ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくは小さなころから、よく夢を見ます。だいたいの人は目覚めた瞬間に忘れちゃうらしいですが、ぼくはほとんど覚えているんです、十何年も前に見た夢まで。
人体模型と心臓でキャッチボールする夢・マサイ族と一緒に“ナメクジ怪獣”を退治する夢・平安京のお姫さまに「父のカタキ~!」と言って殺される夢・・・。
いやぁ、実に奇妙な夢を見てきたものですwww
一つひとつが非現実的なのに、あまりにリアルかつ鮮明に覚えているので、なにか意味があるんじゃないかと、夢占いのサイトで細かく調べることもありました。
でも、聖書では占いの類が全部禁じられていますから、クリスチャンになってからは、どんなに意味ありげな夢を見ても、「ただの夢」として済ませることにしています。
それでも、夢からなにかを学ぶことってありませんか? ぼくは先日ある夢を見て、ほんとうに自分を愛するとはどういうことかを学んだので、今回はそれをシェアさせていただきます!
自分の根っこを腐らせる自己愛
ぼくは車の免許を取るとき、1回目の実技試験を開始5分くらいで失格になり(左折するとき歩道に乗り上げたんです・・・)、2回目の試験でなんとか合格しました。それは夢のお蔭です。
どういうことかと言うと、めちゃくちゃ上手に運転する夢を見たのです。その感覚を体が覚えていたようで、ほぼ完璧にクリアできました!
・・・ただ、それからはペーパードライバー。断捨離精神が暴発し、使わない免許証が財布の一部分を占めているのに我慢できず、ついに更新しないで捨てちゃいました(ФДФ)
――という余談は、夢から学ぶことの一例ですw
今回ぼくが見た夢は、ちょっとした痛みを伴っていました。心の痛みですね。過去の失敗というか、自分の人格的な欠点を指摘されるような夢だったのです・・・。
ぼくはいままで、7か所ほどの職場を渡り歩いてきました。同じ仕事を続けていると、必ず原因不明の“意気消沈”に襲われるのです。はじめは情熱ムンムンなのに、だんだん無気力になってくる。
だからと言って、なんの目的もないまま入退職を繰り返していると、当然、自立に必要な最低限の貯蓄も得られないし、社会的な信用も築けません。同年代の友達はもう所帯持ちなのに、ぼくはまだ自立さえできていない。
そんな現状が恥ずかしくて、あの“意気消沈”の正体がなんなのかを考えてきました。自分の甘えや怠慢にすぎないのか、それともなにか精神的な問題があるのか・・・?
そのことについて、今回の夢があるヒントをくれました。
それは、自分への過度な愛情が“意気消沈”の原因だったかもしれない、ということです。ぼくの見た夢のあらすじをお聞かせしましょう。
同じ教会のSさん、以前の職場で同僚だったUさん、ぼくとほか数人の人たちが、ぼくの悩み事リストを囲んでいるところから、夢は始まります。リストには、ぼくの過去の経歴も書いてありました。
Sさんたちはぼくの過去の汚点を少しも笑うことなく、慰めながら受け入れてくれました。でも(予想どおり)、Uさんだけは違いました。
Uさんは自分の意見を持ちながらも、周囲と歩調を合わせられる器用な人で、ぼくのひそかに尊敬する人でした。一本筋が通っていて、言うことの一つひとつに説得力があるんです。
それでUさんはリストの一番下を指さして、ぼくがいまだに親もとで暮らしていることを難じはじめました。正直触れられたくなかった部分で、耳が痛かったです・・・。
夢の中のぼくは、それを黙って聞いていることができませんでした。もう腹の底から怒りが湧いてきちゃって、すごい剣幕でUさんを怒鳴りつけたんです。一同唖然(・_・)
怒れる遜はとまりません。なんでこんなに怒っているのか自分でもわからないまま、あっけに取られているUさんに、これでもかと罵声を浴びせつづけます。
怒りの矛先はなぜかSさんたちにも向けられて、「どうせみんなもUさんと同じ気持ちなんだ」と勝手な被害妄想がふくらんでいく・・・。
ぼくは怒りに震えながらその場をあとにし、地下鉄の階段を下りる途中で激しく後悔しました。そして、ポツリとつぶやきます、
「自分への愛・・・」
目が覚めてから、ぼくはそれまでの自分のことを考えるともなく考えました。〈自分への愛〉によって他人を傷つけたことが、何度あっただろうって・・・。
夢の中でUさんをののしったのも、Sさんたちにあらぬ被害妄想を抱いたのも、ふがいない自分を守るための〈自分への愛〉だったのです。
夢での「Uさん vs ぼく」の対立は、「自分を叱咤するぼく vs 自分をかわいがるぼく」の葛藤のメタファーだったんだと思います。
結局、「自分をかわいがるぼく」は〈自分への愛〉を盾にして、「自分を叱咤するぼく」の意見を悪玉として突っぱねてしまいました、ほんとうは聴かなきゃいけない意見だったのに。
〈自分への愛〉って言いますけど、ねじ曲がった自己愛は盾になんかなりません。それどころか他人を傷つける矛になって、挙げ句の果てには、自分を外界から隔絶するバリケードになってしまうのです。
過剰な自己愛を持つ人というのは、そのバリケードの内側で自分を甘やかすだけ甘やかして、孤独の中で自分の根っこを腐らせるのです。
さて、この自己愛がどうやってぼくを“意気消沈”に陥れたのでしょうか? ちょっと恥ずかしいですが、ぼくの過去をたどりながら検証してみます。
自己偏愛者の末路
ぼくのゆがんだ自己愛については、両親の仲が
でもそれを語ろうとすると、どうしても責任転嫁の論調になってしまいそうなので、ちょっと悔しいですがここでは沈黙します(-.-;)
「はいはい、そういう背景があるのね」という親切なご理解を頂きたい下心を抑えきれず、事実として簡潔に綴っておきました。どうぞご容赦ください。
さて、ぼくは18歳で高校を卒業してすぐ、某テーマパークのアトラクション従業員として働きはじめました。なんと、それが人生初のお仕事です!
