遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

自分を愛するとは、自分が愛されていると知ることだ

 

「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31)

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

あなたはご自分のことをお好きですか? また、愛しておられますか? ぼくは自分を嫌いではないけれど、どこか認められない部分があり、「自分なんて」とすぐ卑屈になってしまいます。

その弱さを隠そうと虚勢を張って、自他を傷つけてきた過去を思うと、なおさら自分がイヤになります。先日、そういう傷をつつかれる体験をしました。と言っても、夢の中での話ですが。

夢から学びを得たことが、あなたにもあると思います。ぼくは先日見たその夢から、ほんとうに自分を愛するとはどういうことかを学びました。今回はそれについてシェアします!

 

 

いびつな〈自分への愛〉を暴露した夢

小さなころから、ぼくはよく夢を見ます。だいたいの人は目覚めた瞬間に忘れるようですが、ぼくはほとんど覚えているのです。どれもが非現実的なのに、その記憶があまりに鮮明なものだから、夢占いのサイトで細かく調べることもありました。もちろん、クリスチャンになる前の話です。

イエス・キリストを信じてからは、占いが神の忌み嫌うものであることもあって、そういう類にはきっぱりと背を向けました。ただ、夢に助けられることは少なくありません。

例えば、ぼくは夢のおかげで車の免許を取りました。ものすごく上手に運転する夢を見て、そのときの感覚のままにクラッチを踏み、ハンドルを切ることで、ほぼ完璧にクリアできたのです!

 

余談が長くなりましたが、このように「夢の効用」は確かにあります。冒頭に綴ったとおり、今回ぼくが見た夢もまた、少なからぬ効用をもたらしてくれました。まずは、夢のあらすじをお目にかけましょう――

 

ニューヨークのおしゃれなカフェテラスのような場所で、同じ教会に通うHさん、前の職場で同僚だったTさん、ぼくとほか数人が、ぼくの「悩み事リスト」を囲んでいるところから、夢は始まりました。

リストには、職を転々としてきたぼくの過去の経歴も細かく書いてあったようですが、Hさんたちはその汚点を少しも笑うことなく、慰めながら受け入れてくださいました。でも(予想どおり)、Tさんだけは違いました。

彼は自分の意見を持ちながらも、周囲と協調できる器用な人で、ぼくのひそかに尊敬する人物でした。一本筋が通っているというか、発言のすべてに説得力があるのです。

彼はリストのいちばん下を指さして、ぼくがいまだに親もとで暮らしていることを指摘されました。それはぼく自身も後ろめたく思っていることで、正直、触れられたくない部分でした。

 

夢の中のぼくは、Tさんの論難を黙って聞いていることができませんでした。腹の底から怒りが湧いてきて、ものすごい剣幕でTさんを怒鳴りつけはじめたのです(・_・)ドシタ

なぜこんなに怒るのか自分でもわからないまま、ぼう然とするTさんに、これでもかと罵声を浴びせつづけます。矛先はなぜかHさんたちにも向けられ、「どうせみんなもTさんと同じ気持ちなんだ」と被害妄想が膨らむのを感じました。

ぼくは怒りに震えながらその場をあとにし、地下鉄の階段を下りながら激しく後悔しました。そして、ポツリとつぶやきます、

 

 
自分への愛

 

ゆがんだ〈愛〉は自分も他人も傷つける

目が覚めてから、ぼくは自分の過去を考えるともなく考えました。〈自分への愛〉によって失敗したことが何度あっただろう、と。その〈愛〉が間違った愛であることに、ぼくはなんとなく気づいていました。

夢の中でTさんを罵ったのも、Hさんたちにあらぬ被害妄想を抱いたのも、ふがいない自分を守るための〈自分への愛〉だったのです。それらの行為を後悔したのは、その〈愛〉の正当性を無意識的に疑っていた証拠なのだと思います。

 

〈自分への愛〉がゆがんでいるから、人間関係がうまくいかない。人間関係をうまく築けないから、仕事にもつまずいてしまう

 

夢の中の悩み事リストに、いくつもの職場を転々としてきたことが、「汚点」として挙げられていました。ただ、ぼくがほんとうに汚点だと感じていたのは、それではありません。

