遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

神に与えられた自由意志に伴う、重大なレスポンシビリティー

 

世を去って天国への階段を上る老人

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

昨夏から約10か月間、ぼくはひどい不信仰の中にいました。苦しい身の上や理不尽な世の中のことを思うと、神に対する憎悪とも言える感情が湧き、神などいないのではないかと、本気で考えることもありました。

神の存在を実体験によって確信していながら、神の不在を信じたがっている自分に気づいたのは、初めてのことでした。それでも神の実在性を否定することはできず、それならば“神の不正”を暴いてやろう、と躍起になっていたのです。

 

そうして持ち出したひとつが、「神から授かった自由意志は、『恵みのプレゼント』と言えるのか?」というもの。信仰に立ち帰ったいま、改めてそれを考えてみると、ある大切な結論にたどり着きました。

 

 

二者択一を誤った代償

ぼくたちは果てしない宇宙の、地球という小さな惑星に生まれました。地球と太陽の位置関係は完璧で、精子と卵子の結合の仕組みは完璧で、肺に取り込まれた酸素が血液によって全身に運ばれる機能は完璧です。それらのことが偶然と進化によって成立したとは、ぼくにはとても思えません。

ミドリムシから大宇宙まで、すべての物と物理法則は、神の完全な設計に基づいて、神の手によって完璧につくられました٩( 'ω' )و

ところが、ぼくたち人間だけに注目したとき、完璧と言えるかどうかは微妙なところです。人体の仕組みは別にして、完璧につくられたはずのこの世界で、なぜ争いや不幸を経験せねばならないのでしょうか?

 

それこそが、ぼくを不信仰に陥らせた疑問のひとつでした。それに対する答えを、聖書は次のように説明しています。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

 

―「ローマの信徒への手紙」第3章23節(新共同訳)

ぼくたちの遠い先祖であるアダムとエバが、神の言いつけに背いて“禁断の実”を食べてしまってから、人間の「罪」の歴史が始まりました。それはまた、「神との戦い」の歴史でもあります――

 

悪魔はまず、アダムの妻・エバを誘惑し、まんまと“禁断の実”を食べさせることに成功します。そして、エバがアダムを(悪気なく)同じ罪に誘ってしまい、こうして悪魔は人間を支配下に収めてしまったわけです。

アダムとエバはもともと、神の楽園で、なに不自由のない人生を楽しんでいました。神のお膝元であるエデンの園に悪魔が入り込めたのは、神の許しがあったからでしょう。神がなぜそれをお許しになったかというと、人間にこう問うためだったのだと思います、

 

 

人よ、おまえたちはわたしを選ぶか? それとも、サタンを選ぶか?

 

自由意志に秘められた神の思い

神は、アダムとエバを強制的に服従させることもできました。もし神がそうしておられたら、ぼくたちはいまごろ、病気も戦争も死もないエデンの園にいて、ずっとずっと幸せな人生を送っていたはずです。

神はぼくたちを愛し、その幸せを心から願っておられるのだから、ぜひとも強制服従させていただきたかった、とぼくなんかは思ってしまいます。でも、神がそれをなさらなかったことこそ、神のぼくたちへの愛が真実であることの証なのです!

 

聖書に啓示されている神は、人格を持っておられる「生ける神」であり、人間が自分勝手につくった「宗教のカミ」ではありません。だからこそ神は、ぼくたちが自分の意志で神を選ぶことを望み、必ず神に従うようなプログラミングを、あえて人間に施されなかったのです。

ところが、アダムとエバ、およびぼくたち人間は、神の愛によって与えられた自由意志を正しく使うことができませんでした。アダム夫妻が自分の意志で悪魔を選んだように、ぼくたちもまた、神に反逆する道を自ら選び取ってしまうのです。

 

ある人は創造主である神を完全に無視・否定し、無神論者もとい“ジブン教”の信徒として、自力だけを頼みとする道を選びます。

ある人は神の存在は信じるけれども、人間おつくりになった神ではなく、人間自分たちのためにつくり上げたカミの道へ進みます。

ある人はまことの神を信じて洗礼を受けながらも、それまでの生き方や価値観を捨てられず、結局は“反神”の道にとどまってしまいます。

このように、ぼくたちが自分の意志によって神を選ぶことは難しく、それを罪だと認めることはもっと困難です。

 

でも、ぼくたちがどんなに道をそれようと、神がぼくたちを見捨てられることはありません。神は最後の最後まで、ぼくたちを、あなたを救うために手を差し伸べてくださるのです!