接客業は不安・覚えることがたくさん・専門的技術も必要・・・。それでもだんだん慣れてきて、やりがいも感じ、いつしか頼られる存在となりました。職場で頼りにされるって、うれしいことですよね!
――がしかし、その喜ばしい期待が、ぼくの自己愛を刺激します。と言うのは、ぼくが周囲の期待を実質以上に受けとめてしまって、早い話がテングになったのです。
ただまぁ、そういう高慢さはあるあるですよね。新社会人がやたらと評価されて、自分を“デキる人間”だと勘違いするのは、自己愛の典型的な結果だと思います。でもぼくの自己愛は、そんなかわいいもんじゃありませんでした笑
まず、評価の対象はぼくの「実務能力」でした。それも抜きん出て優秀だったわけじゃないと思うんです、いま振り返ってみたら。でも、初めての職場で評価されたら舞い上がっちゃいましたw
舞い上がれるところまで舞い上がってしまい、「実務能力」を評価されていたはずが、いつの間にかぼくの中で「人間性」への評価にすり替わっていたのです∑(゜д゜)エッ!!
そして、「自分はだれよりも優秀なんだ」とか「自分はもっと評価されていいはずだ」とか、そういう観念に囚われて人を見下すようになっていく・・・。
「Mくん、またこの前と同じミスしてんのか。もう相手すんのや~めよ」
「Sくんはいつになったら仕事覚えんの? あんな無能はクビにすりゃいいのに」
「Iくんは仕事もできて人気もあるけど、なんか気に食わないから無視しとくか」
・・・と、まぁこんな具合です。
中高時代のいじめで自尊心を傷つけられていた反動で、この時期になにか取り戻そうとしていたのかもしれません。Mくん・Sくん・Iくんに限らず、ぼくの見下していた人たちは、みんな同世代だったので。
だれかを威圧したり見下したりして優越感を得ることを、俗に「マウント」といいますが、他人を故意に傷つけた報いはいつか必ず自分に返ってきますから、自覚があるならやめたほうがいいですよ。
ぼくの場合は、「被害妄想」と「敵対意識」というかたちで返ってきました。
ぼくは表向き善人で通っていたので、ぼくがだれかをマウントしているなんて、たぶん多くの人は思いもしなかっただろうと思います。タチ悪い(=_=)
でも、被害者本人がだれかに訴えることは十分ありえるし、ぼくの陰湿な本性が一部に知れ渡る可能性だってゼロじゃありません。もしかしたら、もう水面下でぼくへの嫌悪が広がっているかもしれない・・・。
ぼくが恐れていたのは、まさにそれです。だから態度を改めて、ぼくがマウントしていた被害者の人たちに謝ろうと、ほんとうに何度も何度も思っていました。
――が、ゆがんだ自己愛はそれを許しません!
ぼくは自分を正当化するようにマウントを続け、ぼくの本性を知ったかもしれない人にも矛先を向けて、勝手に新しい敵をつくってしまったのです。
そのくせ、ぼくは打たれ弱いですから、自分を守るために例のバリケードをこしらえます。それで、その外側にいる“敵”を無意味に威圧して、自己愛をブクブクと太らせていくのでした。その結果は・・・、
孤立と孤独。
職場での評価は相変わらず悪くなかったし、周りには仲のいい同僚もいました。でも、ぼくはもう被害妄想に囚われていますから、友達を純粋に友達として見られないわけです!
