめているのではなく、日本の文化的行為を通して、祖父母への礼儀を示しています。
出演者が家宝を偽物だと暴かれて落胆させられる某鑑定番組が、耳の遠い祖父のために爆音で映し流される中、祖母特製のラーメンが運ばれてきました。もやし多めのみそラーメンをすすりながら、実は、ぼくは内心ドキドキしていたのです、
あぁ、いつ話を切り出そう…。どうやって話しはじめようかなぁ? イヤな顔されたら、話をそらされたらどうしようかなぁ…?
そんなことを考えていたら、ラーメンは胃袋に収まっていて(おいしかった!)、祖母はデザートのグレープフルーツを、祖父は自分のお墓があるお寺のパンフレットを出してくれました(゜д゜)テラララ…
ぼくはなにか神に試されているように感じつつ、伝道しづらくなった状況に戸惑い、パンフレットを適当にめくっていました。適当ではいけない、ぼくも自分の話を適当に聞かれたくはないのだからと、お寺の美しさに目を留めながらも、かすかな耳鳴りに苦しんだのでした。
パンフレットをひと通り読みおえてから、ぼくはついに勇気を出しました。演劇部にいたころの感覚を思い出しながら、「ねぇ、これ読んでみて」となにげないふうを装って、祖父に例の資料を手渡したのです。
お寺のパンフのお返しとばかりに渡された冊子を、祖父は熱心に読んでくれました。なにか質問されたら答える用意があったのですが、ぼくの耳には今田○司さんの声以外には入ってきませんでした。そして――
まぁ、宗教ってなぁ、どれも同じような教えなんだやな。
祖父はそう言って、またテレビに集中しはじめました。ぼくは反論したかったのですが、あれだけ満たされていたはずの聖霊を遠くに感じ、結局沈黙することしかできませんでした…。ところが、にわかに希望の光が差し込んだのです!
祖母が突然食卓を立ち(彼女も“全宗教類似論”の賛同者でした)、なにやら封筒を持って戻って来ました。不思議なほほ笑みをたたえながら祖母が取り出したのは、現代最高と称されるアメリカ人伝道者ビリー・グラハムの小冊子でした(・_・)ナニユエ!?
手渡された小冊子を開くと、2枚の紙切れがハラリと出てきました。祖母宛ての手紙のようです。こういうシーン、ドラマや映画でよく観ますよね。だいたい、そこには思いがけないことが書かれているものです。
以前お話ししていた本をお送りいたします。また教会に通うようになられたらうれしいです。
思いがけないこと書かれてた~!!笑
ぼくは混乱と興奮をなんとか抑えて、祖母にどういうことかと尋ねました。興奮が鼻の穴から漏れてきて、ちょっと取調べ中の刑事のようになってしまいましたがw
あたし若いころ、教会に通ってたのよ、ちょっとだけ。
グラハムの本は、そのことを知った友人のクリスチャンが送ってくださったのだそうです。読まれた形跡があまりないのは残念でしたが、ぼくはそのクリスチャンの方に感謝すると同時に、「やっぱり神様は祖父母を見ておられたんだ!」と希望を取り戻しました。
ただ、祖父母の心がまだ開いていないと感じたので、いまはあの資料を繰り返し読んでもらうことにしました。祖母も福音を知りながら、長年キリストを受け入れていないわけですから…。
ぼくが伝道する理由
夕方、ぼくたち3人は、近くの公園へ散歩に出かけました。
脳梗塞のあと、格段に歩くペースの遅くなった祖父。ボルトの入った脚をかばって、杖つきながら歩く祖母。内臓に大きな疾患はないものの、“80年物”の体は、なんだかちょっと心もとない気がします。
日曜日なだけに、公園にはたくさんの人がいました。「いまこの場所が、そのまま天国になっちゃえばいいのになぁ」なんて空想しながら、芝生のまん中でゲリラ伝道してやろうかと思いました。まぁ、そんなことをできる人間ではないのですがσ^^;
ノンクリスチャンの方々に伝えておきたいのは、ぼくたちは決して教会組織の利益のために宣教をしているのではない、ということです。
もちろん、礼拝に参加する人が増え、その分献金も多く集まり、結果的に教会が発展するのは、とても望ましいことです。ただ、それは第一の目的ではありません。教会の組織的発展を主張する教会については、むしろ警戒するように勧めます。
では、クリスチャンはなぜ福音伝道に励むのかというと、それはまず、イエス・キリストの命令だからです。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって
洗礼 を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
―「マタイによる福音書」第28章18~20節(新共同訳)
〈福音の三要素〉にあるように、キリストはぼくの罪を清めるために、十字架の上で身代わりの死を遂げられました。ぼくの救いのために命を捨ててくださったキリストの命令だから、ぼくはあなたに福音を伝えたいのです!
ぼくはいま、「命令だから伝えたい」と書きました。「命令だから伝えなくてはならない」ではありません。ぼくは義務感からでも使命感からでもなく、はっきりと「伝えたくてたまらねぇ!」という思いから、このブログを立ち上げました。
つまり、ぼくの伝道は、自己満足だと言っても過言ではありません。
今日祖父母に福音を伝えたのも、祖父母にお願いされたからではなく、言わばぼくの“押売り”です。祖父母にキリストのことを伝えずにはいられなかったので、家にまで押しかけて伝道したのでした。
そして、伝えずにはいられない気持ちをひもとくと、祖父母が救われてほしい、という切望があります。ぼくは、神の支配する天国へのパスポートはイエス・キリストへの信仰だけだ、とかたく信じています。
だから、ひとりでも多くの人にキリストを信じてほしいのです!
今日、天国行きのパスポートを受け取ってもらうのが、どんなに難しいことかを知りました。
まるで天国のような公園を祖父母と並んで歩きながら、それでも神が祖父母を招いてくださっていることに、深く感謝したのでした。
別れ際、「今日渡したやつ、また読み返してね」としか言えませんでしたが、祖父母の救いを祈りつつ、定期的に訪問伝道していくつもりです。
* * *
祖父母への初伝道の記録を、ぼくが伝道する理由を添えて綴りました。
ぼくの伝道は自己満足だと暴露してしまいましたが、どこかでそれを脱却しなくてはならないのかもしれません、福音伝道は「命」に関わることなのですから。
ところで、あなたの身近な人がクリスチャンになって、いきなり伝道に押しかけて来たら、どう思われますか? びっくりするだろうし、新興教団による洗脳を疑ったりして、本能的に防御態勢を取られることでしょう。無理もありません。
でも彼らが帰ったあと、あなたに語られた御言葉を思い出す時間を、少しでもつくっていただきたいと思います。その時間が、イエス・キリストとあなただけの対談の時になるからです。どうかその時間が祝福されますように。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)