 

応答せよ! われらが責をキリストが負いたまえり!

〈二者択一を誤った代償〉で、人間は神の国を離れて、悪魔の支配下に移ってしまった、と述べました。そして、そのときから「神と悪魔の戦い」が始まったのだ、と。

ぼくたちは自分の意志で悪魔の支配を受け入れましたが、悪魔が神のもとからぼくたちを奪い取った、と言い換えることもできます。

 

そこで神は、ぼくたちを奪い返すべく、ある計画を立てられました。実は、それは〈天地創造〉の前には定められていたのですが。アダムとエバが奪われたあと、神は悪魔にこう宣言なさいました。

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に

わたしは敵意を置く。

彼はお前の頭を砕き

お前は彼のかかとを砕く。

 

―「創世記」第3章15節(新共同訳)

お前」は悪魔を、「」は悪魔に勝利する者を指しています。そして、長きに渡る「神と悪魔の戦い」に勝った者こそが、

 

イエス・キリストです!

 

なんと、あの十字架刑の4000年以上も前に、ぼくたちの救いのため、自ら人間となって十字架につくことを、神であるキリストは決めておられたのです。

ぼくたちが自由意志によって神を拒んだ罪、また神の正しさに到達しえない罪を、キリストご自身が、死をもって清算してくださいました。そのことによって、ぼくたちを完全に包囲していた悪魔の網は破れ、悪魔の敗北は決定的になったのです。

 

ところが、悪魔がこの地上を引き続き支配することを、神は主権によって許しておられます。それはやはり、あなたにこう問うためです、

 

あなたは、わたしのもとへ帰って来てくれるか? それとも、サタンのところにいるほうがいいか?

 

悪魔が逆転勝利することは決してありません。悪魔にできることはただひとつ、神が愛しておられる人々を、ひとりでも多く地獄へ道連れにすることだけです。そして、その魔手から逃れる方法も、たったひとつしかありません。それが、

 

イエス・キリストの十字架を信じること。

 

キリストが自分を救うために命を捨ててくださった、と心から信じるとき、実感はないかもしれませんが、その瞬間に悪魔の支配から解放されます。

ぼくたちは(自覚のあるなしにかかわらず)自分の意志で神のもとを去ったのですから、同じく自分の意志で神のもとへ帰る必要があるのです。

 

ところで、なにかの本で「神に応答することが人間の責任である」という論説を読みました。なんの本かは覚えていないのですが、その著者は、

レスポンス(response =応答)とレスポンシビリティー(responsibility =責任)が同じ語源を持つこと

に注目したようです。ぼくたちは、神によって自由意志を与えられています。そして、その「自由」の意味をはき違えることなく、神の恵みに応答することが、ぼくたちの責任なのでしょう。

 

それはまた、次のように言うこともできます。

ぼくたちは自由意志の使い方を誤り、神のもとを自ら離れていきましたが、神はそのことをぼくたちの自己責任とはなさいませんでした。

ぼくたちのあやまちの責任を、神は・イエスの命を賠償金として、一切不問に付してくださったのです。キリストがご自分の命と引換えに、ぼくたちひとりひとりの命を買い戻された、ということです!

 

ぼくは自由意志を「神の自己満足」だと思っていました、事実それによって苦しむ羽目になったから。でも、神はぼくたちをおもちゃのように弄ばれる方ではありません。

神が望んでおられるのは、ぼくたちとの一対一の真剣な語り合いであり、双方向の愛のきずななのだと思います。

 

* * *

 

人間の自由意志について、聖書の教えをもとに考え直したことを綴りました。

この世が悪魔の支配下にあることは受け入れがたいでしょうし、人のことを悪魔に支配されていると断じるなんて、失礼だと思われたかもしれません。でも、聖書の世界観を正しいとするなら、それが世界の実情なのです。

地獄につながれたぼくたちの足かせを、イエス・キリストは、ご自分の血によって砕くことができるようにしてくださいました。神はいま、それに対する応答を待っておられます。ぜひキリストをあなたの救い主として受け入れてください!

 

いまは答えられなくても、あなたがどうにもならない苦境に直面したとき、「生ける神」を思い出してほしいと思います。そのとき、神があなたに御顔を向けて、あなたの応答を喜んで受け入れてくださいますように。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)
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