その孤立感と孤独感に気力を奪われて、ぼくの仕事への情熱はすっかり冷めてしまいました。・・・とまぁ、これがぼくを“意気消沈”に追い込んだ(かもしれない)、自己愛の恐ろしさです。
神にとって高価な自分
高慢には悪魔と同じ裁きが下る、と聖書は警告していますが()、ぼくはもはや悪魔そのもののように振る舞った結果、ついに退職せざるをえなくなりました。
クビになったんじゃありません。職場仲間への一方的な敵対意識と、被害妄想による孤立感で、職場にいづらくなったのです。それ以降、ぼくは激しい自己嫌悪にさいなまれることになります・・・(;_;)
Ⅰテモテ3:6b
それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。
(新共同訳)
〈自分への愛〉とは言いますが、
それが人を傷つけるのなら、果たして「愛」なんて呼べるのでしょうか?
それが自分を苦しめるというのは、いったいどういうことなのでしょうか?
そもそも、ぼくは自分自身を愛していたのでしょうか?
事実、ぼくが自分に対して抱いていたのは「愛」じゃありません。愛が矛となってだれかに向けられるなんてことは、絶対にありえないからです! 聖書は言います。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
―「コリントの信徒への手紙 一」第13章4~5節(新共同訳)
はい、もうなんの論証もいりません。ぼくがいままでやってきたことと、おもしろいくらい正反対ですね。ぼくには愛がなかった。それは聖書に照らせば明らかです。
愛じゃなければなんだったのかと言うと、たぶん「劣等感」でしょう。他人を見下したのは、なんとかその劣等感を取り除こうとする、苦肉の策だったのだと思います。
いや、苦肉の策とも呼べないか。自分のつまらないプライドのために、他人の人格を否定したんですからね。だれのプラスにもならない、ただの「いじめ」です。
もうちょっと早くそのことに気づければ、マウントで人を傷つけることも、自分を苦しめることもなかったかもしれません。ほんとうに後悔し、反省しています。
ぼくはいじめられる苦しみを知っていながら、その苦しみを自ら他人に味わわせてしまいました。いま、その人たちには心から申し訳なかったと思っています。
〈自分への愛〉は一概に悪いものとは言えません、聖書にも隣人を
(マルコ12:31b)って書かれていますから。自己愛は、むしろ必要なものなのです。
ただ、ぼくのように「劣等感」や「自己肯定感の欠如」の反動として、あまり過剰に自己愛が現れてくるのは、実体験から言ってもかなり困ります!
一番手っ取り早いのは、劣等感を取り除くこと。でも、それって難しいですよね。不可能なんじゃないかと思うし、できるとしても何十年かかるんだって話・・・。
正直、いまの自分をそのまま認めてあげることはできません、それもよくないことではあるんですが。ぼくのそんな劣等感は、ある日の礼拝で取り上げられた御言葉になだめられました。それが、この御言葉。
わたしの目には、あなたは高価で
尊 い。わたしはあなたを愛している。
だから、わたしは人をあなたの代わりにし、
国 民 をあなたのいのちの代わりにする。
―「イザヤ書」第43章4節(新改訳2017)
「わたし」とは、神さまのことです。ぼくは自分で自分を尊重することができず、他人を見下して相対的に自分の価値を上げていました。
神さまは、「そんなことをする必要はない!」と言ってくれたんです。神さまだけは、ありのままのぼくの価値を認め、尊重してくれる。
それは、ただの気休めなんかじゃありません。ぼくをほんとうに愛しているからこその言葉だという証拠を、神さまはちゃんと示してくれています。
十字架が、神さまの愛の証拠です。
神さまはぼくのために、たった一人の愛する子・イエスを十字架の上で捧げました。それは、ぼくがキリストを信じて罪の赦しを受け、神さまとの親しい関係に立ち帰るためです。
ぼくたちを救うために愛するわが子を捨てる。その愛を示すためにご自分の命を捧げる。神さまのぼくたちに対する愛っていうのは、もう訳のわからないくらい大きいのです!!
自分を愛するということは、「自分で自分を愛してあげること」。もちろんそうです。
ただそのための第一歩は、「自分は神さまに無条件に愛されていると知ること」なのだと思います!
神さまの愛は、あまりにもスケールが大きすぎます。だから、ときどき自分の中でリアリティーをなくしちゃって、劣等感が芽生えてくることがあります。ゆがんだ自己愛の種は、まだ死にきっていないんです・・・。
でも、キリストが十字架の上で死んだ事実・キリストがその死を引き受けた理由、それを思い出すとホッと心が安らぎます、自分は神さまに愛されているんだって(*´ω`*)
あなたも自分の欠点ばかりが気になって、自己嫌悪に押し潰されそうになるときがあると思います。反省するべきところはしっかり反省しなきゃいけませんが、自分の人格的な価値まで否定するのはやめましょう。
あなたもぼくも、神さまの愛を受けたからこそ生まれてきたのです。あなたが知りたいと心から願えば、その愛を実感できる出来事が必ず起こりますよ。その日を期待して。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
- 『聖書 新改訳2017』(新日本聖書刊行会)
画像の出典(Pixabayより)
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