遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

自分を愛するとは、自分が愛されていると知ることだ

 

「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31)

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは小さなころから、よく夢を見ます。だいたいの人は目覚めた瞬間に忘れちゃうらしいですが、ぼくはほとんど覚えてるんです、十何年も前に見た夢まで。

人体模型と心臓でキャッチボールする夢、マサイ族と一緒に“ナメクジ怪獣”を退治する夢、十二単の女性に「父のカタキ~!」と言って殺される夢・・・。

 

いやぁ、実に奇妙な夢を見てきたもんですよ笑

一つひとつが非現実的なんですけど、あまりにリアルかつ鮮明に覚えてるので、なにか意味があるんじゃないかって、夢占いのサイトで細かく調べてました。

でも、聖書では占いの類が全部禁じられてますから、クリスチャンになってからは、どんなに意味ありげな夢を見ても、「ただの夢」として済ませることにしてます。

 

それでも、夢からなにかを学ぶことってありませんか? ぼくは先日ある夢を見て、本当に自分を愛するとはどういうことかを学んだので、今回はそれをシェアさせていただきます!

 

 

自分の根っこを腐らせる自己愛

ぼくは車の免許取るとき、1回目の実技試験を開始5分くらいで失格になって(左折するとき歩道に乗り上げちゃったんです・・・)、2回目の試験でなんとか合格しました。それは夢のお陰です。

どういうことかと言うと、メチャクチャ上手に運転する夢を見たんですよ。その感覚を体が覚えてたみたいで、ほぼ完璧にクリアできたんです!

・・・ただ、それからはペーパードライバー。断捨離精神が暴発しまして、使わない免許証が財布の一部分を占めてるのに我慢できず、ついに更新しないで捨てちゃいました(ФДФ)

 

――って余談は、夢から学ぶことの一例でしたw

今回ぼくが見た夢は、ちょっと痛みを伴うものだったんですね、心の痛み。過去の失敗というか、自分の人格的な欠点を指摘されるような夢だったので・・・。

 

ぼくはいままで、7か所ほどの職場を渡り歩いてきました。同じ仕事を続けてると、必ず原因不明の“意気消沈”に襲われるんですね。はじめは情熱ムンムンなのに、だんだん無気力になる。

それでなんの目的もないまま退職をくり返してると、自立に必要な最低限の貯蓄も得られないし、社会的な信用も築けないんですよ。同年代の友達はもう所帯持ちなのに、ぼくはまだ自立さえできてない。

そんな現状が恥ずかしくて、あの“意気消沈”の正体がなんなのか考えてきました。自分の甘えや怠け心に過ぎないのか、それともなにか精神的な問題があるのか・・・?

 

で、今回の夢があるヒントをくれました。

それは、自分への過度な愛情が“意気消沈”の原因だったかもしれない、ってことです。ぼくの見た夢のあらすじをお聞かせしましょう。

 

同じ教会のSさん、以前の職場で同僚だったUさん、ぼくとほか数人の人たちが、ぼくの悩み事リストを囲んでるところから夢は始まります。リストには、ぼくの過去の経歴も書いてありました。

Sさんたちはぼくの過去の汚点を少しも笑うことなく、慰めながら受け入れてくれました。でも(予想どおり)、Uさんだけは違いました。

Uさんは自分の意見を持ちながらも器用な人で、ぼくのひそかに尊敬する人でした。一本筋が通ってて、言うことの一つひとつにメチャクチャ説得力があるんですよ。

それでUさんはリストの一番下を指さして、ぼくがいまだに親元で暮らしてることを難じはじめたんですね。正直ふれられたくなかった部分で、耳が痛かったです・・・。

 

夢の中のぼくは、それを黙って聞いてることができなかった。もう腹の底から怒りが湧いてきちゃって、スゴい剣幕でUさんを怒鳴りつけたんです。一同唖然(・_・)

怒れる遜はとまりませんよ。なんでこんなに怒ってるのか自分でもわからないまま、呆気に取られてるUさんにこれでもかと罵声を浴びせつづけます。

怒りの矛先はなぜかSさんたちにも向けられて、「どうせみんなもUさんと同じ気持ちなんだ」と勝手な被害妄想がふくらんでく・・・。

ぼくは怒りに震えながらその場をあとにして、地下鉄の階段を下りてる途中で激しく後悔しました。そして、ポツリとつぶやきます。

 

「自分への愛・・・」

 

目が覚めてから、ぼくは考えるともなくこれまでの自分のことを考えてました。〈自分への愛〉によって他人を傷つけたことが、何回あっただろうって・・・。

夢の中でUさんをののしったのも、Sさんたちにあらぬ被害妄想を抱いたのも、不甲斐ない自分を守るための〈自分への愛〉だったんですよね。

夢での「Uさん vs ぼく」の対立は、「自分を叱咤するぼく vs 自分をかわいがるぼく」の葛藤のメタファーだったんだと思います。

結局、「自分をかわいがるぼく」は〈自分への愛〉を盾にして、「自分を叱咤するぼく」の意見を悪玉として突っぱねてしまいました、本当は聴かなきゃいけない意見なのに。

 