仕事を長続きさせられなくしている“意気消沈”と、それにつながる自分の「振舞い」、そして、その元凶であろう〈自分への愛〉こそが汚点だったのです。どういうことかというと――

 

ぼくは18歳で高校を卒業してすぐ、某テーマパークのアトラクションスタッフとして働きはじめました。接客業は不安、覚えることは膨大、そのうえ専門的技術も必要でした。

それでもだんだん慣れてやりがいを感じるようにもなり、いつしか頼られる存在となりました。職場で頼りにされるのはうれしいことですが、その期待が〈自分への愛〉を刺激することになります。

テングになったのです∑(゜д゜)

まぁ、そういうことは珍しくないでしょう。新社会人が評価され、それを実質以上に受け取ってしまって、自分を「できる人間」だと勘違いするのはよくある話です。でもぼくの場合は、そんなかわいいものではありませんでした笑

 

まず、評価の対象はぼくの「実務能力」でした。それも抜きん出て優秀だったわけではないでしょう。それがいつの間にか、ぼくの中で「人間性」への評価にすり替わっていたのです。

ぼくは根拠のない自信というか、虎の威を借りた優越感というか、中二病的な万能感にとらわれて、次第しだいに人を見下すようになっていきます

 

Mのやつ、またこの前と同じミスしてんのか。もう相手すんのや~めよ

Sくんはいつになったら仕事覚えんのかなぁ? あんな無能はクビにすりゃいいのに

Iくんは仕事もできて人気もあるけどなんか気に食わないから無視しとくか

 

とまぁ、こんな具合に、いわゆる「マウント」を取るようになったのです。ぼくは表向き“善人”で通っていたので、ぼくのマウント行為には、たぶんだれも気づかなかっただろうと思います。タチわるぅ(=_=)

でも、被害者本人がだれかに訴えることは十分ありえるし、ぼくの陰湿な本性が一部に知れ渡る可能性もゼロではありません。もしかしたら水面下では、ぼくへの嫌悪がもう広がっているかもしれない

そんな懸念が態度を改めさせることもなく、ぼくは自分を正当化するようにマウントを続けました。さらに、ぼくの本性を知ったかもしれない人にも矛先を向けて、勝手に新しい敵をつくってしまったのです。その結果は、

 

孤立と孤独。

 

職場での評価は相変わらず悪くなかったし、仲のいい同僚もたくさんいました。でも、ぼくはもう被害妄想にとらわれていますから、友達を純粋に友達として見られないわけです!

その孤立感と孤独感に気力を奪われて、ぼくの仕事への情熱はすっかり冷めてしまいました。それ以降、この負のループは病癖のごとく“意気消沈”を生み出して、ぼくの最大の悩みの種になっていきます。

 

〈自分への愛〉を育てる場所

両親にキスされる子ども

マウントを繰り返した結果、ぼくはついに退職せざるを得なくなりました。複数の被害者が上司に告発したことで、自主退職を促された――のではありません。職場仲間への一方的な敵対意識と、被害妄想による孤立感で、ぼく自身が職場にいづらくなったのです。

初めての職場を3年で辞めてから、次の職場でもその次の職場でも、ぼくは同じ失敗を懲りもせず繰り返しました。その結果は完全に身から出たサビですが、自分ではほんとうにどうしようもなかったのです!

たとえるなら、舟が川に流されるようでした。川の濁りに気づいて、一度は自力で清流に漕ぎ着くのですが、その清流は元いた川につながる支流で、いつしか濁った本流に戻され、結局は“意気消沈”の滝つぼに流し落とされてしまう

 

ここでいう「川」こそが、〈自分への愛〉なのだと考えています。ぼくの〈愛〉は、どうして濁ってしまったのでしょうか? ここからは、そのことを掘り下げてみたいと思います。

 

ぼくたちはだれでも神によって、神に似せてつくられました。神こそは愛であり、それゆえぼくたちは、初めから愛を求めるようにプログラミングされているのです。人間が社会を構成するのは、第一義的には、お互いに愛し愛されるためなのでしょう。

そして、社会的組織のいちばん小さな単位が、家族です。

よく言われることですが、ぼくたちがいちばん初めに出会う他人として、両親がいます(いや助産師でしょ、という屁理屈はなしでw)。両親やそれに代わる人物の愛をたっぷりと受けることで、ぼくたちの〈自分への愛〉は養われていきます。それは、心理学でも立証されていることですね。

 

 

ぼくはここにいていいんだ! 生きてていいんだ!

