遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

神頼みをする前に自力本願で生きてみたい!

 

手を突き出して拒絶する男性

この記事は、番外編カテゴリーに分類されています。

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくが信仰から離れたいちばんの理由は、神に関する矛盾と疑問に突き当たったからです。その疑問はだれに答えられるものでもなく、自問自答しても、思春期によくある禅問答のようで、考える意味はほとんどありません。

それでも考えてしまうのは、単純に、ぼくが思索にふけることを娯楽にしているからです。そういうことを娯楽にできてしまうほど、ぼくは暇な人間なのですw

 

さて最近では、信仰が冷めたのには、もうひとつくらい別の理由があるような気がしています。それは、神にすがって努力を怠る自分を赦せなくなった、ということ。

 

この世には自分の力では及ばないことがたくさんありますが、自分の努力次第でいくらでも変えていけることも、同じようにたくさんあるものです。

ぼくはもともとなまけ者で、自分の尻に火をつけることもない性格なのに、なぜか理想ばかり大きくて困ります。いままで理想の自分に近づこうと、ずいぶん思いきった行動に出て、そこそこのお金を費やしたこともありました。それでも生来のなまけ癖は大敵で、結局なにも変えられなかった過去ばかり(=_=)グヌヌ

そんなぼくにとって、この世でもてはやされている価値観を痛快なまでに破り捨てる聖書の言葉は、なにかぼくの自己嫌悪や劣等感を慰めてくれるものでした。ぼくがキリストを信じたのは、もちろんもっと深い感慨があったからですが、世にあふれる価値観を喝破する聖書に心強さと言うか、虎の威を借る気持ちを抱いたのは事実です。

 

聖書は、いつか過ぎ去ってしまうこの世のこと、例えば出世とかお金稼ぎとか自己実現とか、そういうことにではなくて、目に見えない永遠のことに、イエス・キリストのを告げて神の国を広めることに精を傾けるよう教えています。

ぼくはずっと自分の存在に意味を欲しかったので、そういう部分でも、聖書は心のよりどころになりました。もうこの世で活躍することばかり夢見ず、永遠の意味を持つ宣教活動に注力しようと、ぼくはそれまで以上の情熱を持ったものです。

その陰で、この世で自分の力を試してみたい、自分の力で他を圧倒する経験をしてみたいという、小さな野心もくすぶりつづけていました

 

 

でもいままでを振り返ってみると、なりたい自分に少しも近づけなかった自分しか見つけ出せず、野心など実現できそうにない。そもそもぼくは、野心を抱いていいような人間ではないのかもしれません。

悔しいけれど自分には無理だと諦める一方、野心自体が無用の長物なのだと、世間の出世競争や有名になるための他人の努力を、聖書の言葉を盾にして笑ったりしていました。それは信仰うんぬんの話ではなく、まぎれもない負け犬根性です。

 

「出世をするから、神に認められるわけじゃない」

「大金を稼いでも、それを死後の世界まで持って行けるわけじゃない」

「夢を叶えることが、神の望んでおられる生き方ではない」

 

そういう言葉を純粋な信仰によって受けとめ、世間の価値観を尊重しながらも、自分はそれを手放して、新しい生き方に移っていったクリスチャンはたくさんいます。ぼくは、そういう立派な態度の信仰者ではなかった。さっき書いたように、聖書の威を借りて、負け組である自分をみじめにも慰め、また正当化していたのです。

 

そういう生き方をこの先もしていくのかと思うと、ヘドが出ます

 

出世なんてくだらないと言うなら、勝っても負けてもいいから、一度はその競争に正々堂々と参加してから言いたい。お金を稼ぐことも夢を叶えることも、それは人生の重要なタスクではないと言うなら、一度でも本気でそのことに取り組んでから言いたい。そうでなければ、ただの負け犬の遠吠えでしょう。

出世やお金稼ぎに興味がなければ、なんの引け目もなく言えるかもしれませんが、ぼくの中には確かに、消しがたく、それらへの憧れがあるのです。

 

 

キリストへの信仰心があったのは事実ですが、その信仰を自己嫌悪から意識をそらせるために、また、社会で自分を立たせることのできない自分を正当化するために、ぼくは利用していました。

そのことを正直に認め、この世で自分の能力を使い尽くし、それを自分にも他人にも認められてから死にたいと思ったとき、はっきりと「信仰が邪魔だ!」と感じたのです。そのことには、神について答えられざる疑問を抱いたことも手伝ったのでしょう。

 

 

30歳過ぎて、人並の努力もしないようじゃダメだよな。そういう人間は、いずれ必ず高いツケを払わされることになる!

 

静かな危機感がどこから芽生えたのか、自分でもわかりません。ただ、このままではいけないと思ったのでした。そこで信仰から離れる選択をしたことが、吉と出るか凶と出るか

それは近い将来にわかることとして、いまのぼくには「信仰」という生き方はできません。杖を捨て、自分の力だけで生きる経験をしておきたいのです。

 

 


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画像の出典(Pixabayより)