〈自分への愛〉って言いますけどね、ねじ曲がった自己愛は盾になんかなりませんよ。それどころか他人を傷つける矛になって、最終的には自分を外界から隔離するバリケードになっちゃうんです。

過剰な自己愛を持つ人っていうのは、そのバリケードの内側で自分を甘やかすだけ甘やかして、孤独の中で自分の根っこを腐らせるんです。

 

さて、この自己愛がどうやってぼくを“意気消沈”に陥れたんでしょうか? ちょっと恥ずかしいですけど、ぼくの過去をたどりながら検証してみます。

 

自己偏愛者の末路

ぼくの歪んだ自己愛については、両親の仲が“冷戦的に”悪いこと、中高時代にいじめを受けたことが、原因の根底にあるんだろうと思ってます。

でもねぇ、それを語ろうとするとね・・・、どうしても責任転嫁の論調になっちゃうんですよ、「両親を敬いなさい」って教えにも反しちゃうし。だから、悔しいけど沈黙します(-.-;)

「そういう背景があるのね」という親切なご理解を頂きたい下心を抑えきれず、事実として簡潔に綴っておきました。どうぞお許しください。

 

さて、ぼくは18歳で高校を卒業してすぐ、某テーマパークのアトラクション従業員として働きはじめました。なんと、それが人生初のお仕事です!

接客業は不安、覚えることがたくさん、専門的技術も必要・・・。それでもだんだん慣れてきて、やりがいも感じ、いつしか頼られる存在となりました。職場で頼りにされるって、うれしいことですよね!

――が、しかし、その喜ばしい期待がぼくの自己愛を刺激します。と言うのは、ぼくが周囲の期待を実質以上に受けとめてしまって、早い話が「てん」になっちゃったんです

ただまぁ、そういう高慢さはあるあるですよね。新社会人がやたら評価されて、自分を「デキる人間」だと勘違いするのは、自己愛の典型的な結果だと思います。でも、ぼくの自己愛はそんなかわいいもんじゃない笑

 

まず、評価の対象はぼくの「実務能力」でした。それも抜きん出て優秀だったわけじゃないと思うんですね、いま振り返ってみたら。でもね、初めての職場で評価されたら舞い上がっちゃいましたw

舞い上がれるとこまで舞い上がっちゃって、「実務能力」を評価されてたはずが、いつの間にかぼくの中で、「人間性」への評価にすり替わってたんですね。引田天功もびっくりですよ∑(゜д゜)

そして、「自分はだれよりも優秀なんだ」とか「自分はもっと評価されていいのに」とか、そういう観念に取り憑かれて、人を見下すようになっていく。

 

「Mくん、またこの前と同じミスしてんのかよ。もう相手すんのや~めよ」

「Sくんはいつになったら上達すんの? あんな無能はクビにすりゃいいのに」

「Iくんは仕事もできて人気もあるけど、なんか気に食わないから無視しとくか」

・・・と、まぁそんな具合。

 

中高時代にいじめられて自尊心傷つけられてますから、この時期に取り戻そうとしてたのかなぁ。Mくん・Sくん・Iくんに限らず、ぼくの見下してた人たちは、みんな同世代だったので。

 

だれかを威圧したり見下したりして優越感を得ることを、俗に「マウント」っていいますけど、他人を故意に傷つけた報いはいつか必ず自分に返ってきますから、自覚あるならやめたほうがいいですよ。

ぼくの場合は、「被害妄想」と「敵対意識」というカタチで返ってきました。

ぼくは表向き善人で通ってたので、ぼくがだれかをマウントしてるなんて、たぶん多くの人は思いもしてなかっただろうと思います。タチ悪い(=_=)

でも、被害者本人がだれかに訴えることは十分ありえるし、ぼくの陰湿な本性が一部に知れ渡る可能性だってゼロじゃありません。もしかしたら、もう水面下でぼくへの嫌悪が広がってるかもしれない・・・。

 

ぼくが恐れてたのは、まさにそれですよ。だから態度を改めて、ぼくがマウントしてた被害者の人たちに謝ろうと、本当に何度も何度も思ってました。

――が、歪んだ自己愛はそれを許しません!

ぼくは自分を正当化するようにマウントしつづけて、ぼくの本性を知ったかもしれない人にも矛先を向けて、勝手に新たな敵を作っちゃったんですね。

 

そのクセ、ぼくは打たれ弱いですから、自分を守るために例のバリケードをこしらえます。それで、その外側にいる“敵”を無意味に威圧して、自己愛をどんどん太らせてくんです。その結果は・・・、

孤立と孤独。

職場での評価は相変わらず悪くなかったし、周りには仲のいい同僚もいました。でも、ぼくはもう被害妄想に囚われてますからね、友達を純粋に友達として見られないわけですよ!