 

冒頭で、自分の中に認められない部分があると語ったように、ぼくにはなにか欠けているのではないか、と常に思っていました。その欠けとはほかでもない、「そのままの自分でいていい」という自己肯定感でした。

ぼくが職場で不毛なマウントを繰り返したのは、だれかを見下して相対的に自分の価値を上げることで、欠乏した自己肯定感を補うためだったのだと思います。その方法が見事なまでに裏目に出たことは、前のセクションで証言しました。

先述のとおり、自分の存在に関わる感覚は、心の柔らかい幼児~少年期に特に養われます。ぼくの生まれ育ったのは残念ながら、〈自分への愛〉が清流になるには不純物の多い、いわゆる機能不全家庭だったのです――

 

まっすぐな〈愛〉を取り戻せ!

ぼくはアメリカとロシアの仲を具現化したような、不和な両親のもとに生まれました。仕事人間で家庭に関心の薄い父と、ややヒステリックで強権的な母は、顔を合わせれば不機嫌になるような仲でした。政略結婚でもないのに、なぜ一緒になったのでしょうか(ˇωˇ)

父と母が一緒にいるとき、つまり“冷戦”の現場に身を置くとき、ぼくはいつも緊張していました。ただ幸運なことに(?)、父は海外への単身赴任が多く、長期間家を離れることも珍しくありませんでした。

その間は必然的に“停戦状態”になりますが、また別の問題が起こります。母がぼくの耳に、自分で選んだ男の悪口を吹き込むのです、

 

 

あの人はほんと、家のこと、なんにもしないわよね。あんたの面倒も全然見てくれないしっ!

 

父は家族を顧みない人で、息子のぼくにも関心がないのだ、と言うのです。それは真実ではないと思いますが、ぼくは洗脳に近いかたちで、父とはそういう人間であると思い込まされてしまいました。

ぼくから見た父は、幼稚園や学校の先生以上の「他人」で、父自身もまた、ぼくにどう接していいかわからない様子でした。その関係性は、30年がたったいまも変わっていません。

自己肯定感の欠如のせいなのか、ぼくは自罰的な性格で、あらゆる不都合は自分でまいた種なのだと言い聞かせてきました。問題の根は親子関係にあるのではないかと思いながらも、責任転嫁になる気がして、その疑念に蓋をしていたのです。

 

夢の話に戻りますが、ぼくはTさんに「いつまでも実家にいちゃダメだ」と言われて激高したのでした。Tさんのセリフはそのまま、ぼくが自分自身に呪いのように繰り返していた言葉であり、それに対する怒りは、心の奥底に追いやっていた感情の爆発だったのです、

 

おれだけのせいにすんじゃねぇよ!!

ぼくの経験してきた、特に社会に出てからの不都合は、確かにいびつな〈自分への愛〉の結果です。でも、その〈愛〉をゆがませた責任は、ぼくだけにあるのではありません。幼いぼくの無防備な心に傷をつけ、〈自分への愛〉を発達不全に陥らせた原因は、両親です。

 

神は愛を求める人間としてぼくをつくり、あの父とあの母の間に宿った命に、ぼくの霊を吹き入れてくださいました。あの両親がぼくの〈愛〉を育むのに力不足だろうことは、当然わかっておられたでしょう。

それでもあえて彼らにぼくを託されたのは、ぼくが家庭とは違うところで〈自分への愛〉を養い、その過程を通して神の栄光が現れるためだ、と信じています。ぼくの心の傷までも用いて、より大きな愛に気づかせるためだ、と信じています。

 

キリストの弟子・パウロを通して、神は「愛」を次のように教えています。

4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

 

―「コリントの信徒への手紙 一」第13章4~5節(新共同訳)

ゆがんだ〈自分への愛〉をぼくに教え込んだ責任を両親に返し、ぼくはその〈愛〉をまっすぐにするプロセスを始めなければなりません。それはもう親の仕事ではない、と神はおっしゃるのです。

 

〈自分への愛〉に導いてくれるまことの親

あなたの親御さんは、あなたをいっぱい愛してくださいましたか? それともぼくのように、あるいはもっとひどく、あなたの繊細な心を傷つけてしまわれたでしょうか?

