遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

寝ぼけた頭に突如浮かんだあるワードに意味を見出そうとする試み

 

タオルケットにくるまった寝ぼけ眼のパグ

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

突然なんの脈絡もなく、ある言葉や思考がポンッと思い浮かぶことが、あなたにもあると思う。ぼくは今日、ものすごく久しぶりにそんな経験をした。

朝起きた瞬間に、「エニー・プア・プライズ」という言葉が頭に浮かんできたのだ。別に夢を見ていたわけでもないのに、いったいなんのことだろう?

ぼくはクリスチャンだから、そういうことがあるとスルーできない。神さまがなにかメッセージを送ってくれているのではないかと、そう考えてしまうのだ。

 

プライズは、英語で「賞」という意味だ。だからぼくはまず、聖書のある御言葉を思い出した。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになるを得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 

―「フィリピの信徒への手紙」第3章13節b~14節(新共同訳)

この「賞」とは、天国へ帰ったときに神さまからもらえる報酬や、キリストの品性を身につけて完全になることを言っている。

 

それで神さまが、「遜よ、なにを怠けているのだ。走りつづけなさい!」と叱咤激励してくれているのかと思ったのだ、怠けている自覚があるからw

でも引っかかるのが、その前の形容詞。プアは「貧しい」の意味だが、ほかにも語義があるのか調べてみたら、「少ない・不十分な・劣った」とあった。

神さまからの報酬というのは、想像できないほど素晴らしいものだと思うのだ。でも「エニー・プア・プライズ」だと、素晴らしいとは程遠い印象を受けないだろうか?

 

「遜よ、なにを怠けているのだ。あなたへの報酬がエニー・プア・プライズでも、文句は言うなよ!」

 

いや、ただたんに怒られてるwww

ぼくの受けるべき報酬がどんなに貧相な賞でも、それに対して不平不満を言う資格は、ぼくにはないと。怠けてるんだからね(._.)

 

 

もう一つ、神さまが言いそうなことで考えると、「どんなにつまらない賞でも、それを受けたことを感謝しなさい」ということだろうか?

神さまは、普通の人間にはとてもできそうにないことを、さらっと言うものだ。だって、つまらないものはつまらない。それを心からありがたく思いなさいと・・・。

 

例えば、小さな子どもに牛乳ビンの蓋でつくったメダルをかけられたら、本音で「ありがとう^^」と言える。でも、同じことを中2男子にやられたら、間違いなくにらみつけるだろう。

まぁそれは冗談で、とにかく神さまは、あらゆることに感謝しろと言うわけだ。ぼくにはその態度が足りないぞと、はじめはそう言われているのかなぁと思っていた。

 

――が、それは間違いだった。もはや根本から間違えていた^^;

自室の掃除機がけをしながら、「エニー・プア・プライズ」とはなんぞや、とぼんやり考えていた。そうしたら、決定的な間違いに気づいたのだ!

実は、頭に浮かんだのは「音」ではなく「文字」だった。ぼくはそれを読んだわけだが、そもそも読み方を間違えていた。ぼくがずっと「any poor prize」と勘違いしていた文字は、

 

「any poor praise(エニー・プア・プレイズ)」

 

だったのだ・・・。中高時代に学年トップクラスの成績を保持させていたぼくの英語脳は、すっかり鈍ってしまっていたようだ。それで、素直に辞書を引いたw

praise[preiz]

  1. U(・・・を)ほめること, 賞賛(of).
  2. U(神への)賛美, 崇拝.

 

―山岸勝榮編『スーパー・アンカー英和辞典 第3版』

 

「神への賛美」ほほぉ、なるほど。

それがわかったからと言って、疑問がすっきりと解決したわけではない。でも、なんとなく怒られてはいなさそうだと思って、ひとまず安心した。

むしろ、ぼくが神さまに対するときのヒントをくれたのではないか、とも思えるのだ。それはどういうことかと言うと――

 

 

実を言うと、ぼくはここ最近、なんとなく気分が沈んでいる(たぶん梅雨だから)。その憂鬱にイライラして、神さまに八つ当たりさえしていた。

ただ心の奥には、神さまはどんなときでも讃美されるべき方だ、という認識が常にあった。それは、義務感からそう思うわけではない。

でもメランコリックなぼくには、神さまをめ称えるだけの気力がなかった。讃美の祈りを捧げようとしても息が漏れるだけで、心の中で念じることもできなかった。

 

そういうダメな自分を責めないように、ぼくは神さまに当たり散らしてしまうのだった。ほんとうは讃美しなければならないのに、まったく逆のことをしてしまう。

「ぼくはいまこんなですけど、あなたを讃め称えます!」と無理にでも言いさえすれば、たぶんだいぶ楽になったと思う。そういうもんなんです、ほんと( ̄∀ ̄)

その選択を、ぼくはできなかった。手っ取り早くスカッとしたかったから、駄々をこねる子どものように、八つ当たりを選んでしまったのだ・・・。

 

それでつい先日、やっとなんとか鬱抜けした。そして、神さまに対して罪を犯したことや、自己れんびんに陥って世の中を憎んだことなどを、一つ一つ懺悔した。

でもやっぱり、神さまへの讃美や救われた喜びが、心の底からブッシャ~と湧き上がってくることはなかった。それはいまも変わらない。

間欠泉のように噴き上がる喜びがあればいいのだが、じんわりと染み上がってくる感じで「あなたを讃美します」としか言えないのだ。そんなときの、エニー・プア・プレイズ。

 

「どんなに小さな讃美でも、わたしはうれしい」

 

そう言ってくれたのかなぁ? ぼくがそう思いたいというのもあるだろうが、讃美しないよりは、するほうがいいに決まっている。もちろん、建前だけでは無意味だが!笑

 

「ほんの少しでもいいから、いつもわたしを讃美してほしい」

 

そういうメッセージでもあったかもしれない。

いまさらだが讃美とは、「あなたは素晴らしい方です」とか「あなたの御名は永遠に讃め称えられますように」とか、神さまを讃めちぎることだ。

聖書の神さまは、ほんとうにそうされるに値する。全宇宙とその秩序をつくり、ぼくたちを天国へ招くために、一人息子・イエスを十字架の上で捧げたのだから!

 

イエス・キリストは人間の罪をすべて背負い、自ら生け贄となって十字架の上で死んだ。

ぼくたちが救われるために、神さまはご自分が犠牲を払う方法を選んだのだ。・・・そんな神は、ほかにはいない!!

 

讃美できないやら讃美されるべきやら、前後で矛盾したことを言っているが・・・、結局は讃美することしかできない。神さまとは、そういう存在だ。

人生のことや世界のこと、歴史のことや宇宙のこと、いろいろなことを突き詰めて考えてほしい。すると、「神」という絶対的な存在に、イヤでもたどり着くはずだからw

 

* * *

 

「エニー・プア・プレイズ」の解釈が正解なのか、いまだに自信はありませんw そもそも、なんで日本人なのに英語が、しかも読み間違えるような英語が浮かんだんだろう??

クリスチャンの方々にはぼくの“霊的未熟さ”を暴露することになりますが、この疑問について、いま初めて聖書を開いてみました――

大いなる主、大いに賛美される主。

神々を超えて、最も畏るべき方。

 

―「歴代誌 上」第16章25節(新共同訳)

 

神さまがいいオチを与えてくれたところで(笑)、今日は失礼します。あなたもいつか、「大いに賛美される主」に出会えますように。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
  • 山岸勝榮編『スーパー・アンカー英和辞典 第3版』(学習研究社)

画像の出典(Pixabayより)