 

その孤立感と孤独感に気力を奪われて、ぼくの仕事への情熱はすっかり冷めちゃいました。・・・とまぁ、これがぼくを“意気消沈”に追い込んだ(かもしれない)、自己愛の恐ろしさです。

 

神にとって高価な自分

高慢には悪魔と同じ裁きが下る、って聖書は言ってますけど(Ⅰテモテ3:6b)、ぼくはもはや悪魔そのもののように振る舞った結果、ついに退職せざるを得なくなりました。

クビになったんじゃありません。職場仲間への一方的な敵対意識と、被害妄想による孤独感で、職場にいづらくなったんです。それから、ぼくは激しい自己嫌悪にさいなまれることになります・・・(;_;)

 

〈自分への愛〉って言いますけど、

それが人を傷つけるのなら、果たして「愛」なんて呼べるんでしょうか?

それが自分を苦しめるっていうのは、いったいどういうことなんでしょうか?

そもそも、ぼくは自分自身を愛してたんでしょうか?

 

事実、ぼくが自分に対して抱いてたのは「愛」じゃありません。愛が矛となってだれかに向けられるなんてことは、絶対にありえないんですよ! 聖書は言います。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

 

―「コリントの信徒への手紙 一」第13章4~5節(新共同訳)

ね、もうなんの論証もいりません。ぼくがいままでやってきたことと、おもしろいくらい正反対です。ぼくには愛がなかった、それは聖書に照らせば明らかです。

 

愛じゃなければなんだったのかと言うと、たぶん「劣等感」でしょうね。他人を見下したのは、なんとかその劣等感を取り除こうとする苦肉の策だったんだと思います。

いや、苦肉の策とも呼べないか。自分のちっぽけなプライドのために他人の人格を否定したんですからね、だれのプラスにもならない、ただの愚行です。

もうちょっと早くそのことに気づければ、マウントで人を傷つけることも、自分を苦しめることもなかったかもしれません。本当に後悔し、反省してます。

 

ぼくはいじめられる苦しみを知っていながら、その苦しみを自ら他人に味わわせてしまいました。いま、その人たちには心から申し訳なかったと思っています。

 

〈自分への愛〉は一概に悪いものとは言えません、聖書にも、「他人を尊重しなさい」って書かれてますからね(マルコ12:31)。自己愛は、むしろ必要なものなんですよ。

ただ、ぼくのように「劣等感」や「自己肯定感の欠如」の反動として、あまり過剰に自己愛が現れちゃうのは、実体験から言ってもかなり困ります!

一番手っ取り早いのは、劣等感を取り除くこと。でも、それって難しいですよね。不可能なんじゃないかと思うし、できるとしても何十年かかるんだよって話・・・。

 

正直、いまの自分をそのまま認めてあげることはできません、それもよくないことなんですけどね。ぼくのそんな劣等感は、ある日の礼拝で取り上げられた御言葉になだめられました。その御言葉がこれです。

わたしの目にあなたはあたい高く、とうと

わたしはあなたを愛し

あなたの身代わりとして人を与え

国々をあなたの魂の代わりとする。

 

―「イザヤ書」第43章4節(新共同訳)

 

「わたし」とは、神さまのことです。ぼくは自分で自分を尊重することができず、他人を見下して相対的に自分の価値を上げてました。

神さまは「そんなことする必要はないよ」と言ってくれてるんです。神さまだけは、ありのままのぼくの価値を認め、尊重してくれてるんです。

この言葉は、ただの気休めなんかじゃありません。ぼくを本当に愛してるからこその言葉だって証拠を、神さまはちゃんと示してくれてるんですね。

 

十字架が、神さまの愛の証拠です。

 

神さまはぼくのため、あなたのために、たった一人の息子であるイエス・キリストを十字架の上で捧げました。それは、ぼくたちがキリストを信じて罪の赦しを受け、天国へ入るためです。

ぼくたちを救うために愛するわが子を捨てる、その愛を示すために自分の命を捧げる。神さまのぼくたちに対する愛ってね、もう理解できないくらい大きいんですよ!!

 

自分を愛するってことは、「自分で自分を愛してあげること」。もちろんそうです。

ただそのための第一歩は、「自分は神さまに愛されてるんだと知ること」なんじゃないですかね!

 

神さまの愛は、あまりにもデカすぎます。だから、ときどき自分の中でリアリティー失くしちゃって、劣等感が再燃することがあるんですよね。歪んだ自己愛は、まだ消えきってないんです・・・。

でもね、キリストが十字架の上で死んだ事実、キリストが十字架を受け入れた理由、それを思い出すとホッと安心するんですよ、自分は神さまに愛されてるんだって(*´ω`*)

あなたも自分の欠点ばっかり気になって、自己嫌悪に押し潰されそうになるときがあると思います。反省するべきところは反省しなきゃいけませんけど、人格まで否定するのはやめましょうね。

 

あなたもぼくも、神さまの愛を受けたからこそ生まれてきたんです。あなたが知りたいと願えば、その愛を実感できる出来事が必ず起こりますよ。その日を心から期待して。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)

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