両親の承認を受けられなかったぼくたちを、神は無条件に愛してくださいます。ぼくたちが歩けなくなったら、歩けるようになるまで背負ってくださりもします。ただ、歩けるようになるまで、です。

 

神はぼくたちを甘えさせてくださっても、決して甘やかす方ではありません(´∀`)パパァ!

 

それは、神こそがぼくたちを真に愛しておられる、ぼくたちの「まことの親」だからです。神は、地上の両親が役割を十分に果たさず、幼いぼくの心を傷つけたことについて、いずれ正当な裁きをお下しになるでしょう。

一方、傷つけられたぼくに対しては、「おまえの両親をゆるしなさい」とおっしゃいます。それは、両親への裁きを神に委ね、ぼくが自分の人生を歩みはじめるためです。とは言え、ゆるすのは簡単なことではありませんが

地上の両親もまた傷を抱え、ゆがんだ〈愛〉の中で生きてきたのかもしれません。だから、ぼくを上手に愛せなかったのかもしれません。父も母もひとりの人間、神の御前に罪ある被造物なのですから。

 

何度も言いますが、ぼくたちは愛を必要とする存在です。それなのに、人間はお互いをほんとうには愛することができません。『ハイデルベルク信仰問答』いわく、わたしたちは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです

ぼくたちをまことの愛で抱き寄せてくれるのは、神をおいてほかにおられません。その愛がどれほど大きいか、神は次のように宣言してくださいました。

わたしの目には、あなたは高価でたっとい。

わたしはあなたを愛している。

だから、わたしは人をあなたの代わりにし、

くにたみをあなたのいのちの代わりにする。

 

―「イザヤ書」第43章4節(新改訳2017)

そのような御言葉を聞くと、ぼくたちはつい「そんな気休めはもういいから」と言いたくなります。でも、そうではないという証拠を、神は2000年前に示してくださいました。

 

十字架が、神の愛が真実である証拠です!

 

神はぼくたちのために、愛する・イエスを十字架の上で捧げられました。それは、ぼくたちがイエス・キリストを信じて罪のゆるしを受け、神との「親子関係」に立ち帰るためでした。

ぼくたちはいびつな〈自分への愛〉で自分自身を損なってしまいますが、神は一身同体のキリストを捨てることによって、ぼくたちへの愛を示してくださいました。

ぼくは自分を愛そうとするために、もはや他人を見下す必要はありません。心の傷をなめて“悲劇のヒーロー”でいつづける必要もありません。無理して人々の称賛を勝ち取る必要さえありません。

 

神様はそのままのぼくを愛してくださるんだ!」と知ることこそ、自分を愛する第一歩なのですから。

 

* * *

 

長くなりましたが、成熟した人生に不可欠な〈自分への愛〉について、夢をきっかけに考えたことを綴りました。

ぼくは複数の方々の尊厳を無視し、彼らを故意に傷つけてきました。それは自己防衛のための苦肉の策でしたが、まったく誤った手段だったことを認めて、被害者の方々に謝罪いたします。

心の傷は目に見えないし、原因究明も一筋縄ではいきません。しかも癒されるのに長い時間がかかり、一生を費やすのではないかと思えるほどです。でも、神の御業は着実に働いています。

 

心の傷は忘れたいほどツラいものですが、神の栄光はそういう弱さにこそ現れるのです。ぼくたちのまことの親である神が、思いがけない方法で〈自分への愛〉を学ばせてくださることを期待しています。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
  • 『聖書 新改訳2017』(新日本聖書刊行会)
  • 吉田隆=訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社)
画像の出典(Pixabayより)
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